今回は、元経済産業大臣 平沼赳夫さんを訪問し、ドリームゲート発足時の話や、政治家としての信念、彼自身の挑戦物語につ いて話を聞いた。
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若者自立挑戦プラン
― ドリームゲート立ち上げの頃の話を教えてください
「2003年当時、日本の場合には新しく業を起こす人が少なかった。毎年倒産・廃業する件 数が124万件ぐらい。しかし起業件数は17万件しかない。長い間、廃業件数が起業件数を上回っている。このギャップを何とかしないといけない。21世紀 をリードする新たな産業フロンティアを提案したかった」
「ソニーもホンダも松下も元々はベンチャー企業。あそこまで行った企業があるという ことは、起業家というものをもっと尊敬して、応援していくべきだと思う。立ち上げのノウハウがわからない人。お金がない人。そういった人を支援するシステ ムを作るべきではないかと考えたんだよね」
「住友銀行の中興の祖・小倉正恒という人が昔いてね。融資するときに、帳簿を見ないで、人と会っ て目を見て金を貸した。その話が頭の中にあったんだね。でも、目を見て貸すと、暴力団なんかに貸すと困るから(笑)事業計画書を出してもらって、小田原評 定などせずに迅速に判断してね。血液ですからね、事業資金は。そんな中で一円創業などの制度も生まれてきたんだね。現在、ドリームゲートには学生も参加し たりして、いい傾向だなと思う。」
政治屋ではなく真の政治家として
― 政治家としての志を教えていただけますか
「政治屋ではなく真の政治家として邁進したい。それでは政治屋と政治家の違いは何か。これは具体的 人物像をあげれば分かりやすい。リンカーンや犬養毅などは政治家と言われる。でも、すごい能力とパワーを持っていたが田中角栄さんのことを政治家という人 は少ない。その人が政治の世界で辿ってきた軌跡を見るとクリアですね」
「リンカーンには大変先見性があった。当時アメリカの社会では黒人の 労働力が絶対に必要であった。国を大きくするために。しかし同じ人間ではないか。奴隷として酷使するのはおかしいよと。時代に合わないと。南北戦争まで起 こして、時代を先取りして行動した。物よりも心を優先する価値観がリンカーンにはあった。当時のアメリカ南部の人々は黒人を物としてみていた。奴隷だか ら。同じ心を持った人間じゃないかと。物よりも心を優先した。どんな状況でも我行かんとする気概が必要だ。私も、選ばれて政治の世界に出た以上は、政治家 として努力したい」
愛情と信念を持って接する
― 子供の頃のお話を聞かせていただけますか
「焼け野原の渋谷の小学校にいてね。新しい担任として特攻隊員の生き残りで九州男児の村上一郎先生 が赴任して来てね。宿題を忘れたらビンタをされたね。頬に手の跡が残るくらいに(笑)でも愛情と信念を持っていたからPTAも誰も文句を言わなかったんだ ね。当時、電灯のランプの接触が悪くてバチバチ火花が出てね。みんなそれがおもしろいから、パチパチ触って遊んでいたんだね。ある日学校が火事になって ね。新校舎が全部燃えてね。消防所の人が来て、電灯を触った人は手を挙げてと言ったら、村上学級の子供はみんな手を挙げたんだね。よその学級の子は誰も手 を挙げなかったから、消防署の人も驚いてね。村上先生は嘘をついたらいけないと教えていた。教育とはそういう効果がある。愛情と信念を持って接する。これ からベンチャーをやろうとする人にも共通するのじゃないかな」
たたき続けるこ と、求め続けること
―政治家として起ちあがったころの話を聞かせてください
「小さいときから政治家になろうと思ってい た。11年間会社員をしていてね。34歳で岡山に行ったんだ。幕末の頃に先祖が岡山に住んでいてね。だから岡山で出ようと。でも岡山には知り合いもなく地 盤も何もなかったんだね。僕が保守系で出ると言っても自民党は公認をくれなかったし、党員にもしてくれない」
「いちばん迂闊だったのは地元 に友達がいなかったこと。実は選挙では竹馬の友といえる友人がとても大事だった。あいつがやるなら応援してやろうと。だから歩くしかなかった。親父はサラ リーマンだからお金もないし。当時はがきが30円だったので、一日200件歩いて、その人にはがきを書いてね。下手だったけど筆で書いてね。印象が残って いるうちにすぐに出そうと、その日のうちに200枚ぐらい書くことを毎日していたね。今でも、昔はがきをくれたなあ、と言ってくれる人もいるよ」
「あ る人の紹介で、岡山で大きな会社だった天満屋の社長に会った。平沼赳夫を下見する会を天満屋の社長が開催してくれてね。30人集まってくれたんだけど、憲 法改正など政治信条を演説したんだが、みんなこれでは駄目だろうというんだね。憲法改正はその当時タブー視されていたんだね」
「その後、 会に参加してくれた一人一人を訪ねて、膝詰めで信念を話してね。今でもその当時の人たちが言うんだけど、憲法改正しか言わないから、これは駄目だと思った けど、とにかく真剣で一途な思いに打たれたんだろうなあと言ってくれるんだ」
「最初の選挙の時には65000票必要なところ、17080票 しか取れなかった。9人中9位。最下位で落選したんだ。自民党も公認してくれないし、そんな少ししか票が取れないなら「やめろやめろ」とみんな言うんだ。 でもね、竹馬の友もいない、地盤も看板も何にもない自分がよく17080票も取れたと思って、これは頑張ってやろうと思ったね」
「2回目の 選挙の時には中川一郎さんと縁が出来てね。僕の政治信条などを理解してくれてね。自民党の公認ももらえて。石原慎太郎さんなんかも応援に来てくれてね。票 は3倍近く伸びたんだけど、また落選したんだね。通常選挙というのは平均して3年に一回ぐらいなんだ。また3年頑張ろうと思っていたら、わずか7ヶ月でハ プニング解散というのがあってね。嬉しかったね。そして3回目の選挙に出たんだ。同情票なんかもあったと思うが三度目の正直でトップ当選した。34歳でサ ラリーマンをやめて41歳で初当選。6年半かかったね」
「今思うと、チャレンジしたことが非常に良かった。あんなやつ駄目だとか、もうや めろと何度も言われたけど。キリストも『たたけよ、さらば開かれん』と。扉をたたかないと内側から開けてくれないわけですね。僕は扉をたたき続けたんだ ね。とにかくたたき続けなければ。そして『求めよ、さらば与えられん』ベンチャー起業家も、たたき続けること、求め続けること。あきらないないことが大事 だね。『扉をたたき続けろ』だね」
■平沼赳夫衆議院議員オフィシャルホームページ
http://www.hiranuma.org/