第149回
有限会社オリンポス
代表取締役CEO
四戸 哲 Satoru Shinohe
1961年、青森県生まれ。幼少の頃から、地元で有名な“模型飛行機少年”だった。9歳で、飛行機の設計士になること決めていたそう。日本大学理工学部航空宇宙工学科に進学し、上京。サークルは、日大航空研究会に所属する。大学時代、飛行機に熱中する傍ら、翻訳やイベント企画など、さまざまなアルバイトを経験。将来につながる、多くの人脈を構築した。大学卒業後は就職せず、日本のスポーツ航空機業界の再建・創出を目指し、起業。1985年、恩師の木村秀政博士を顧問に迎え、有限会社オリンポスを設立、代表取締役に就任した。以来、四半世紀にわたり、日本唯一の飛行機開発メーカーとして、同社の経営を続けている。東京・青梅市の同社本社兼工房は、日本各地から、飛行機づくりに魅了された技術者、学生たちが集うサロンとなっている。
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ライフスタイル
好きな食べ物
カレーライスです。
若い時から、カレーライスばかり食べていた気がします。手っ取り早くて、すぐに食べられるから。最近は、家内とゆっくり話しながら食事するのも好きですが。でも、今もメニューで悩んだら、やっぱりカレー(笑)。お酒はウィスキーのロックが好きです。
趣味
聞くだけ野暮です(笑)。
子どもの頃から、飛行機の一本道でしょう。趣味と仕事の境目、まったくありません(笑)。でも、うちの工房はサロンみたいで、後輩技術者や学生がよく出入りしているんです。彼らの成長や苦労、いろんな話を聞くことが、私の楽しみであり、趣味なのかなあ。
行ってみたい場所
名久井岳(なくいだけ)です。
地元に名久井岳という山があります。この山頂に、34歳の若さで亡くなった、祖父の名が刻まれた石碑があるんですよ。青森に住んでいた頃、何度か登山して、山頂で物思いにふけっていました。久しく登っていないので、時間ができたら行ってみたいです。
模型飛行機少年が、そのまま大人になって、
日本唯一の独立系飛行機開発会社を起業!
丸みを帯びたあの美しい機体を実作し、フライトに成功! そう、2006年、『風の谷のナウシカ』の愛機、“メーヴェ”が、本当に空を飛んだ――。その立役者が、有限会社オリンポス。日本中の飛行機ファンを魅了した飛行機開発会社の本社は、東京・青梅市にある。そして、同社を設立し、今なお、子どもの頃からの夢を追いかけ続けている経営者が、四戸哲氏である。「日本にも、戦前には簡単なグライダーをつくって飛ばす文化がありました。欧米のような、航空スポーツ文化をできるだけ早く、日本でも実現したいと思います」。今回はそんな四戸氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<四戸哲をつくったルーツ1>
戦闘機F86の上昇旋回を目撃した瞬間に、
ある意味、人生の役割を決めてしまった
生まれたのは、青森県の三戸郡、名川町という、けっこうな田舎町です。今は、町村合併して南部町という地名になっています。父は地元の学校で教師をしていました。ちなみに、父の実家は代々地方政治家の豪農、400m離れた母の実家は輪業、つまり自転車とバイク屋さん。1940年代から、田舎でバイク屋経営ですからね。子ども頃は、いつも双方の実家で、バイクや自転車、トラクターなど、マシンに触って遊んでいた記憶があります。そんな家庭環境のなか、私は四戸家の長男として育ちました。そして、あれは確か、小学校に上がったばかりの頃。家族で八甲田山へ登山遊びに出かけたんですよ。
ちょうど、近くの三沢基地で航空ショーが開かれていて、ブルーインパルスがアクロバット飛行を実演していました。そして、編隊がいっきにばらけ、戦闘機F86が一機、天空に向かって上昇旋回しているシーンを、見たんです。その瞬間、私は飛行機にやられてしまった(笑)。説明が難しいのですが、飛行機が、自分の内側にスポッと入ってきたというか……。三島由紀夫の短編『F104』のなかに、彼がその戦闘機を見た瞬間、えもいわれぬエクスタシーを得た――といった一説があります。まさに、そんな感じなんですよね。
それからというもの、私の人生は“飛行機”という明確かつ堅固な背骨を携えて、続いていくことになりました。いつも模型飛行機をつくっていましたね。プラモデルも嫌いではなかったのですが、私はあのF86の動きに魅了されたので、もっぱら動かすほう。理科教師だった伯父の家に、ラジコンの前、いわゆるUコン(ワイヤーで操作するエンジン付き模型飛行機)があって、「これをつくりたい!」と、すぐにキットを購入してつくったり。設計図も自分で書くようになり、初めてエンジン付きの模型飛行機を飛ばしたのは、小学3年の時でした。
<四戸哲をつくったルーツ2>
人生のプランニングは、小学4年でほぼ完了。
将来の職業と、結婚する女性も決めていた!?
昔から、一度やると決めたことは、あきらめられない性格なんです。長い試行錯誤を繰り返して、エンジン付き飛行機が飛んだ時、嬉しかったというより、大きな達成感を得たんですね。何というのでしょう、私にとって飛行機は、この当時から遊びではなく、ある意味、すでにライフワークの始まりだったのです。将来の夢は?と聞かれたら、もちろん「飛行機の設計者」と答えていましたしね。ちなみに、小学3年生のクラス替えで出会った女の子と、将来結婚しようと決めていたり。それが、今の妻で、実際、27歳の時に結婚。確かに、少しマセていたとも思います(笑)。
振り返ってみますと、9歳から10歳にかけての期間で、私の人生のプランニングは、ほぼ出来上がっていた。それからずっと、その呪縛のなかで、生きてきたというか……(笑)。地元では、僕の飛行機好きは、かなり有名でした。当たり前ですよね、2メートル近い模型飛行機を背負って、中学に通っていましたから(笑)。で、Uコンを持っていた伯父が、中学の校長先生になっていたんです。それをいいことに、校長室を格納庫代わりに使わせてもらって、誰もいなくなった放課後のグラウンドで飛ばしたりしていました。
教頭の木村潤悦先生との出会いも大きかったですね。木村先生は、地方では数少ない名教師といった存在で、特に、物理・数学で物事が動いていることを、とても上手に教えてくださいました。ちなみに、中学では陸上部に入部し、短距離の選手になっています。この頃から、肉体的な経験なくして、本当の物理則はわからないと気づいたので。陸上にも一所懸命取り組みました。あと、本も乱読しました。理系少年っぽく「ブルーバックス」も好きでしたが、私が一番はまったのは、三島由紀夫です。彼の出版物は、ほとんど読破していると思いますよ。
<恩師との出会い>
日本大学の名誉教授だった木村秀政教授と出会い、
日大航空宇宙工学科一本に絞って受験勉強を開始
ずっとほぼ独学で、平面図面から立体をつくるための飛行機の設計図を描いていましたでしょう。高校に上がって、数学や物理の授業を受けると、驚くことがたくさんありました。例えば、三角関数、例えば、振り子の運動などなど……。その原理というか根本の部分を、すでに飛行機づくりの実体験から習得していたようです。それらがきちんとした数式で表現されているわけですから、新しい定理を授業で聞くたびに、激しく、そして鮮烈に納得できる。そのことが、とても面白かったですね(笑)。
高校2年の時、青森で、当時日本大学の名誉教授だった木村秀政教授の講演が開催されました。木村先生は、日本で唯一の国産旅客機、YS11の実機の設計者ありプロジェクトリーダーで、私にとって言葉では表現できないほどの憧れの存在でした。必死でつてをたどって、何とかお会いすることができたんです。その際に、自分でいうのもあれですが”意気投合”しましてね。「うちの大学に進学しなさい。そして、飛行機の設計を学びなさい」と言ってくださった。その瞬間に、私の進路は決まりました。そう、日本大学理工学部航空宇宙工学科です。
実は、木村秀政先生は、中学の教頭の木村潤悦先生の伯父だったんですよ。大学進学後かなり経ってから、その事実を知った時は、あまりの偶然に驚きました(笑)。飛行機というものを軸として、私にはそんな偶然がその後も何度も起こっています。ともあれ、私は日大の航空宇宙工学科一本に絞って受験勉強を開始。無事に現役で合格すると、滑り止めのために願書を出していた国立大学の受験を放棄し、すぐに上京。まだ、大学が始まる前の、高校3年の春休み期間中です。下宿先の大家さんから、「まだ、入居契約の前だ」と言われましたが、何とか建築中に住まわせてもらうことに成功しました
<インタビューの旅へ>
日大航空研究会というサークルに所属し、
将来につながる学内外の人脈を構築する
東京に着いて、一番驚いたのは、人の多さです。初めて降り立った新宿駅で、乗り換えのためにホームの階段を上ろうとしたら、ものすごい数の人が下りてくるわけです。「すわ、これは暴動か?」くらいにびっくりして、思わず後ずさりして、下まで戻ったことを覚えています(笑)。もうひとつ、入試試験は駿河台のキャンパスで受けたので、そこで学ぶものと思っていました。でも、合格後改めて駿河台に行くと、滑走路も格納庫もない。航空宇宙工学科のメインキャンパスは、習志野だったということなんですが、そんなことすらも知らなかったんですよ(笑)。
大学では、日大航空研究会というサークルに所属。ほぼ、格納庫で生活していたように思います(笑)。当時、夢中になったのは、琵琶湖の鳥人間コンテストですね。生まれて初めて、自分で人が乗る飛行機を設計したのは、大学2年の時です。あの時は、航空研究会から3機エントリーしたんですよ。そのうちの1機が優勝しましたが、私が設計したのは、たぶん7位くらいの結果だったと記憶しています。ちなみに、鳥人間コンテストの第1回目に優勝した飛行機の設計は、旧海軍の一式陸上攻撃機の設計主務者だった本庄季郎先生。当時は、いわゆるプロ中のプロが、コンテストに関与していたんです。学内の飛行機好きはもちろん、本庄先生など学外の専門家の方々との交流できたことも、非常に得難い経験となりました。
大学3年の頃から、少しずつ声がかかるようになって、アルバイトにも精を出すように。例えば、翻訳。機械技術と英語両方がわかる翻訳者がいない。「四戸ならやれるのでは?」と、そんな感じです。で、きちんと納品すると、「あいつは、できる」となる。そんな評判が広がって、本当にいろんな会社に出入りするようになりました。学生時代から、もういっぱしのキャリアですよ。当時の日本経済は、バブル前夜の伸び盛りの頃で、多くの先輩たちは大手メーカーにエンジニアとして就職していました。でも、私は、自分で会社を起こす決心を固めていました。そう、自分が思い描く、オリジナルの飛行機メーカーをつくりたかったのです。
●次週、「日本で唯一の飛行機専門メーカー! あの”メーヴェ”を飛ばす!」の後編へ続く→→
飛行機で世の中を変える夢を継続し、
若き優秀なエンジニアをつくりたい
<起業>
日本で唯一のグライダーメーカー、始動。
事業継続のため、異分野のものづくりも
私は昔から、現存の世の中や社会を信用していないのです。一般的にいわれている、いい大学、いい会社に対しても、まったく期待したことがない。敷かれたレールがあるという幻想を抱いたことも一度もない。だから、自ら会社を起こして、新しいビジネスをつくっていこうと決めたのは、ある意味、ネガティブな理由。ポジティブな理由はもちろん、どこに就職しても、自分がつくりたい飛行機はつくれないということ。そして、そのことを木村秀政先生に相談したら、「顧問になりましょう」と言ってくださった。そして1985年6月、日本のスポーツ航空業界の再建・創造を目指し、有限会社オリンポスを設立したのです。
そして、日本市場向けに、格納や持ち運びなど、主に運用面での改善を狙った軽量グライダー「GANNET(ガネット)」の開発に着手しました。飛んで成功は当たり前。商用ベースに乗せるためには、開発コストとの戦いです。当社は、手づくりの飛行機メーカーですが、実は、どんな戦闘機、大型旅客機であっても、基本は手づくりなんです。例えばですが、仮に町工場に「カローラを1台つくってほしい」とオーダーしたら、「5、6億円はかかる」となるはず。飛行機づくりも同じ。グライダーのかたちを成すまでに、素材や工法の試験を何度も繰り返すなど、やるべきことがごまんとあるわけです。
そのためには資金が必要です。木村秀政先生と日本船舶振興会(現・日本財団)の笹川良一さんを訪ね、開発助成金の打診に行きましたが、これは残念ながら白紙に。それ以降は、飛行機づくりの資金を捻出のためなら手段を選ばず、いろんな仕事をやりました。雑誌に技術文を書いたり、翻訳や通訳の仕事をしたり。また、当時はコンピュータがいっきに広まり始めた時代、ソフトウエア開発もやりました。人工衛星のアンテナ、原子力発電所の隔壁、東京湾の管制システムもつくりました。これらの仕事をとおして、わかったことがあります。特に公共系の仕事ですが、「心からこれが好きだ! 命を懸けたい!」と思ってやっている技術者がほとんどいないということ。もちろん、絶対100%安全という仕事はないですが、大きなトラブルは、人間の表層的な責任感が大きな原因だと思っています。
<不可能を可能に!>
「風の谷のナウシカ」という映画のなかで、
主人公のナウシカが乗る「メーヴェ」、飛ぶ!
ソフトウエア開発に特化したら、正直、かなり儲かっていたでしょう。最盛期には、1億円近い利益が出たこともありますから。でも、あくまでもそれは飛行機づくりを継続するための手段であり、私の目的自体は変えることはできません。そのため、2001年に改めて、数年間売り上げゼロ覚悟で事業の重心を航空関連に戻しました。ただ、私たちに開発を任せてくれたら、どんなシステムであっても、もっといいものをつくることができるのにという思いと自信は今でも十二分にあります。さて、話を本題に戻しましょう。2003年、当社に大きな転機が訪れました。
「風の谷のナウシカ」という映画のなかで、主人公のナウシカが乗る「メーヴェ」という飛行機があります。愛玩メールソフト「PostPet(ポストペット)」の開発者であり、メディアアーティストの八谷和彦さんから、「本物のメーヴェをつくれませんか?」というオーダーが届いたのです。原作者の宮崎駿さんは「メーヴェは、飛ばない」と断言されていたそうですが、私は「意外と理にかなった形状の飛行機である」と思っていました。でも、技術的に可能であったとしても、本当につくり、飛ばすとなると、大変な労力と時間、お金が必要になります。
丸みを帯びた複雑な形状を、接着構造で再現させたうえで、実際に飛ばすためには、同級機の数倍の製造工程を要することが容易に想像できました。結果、「メーヴェ」完成までには、組立冶具を含め1万個以上の部品を使い、2年の歳月をかけることになります。そして、2006年、初めて飛行に成功――。これが大きな話題となり、オリンポスの認知度をいっきに広めてくれました。ちなみに、スタジオジブリとは関係のないプロジェクトゆえ、私たちがつくったこの飛行機はプロジェクト主幹の八谷さんによって”M-02”と命名され、「金沢21世紀美術館」に展示されています。
<未来へ~オリンポスが目指すもの>
日本の航空スポーツ文化をできるだけ早く、実現したい。
それと並行して、これからの優秀な技術者を育てたい
今、自転車くらいの速さで飛べる軽量グライダー、「GANNET-Pr(プライマリー)」のキット販売を進めています。初級滑空機に分類されるため、免許は不要。発航方法は、バンジー(巨大パチンコ)はもちろん、人力曳航、傾斜地からのローリングでも離陸でき、車2台分を格納できる広さのガレージを確保すれば、中学生からでも製作可能な構成を実現しました。両尾翼の長さは12メートルで、総重量は40キログラム。分解すれば、乗用車で簡単に持ち運べます。ちなみに価格は100万円前後の予定です。日本にも、戦前には簡単なグライダーをつくって飛ばす文化がありました。欧米のような、航空スポーツ文化をできるだけ早く、日本でも実現したいと思います。
日本人は、正解を見て、コピーする能力に長けています。うまくコピーしてレールに乗っちゃおう。それが日本の習い性になってしまった。鳥人間コンテストも重要なイベントですが、飛行機好きにとってはあれがすべてで、その先に進めなくなってきている。確かに何かを習うことは重要ですが、コピーは違う。素晴らしい師を見つけ、その真髄を読み取り、常に新しい可能性に挑戦すべきなのです。技術革新にはそこが重要なのですが、今の日本では、それが形骸化しているように思います。だからこそ、私は製品づくりと並行して、若き技術者たちを育てる活動にも注力したい。全国各地の高等専門学校に出向いて、技術指導をしているのもそのためです。
今の日本の現状は非常にまずい。アジアの台頭により、文明の大転換は避けられない、待ったなしの状況です。その危機をはっきりと感じています。今、当社は主に大学生、高専の学生に向けたワークショップを開催していますが、そのほかにも、全国の子どもたちから「飛行機づくりを教えてください」という連絡が入ります。そんな未来のエンジニアたちに、ものづくりのリアリティを教えてあげたい。優秀なエンジニアを育てるためには、技術理論と、ものづくりと、社会性、これらをつなげてあげることが、一番大事だと思うのです。ちなみに今、学生たちと「日本初の有人ソーラープレーン飛行計画」を進めています。この夏に飛行させる予定なのですが、とても楽しみです。「我こそは!」と思える若き挑戦者たちと、もっともっと飛行機を軸にしたリアリティある話をしたい。東京都青梅市に、オリンポスの工房はあります。いつでも大歓迎ですよ。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
できるだけ、自分の顔を広げておくこと。
人脈が多ければ多いほど継続の可能性が高まる
最初からみんなが一等賞、誰しもが機会均等……。今の日本は、何となくそんな風潮が強いですが、実社会でそのルールはまったく通用しません。例え話ですが、マンモス狩に出かけたとします。一人は瀕死の重傷を負いながらも、一頭を仕留めて帰ってきた。でも、もう一人は踏みつぶされて死んでしまった。さて、マンモスを食べられたのはどちらの家族? 子どもだってわかりますよね、仕事の結果によって、大きな差がつくのは当然なんです。だから、まずは経験することが大事。そのあとに、結果があって、知恵が付いてくる。一人では危ないから四人で行こう。収穫を分けてもいいから、先人に方法を聞こう。そうやって、生きる力、社会性が身についていくんです。明るい未来のためにも、今、みんなが改めて自分が置かれた現状を疑ってみたほうがいいと思います。
私の場合、いつか起業・独立しようと思って、起業したわけではないんです。食っていかなければならない。でも、用意されたレールなんて信じない。では何をしよう? それが、飛行機づくりだったというだけ。そして必要に応じて、本業の軸はぶらさず、飛行機以外のことにも挑戦しながら、継続してきた。今は私ともう一人、2目の布陣ですが、過去には数人でやっていた時代もあった。先のマンモスの話ではないですが、継続していくために、オリンポスが立たされた環境を鑑みながら、その時々で、一番いいやり方を選択し、変化しながら経営を続けてきたつもりです。
事業を継続させるために、起業前にしておくべき準備はあるか? できるだけ、自分の顔を広げておくことに尽きると思います。あなたが知っている世界、業界、人間が多ければ多いほど、事業を継続することができる可能性は高まるはずです。私自身も、若い頃は、どんなジャンルにも垣根なしで飛び込んでいったものです。そして、自分が動けば動くほど、何かが返ってくることも、実感できました。ここまでいろんなジャンルに顔を広げたのだから、あとはなるようにしかならない――。そう断言できるまで、自分の世界を広げておくことです。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓