- 目次 -
家業を継ぐ
竹虎は、全国でも高知県須崎市安和にしか生えない「虎斑竹(とらふたけ)」を使った竹細工、竹雑貨、竹製品、竹垣、本格土窯づくりの竹炭などを販 売する創業111年の老舗。
山岸義浩さんが大学4年生の夏。大阪から高知に帰省中の出来事だった。小雨の降る夜11時。ふと誰かに呼ば れているような気がして、実家のそばにある父親が経営する工場に行ってみた。すると、工場から大きな炎が上がっているのを発見する。竹は油分が多い植物 で、一度火がつくと手がつけられないほど燃え上がる。瞬く間に工場、トラック、在庫の竹や製品は全焼した。出火の原因は観光客の花火であった。
就職活動中にこの事件が起こり、山岸義浩さんは運命的なものを感じた。祖父、父、母、職人、社員が工場の焼け後を前に呆然と立ちつくす姿を見なが ら「俺がやるしかない」と感じ、他社に就職することなく大学卒業と同時に家業を次ぐ決意をした。
「ここで仕事を頑張りましたと言えば格好 いいのだが・・。帰ってきたものの、想像を超える3Kの仕事が待っていた。実は家業がどんな商売か知らなかった」と笑う山岸さん。
「暗い工場。汚い。危険。もう毎日辞めようと思った。とにかく辞めたくて仕方がなかった。こっそり他社に面接も行きまして(笑)、マスコミ関係を2 社受けましたが落ちました」
「竹の伐採など山の仕事はとにかく危険な仕事です。山の谷間に2本の木を寝かして橋渡しをして、そこに伐採を した竹を並べる。竹の間から谷底が見えてね。落ちたら死にます。しかも、季節によってはヘビが竹の中にいっぱい入っていて、ヘビのマンションみたいになっ ていました。もう、こんな仕事絶対嫌やと、毎日思い続けましたよ」
「ただ、なぜ辞めなかったと考えると、100年続いた家業の伝統の重み。それと二代目である祖父がものすごく格好良く見えた。『竹に関しては俺が日 本一だ』という自信が全身からみなぎっていた。僕も祖父のようになりたいという憧れがありましたね」
虎斑竹の山へ
「井場元さん、山に登りましょうか」
誘われるまま軽トラックに同乗し、舗装もしていない細い林道を駆け始めた。この道は時々、イノシシの群れが現れたりする。軽トラック一台がぎりぎ り走れる細い道。少し道をはずれると崖の下に落ちてしまう危険なところも少なくない。
山岸さんが20代前半で家業についたとき、世の中 はバブル景気の時代。友人達は華やかに見える世界で、いい給料をもらっている。それに比べて自分は毎日この道を走り、汗と土にまみれて働いている。この狭 く薄暗い細道を一人で走ることに孤独を感じ、仕事の意義が全く分からず、日々悩み続けた。
軽トラックが山頂に着く。山頂付近を境に、そ の先の山には竹がまったく生えていない。全国でも安和だけという虎班竹。何故そこにしか生えないのかは、今でも解明されていない自然の不思議だ。
また、この竹林はお遍路さんの歩く道でもある。今でこそ比較的安全に歩けるが、昔は難所と呼ばれ、山賊に襲われたり、病で行き倒れたりしてケガを したり、亡くなる人が後を絶たなかったそうだ。
「竹というのは不思議な木で、地上に顔を出してからわずか3カ月で大人の木になり、それ以 上は成長しません。しかも細い竹は一生細いまま。決して太くなりません。もちろん、太い竹は太いまま。竹細工の原料になるには約3年の時間が必要です」
劇団結成が商売のきっかけに
学生時代から芝居好きだった山岸さん。25歳の頃、地元の仲間達と素人劇団を結成する。高知県北川村の中岡慎太郎記念館で上映されている時代劇の ビデオにも出演している。この経験が「自分を売って、商品を売る」という現在のネットショップの原型にもなったようだ。
そんな山岸さんのこだわりが見事にわかる22歳から現在までの年賀状を一覧できるWEBページをご覧ください。
「昔はデジタルカメラがなかったので36枚撮りフィルムを5本ぐらい使った。全部現像しなければならなかったので経費はバカにならなかった。しか し、これが写真を撮る訓練になったと思う。人生に無駄はないと思う。ある写真屋の方に『これは年賀状というよりも個人の広告だね』と言われました」
インターネットとの出逢い
1997年。友人の白木さんからインターネットで商売をしないかと誘われる。
「白木が言うんですよ。高知には井口さんというすごい方がいる。月に100万円もインターネットで商品を売っている。これからの時代はインターネッ トや」。100万円も売れていることに驚き、その気になってホームページを作った。作ったといっても、実はホームページビルダーのソフトを購入して奥さん に作ってもらった。
素人製作のホームページではあったが、語りたい思いはたくさんあった。イギリスのBBCテレビが取材に来るほどの希少な竹を扱っている。でも一緒 に働く会社の人間ですらその凄さが分かっていなかった。とにかく、この素晴らしい虎斑竹を日本中の人に伝えたかった。
しかし、深い思いはあるものの「1997年から3年間で、300円の竹和紙の葉書がひとつ売れただけ。誰もうちのホームページなんか見てない。白 木の言うことは嘘やったなと思った(笑)」白木さんの言葉が、決して嘘ではなかったことが分かるまで、もうしばらく時間が必要だった。
ネットショップ勉強会に初参加
2000年の夏。ホームページはまったく結果が出ず、ほったらかし状態になっていた。そんな時にある講演会で「これからの時代に伸びる3つのこ と。女性の時代、本物の時代、IT化が進む」という話を聞き、直感が走った。自分のことを言っていると勝手に思った。
すぐに高知産業振 興センターに行き、e商人塾一 期生として中途入学を申し込む。
e商人塾に入学したものの、ホームページは奥さんが作っていたので、授業を聞いてもまったく分からなかった。サイト制作にドリームウィーバーを購 入するように言われたが、値段を聞いて驚いた。「3万円!そんな高いソフトは買えん。ふざけんなよ。だまされたらイカンと思った(笑)」。
授業は毎回出席しているが、内容が理解できないし、塾長にも相手にされない。もうこれはアカンと思っていた。しかし、ここで意外な転機が訪れた。2001 年2月。e商人塾一期生の3名が研修の成果をホテルで発表することになった。そこで、なぜか自分が選ばれた。「なんで俺?」と思ったが、発表をしなければ いけないので初めてデジタルカメラを使い、撮った写真をホームページに掲載して発表した。
当日の発表内容はともかく、発表のために一所懸命写真を加工して、ホームページも自分で作り始めた。やり始めてみると、「意外に難しくない」と思 えた。今までは授業を聞いても分からないと思っていたが、自分自身が真剣に努力していないだけだった。これをきっかけとして2月から4月の3カ月間、初め て真剣に自分自身でホームページを作りこんでいった。
そして、2001年5月。竹虎サイトはリニューアルし再スタートする。