パキスタンでのセミナーの受講生の1人に、PAKISTAN ADOMINISTRATIVE STAFF COLLEGEのAslamさんがおられました。彼の大学は私学で学生は3万人。学部は3つあってパキスタンでは大きな大学とのことでした。彼から 「うちの学生に話して欲しい」との申し出を受けました。当初の予定になかったので、カウンターパートナーのSMEDAがスケジュール調整して帰る日の午後にお邪魔することになりました。
彼の話ではMBAの学生達数人と学部長、その他の教授何人かとディスカッションと聞いていたのですが、現地に行ってビックリ。部屋に入るとそこは階段教室で200人以上の学生が集まっています。壇上の長テーブルに他の主要なメンバーと一緒に座ってミーティングはスタートしました。僕も含めて4人のスピーカーが20分ぐらいのショートスピーチをしたのですがアメリカのりでスピーチの途中でもいい話にはガンガン拍手がきます。質問もどんどん来ますが…(笑)僕は起業をテーマに話したのですが、「この中で将来、社長になりたい人」っていう質問にはほぼ全員が手を上げました。これにはビックリ。「僕は日本で社長を作る名人と言われている。3つの大学で教えているから、社長になりたい人は日本に来て、僕の授業を取りなさい」って言ったら、ドッと笑いと拍手がきました。
1人の学生が質問しました。「日本が敗戦から急スピードで復興した秘訣は何か?」僕は、う~んと考え込んでしまいました。勤勉とか国の政策とか、リーディングカンパニーの存在とか、いくつか答えはあったのですがあえてこう答えました。「焼け野原の中から日本は立ち上がった。人々は貧しく、政府も同じであった。どこかの時点で自分が豊かになることと、この国が豊かになることが重なったんだと思う。国が豊かにならないと国民は豊かになれない。一人一人が豊かになれば国は豊かになる。国のビジョンと国民のビジョンが一緒になった。ここからすごいパワーが生まれたんだと思う」この答えにも拍手が返ってきました。そして、スピーチの最後に「僕はパキスタンに来て死んだ父親を思い出した。彼は1918年生まれで、終戦の時に29歳だった。彼は息子の僕に『この日本を作ったのはお父さん達だ』と自負していた。彼は政治家でも役人でもない普通のサラリーマンだった。でも、そんな父親が子供にはカッコよく見えた。僕は政府の仕事もしているが、決して父親のように『今の日本を作っている』とは言えない。きっと、ここに集まってくれているみんなは20年経つと僕の父親と同じことを言うんだと思う。『この国を作ったのは僕達だ』と。そんなチャンスの時代に君達は生まれた。このチャンスをぜひとも活かして欲しい」
嵐のような拍手が返ってきました。パキスタンの若者は熱かったです。