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「汚れる」「儲からない」そんな農業が嫌いだった
実家が稲作専業農家だった川島さんは、22歳から両親の米作りを手伝っていた。「汚れるし儲からない農業は、やりたくはなかった」と考えていたが、農業の道を辞めるわけにはいかなかった。そんな彼は、両親から土地とハウスを借り、独学でバイオの勉強をし、「汚れず」「儲かる」トマトのハウス栽培をしていた。何種類もの土壌改良剤や化学肥料などを試し、常に高く売れて大量生産の可能なトマトづくりを目指していたという。
病気による入院が、農業について考える時間になった
そんな彼は、入院がキッカケとなりお米づくりに取り組むことになる。現場では目先の商品や売り上げのことばかり考えていたが、バイオなどの化学資材に頼った野菜を自分の子どもが食べることになるのか、そんなことを考えると不安を抱いたという。
そこで退院後、せめて自分たちの食べる分だけでも、農薬や化学肥料に頼らないお米づくりに挑戦しようと考えた。彼は、県の農政課や普及センターなどに相談し、無農薬/無化学肥料で栽培するための農法を研究。害虫駆除も可能な合鴨農法による米づくりを選んだ。1993年、千葉県で初めての合鴨農法による無農薬/無化学肥料による米づくりが始まった。
時は1993年、翌年はヤミ米やタイ米が大量に出回るお米の大凶作となる。しかし、それにも関わらず、反収7俵(1反の田んぼから 420kgのお米を収穫)。こんなに良いお米は絶対買ってもらえる。この時、彼は自信に満ちていた。
販売が一番難しい。お客様のためのお米づくりに取り組む
1993年の秋、当時の特別栽培米制度(年間60kg/人までの個人販売が可能な制度)を取得し、付近の住宅地を1件1件ポスティングをし始めた。1994年になると米不足が叫ばれ、新米販売開始日には、1日の売り上げが最高160万円、3日で300万円という記録的な売り上げを達成する。新聞や雑誌などにも多く取り上げられ、軌道に乗せるべく1.2haへ規模を拡大。
しかし翌年は、ぱったり注文が止んだ。その原因を合鴨米が認められたのではなく、米がないだけだったと感じた彼は、古代米(玄米の状態で表面に色の着いたお米)やゆきひかり(お米アレルギーのある人向けに品種改良されたお米)など、お客様のための米づくりを行なうようになる。
今回の取材を通じて気になるキーワードは、「消費者ニーズ」という言葉。これまでの"作るだけ"の農業から変化していることを節々に感じながらも、農家と消費者の顔のみえる関係と信頼、そして責任という"変わってはならない農業"も強く感じることができた1日だった。
川島俊夫さん(53歳)。
日本産直生産者協会会員。
1993年、入院がきっかけとなり合鴨農法による無農薬/無化学肥料による米づくりをはじめる。
現在は、10haのうち2.5haの圃場で合鴨農法に取り組み、コシヒカリ、ふさおとめ、ひとめぼれ、ミルキークイーン、
ゆきひかり、春陽、もち米、夢十色、サリークイーン、はいみのり、黒米、赤米の10品種を生産。
インターネットを通じた個人販売と業務用販売が中心。お客様のための産地交流会も開催している。