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第65回
株式会社アルビレックス新潟 取締役会長
学校法人新潟総合学園 総長 理事長
池田 弘 Hiromu Ikeda
1949年、新潟県生まれ。1968年、新潟県立新潟南高等学校を卒業後、國學院大学にて神職養成講座を受講。東郷神社などで実習を重ねた。1974年、 実家の神明宮(新潟市鎮座)禰宜に就任。海外遊学・留学を経て、1977年、愛宕神社の宮司となる。同年に、従兄弟を共同経営者とし、新潟総合学院を開 校。理事長に就任。大学院大学、大学、専門学校、高等学校などの教育機関と、医療および福祉機関などを運営するNSGグループを築き上げた。1996年、 株式会社アルビレックス新潟の代表取締役に就任。経営の危機を乗り越え、観客動員数を国内トップクラスまで押し上げる。2003年にJ2リーグ優勝、J1 入りを実現させた。2005年に開幕した、プロバスケットリーグ・bjリーグの立ち上げに尽力。ほか、創業支援プロジェクトに取り組むなど、各方面で活躍 している。著書に『地方の逆襲「格差」に負けない人になれ』など多数。
ライフスタイル
好きな食べ物
新潟で獲れた魚介類です。
新潟は、寒流と暖流がぶつかる魚介類の宝庫。日本一獲れる魚の種類が多いといわれているほどです。のどぐろ、寒ブリの刺身。寿司も日本一美味しいと思います。あと、日本酒も大好きです。特に、純米大吟醸が好きですね。ちなみに私、新潟清酒達人検定協会の会長も勤めているんです(笑)。
趣味
人と会うことでしょうか。
仕事が趣味のようなものですからね。強いて挙げるとすれば、人と会うことでしょうか。真剣に人生を生きたいと思っている人に会うと、こっちもワクワクできます。関東ニュービジネス協議会、経済同友会などの幹部を務めているのも、そんな人に会いたいから。忙しい中でも、まったく疲れません。
行ってみたい場所
佐渡島です。
もう世界中回りましたからね。ああ、佐渡はいいですよ。平安時代につくられた民家の軒先の能舞台が残っていたりして。屋久島よりも立派な古代杉もありますし。ここに環境福祉の専門学校をつくったんですよ。自然エネルギーを使って、食料は地産地消。将来はエコアイランドの実現を目指して、世界中かの研究者が見学に訪れる場所にしたいんです。あれ、これじゃあ来てほしい場所ですね(笑)。
最近感動したこと
スタッフからの報告です。
日々感動していますよ。育てたビジネスが、さまざまな経過を通じて、突破口が見えなくなる時があったとします。その突破口の糸口を探り出し、成功させたというスタッフからの報告を聞くたびに感動できるんです。サッカービジネスに参入したことで、涙もろくなったのか、最近、すぐに嬉し泣きしてしまうんですよ。
「神社の宮司であり教育事業の経営者として、
アルビレックス新潟の成功に命をかける!
サッカー好きの読者には、もう説明の必要はないだろう。Jリーグ、アルビレックス新潟の成功は、日本のスポーツ界全体に衝撃を与えた。中堅地方都市でもプロスポーツチームの参画・運営と、地域密着型ビジネスが成り立つ事を証明したからである。その立役者として数々のメディアで引っ張りだこになったのが、現 在も神社の宮司であり、さまざまな教育事業と医療福祉事業を新潟を中心に展開しているNSGグループの総帥、池田弘氏である。池田氏は27歳で神職と事業経営者、二足のわらじの人生をスタートさせている。その時にはすでに、新潟を世界一の街に発展させるという壮大な夢があった。「自分が生きているうちに、その夢が叶うといいのですが」と、池田氏は謙遜しながら笑う。今回は、そんな池田氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<池田弘をつくったルーツ1>
神社の宮司の長男として生を受け、 やんちゃなガキ大将として育つ
新潟市の生家は、愛宕神社、神明宮というふたつの神社です。4人兄弟でしたが、男は私ひとりだけでしたから、当然、周囲からは「将来、宮司になるもの」と見られていたようです。ちなみに父は、駅長になるのが夢だった元・国鉄マン。で、うちに婿養子に入り、宮司となったのです。だから、父は「絶対に継ぐべし」という考えではありませんでした。しかし、私が18歳の時に亡くなった当時宮司だった母方の祖父は、ある意味、世の不思議を敏感に感じる予言師的な存在であり、かつ地元の人々から尊敬を集めていた人物だったんですね。また、神明宮に新潟を含め北陸地方を平定した大彦命(おおひこのみこと)が祀られていたこともあって、「いつか自分も生まれ故郷・新潟のために役立つことをしたい」と考えるようになっていったんですよ。
そんな私でしたが、子どもの頃からずっとガキ大将。勉強なんかそっちのけで、遊んでばかり。それでも学校の成績は中の上くらいでしたかね。学校が終われば仲間を引き連れて、ビー玉にメンコに将棋などの勝負事。山、川、海を駆け回って、カエルを捕まえてザリガニ釣りしたり、人の畑の柿やイチジクを盗んで怒られたり(笑)。もちろん、悪さをしたことが発覚したら、拝殿に正座させられて、「反省するまで座ってろ」と叱られた。しつけに関してはかなり厳しい家でしたからね。「人が見ていなくても、神様はいつもおまえを見ているぞ」と、事あるごとに言われていました。
中学に上がり、物心が芽生え始めると、少しずつ家業を継ぐことに疑問を感じるように。なぜ自分の運命を決められなければならないんだと。私の周りにいる悪ガキ仲間たちが大人になったらうちの氏子になる? 神道の信者になる? 想像もつきません(笑)。また、その当時は日教組が全盛の頃でして。心無い先生から「神社こそ戦犯の中核である」なんて、学校でいわれもないいやがらせを受けたり……。さらに、小学生の頃から氏子回りの手伝いをしていましたが、だんだんと寄附の数が減る、昔ながらの氏子さんが郊外に引っ越していく……。だんだんと、「宮司としての未来は明るいのだろうか」という不安を感じるようになっていくんですよ。
<池田弘をつくったルーツ2>
マハトマ・ガンディーに関する本を読み、経営者への道を模索し始めた理由
そんな疑問を抱えながら、高校に進学したんですね。その頃から、何かしらの糸口を見つけたくて、宗教、神、人間の生き方、哲学、偉人伝など、いろんな書籍をむさぼり読むように。そうやって深く悩みながらも、学校の番長グループの中核にいたりもしたんですが(笑)。また、運動神経もいいほうでしたので、陸上、水泳、バスケットなど、試合や大会があると助っ人としてよく呼ばれていましたよ。
17歳だったかな、マハトマ・ガンディーに関する本を読んだんです。ご存じのとおり、カースト差別やイギリスの支配と戦い、インド独立の父と呼ばれた人物ですが、解放運動のためには莫大な資金が必要でした。それを助けたのがインド人実業家だったんですよ。当時、読んだ文献にはそう書いてあったんですが、今、それをいくら探しても見つからないんです。いずれにせよ、経営者となって世の中に貢献するという道もありだなと。美味しいものも食べられるし、いい服も着られるし(笑)。冗談はさておき、お宮に参拝に来られる富裕層の方々って、確かにいい顔をされてるんですよ。私財を地元に投じて公民館を建てられた方もいらっしゃいました。“お金持ちは悪”という風潮もありますが、最終的に世の中に貢献できる志さえ忘れなければ良いわけですよね。
そこで父に、「25歳になったら必ずあとを継ぐ、それまで待っていてほしい」とお願いし、その条件として國學院大学の神職養成講座を受講することに。そうやって了承を取り付けて、上京を果たしたというわけです。東京では大学の講座を受けながら、明治神宮などで神社実習をさせていただきました。まあ、真面目だけではなくて、麻雀にはまったり、楽しくも充実した日々を過ごすことができましたよ(笑)。そうやって神職につくための勉強を重ねながら、経営者になるための方法も常に模索し続けていたのです。
<新潟へ~愛宕神社の禰宜に就任>
父との約束を律儀に守り、25歳で神職に。しかしそこにはもうひとつの夢が
フランス留学から帰国した従兄弟がいましてね。彼は、パリ大学などで学び、帰国後は、講師や通訳をしていました。彼といろいろ将来について相談する うちに、新潟で教育事業を立ち上げてはどうかという話が持ち上がったんです。私が22歳の頃だったと思います。当時ちょうど、生涯学習という概念が一般的に言われはじめていました。確かに、マズローの欲求段階説の5段階目は自己実現の欲求であるという考え方に従えば、人間は死ぬまで勉強したい生き物なのかもしれない。それに教育事業であれば、人材育成という意味で地元にも貢献できます。そうやって、だんだんと経営者になるための青写真ができ上がっていくんですね。
経営者になるなら経理の知識が必須だろうと、簿記の学校に通って2級の資格を取得。そして國學院大学での研修期間を終え、私は新潟に戻りました。そして律儀にも(笑)、父との約束どおり、25歳でまずは神明宮の禰宜(ねぎ=宮司を補佐する神職)に就任するのです。それからの3年間は、自転車に乗って氏家さんの家々を回って、お祓いを続けました。この活動は、エリアでの自己基盤づくりとマーケティングリサーチを兼ねることができましたね。
その間、縁あったスイス人の教授から「カリフォルニア大学で神道に関する講義を行なってほしい」という依頼を受け、3カ月間の語学留学を交換条件に渡米しています。実際に講義してみて、これほど東洋文化に興味を持つアメリカ人がいたんだと驚きました。また、渡米する前の2カ月間を使って、ヨーロッパを旅したんです。ユーレイルパスという列車乗り放題のチケットを購入して。食堂車で会ったベルギーの宝石商は、「これから地中海にバカンスに行く。1カ月ゆっくり休むんだ」と。彼は桁違いのお金持ちで、さんざんご馳走してもらいました(笑)。その後、夏のパリに降り立ったら、やはりみんな避暑に出かけていて、住宅街はガランとしている。一方で中心部は、観光の外国人が目立つ。さまざまな文化を知った、さまざまな人種の人たちと出会った。そういった意味で、この数カ月間は世界に触れられた貴重な経験となりました。
<宮司と理事長、二足のわらじ>
27歳で起業した小さな教育事業が、30年の時を経て一大コングロマリットに
新潟に戻って3年後の1977年、愛宕神社の宮司に就任。そして同じ年に、くだんの従兄弟を共同経営者とし、新潟総合学院(NSG)を開校。私は理事長となりましました。開業資金はふたりの親から500万円ずつ借金した1000万円のみ。でも、境内に立てる校舎の建設費用は安く見積もっても2000万円強。そこで融資を受けるために銀行を回ったのですが、「ベンチャー以前にアドベンチャーですね。貸せません」と、ほぼ門前払い状態です(苦笑)。でも、最後にお願いした信用組合が、融資に応じてくれて、それで何とか事業をスタートさせることができたんですよ。
神社が幼稚園経営しているケースはたくさんありましたが、私たちは語学学校から始め、学習塾や資格取得の学校、さらには専門学校を展開していく計画を立てたのです。そもそも起業の目的を教育に定めた理由は地域活性のため。地元に元気を取り戻すためには、県外へ出て行く若者に留まってもらうことが重要でしょう。そのために専門学校をつくり、卒業後も地元で働ける環境を整えたいと考えたのです。最初に学習塾や語学学校を立ち上げた時の講師採用では、「地元を活性化させたい」という理念を語って、「給料は成功報酬でお願いしたい」と口説きました。生徒ひとり1ヵ月の授業料が5000円なら、その半分があなたの報酬ですと。そんな地道な活動を続けていくうちに、信頼がクチコミで徐々に広がり、2年後に、日商簿記1級の合格率日本一を目指す専門学校を開校することができたのです。
そうやって教育を軸に地元を活性化させるための努力を積み重ねながら、現在では29校の専門学校、大学院大学、大学、高等学校、学習塾を運営し、また医療・福祉機関も立ち上げるなど、NSGグループを成長させることができました。でも、教育を提供したら、やはりそれにふさわしい就職先が必要じゃないですか。たとえば日本一の賞を獲得した優秀なデザイナーを育てても、東京の会社にとられてしまっては意味がないわけです。ですから、創業5年目くらいからは、卒業生の受け入れ先をつくるべく、創業支援活動にも力を入れています。あ、ちょっと話が先に進みすぎましたね。では、私がプロサッカーチームの経営に参画することになった頃に話題を戻しましょう。
念願のJ1入りを果たし、新しいスポーツ文化を根付かせた。
ワンシーズンでも早い、リーグ優勝を実現してほしい
<ワールドカップの開催地誘致>
寿司屋で口説かれた結果、アルビレックス新潟の代表就任
新潟青年会議所の理事長に就任した時、ブランド力のない新潟をなんとかできないかと議論してたんですよ。やはり県内の若者が残りたい、県外の人たちが行ってみたい、住んでみたいと思える場所にしなくてはいけないと。街なかで行われるイベントやいろんな活動に積極的に参加していました。
1993年にJリーグが開幕したでしょう。あるテレビ番組で、アントラーズの本拠地である鹿島が特集されていました。暴走族がアントラーズのフラッグを振って熱狂し、農家のおばさんも鍬をフラッグに持ち替えて応援しているとか、そんな内容だったんですよ。さらに新聞記事では、若い女の子が行ってみたい街の4位に、鹿島がランクインしていた。もともとは、ただの臨海工業地帯じゃないですか。それがサッカーでこうも変わるのか
新潟が2002年の日韓ワールドカップの開催地として手を上げ、私はその誘致委員になっていました。その一環で、1994年のアメリカ大会の準決勝を視察に行ったのです。9万人収容できる、LAのローズスタジアムは超満員。熱狂するサポーターたちに圧倒されましたよ。国際イベントを一度も経験したことがない新潟で、この熱狂空間を実現できたなら、地元の人々はどんなに喜んでくれるだろう。暗かった港町・新潟が一気に明るい街になるイメージが浮かんで、私自身ものすごくわくわくしたことを覚えています。それまでサッカーに関しては、ずぶの素人。何の知識も持ち合わせてなかったんですけど(笑)。
全国各地との誘致合戦に勝ち残るためには、地元にJリーグを目指すクラブチームが必要だと。そこで、県の関係者や経済界の有志が議論を重ねた結果、アマチュアの「北信越リーグ」に参加していた「新潟イレブン」をプロ化することが決定。じゃあ運営会社の社長を誰にするか、今度はそのための議論が始まりました。結局どうなったかというと、「これほどのリスクをとってやれるのは池田しかいないだろう」と寿司屋で口説かれましてね(苦笑)。1996年に、新潟アルビレックスの代表取締役に就任することになったんですよ。それから数年間は、まさに薄氷を踏むような思いを幾度となく経験することになるんですが。
<J1への挑戦>
数々のピンチを潜り抜け、念願のJ1入りを実現
ワールドカップの開催地誘致に関しては、「日本海側で唯一の開催地」という地の利を訴えたことが奏功し、なんとか決定。ですが、アルビレックスは1996年、1997年と不甲斐ない結果を残し、30人の発起人から1000万円ずつ、そのほか企業からの出資で集めた合計約5億5000万円の出資金はあっという間になくなってしまいました。それどころか億単位の赤字を計上し、債務超過寸前まで行った。地元の人々も「ワールドカップも決まったし、もう存続させなくてもいいのでは」と、そんな雰囲気になっていったんです。でも私は、ヨーロッパのある街で地元クラブチームのシーズンパスを首から下げた老夫婦が「このカードは私たちの宝です」と語っている写真を載せた雑誌の記事を忘れることができなかった。地域の人々のためを思い、やっと始まった新しい歴史をここで終わらせたくない。継続していきたいと。
とにかくもう1期赤字を出したら終わりという中、私は1億2000万円の増資を決意し、戦力補強のための選手の大幅な入れ替えを断行しました。その数17人。Jリーグの分配金をもらえるJ2入りをすることが、唯一アルビレックスを存続させるための方法だったからです。それをクラブ存続の危機と受け取った地元サポーターは、マスコミを味方につけ、公開討論を要求してきました。しかし、そこははっきり経営情報を公開し、「クラブを残すためにやるべきことをやっているのです」と説明し、乗り切りました。そこからですね、アルビレックスの快進撃が始まったのは。2003年に悲願のJ1入りを果たすのですが、それまでの2年半、ホームでの試合では負け知らずでしたから。
快進撃のもうひとつの転機となったのは2001年5月、ワールドカップのためにつくられた「新潟スタジアム(ビッグスワン)」のこけら落としでしょう。多くの方々に大反対されたのですが、4万人収容のスタジアムを埋めるために、10万枚の無料招待券を配ったのです。予想を超える3万2000人の観客が集まりました。これだけの地元民に応援されたら、選手も走り続けて活躍するしかないでしょう。まさに地域密着の相乗効果ですよ。さらに、それまで以上に飲食やグッズの販売が好調でした。この作戦を継続していった結果、有料でも見たいというサポーターがどんどん増加し、この年の動員数は36万6500人と前年の4倍。そして2005年には68万1945人を達成。そうやって地域のみなさんと一緒になって、チームカラーのオレンジ色で埋め尽くされるビッグスワンのスタンドをつくっていったんです。
<未来へ~池田弘が目指すもの>
新潟を、誰もが訪れてみたいと思う街、住民のひとりひとりが誇りの持てる街に!
現在、地元・新潟には、J1のサッカークラブ、サッカー女子チーム、bjリーグのバスケットボールクラブ、北信越BCリーグのベースボールクラブ、チアリーディング、スキーやスノーボードなどウィンタースポーツ、陸上競技など、「アルビレックス」の名前を冠する7つのスポーツチームがあります。ちなみにサッカーのアルビレックス新潟は、後援会会員、サポーターズクラブ会員の法人・個人含め約2万件の支援をいただいています。それにより、ビッグスワンの半分が埋まる約2万枚のシーズンパスを発行。おかげさまで、1999年からはずっと単年度黒字を確保しているんです。どのスポーツチームも、同じように地域密着、薄く広い支援の輪を広げていくやり方で、運営していきたいと思っています。
ビジネスでもスポーツでも文化でも、新潟が世界一と呼ばれる都市になることが夢ですね。さらに、先ほども申しましたが、誰もが訪れてみたいと思う街、住 民のひとりひとりが誇りの持てる街にしていきたい。そのために私は、神社という癒しの場を、NSGグループの経営者として教育と医療福祉を、スポーツというエンタテインメントを地元の方々のためにご提供しています。新潟を愛する人々が楽しく、豊かに生きていくために、最低限必要な基盤をつくり続けているということです。
もうひとつ、創業5年目から継続している創業支援事業にも注力していきます。教育ももちろん大切ですが、そこに誇りを持って働ける職場がないと、やはり 人材流出を抑えることができませんから。そのために7年前、「異業種交流会501」という起業支援組織を立ち上げています。新潟県を中心とし、公開企業並みの実力を持った優良企業をどんどん生み出していきたい。かの渋沢栄一氏は生涯で500社もの会社設立に関わったそうです。なので、私はひとつでもいいから上を目指したいと(笑)。現在までに約90社が生まれ、支援していますがまだまだこれから。そうそう、さらにもうひとつ夢がありました。サッカーのアルビレックス新潟のリーグ優勝。これはぜひとも、ワンシーズンでも早く達成してもらいたいものです。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
人生の1分、1秒たりともムダにしたくないと思える事業を、まずは命がけで見つけること
まず、日本の場合、なんでも首都東京に集中しすぎだと思います。地方にはそれぞれ特有の個性があって、やり方によってはそれをさらに発展させることができるわけですから、あまり中央に頼らず自分たちでやってみないと。地方が頑張らない国家は衰退していくしかないのではないでしょうか。日本のさまざまな地方が育ててきた素晴らしい精神や文化が薄まっていくと、それにともなってそこの住む人々の人間力も低下していってしまいます。それを何とか改善していくという意味でも、起業の意思がある人は、ぜひとも地方を起業の場所として選んでほしいですね。
誰しも人生は一度きり。ぜひとも、人生の1分、1秒たりともムダにしたくないと思える事業をまずは探してみてください。思いを実現するためなら命をかけても惜しくない事業を、命がけで探すということです。現代を生きる人間が、生涯で一番時間を費やす活動が『仕事』なわけです。それを充実させないともったいないですよ。どんな事業を選べばよいのかを考えるとき、選択基準のプライオリティのトップに「儲かりそうだから」ということを挙げるべきではないと思います。そんな思いで始めた事業は、少しでもピンチに陥ると簡単にあきらめてしまうんですね。そうならないためにも、後づけでもいい、社会貢献の理念や、高い志が必要となります。事業を起こし、継続できるかどうかの大きなポイントはまさにそこにあるのです。
理念や志には人が集まってきます。私の場合もそう。主体者として事業を立ち上げますが、今の自分の仕事を振り返って考えると、それぞれの生き様をしっかり聞きながら事業への賛同者を募って、彼・彼女たちに責任を与え、アドバイスをしていくポジションなんですね。「異業種交流会501」もまさにそれと同じやり方ですよ。起業すればいくらでもトラブルがやってきます。でも、戦術や戦略で切り開いていこうと思っても無理。そこにお互いが命をかけて実現したいと思っているかどうか。その思いこそが、さまざまな課題を乗り越えるための原動力となるのです。そうそう、自分のアイデアで新しい事業立ち上げに挑戦してみたい方は、「異業種交流会501」を積極的に活用してください。しっかりした理念、志があり、命がけで成し遂げたい夢をこれからも応援していきます。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康
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