第68回 千房株式会社 中井政嗣

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第68回
千房株式会社 代表取締役
中井政嗣 Masatsugu Nakai

1945年、奈良県生まれ。白鳳中学校卒業と同時に、尼崎の乾物屋に丁稚奉公に出る。5年間修業した後、義兄が経営する洋食店に2年間勤務。1967年、 老夫婦が営んでいたお好み焼き店の後継者募集に応募し、採用。22歳で独立を果たす。夫婦で頑張り経営を軌道に乗せるが、6年目、突然の契約解除。付き合 いのあった信用組合理事長の支援もあり、1973年、大阪ミナミ千日前にお好み焼き専門店「千房」を開店。大阪の味を独特の感性で追求し、国内はもちろん 海外にもその味を広めている。その間、1986年、40歳で大阪府立桃谷高等学校を卒業。現在自身の体験をふまえた独特の持論で社会教育家としても注目を 集め、全国各地で講演を行う。今年の6月30日、テレビ東京「カンブリア宮殿」にて、「部下を必ずやる気にさせる“人材育成術”教えます」と題する人材育 成術が放送され、大反響を得る。著書に『できるやんか!』(潮出版)がある。

ライフスタイル

好きな食べ物

ちりめんじゃこです。
お好み焼き以外で言うと、ちりめんじゃことか、明太子が好きですね。あとは、てっちり、しゃぶしゃぶ、水炊きなどの鍋物も好きです。お酒はあまり飲みません。たしなむ程度ですかね。

趣味

川柳です。
仕事が一番の趣味といえますが、川柳を少々。頭の体操にもなりますし。最近の作をふたつほど。食品偽装問題をテーマに、「老舗にも、賞味期限が、ある時代」。道頓堀の食い倒れをテーマに、「閉める日を、決めて連日、大はやり」。

行ってみたい場所

奈良県の當麻町です。
行ってみたい場所というよりは、住んでみたい場所なんですが。実家の奈良県の當麻町ですかね。盆暮れには帰るんですけど、やはり私をつくった原点である場所ですから。ゆっくり生活を送ってみたいという意味で。

最近、感動したこと

今日の取材に感動しています。
飲食店商売をやっていますから、従業員のこと、お客さまのことなどなど、毎日何かしらの感動がありますよ。テレビの収録みたいに今日の取材もこんなに人がいて、寄ってたかって取材されて、感動するというかびっくりですわ(笑)。

お好み焼きをディナーに変えた「千房」の挑戦。
成功者ではなく成長者として発展はまだまだ続く

 1967年、義兄の紹介でしぶしぶ始めたお好み焼き店の経営。その偶然のきっかけと決断が、6年後1973年、「千房」のスタートにつながった。そして今年の12月、「千房」は35周年を迎える。今や、国内、海外のハワイに店舗網は広がり、60店舗を経営するまでに成長を遂げた。創業から今日まで、一番頭を悩ませているのは人材採用だった。学歴、成績、身元引受人いっさい問わず。来る者拒まず、去るもの追わず。だが、いったん引き受けることを決めたら、家族のごとく絶対に見捨てず大切に育てるのだという。「ひとりひとりを見て、悪い子ほどえこひいき。小さな目標を与え、できれば思い切り褒める。人間、過去を変えることはできませんが、未来は変えることができるんです」。誰もが見捨てた非行少年・少女も、氏の手にかかれば立派な“人財”となるのだ。一大飲食店チェーンの総帥でありながら、人材教育のプロとして全国から講演の誘いが引きもきらない。今回は、そんな中井氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<中井政嗣をつくったルーツ.1>
奈良の自然と遊んだ少年時代。農作業の手伝いを嫌い、家事担当に

 生まれ故郷は、奈良県の當麻町です。現在は市町村合併により、葛城市となっていますが。家業は農家でして、兄弟は男5人に女2人。私は5番目の4男としてこの世に生を受けました。奈良県は海のない県ですが、家を一歩出れば山があり、池があり。毎日、自然を相手に遊んでばかりいましたよ。夏休みになれば遊泳禁止の池で仲間たちと泳ぎまくり。当時は水着なんてしゃれたものはなく、当然のごとくフルチンです(笑)。でも、たまに先生が見回りに来るんですよ。池で泳いでいるのがばれると、先生は罰としてみんなの着物を持って帰っちゃうんです。そしたら家まで裸で帰らないといけないでしょう。それはさすがに恥ずかしいので、じゃんけんして負けた子、もしくは一番下っ端の子にタオルとパンツを取りに行かせる。私も小さな頃は何度も素っ裸で走らされていました。

 我が家は経済的には貧しかったですが、父も母も、兄弟もとても温かく、いつも愛情をいっぱいに感じながら日々を過ごすことができました。ちなみに、3つ上の兄は成績優秀、クラス委員や生徒会長に選ばれるような秀才でしたが、私は勉強が大嫌いで、成績も最悪。そんな兄が少しでも怪我をすると、両親は慌てふためくのですが、私の場合はいつも「唾つけて治しとけ」。ただ、いつもの池遊びで額をざっくり切る大怪我をした時、血をだらだら流しながら家に帰ったんです。そしたら母が、当時とても貴重な卵の白身を傷口に塗ってくれたんですよ。一応自分のことも心配してくれているんだとわかり、ほっとしたことを覚えています(笑)。

 農家に生まれましたが、生来のきれい好きである私は農作業がとても苦手でして。ぽっとん便所の人糞を畑の肥料にしたり、牛糞でつくった堆肥を素手でまいたり、泥の中での作業では、足に大きなヒルが吸い付いて血を吸われたり。怖いんですよね。そんな農作業から逃れるため、私は自ら家で食事の用意をする担当を名乗り出ました。これがとても楽しかった。家族からもけっこう好評で、みんな「うまいな~」って褒めてくれるんです。褒められたらもっとおいしいものつくろうと頑張って、研究するじゃないですか。そうやってどんどん料理が好きになっていく。コックになりたいと本気で思っていましたからね。

<中井政嗣をつくったルーツ.2>
中学でも相変わらずの勉強嫌い。卒業後は乾物屋で丁稚奉公

 中学に上がっても相変わらず勉強嫌いは変わりません。私が通っていた中学は、3年で進学組と就職組に分かれるんです。当然、私は後者ですね。今であれば大問題になるほど、就職組はほっぽらかし。えらい差別ですよ。テストも名前書かずに提出してOKでしたから。ただ、就職担当の先生がカッコいい人でしてね。宿直の夜に、「おまえら、今晩宿直室に泊まりにこいや」って誘ってくれるんです。そして、本気でビールやタバコを勧めてくる。「どや、うまいか?」「先生、ビールは苦いし、タバコはまずいわ」となる。いけないものを勧めるのはどうかと思いますが、私たちもわかっていた。先生はまさに自らを反面教師として、やってはいけないことを教えてくれていると。男同士の粋な指導でした。

 姉の夫、義理の兄が洋食屋で働いていました。中学の時、一度その店に行ったことがあるんです。オムライス、エビフライを食べさせてもらって、料理好きな私は、「飲食店で働けば食いっぱぐれることはない。おまけに手に職をつけられる」と考えたんです。その話を父にしましたら、頭ごなしに「男が水商売なんかやったらアカン。おまえはちゃんとした商売人になれ!」。「洋食屋は水商売ちがうやろ」。「玄関前に水をまく仕事は全部水商売なんや」と。その時は、なぜか「そんなもんですか」と納得してしまいまして(笑)。いずれにせよ私は、尼崎の乾物屋で丁稚奉公を始めることになるんです。

 中学を卒業後、父に連れられ、お世話になる乾物屋にご挨拶に行きました。先に就職した兄や姉が実家に仕送りをしていることを知っていた私は、その道すがら、「僕はいくら仕送りすればいいの?」と父に聞いてみたんです。そしたら父は、「仕送りはせんでいい。その代わりもう何もしてやれないから、とにかく自立を目指せ。あと、これからの1年間は何があっても家に帰ってくるな」と。そして父は乾物屋でご主人に、「こいつを一人前の商売人にしてやってください」と頭を畳にこすりつけてお願いしてくれた後、私の手に500円札を握らせて振り向きもせず雑踏の中を帰っていった。この時は、これが父との今生の別れになるなどとは、思ってもみませんでした。

<大好きな父の死で一念発起>
もう誰も頼れる人はいない。できるだけ早く自立を目指そう!

  右も左もわからぬまま商売人修業の第一歩を踏み出した私は、たくさんの方々から厳しく鍛えていただきました。でも、まだ15歳の少年です。家族や故郷が恋しくて、つらいんですよね。何度も母に連絡を取り「もう辞めたい」と弱音を吐きましたが、いつも「石の上にも3年。いつか必ず良くなるから、辛抱しなさい」と泣きながら説得されました。そして私が丁稚奉公を始めた最初の年の10月10日。父が病気で亡くなってしまうんです。危篤の知らせを聞いて、飛んで実家に帰ったのですが、父は私が到着する10分前に息を引き取っていたそうです。厳しさや苦しさには耐えられる自信ができつつありましたが、さすがにこの寂しさには……。本当に涙が止まりませんでした。

 でも、ここから本当の私の人生が始まったのだと思っています。もう頼れる父はいない。できるだけ早く自立、独立をしなくては。そのためにはお金が必要だ。これからは金の亡者になろうと誓ったんです。で、兄に聞いてみました。「どうすればお金って貯まるのか?」。「お金はな、使わんかったら貯まんねん」と。それを聞いて大笑いしましたが、真理ですね。それを愚直に信じ、遊びや娯楽はほとんど我慢しました。当時、毎月の給料の5000円はすべて貯金。休日出勤とご主人の自宅の煙突掃除や庭掃除で稼いだ1000円だけで1カ月過ごすわけです。そうそう、就職して2年目に街でばったり昔の同級生に会ったんです。私は聞きました。「今、おまえの給料はいくら?」。「1万円や」。そいつの会社に転職したくなりました。でも、「じゃあ、毎月いくら貯金してんの?」。そいつは自慢げに「3000円や」と。「勝った!」と嬉しくなりました。もっともっと遊んでお金を使ってくれ! 自分はどんどんお金を貯めて早く独立するから。こいつらがいるから私は上にいけるんだと。大発見した気分になりました(笑)。

 もうひとつ、兄からは就職前に「いつか独立したいなら、金銭出納帳をつけろ」というアドバイスをもらっていました。今でもこの時つけていた金銭出納帳は大切に保管していますが、これもずっと続けました。どこそこで5円拾った、今度は10円拾った、煙突掃除で500円稼いだ。反対に、ズボンの修理費にいくらかかった、散髪代にいくらかかった、などなど。もちろん、毎月の給料日には全額を銀行に預けに行きました。それらの記録を毎月細かくノートに記していくわけです。この金銭出納帳が、数年後の私の挑戦を助けてくれることになるんですよ。

<思いがけない独立のきっかけ>
コック修行中に義兄から独立話。何で俺がお好み焼き店を・・・

 丁稚奉公では、本当にたくさんのことを教えていただきましたが、一番はやはり辛抱することでしょうね。あと、17歳で株を始めたんです。こつこつ貯金は続けていましたが、時は高度成長期。どんどん地価や物価が上昇していく。このままでは貯めても貯めても、独立なんてできないと考えて。さらに20歳で先物に手を出した。赤いダイヤと呼ばれるアズキを買って、最初は儲かったんですが、最後は虎の子の50万円が泡と消え……。おまけに当時付き合っていた彼女の貯金も借りて突っ込んでいましたから、目も当てられない惨敗。この責任を取って、というわけではないですが、その彼女が私の妻です(笑)。でもこの手痛い経験が、後のバブル期の株式投資への誘惑を断ち切ってくれました。

 結局、乾物屋には5年間お世話になり、その後、義理の兄が独立して開いたレストランでコックの修行を始めます。義兄からは「5年遅れたんだから、3年分を1年で覚えろ」と、厳しく指導してもらいました。お湯を沸かして出汁を取り、余ったお湯で海老を解凍し、それらをこなしながらキャベツを刻むといった具合です。2年間、1日も休むことなく、始発で出勤し、終電で帰る毎日。ここでは計画性、仕事に対する繊細な心、即行動という調理人としての姿勢を叩き込まれました。そんなある日、義兄が「独立の話がある。お好み焼き店をやれ」と。聞けば、電柱に貼ってあったビラからの情報らしいのですが、おじいさんとおばあさんがふたりで営業していたお好み焼き店が、保証金、敷金なしで後継者を探していると。最初は「なんでコックを目指している自分がお好み焼き店を」と断りましたが、「独立したいなら経営を体で覚えろ!」と説得されて……。妻とふたりで面接に出かけたんですよ。

 なんと私たち以外に、100組くらい面接に来ていました。とりあえず面接を受けて、帰ってきたんです。まあ、落ちたとしても義兄が新規で出店する2号店の調理主任になれそうだからいいかと。そしたら、数日後、その大家さんから「中井さんに任せることにした」という合格の連絡が。「あれだけたくさんの中から、私たちが選ばれた理由は何ですか?」と聞いてみたら、「あんたは何かやってくれそうな気がする」と(笑)。そんな理由にもならない理由でしたが、私たち夫婦はお好み焼き店「喜多八」のオーナーとして独立することに。1967年、私と妻が22歳になったばかりの年でした。

「千房=CHIBO」の中心にはいつも「I=愛」がある。
お客さまに、従業員に愛を注げば、繁盛は続きます

<独立6年目、突然の契約解除>
努力と辛抱は必ず報われる。丁稚奉公時代の習慣が身を救う

 夫婦ふたりで一所懸命働きましたが、なかなかお客さんが増えません。味への研究はもちろん、お客さんがタバコを取り出したら、すぐにマッチ持って火を点けに行ったり。「ホストかよ」と笑われても、自分の体を使ってできるサービスは何でもしました。それでも経営は上向かない。さらに、夫婦で1日中顔を合わせていると、すぐにケンカになる。当時は離婚寸前までいきました。暇な店にいるとストレスが溜まるので、よく配達用の自転車で店の白衣を着たまま街を走りに行ってたんです。するとあるマンションの近くで、「兄ちゃん、出前やってんの?」と声がかかった。「はい、はい」。「そしたら、豚玉ひとつ」。「はい」。「どこから来てんの?」。「5キロ向こうの、喜多八です」。「遠いねぇ。じゃあ、豚玉2枚にするわ」と。

 学生時代、図画工作、美術の成績だけは5。その才能が社会に出て始めて活かされましたね。自作の配達用メニューをつくって、配りまくりました。この作戦を始めてから出前の注文がどんどん入るようになり、出前より店で食べたほうがうまいだろうと、来店客も徐々に増え始め、「喜多八」は徐々に繁盛店になっていくんです。そうやって店を軌道に乗せ、夫婦仲も持ち直し、子どもがふたり生まれた独立6年目、大家さんがちょっと話があると。「悪いけど、年内で契約を打ち切りにしたい」。最初から、保証金、敷金なしの代わりに、大家はいつでも契約を終了させられるという条件だったんですね。契約解除を告げられた日は、父の命日である10月10日。「親父、たすけてくれ!」と、私は天に向かって叫びたい気持ちでした。

 当時、取引があった信用組合の理事長さんに相談したら、「応援してあげるから店を探しなさい」と。すぐに新しい物件探しの行動を開始しました。妻と、「いつか梅田、キタ、ミナミの千日前、道頓堀辺りで店を持てたらいいな」と話していたんです。それで、分不相応なのは承知で千日前の不動産屋さんに飛び込みました。これまでの身の上をすべてお話し、物件の相談をしていたら、「このビルの2階。35坪の店舗物件を貸してあげてもいい」と。でも、保証金を含めた初期費用は3500万円。こちらは80万円の貯金しかありません。すると信用組合の理事長さんが「500万円値引いてもらっておいで。そしたら3000万円を無担保で貸してあげるから」と。そんな思いがけない大きな支援をいただいて、1973年、ミナミの千日前に「千房」1号店を開業することができたんです。

<千房成長の原動力とは?>
経営者も従業員も“共育”で成長。信じて褒めれば人は伸びていく

 実は物件探しをしている最中、理事長が妻と話をした際に、私が丁稚奉公時代につけていた金銭出納帳を見てくれていたんです。「千房」を開業して2年後に、理事長がこっそり教えてくれました。「あんたの金銭出納帳が、担保の変わりになったんや」と。継続は力なり。どんなことでも続ければ本物になる。そして、実績ができ、自信が生まれ、それが信用となり、本物はずっと続いていく。辛抱や努力は必ず報われる。この時、確信できました。「千房」は5人の従業員と一緒にスタートさせています。最初はお客さんもなかなか来てくれませんでしたが、それよりも従業員が果たして明日も出社してくれるのかどうかが心配でした。

 毎日誰よりも早く店に来て、「早く出社してきて」って祈っていましたからね(苦笑)。飲食店って仕事はつらいですし、当時は今ほどイメージも良くなかった。で、自分を振り返って思ったんです。自分はお好み焼き店に誇りを持てているかと。経営者が誇りを持てない仕事に、従業員が集まるわけがありません。だから、カッコいい会社にしよう。従業員が誇りを持って働ける店をつくろうと。これまでのお好み焼き店のイメージを一新し、店には真っ赤な絨毯を敷いて、BGMは琴の雅楽、日本料理店のような制服も用意しました。

 創業メンバーの5人には、いつも「将来必ず多店舗化する。5人ともみんな店長になるんやで」と話していました。2年目からは千房1号店の業績も上向き始め、2号店、3号店と順調に店舗展開を始めたのですが、やはり一番頭を悩ませたのは人材採用です。どんな人でもいいから来てほしい。最初は本当にどんな人でも採用しましたよ。学歴や成績、身元保証人などいっさい問いませんでした。だから、この手で育てるしかなかった。世に言う非行少年・少女であっても、みんな感性は豊かで勘もいい。ええカッコをせず、真剣に本音で向き合えば必ず分かり合えるんです。とにかく簡単なことでもいいから一番になれる目標をつくってあげて、できたら大げさなくらい褒めました。褒められると人間って頑張るものなんです。人はやはり環境で育つんですね。最初は挨拶や返事すらできなかった子が成長してくれたら、こっちも嬉しい。そうやって悪いのを育ててられたら、自ずと自分も成長する。従業員も経営者である自分も一緒に成長を目指す、“共育”という概念をいっさい変えることなく、「千房」は少しずつ成長していったのです。

<未来へ~千房が目指すもの>
お客さま、従業員に常に興味を持って、たくさんの人々からさらに愛される「千房」に!

 「千房」は3つの味を大切にしています。それは、「前味・中味・後味」。まず「前味」とは、お店に入った時の第一印象です。内装や従業員の迎え方など、その店の雰囲気ですね。そして、「中味」。商品そのものの味、つまりお好み焼の味。最後が、「後味」。お好み焼が焼きあがってソース、マヨネーズ、青海苔・かつお節をふりかけ、さらにその上にふりかける人の味(人間味=従業員の味)。そして食べ終わってから店を出るまでの味。従業員のお客さまに対する挨拶も、たとえば仲良しの親戚が自宅に来られた際、帰られる際にどんな言葉をかけるか。そう考えながら対応しなさいと伝えています。

 また、「千房」はお客さまに楽しいお食事をしていただける時間を提供することをお約束しています。その実現のために社内マニュアルをふたつだけつくりました。ひとつ目は営業中ではなく、「只今開放中」。つまり、「あなたが楽しい時間をお過ごしできますよう私たちはお手伝いいたします」ということ。ふたつ目は、「あなたがほかのお客さまに迷惑をかけない範囲でこのお店はあなたのものです」。つまり、お客さまをお迎えすることも、お好み焼を焼くことも、すべてはお客さまに楽しい時間を提供するためであり、それこそが我々の最大の使命であるということです。

 おかげさまで今年で創業35周年を迎える「千房」は、国内、ハワイなど海外含め60店舗を展開するまでになりました。ちなみに、「CHIBO」と英字で表記すると、その中心は「I=愛」です。そのとおり、「千房はいつも愛が中心です」が今のキャッチフレーズとなっています。マザーテレサは「愛の反対は無関心である」と言いました。私たちにとって、大切なお客さまに、また家族である従業員に興味を持つことが一番大切なこと。それが本当の愛であると信じています。たくさんの人々から愛される「千房」を目指して、10年以内に100店舗、100億円企業として育てること。これが今の私の夢。そして経営者として常に、成功者ではなく、成長者であり続けたいと思っています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
人の可能性は無限大。夢を見つけまず行動すること

 「千房」が急成長をしている最中、母に質問してみました。「お母ちゃん、俺がこんな経営者になることを想像できたか?」「悪いけど、まったく考えられへんかった」と。誰よりも私のことを理解している親でさえ、人の成長を予測できないということです。今の若い人は親が決めた夢や希望を大事にしすぎているのではないでしょうか。だから、学歴は立派なのに学力が足りない。体格は立派なのに体力がない。知識は豊富なのに知恵や工夫が足りない。そんな人が多い気がしています。たとえば何のために仕事をするのか、何のためにお金を稼ぐのか、お金を使って何をしたいのか、突き詰めて考えてみてほしいと思うのです。

  小さくてもいい。おぼろげな夢が見つかったなら、しめたもの。思い立ったが吉日の言葉どおり、可能性を信じて行動を始めることです。知らないより知っていたほうがいいですが、まず経験してみる。やったもん勝ち。知っているが1の力だとしたら、やってるは10の力、そしてそれを続ければ100の力になります。体験、経験はある意味怖いことかもしれませんが、まずはやってみることが大事。正しい経験は必ず感動につながります。そして継続することです。私が尊敬しているイエローハットの創業者、鍵山秀三郎さんは言います。「どんなことでも日々の努力を積み重ねていけば成る。10年偉大なり、20年畏るべし、30年にして歴史になり、50年神のごとし」であると。夢が見つかったら辛抱して経験を積み重ね、続けることです。

 ただし、ただ漫然とやっているだけではダメです。常に自己成長を目指さなければ。人生を上向かせる考え方として、このような捉え方をしてみてください。考え方を変えれば、心構えが変わる。心が変われば、態度が変わる。態度が変われば、行動が変わる。行動は習慣となり、習慣は人格となる。人格は周囲の人々と運命を変え、人生自体も変わっていく。あとは失敗の原因はすべて自分にあると考えること。花には蝶が、ウンコにはハエがたかります。「うちの社員はダメなやつばかり」と愚痴っている経営者は、「自分はウンコです」と宣言しているようなもの。辛抱して、努力して、花になることを目指しましょう。何でも続ければ本物になり、本物は必ず続いていくのですから。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:中田信夫

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