第142回 株式会社gumi/代表取締役
国光宏尚 Hironao Kunimitsu
1974年、兵庫県生まれ。私立岡山高校を卒業後、風来坊生活に突入。1995年の阪神淡路大震災を体験し、新たな死生観を抱く。自分を変えるためには、環境を変えるしかないと、単身、中国へ渡り、上海の復旦大学へ入学。30歳になるまでは自分の好奇心の赴くままに動こうと決め、その後、同大学を中退し、中国、チベットなどのアジア諸国、北米、中南米など約30カ国を放浪。2000年、アメリカにいったん腰を落ち着け、カリフォルニアのサンタモニカカレッジに入学。学生生活を謳歌しながら、NPO団体の活動にも積極的に取り組む。30歳になる前の2003年、日本の映像プロデュース会社社長から声をかけられ、大学卒業後の2004年、株式会社アットムービーに入社。同年に取締役に就任。映画、ドラマのプロデュース、ほかさまざまなIT系新規事業を立ち上げる。2007年、モバイルを中心としたインターネットコンテンツを提供する株式会社gumiを創業し、代表取締役に就任。ソーシャルゲームの主軸を置いたビジネスを展開し、社員数百数十名を抱えるSAPベンチャーとして急成長中。目標は"打倒!Zynga"。本気で世界一のSAP起業を目指している。
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ライフスタイル
趣味
映画鑑賞です。
映画は昔から好きですね。僕の好きな作品1・2は「シンドラーのリスト」と「アマデウス」。3番目以降はいろいろありすぎて、紹介しきれません。あとは旅行することと、ネットの世界を研究すること。そんな感じでしょうか。
好きな食べ物
カレーうどん。
好き嫌いはあまりないですが、それほど食べ物には興味ないんですよね。ただ、だんとつは、カレーうどん(笑)。あと思い浮かぶのは、餃子(笑)。でも、一番好きなのはビールって書いておいてください。
行ってみたい場所
宇宙です。
宇宙には死ぬまでに一度は行ってみたい。アメリカの有名ベンチャー起業家の多くも、宇宙ビジネスの企画を持っています。今のビジネスを成功に導きながら、いつか本気で宇宙ビジネスを手がけたいと思っています。
お勧めの本
『アメリカンドリームの軌跡―伝説の起業家25人の素顔』(英治出版)
著者 H.・W.・ブランズ
J・P・モルガン、アンドリュー・カーネギー、ロバート・ウッドラフ、ロックフェラー、ウォルト・ディズニー、アンドリュー・グローブ、ビル・ゲイツなど、アメリカの伝説的な起業25人の波乱に満ちたストーリーが紹介されています。未来を切り拓いていく際は、過去を知っておくと強い。そのための参考書として手に取った一冊です。
"打倒!Zynga"で世界一を目指すSAPベンチャー。
メイド・イン・ジャパンのソーシャルゲームで勝負する!
一躍、モバイル系ソーシャル・アプリケーション・プロバイダー(SAP)上位のポジションに躍り出て、今なおスピード成長を継続する株式会社gumi。2011年に入り、「さんごくっ!」「任侠道」「デュエルサマナー」と、GREE上でソーシャルゲームの大ヒット作品を連発している。同社を創業し、100名を超えるスタッフを率いるアントレプレナーが、国光宏尚氏である。SAP業界で世界一を取ることを本気で目指す同社のかけ声は、"打倒!Zynga"。さまざまな紆余曲折を経て、このフィールドに辿り着いた国光氏のビジョンは大きく、そして明確だ。「今、限りなく少ない、将来、生き残ることができる、SAPの上位のうち1社のポジションにいることは間違いないと思います。ただし、当社の目標はすでに決まっていて、世界一を取る。そのために、年内にはフィーチャーフォンの日本一を固めつつ、そこでヒットしたゲームをスマホにも展開し、スマホでも日本一を固める計画です」。今回はそんな国光氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<国光宏尚をつくったルーツ1>
団塊ジュニア世代の子供として受験戦争に参戦。
生まれ故郷の神戸を離れ、岡山の男子校へ進学
生まれは、神戸市の灘区です。祖父は自動車販売会社を立ち上げた経営者で、私の父と叔父たちがその会社を受け継いで、その後はそれぞれが独立。確か、長男が中古販売、次男が新車販売、四男坊だった父は、あんまり儲からないバイク店の経営者に収まったようです(笑)。でも、常に5、6人の従業員を抱えて、けっこう忙しくしていましたね。僕は妹と弟が一人ずついる、三人きょうだいの長男。厳しく育てられた覚えはありまりないので、放任主義だったのでしょうか。ファミコンもはまったし、少年ジャンプも読んだ。放課後は仲間と、サッカーしたり、野球をやったりして、屋外でよく遊んでいました。ただ、僕は昭和49年生まれの団塊ジュニア世代でしょう。いい中学、いい高校、いい大学を目指す、受験戦争が一番激しかった頃です。僕もご多分にもれず、小学3年からは毎日学習塾に通うようになりました。
兵庫県では有名なスパルタ塾で、鉢巻をして勉強しましたよ。当時、神戸にあった公立中学校の校則では、坊主頭がルールでした。それが嫌で、地元の公立中学校はパス。また、親元を離れたいという気持ちが強かったこともあり、僕が選んだのは、兵庫の隣県、岡山県にある中高一貫の私立岡山高校です。繁華街からかなり離れた場所にある男子高で、周囲を見渡せば畑ばかりの農村地帯。夜の20時になると、夏でも一帯はまっ暗闇。一番近くのコンビニまで歩いて1時間。最初に寮生活を始めた頃は、ちょっと「しまった」と思いました(笑)。ただ、僕と同じように他府県から進学してきた同級生たちとの寮生活はとても楽しかったです。1室8人のたこ部屋。土日の外出は1日だけ。それも12時から17時15分の間のみ。寮のご飯も美味くない。そんな厳しい環境でしたけど、夜、先生の監視をかいくぐって密かに寮を抜け出すことに、スリルと面白みを感じていました。
もしも見つかったら、ビンタを何往復も張られて、炎天下の中、グラウンドでの草むしりと正座6時間とか、とても厳しい罰が待っているのですが、それでもやめられない。中学時代は深夜のコンビニに弁当を買いに行く程度でしたが、高校になると繁華街のクラブに出かけたりするように。寮を抜け出るまでに、何度かほふく前進が必要なので、服が汚れてしまう。それではクラブに入れないので、昼間に学校に遊び着の着替えを置いて、それに着替えてから、隠しておいた自転車に乗って裏山を抜けて繁華街へ。一度、おまわりさんに見つかって、未成年の深夜徘徊を理由に追いかけられたことがあります。友だちと二人、畑の畔道を走って逃げたのですが、そいつがいきなり視界から消えた。本当の話、肥え溜めに落っこちたんですよ(笑)。彼のあだ名は、それからは当然のごとく「ウ○コマン」となりました。そして今、彼は、現役の演歌歌手として頑張って活動しています。
<国光宏尚をつくったルーツ2>
尾崎豊は言った。敷かれたレールに乗るなと。
ビッグになることだけを考え水商売の世界へ
インフルエンザが流行りだすと、みんなかかりたくて必死でした。なぜなら、完全に治るまで実家に帰って休める。家の飯はやっぱりうまいし、四六時中遊べますからね。「インフルエンザに注意」の警告が流れると、冬なのに薄着になったり、わざと風呂場で水を浴びるやつが多発しました。あとは、体温計で熱を測る前に、熱が40度を超えるよう、わきの下にカイロを仕組んでおいたり。ちなみに、先ほどお話しした「ウ○コマン」ですが、肥え溜めに落ちた翌日にインフルエンザにかかりました(笑)。ただ、そんなバカなことばかりやっていたわけではなく、中学2年からは硬式テニス部に所属して、けっこう真面目に練習に励んでいました。理由は単純、女の子にもてたいから。試合会場に行くと、他校のテニス部の女子がいるでしょう。でも、試合に勝たないとかっこ悪いし、声だってかけずらい。文化祭も楽しかった。男子校の自分たちにとって、これも女子と出合える数少ないチャンス。草食男子なんてあほらしい、僕たちはハンターでした(笑)。
そんな活動の中で、いくつかの恋も経験しました。ちなみに、高校3年になると、予備校や塾に行く場合は、親にその証明をしてもらうことで、自由に学校を出ることができました。その頃、ある女の子と付き合い始めた僕は、親に頼んで、塾に行っている証明を獲得。もちろん、塾はどうでもよくて、彼女と自由に逢える時間をつくるためです。当時の塾の講習期間は3カ月。でも、付き合い始めて1月後、その彼女に振られてしまった……。それからの2カ月間は最悪でしたね。用もないのに岡山市の中心地まで出かけて、やることもないのに時間をつぶす毎日。学校や寮に残っていると、「国光は、何で塾に行いかないのか?」と怪しまれますから。高校生でしょう、お金もほとんど持っていません。寒い冬、JR岡山駅前の広場に一人で座って、夜8時、9時に定時に流れる「桃太郎」の音楽を聴いている僕……。かなりせつない思い出です(笑)。
1991年に高校を卒業。普通に大学受験はしましたが、すべてにフラレています。当時、僕は尾崎豊の歌に感化され、敷かれたレールに乗るのはかっこ悪いと考えるように。それでも大阪の新聞配達の寮に住んで、新聞奨学生をしながら、浪人生活を送っていたんです。ただ、その寮の近くに関西大学があって、大学生になった昔の知り合いたちと顔を合わせるんですよ。そのうちにそいつらと中高時代に覚えた麻雀をするようになって、夜中の3時に自分は引き上げて、新聞配達。半分眠りながら新聞を配っていて、気が付いたら配り終えていたという、無意識体験を何度もしました(笑)。でも、浪人生活が後半を過ぎた頃から、「大学受験はもういいや」と。それからは毎日、どうすればビッグになれるかを思案する日々。当時はベンチャービジネスなんてまったく知りませんでしたから、手っ取り早い水商売で働き始めることにしたんですね。大人の言うことを素直に信じて、大学に行っているやつらはあほだと自分に言い聞かせながら。そんな生活が2年ほど続いたでしょうか……。
<阪神淡路大震災を経験>
風来坊的生活を、震災をきっかけに卒業。
環境を変えるため、中国に渡り大学に入学
1995年1月17日の早朝、阪神淡路大震災が勃発しました。その日、僕は彼女の家に泊っており、飛び起きて彼女の安全を確保した後、すぐに自宅のある灘区を目指しました。途中、行きつけだったバーに寄ったら、店は壊滅状態。ボトルが割れていないバーボンを勝手にちょうだいして、気持ちを落ち着けたことを覚えています。自分は、偶然、命が助かった。でも、死んでいてもおかしくなかった。生きるか死ぬって、実は紙一重。そんな死生観が心に刺さり、考えるようにました。自分はこれまで何も成し遂げていない。このままもしも死んでしまったら、ものすごく後悔するだろう。何とかしなければ……。そこで自分が出した答えは、「まずは環境を変える」こと。海外へ出よう。当時のナンバーワンといえば、アメリカ。でも、21世紀は中国の時代。結果、僕は中国への留学を決断します。学費と生活費が、アメリカに比べて格段に安かったこともその理由です。そして、神戸港から鑑真号という船に乗って上海を目指しました。男の旅立ちは、飛行機よりも、やっぱり船でしょう。ただし、航空運賃より船賃のほうが高かったのは痛かった(笑)。
と、僕は基本的にカタチから入るのが好きなんです。「男児志をたてて郷関を出づ 学もし成らずんば 死すともかへらず」の決意でしたから、まず語学勉強で向かった先も、一番反日感情が大きいといわれる南京を選びました。「南京の人々に俺を認めさせないでどうする!」という勢いで。ただ、当時は鄧小平のいわゆる「南巡講話」が行われていた頃でしたから、それほどみなさん反日的ではありませんでした(笑)。そして、無事に半年間の語学勉強を終え、僕が入学したのは上海にある復旦大学です。ここでのキャンパスライフは普通に青春していて、とても楽しかった。また、中国に進出してくる日本の中小企業の通訳の仕事をして、けっこうな稼ぎがあったんです。日本人は交渉下手で、騙されることも多い中、僕は平気で「うそつくな!」と、彼らを守ってあげた。すると、「いい通訳がいる」と評判になって、紹介の紹介でどんどん仕事が入ってくる。そのお金を使って、ウィグルからチベットを抜け、その先にあるアジア各国をバックパックで放浪旅行していました。そうこうしているうちに、「自分は英語が話せない。そうだアメリカに行こう」と思い始めたんですよ。
日本を出る前に、人生後悔しないよう、30歳になるまでは好奇心の赴くほうに、自由に流れていこうと決めていました。で、30歳までにひとつの道を見つけて、それ以降は一点勝負していこうと。自分にとって、人生の中で最大のライバルは何かというと、「元の自分が選ばなかった道を選んだ新しい自分」だと思っています。変化をしないまま現状維持に固執したら、せっかくのライバルに会うことができないじゃないですか。だから自己成長を続けるためにも、変化し続けることを自分に課していたんですよ。そうしたら、復旦大学で出会ったカナダ人の友人が、「バンクーバーもいいところだ。世話してやるから来いよ」と誘ってくれたこともあって、TOEFLの勉強をカナダで半年間。そして、ロサンジェルスにあるサンタモニカカレッジに入学したんです。ただ、入学前、「そういえば自分は南米に行ってないな」と。それからメキシコ経由で南米に入り、いくつかの国々を回りながら、気が付いたら予定の1カ月をだいぶ過ぎていた。あわてて大学に電話して、「あまりに南米が広いものですから」と入学が遅れる旨を職員に伝えたら、「それはそうだ。もっと楽しんでくればいい」と言われましたよ(笑)。
<アメリカ時代>
30歳からは一つに打ち込むことを決めていた。
知り合いから声がかかり、帰国を決め働き始める
そして2000年から、ロサンジェルスでの大学生生活がスタートしました。ここでも、海外での日本人の勝負下手さに気づかされました。日本人留学生って、2種類しかいないんですよ。日本人ばかりとつるんでいる人と、それが嫌でアメリカ人としか付き合わない人。そのくせ、日本人同士って心底から仲良くしないんですよ。アメリカの大学はかなり成績重視なんですけど、授業のノートの見せ合いもしないし、代返もし合わない。まあ、日本人的な潔癖さもあるんでしょうけど。一方、中国人とかユダヤ人とかは、団結してみんなでこずるいことをしてでも助け合う。アメリカでは、彼らは日本人と同じマイノリティなんですけど、悔しいことに日本人留学生に比べて彼らのほうが評価は高いんです。学生の世界だけではなく、これはビジネスの世界でも同じ。海外で日本人が他者に勝っていくためには、もっともっと日本人同士がしっかり交流して、協力し合っていかないといけないと思うんです。
ロサンジェルスに、日本人留学生によって運営される、日系社会の活性化と学生の援助を目的とした「ジャパニーズ・スチューデント・ネットワーク(以下JSN)」というNPO団体があります。僕もここに参加して、「日本人留学生同士、もっと交流して、もっと協力し合って、イニシアチブをとっていこう」と、そんな活動をしていました。リーダ的ポジションを任されたのはイベント担当です。真面目な方面でいえば、青色発光ダイオードの研究で世界的に有名になった中村修二さんを招いた講演会を企画したり、遊びの方面でいえば、「TOKYO NIGHT」と銘打ったパーティを開いて、日本から著名なDJを呼んできたり。そんなNPO活動と並行して、日本の製品を輸入したり、アメリカの製品を逆に日本に輸出したり、ちょっとしたビジネスも手がけてました。日本と中国とアメリカと、自分には知った仲間がいましたから、これがけっこう儲かったんですよ。そうやって何となく、「自分はこのままアメリカで生活していくのかな」と思っていた2003年頃、ある人から声がかかったんですよ。
それは、JSNの活動を介して知り合った、フジテレビに勤務していた有名プロデューサーでした。その後、彼は日本で、映画やテレビ番組の制作プロデュース会社「アットムービー」を立ち上げていたんですね。その彼から「一緒にやらないか?」と誘われたんです。そこでふと立ち止まって考えました。俺もそろそろ30歳になる。日本を出る前に、30歳からは一つのことに打ち込むことを決めていました。彼は信頼できる人間でしたし、これも縁だなと。そんな単純な理由ではありましたが、サンタモニカカレッジを卒業し、あっさり帰国することを決めました。そんな経緯で、僕はアットムービーの社員として働き始め、すぐに取締役に就任。制作会社って、業界でいえば使われるばかりの底辺なんですよ。でも、この会社は違いました。頼まれた仕事はしない、自分たちでやりたいものだけをやるのがルール。しかも、企画から資金調達、配給まですべてワンストップでやる。だから業界では重宝がられて、どんどん仕事が増えていった。僕自身はITが好きだったので、いろんな企画を考え、自由に働かせてもらっていたんです。
●次週、「打倒!Zyngaの目標を掲げ、本気で世界一のポジションを取る!」の後編へ続く→
情報社会が進み、新しい経済が興りつつある今、
業界の"王"になるため、スピードをいっきに加速中
<アイデアは価値ゼロ>
前職時代に企画した、テロップ動画サービスがヒット。
翌年「ニコニコ動画」がブレイクし、苦渋を舐める
今思い返しても、けっこう画期的なサービスをリリースしていたんですよね。つくりたいものものありきで、メディアはテレビ、映画、ネット、携帯、舞台と何でもOK。動画ドラマをPHSで配信したのは世界初でしたし、最初に携帯で映画の試写会を実施したのも僕が考案したアットムービー発の企画でした。2005年、女優の加藤ローサさんを主役に配し、「シムソンズ」というカーリング競技を主題にした映画を製作したんです。で、トリノオリンピックのネットプロモーションを進める際に、動画をブログに張り付けて、ユーザーがコメントを入れるとテロップが流れる、「突っ込み放送局」というサービスを実施。映画の予告編のテロップを入れて、一番人気のユーザーに、加藤ローサさんのオリジナル動画をプレゼントというキャンペーンを始めたら、コメントが殺到。この動画共有サイトを開発してくれたのが、フリップ・クリップという会社で働いていた、現同社のCTOの堀内康弘です。
この時のプロジェクトはそのまま解散しましたが、翌年、ドワンゴが「ニコニコ動画」をスタート。「突っ込み放送局」同じような仕組みでニコ動が大ブレイクして、すごく悔しい思いをしました。まあ、その悔しさもひとつの起業のモチベーションになったんですけどエンターテインメント業界は古い体質のピラミッド社会で、新しいチャレンジができづらい窮屈さがあるんですね。アイデアがあっても価値はゼロ。やはり、実現できてなんぼです。その頃、僕は海外のコアなIT事情を真面目に解説するブログを書いていて、IT系の人たちとの交流が増えていました。その一人が、昨年、米Zyngaが買収した、「ウノウ」の社長・山田進太郎さん。彼とはすぐに意気投合し、何度か飲んで、「僕はエンタメ、山田さんはIT。お互いの得意分野を合わせて一緒にやろう」となった。で、2006年10月にアメリカで開催された大きなIT展示会「サウスバイ・サウスウエスト」で、ツイッターが初登場。PCを使ったこのリアルタイムSNSは、絶対にモバイルでやったほうが面白い。これだな!と。
そして、2007年6月、アットムービーの取締役を退任し、株式会社gumiを創業。携帯を活用した、リアルタイムSNS「gumi」のサービス提供を開始したのです。ちなみに、ウノウも山田さんも当社の出資者なんですよ。今、僕らは「打倒!Zynga」と言ってますが、そのZyngaがうちの株を持っているというのも面白い因縁です。このビジネスはユーザー同士のコミュニケーションがコンテンツでしょう。人が多ければ面白いけど、少ないと面白くない。面白くなければ人が集まらない。とても難しいサービスで、最初にイノベーター、アーリーアダプターといわれる層にリーチして、あとはお金をかけてキャッシュポイントを超える。それがこのビジネスモデルの基本。ただ、携帯のアーリーアダプターは女子中高生だったんですよね。その頃は、携帯のネットって、今でこそスマートフォンが出てきて誰もが使うようになりましたけど、その頃はエンジニアから「あんなのは技術じゃねえ」ってさげすまれていたんです。
<チェンジ!>
携帯版ツイッターモデルからフェイスブック型へ。
ソーシャルゲームを主軸に、新たな挑戦へ踏み出す
最初はウノウがサイトを設計してくれるという約束だったんですけど、山田さんに聞くと「誰もやったことないし、作りたがらないんだよ」と(笑)。で、結局、僕がウノウのエンジニアを必死で説得して、やってもらうことになったと。でも、当時の女子中高生はツイッターなんてまだ知らないですから、ユーザーを集めるのは大変でしたよ。それでもエンタメ業界のつてを使って、映画やドラマとの相互タイアップを仕かけるなどして、少しずつユーザーを増やしていきました。そうやってユーザーを増やしながら、コミュニティを作ろう、写真や動画の投稿ができるようにとか、いろんな機能を追加していきました。でも、ある時ふと気付いたんですよね。「あれ? これってツイッターじゃないな。しょぼいSNSになってる」(笑)。何か方向性が違うなと。そんなことを考えていた頃、アメリカで「フェイスブック」がプラットフォームをオープン化。さらに、APIを用意して、口コミができるような仕組みも作ると。それだけじゃなくて、ここでビジネスもさせるとなった。これだな、と。ツイッターじゃなかったなと。
だったら携帯版のフェイスブックにしようと、余計な機能がたくさんついていましたが、これをアプリベースにしていけば大丈夫です。うちの会社で一貫しているのは、ソーシャルwebの時代が来る、そしてモバイル・ソーシャルWebが時代の中心になることを信じ続けてきたこと。そんな中で、ミクシィの1年前の段階で、「gumi」自体をオープン・ソーシャル対応。僕的には、携帯のSNSでは世界初だし、業界内騒然だろうと思っていたんですが、しーん……(笑)。まだ会員数7万人程度でしたからね。結局、誰もアプリをつくってくれないから、仕方なく自社で作り始めたというわけです。で、ミクシィのモバイル版がオープンされた際に、自社制作のクイズ、検定などのソーシャル系アプリを投入したら、先行者メリットもあってドンとブレイク。
多くの携帯向けアプリ開発会社はミクシィがオープンした後に始めましたが、僕たちの場合は彼らよりもすでに数年間長い経験、ノウハウ、技術力がありましたから。その後、リクルートや楽天と一緒に、コミュニケーション系のアプリの開発をやったりしていたんですが、広告モデルではやはり儲からない。それで、モバゲーがオープン化した2010年の1月のタイミングで、ソーシャルゲームの制作に主軸を変えたんです。ミクシィ、モバゲー上で、ゲームのヒットがいくつか生まれ、昨年の夏、グリーとモバゲーの骨肉の争いがあってその後はグリーがほぼ100%という感じです。グリーを選んだ理由はけっこう単純明確で、ほかの会社がほぼみんなモバゲー派だったので、どっか1社くらいはグリーを選ばないとね、と(笑)。また、グリーが熱心に誘ってくれたこともあります。ワンオフゼムになるよりも、信頼できるパートナーとがっちり組んでやろうと。それでグリーとの資本提携も受け入れたんですよ。
<未来へ~gumiが目指すもの>
人生の中で世界一を取れるかもしれないチャンス!
全社一丸となって、その目標を追いかけ続ける
実は昨年の1月、当社の社員数は6名でした。で、5月に26名となり、年末には100名を超えました。と、会社の規模をいっきに拡大させていったわけなんですけど、これがものすごく大変だったんです。組織マネジメントできる人間も少ないし、そもそもソーシャルゲームが作れる人材ってまだまだ希少でしたからね。また、なかなかスマッシュヒットが生まれないという苦しさもありました。ただ、僕の方もしっかり現場に戻って経営をかじ取りしていく中で、今年の1月くらいから、ようやく組織もしっかり回るようになって、1月の末に、「さんごくっ!」、2月の末に「任侠道」、3月末には「デュエルサマナー」が出てと、立て続けに大ヒットゲームが生まれたんですよ。そこから売り上げ、利益体質も、いっきにぐっと伸びてきた。それが今年に入ってからの経営状況ですね。ちなみに、グリー陣営の中で、1番人気はグリーの内製ゲーム、2位がコナミ、で、3位が当社。その次にくるのが、ドリコムとかボルテージって感じです。
今、限りなく少ない、将来、生き残ることができる、ソーシャル・アプリケーション・プロバイダー(SAP)の上位のうち1社のポジションにいることは間違いないと思います。そもそも、SAP業界の勝負はほぼほぼ決まりかけていて、グリー陣営でいえば先ほどの5社くらいが生き残っていくであろう会社。モバゲー陣営でいくと、1位がDeNAで、2位がGMSとコナミ。その次が、今度上場するKLabとクルーズ。今挙げた10社くらいが列強といわれている感じでしょうか。あとは、そのほかの大手ゲーム会社が、ここからどうやって巻き返しをしてくるか。ただし、当社の目標はすでに決まっていて、世界一を取る。では、世界一とは何かというと、やはりスマートフォン。ここで世界一を取ることが一番大事なこと。もちろん、その前に日本一になっておかないとダメですし、当然、一般のフィーチャーフォンでもナンバーワンのポジションを取っておく必要があるわけです。そのために、年内にはフィーチャーフォンの日本一を固めつつ、そこでヒットしたゲームをスマホにも展開し、スマホでも日本一を固める。
その次は海外展開。たぶん、フェイスブックになると思うんですが、フェイスブックがモバイル版をオープン化したところで、できる限り早く参入。そこからさらなる努力を繰り返して、来年の春先くらいにはフェイスブック上で20位以内に食い込みたい。その先のIPOを目指しつつ、そこからいっきに買収を進めて世界を取りに行く。そんな計画です。日本の携帯系ソーシャルゲームは、アメリカに比べて1年くらい進んでいると思います。ただし、彼らは資金調達力がすごい。Zyngaはまだ上場していませんが、時価総額が2兆円と言われています。ちなみに、任天堂が1.5兆円くらい。アメリカの「Storm8」という会社は、当社と売り上げは変わらないくらいですが、800億円ほどの時価総額で、230億円を調達したそうです。そういった相手と戦うためには、スピードを持ってヒットを出し続け、データマイニングを繰り返しながら、ブラッシュアップしていくほかありません。でも、人生の中で日本一、世界一を取れるかもしれないチャンスってなかなか巡ってきませんよね。だから、「打倒!Zynga」。本気で狙わないともったいないでしょう(笑)。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
大きなチャンスが訪れていることは間違いない。
ぜひ、勇気を持って、一歩を踏み出してほしい
僕たちが世界一を取れるか取れないか。これってけっこう日本にとっても重要なことだと思っています。今の日本はかなりヤバい状況下にあるじゃないですか。3.11の大震災、大幅な円高で、製造業は悲鳴を上げていますし、全体の景気も悪い。今後の見通しも明るくない。そもそも日本は資源の乏しい国です。これは、変えられない事実。だから輸入に頼らざるを得ない。そのためには誰かが外貨を稼いでくる必要がある。それがこれからの企業に求められる使命でしょう。しかし、製造業以外の日本企業が、世界の新しいフィールドに打って出て、大成功を収めたケースが一つも見当たりません。今必要なのは、その成功例なんですよ。野球だって、野茂英雄がメジャーに行ったから、後進が続いていった。サッカーだって同じでしょう。そうやって全体の底上げがなされ、ワールドカップでも16強に入るアジアのサッカー強国になった。でも、ビジネスの場合、ナショナルの松下幸之助が、ソニーの盛田昭雄が、と言われても、ピンとこないですよ。
グリーやDeNAもありますけど、もうけっこうでかいじゃないですか。そうじゃなくて、gumiみたいなドベンチャーが、もしも世界一を取れたとしたら、多くの若い人たちだって「俺たちも挑戦しよう!」となるはず。そしてそれがどんどん続いていく。そんなモデルケースになるという役割も背負ってやっているつもりです。偶然もあるんですが、日本に帰って来た時、もう海外は関係ないと思っていました。でも、今ではアメリカ、中国でもソーシャルゲームが活況で、中国語と英語が使えるのは大きなアドバンテージです。さらに、コンテンツビジネスをやった経験が、今のビジネスに大きく生かされています。これまでの自分が歩んできたさまざまな道のりが、今まさに一つになろうとしている。過去は何一つ無駄ではなかったと思えますし、言ってみればこれは天の配剤なのかもしれません。もしかしたら本当に、神様が、沈みかけている日本を救うために自分を使っているのかな、と。何でもカタチから入りたい人間なので(笑)。
そういった意味でも、僕らが挑んでいるフィールドは、これから起業を目指す方々にとっても、大きなチャンスが広がっています。「みんな、ついてきやがれっ」て言いたいですね(笑)。今、情報革命が進んで、新しい経済が興りつつある。この世界は、売り上げが増えてもコストが増えない。グーグルのユーザーが2倍に増えれば、広告費は2倍になるけど、コストはそんなに変わらない。ソーシャルゲームもそう、うちで一番人気のゲームでも5~8人くらいの人間がかかわっているだけ。でも、ネットにつながってグローバルな展開が簡単に実現する。そんなやり方をしている企業が、今、急速に成長しているわけです。そこに身を置いている人は、いろんなビジネスチャンスと出合えるでしょうし、かなり高額な給与を手にすることもできる。だから結局、成功者になりたければ、変革時代の大きな流れの中で勝負をすることです。産業革命期のロックフェラーやカーネギーも同じでしたでしょう。Zyngaは設立5年ほどで、任天堂の時価総額を抜き去った。それが現実なんです。今、大きなチャンスが訪れていることは間違いありません。ぜひ、勇気を持って、一歩を踏み出してほしいと思います。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓