第56回 株式会社ノバレーゼ 浅田剛治

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第56回
株式会社ノバレーゼ 代表取締役社長
浅田剛治 Takeharu Asada

1969年、大阪府生まれ。不動産関連会社を経営する厳しい父の元、6人兄弟の次男として育つ。私立清風南海高校から慶応義塾大学商学部へ進学。大学卒業 後はリクルートへ入社。配属は自社の新卒学生を採用する人材開発部だった。父親が病に倒れたことがきっかけとなり、やむなくリクルートを1年半で退職。す ぐに家業のひとつである名古屋の結婚式場の経営を任された。3年ほどかけて会社のリストラクチャリングを行い、赤字だった業績をV字回復させる。その後も 順調に事業拡大していくが、経営の方向性が父とかみ合わず、30歳の時に退社。2000年、自らノバレーゼの前身となる株式会社ワーカホリックを起業。ド レスショップの経営と婚礼プロデュースから事業をスタートさせるが、業績の急拡大に貢献した某料亭から、契約期間の途中で契約解除を通告される。やどかり 経営の弱さを痛感し、経営方針を自社で立ち上げるゲストハウスの運営に方向転換。満を持して2003年、名古屋市郊外に開業した「アマンダンテラス」が大 ブレイク。その後も東名阪を中心に多店舗展開を継続し、2006年10月、ノバレーゼは東証マザーズに新規上場を果たした。

ライフスタイル

好きな食べ物

インディアンカレー。
大阪の難波に1号店があった「インディアンカレー」。ここの東京店が丸の内のトキアビルにオープンしたんですよ。昔からこのカレーが大好きで、東京で食べられるようになったのは嬉しい限り。実をいうと本部に行って、フランチャイズ展開の許諾を打診したくらい。断られましたけど(笑)。それくらい大好きな味です。

趣味

映画とクラシック。 
昔から映画観賞とクラシック音楽の鑑賞が趣味なんですよ。映画は、名画という名画は観たと思います。サウンド・オブ・ミュージック、カサブランカ、スティ ングなんかが特に好きです。クラシックなら、ショスタコーヴィチ、チャイコフスキー、ラフマニノフ、ドヴォルザークあたりがマイフェバリットです。

休日

子どもと遊んでいます。
名古屋に家族を残してきていて、先日、久しぶりに9歳の長女と、6歳の長男と映画を観に行きました。月に1度くらいしか会えないので、なんだかドキドキし ちゃいました(苦笑)。ちなみに映画のタイトルは「ドラえもん」です。休日も家庭サービスより、本当は仕事をしているほうがリラックスできるんですけどね (笑)。来月から家族が東京に引越してくるので、さらにドキドキしています(笑)。

行ってみたい場所

サブプライムの傷跡を見てみたい。
アメリカに行ってみたいですね。サブプライムローンの焦げ付き問題がどんな惨状になっているのか実際にこの目で確かめてみたいんです。あとはニューヨーク で、最先端のサービスやデザインを勉強する。最終的に余生はハワイで暮らせたらいいなと思っているので、ハワイの住宅事情を視察して帰ってくると。いずれ にせよ、今行きたいのはアメリカです。

上質の式場と徹底したサービスにこだわり、
結婚するふたりに至福の1日を提供し続けます

 少子化の影響もあり、今や生き馬の目を抜く熾烈な競争が繰り広げられているウエディングマーケット。時代の流れとともに、専門式場、ホテル、レストラン、ゲストハウスと、結婚披露宴を行う場所も多様化してきた。浅田剛治氏が率いるノバレーゼが産声を上げたのは2000年。ゲストハウスウエディングという言葉があまり知られていない頃から、このウエディングスタイルに着目した経営を続けてきた。そして現在も、モダン建築の都市型ゲストハウス「モノリスタイプ」と、リゾート感覚の郊外型ゲストハウス「アマンダンタイプ」を二本柱とし、毎年約30%の売り上げ拡大を継続している。業績好調の要因を浅田氏に聞くと、「徹底した顧客志向、そして人材こそ命。この経営スタイルを続けているだけです」と言う。しかし、浅田氏が語るこの言葉の裏側には、幾多の試練、挫折、挑戦の奇跡が隠されていた。後進を育て、45歳で引退するという計画を立てている浅田氏、今回はそんな彼に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<浅田剛治をつくったルーツ1>
『20世紀少年』の主人公たちのように、下町らしい遊びを満喫した少年時代

  生まれは大阪市東成区の玉造。下町の住宅街で、東京でいえば、たぶん武蔵小山とか。そんな感じの街ですよ。不動産関連事業を経営する父と母の間に、 姉3人、兄1人、妹1人、総勢8人の大家族の中で明るく元気に過ごしました。プチ自慢になってしまいますが、小さな頃から勉強は授業だけ聞いていればでき ていましたね。そもそも座って何かに集中し続けることが大の苦手なんですよ。今でも会社に社長室も僕専用のデスクもありませんからね(笑)。全国を飛び回 ることのほうが多いので。

 だから、小学生の頃は毎日毎日外で遊んでばっかり。友だちと一緒に公園に秘密基地をつくったり、野球をやったり、帰りにはたこ焼きとラムネを買い 食いしたり。リーダータイプだったかどうかですか? 間違いなくそうでしたね(笑)。ご存じかどうか、浦沢直樹さん作のマンガ、『20世紀少年』に出てく る主人公たちのような子ども時代だったと思います。当然、夏休みも遊び最優先ですから、宿題は最後の1日で全部仕上げ、日記も1日ずつ遡って同じ日に全部 書き上げていました。

 ちなみに、小中は地元の公立に通っています。中学に上がってからはまったのは、カメラやオーディオ家電です。ちょっとした故障なら、ドライバーで ふたを開けて修理したり、友だちの家の接続が難しいテレビをセットアップしてあげたりしていました。僕はソニーをすごく信奉していて、ウォークマンとかデ ンスケとか大好きでしたよ。

 僕を含め7人でいつもつるんで遊んでいました。当時、一世風靡セピアというグループが人気で、僕らも「ぶっちんにん軍団セピア」とか勝手にチーム 名なんかつけて(笑)。何をやるかといえば、ゲームをしたり、当時僕が手に入れたビデオカメラで一緒に自主制作の映画つくったり。中学は校則でみんな坊主 頭だったんですけどね(笑)。思い切り遊びはしますが、絶対に不良グループには落ちないという、微妙なバランスを維持していました。

<浅田剛治をつくったルーツ2>
高校から理数系の成績が下降線をたどるも、B方式の導入で無事慶応大商学部に合格

  不良にはなれない、道を外さなかった最大の理由……。それは、父がものすごく怖かったから。兄も僕も少し口答えしただけで、本気でボコボコにされて いました。変なゴロツキみたいな服装ももってのほか。たとえばですが、万引きして警察に捕まるより、父にバレることのほうがはるかに恐ろしい。グループは 7人とも腕っ節が強いほうでしたが、僕がそんなスタンスでしょう。だから、長ラン・ボンタンルックの学校の不良グループとは完全に一線を画していました。 3年次には、ある先生から「浅田、生徒会長やってくれ。立候補する生徒がいないし、お前なら誰も文句言わんやろ」って。で、引き受けたんですが、特に何を したという記憶はないですね(笑)。

 初めて塾というものに通い始めたのは中学生になってから。中学までは勉強ができたので、特別コースに推薦されてマンツーマンで指導してもらってい ました。そもそも大阪の高校は公立のレベルが高いのですが、音楽とか美術とかいっさいダメで内申が非常に悪かった僕は私立進学校の清風南海高校を受験。な んとか無事合格して、入学後の最初の試験では300人中3番の成績だったんです。当時、清風南海から7人くらい東大に合格していましたので、「東大は確実 だな」と思っていました。すぐにあきらめることになるんですが(笑)。この頃まで、僕は自分を理系人間だと認識していたのです。しかし2年になって以降、 数学、物理の授業にどんどんついていけなくなって。3年では理系進学クラスから、文系クラスへ。

 大学受験のシーズンとなり、仲間2人と3人で予備校へ行くことに。梅田近くの十三にある河合塾に通っていたのですが、予備校にはほとんど行かな かったですね。ある日、帰宅してポストを見たら、予備校から出席簿の入った封筒が届いていました。偶然、自分で見つけたので破棄できてセーフでしたが、あ れを父に見つかっていたらそうとうやばかった(笑)。大学は同志社、関西学院、と慶応の商学部を受験しました。慶応を受けたのは、父の元を離れて生活して みたい、絶対に東京へ行きたいと心の底から思ったからです。結果、すべての大学に合格し、慶応に進学することになります。慶応はその年、受験科目の数学の 代わりに小論文でもOKというB方式試験を導入していました。僕は数学がてんでダメになっていましたから、得意の英語や世界史で勝負できたのはラッキーで したね。

<最高に楽しんだ大学時代。そしてリクルートへ>
人こそ命――。人材採用の大切さを教えてくれたリクルートでの仕事。そしてある役員の話

  東京での大学生活は、まさにこの世の春ですよ。ひとり暮らしの気ままな日々、父の監視下から離れて、好きなことができるわけですから。友だちとシーズンスポーツ系のサークルをつくって、ディスコでのダンスパーティや店を借り切って飲み会を開いたり。100人、300人規模のパーティを実現したこともありますよ。今考えればたいしたことないと思うんですが、当時300人の学生を集めた時は、ものすごい達成感がありましたね。あとはアルバイト。家庭教師でしょう、宅配会社の深夜の荷捌き、冬は1カ月くらい泊り込みでスキー場の下働きなどなど、いろんなバイトをよくやりました。

 ただ、「留年したら退学させる」と父から言い渡されていたので、3年に上がる際、数学の試験が追試になった時にはかなりびびりました。いつもつるんでいた2人は落第して、僕だけ進級できたんですよ。思い返せば高校時代一緒に予備校に行った連れ2人も一浪していますし、なぜか僕とつるむと不幸になる人が多いんですよね(笑)。

 もうひとつ、卒業後は家業に入社することを約束させられていました。でも、もっと東京でというか、父から離れて暮らしたいわけです。僕の大学時代はまだ少しバブルの残り香が存在していたので、売り手市場。こちらからは1社も資料請求も会社訪問もしていませんが、声をかけてもらった大手都市銀行とリクルートの2社だけ話を聞いてみたのです。ある大手都銀の先輩と食事をしたのですが、「慶応出てれば、ある程度は出世できるよ」とか言われて、正直、「しょぼいな~」と感じました。でも、リクルートの人たちは、うまく説明できませんが、なんだかみんなものすごいモチベーションなわけです。僕にはすごく新鮮で、結局は、リクルートに入社することになるんですよ。

 新人としての配属は東京の人材開発部。優秀な人材を採用することにこれだけエネルギーを注ぐのかと、正直驚きました。僕は最初だらしなくやっていたんです。「あのマネジャーむかつきません?」とか言いながら(笑)。でも、ある先輩は真面目で愚痴も言わず、すべての責任を自分に帰結させてしまう。僕からすれば自虐的に映るくらい。何でそこまでできるのか、不思議でしたよ。でも1年目が終わりに近づいて、人材採用の大切さが何となくわかるようになり、それに伴って仕事も面白くなり始めた頃、父が脳卒中で倒れてしまった。そして、すぐに帰って来いという指令が届くのです。

<宇宙人たちとの対決が始まる>
心を鬼にして、社員の総入れ替えを実行。約3年で新体制、業績のV字回復を実現

 さすがにこれは断りきれず、半年の引継ぎ期間を終えて、入社1年半でリクルートを去ることになります。退職する前、内定時からお世話になっていた役員に挨拶に行きました。「短い間でしたが、大変勉強になりました。創業者である江副さんのカリスマ性がリクルートをここまで成長させたのですね」と、そんな話をしたのです。するとその役員は「それは違う。ただ、リクルートは創業時から分不相応な人材を採用してきたし、そんな優秀な人材がやる気になってくれるための施策を考え実施し続けてきた。すべては人なんだ」と教えてくれたのです。そして「新しい道でも頑張れ」と。恥ずかしい話なのですがその時になって初めて、なぜリクルートが急成長を遂げることができたのか理解することができました。在籍期間は1年半とわずかでしたが、実際にリクルートで働いたことで得たものが、僕の会社経営の指針となっています。

 そして、父が名古屋で経営していた結婚式場に主任として赴任することに。着任してみると経営は赤字。マネジメントも適当でもうボロボロ。父は大阪に住んでいましたので経営は番頭さんに任せっきりでした。集ったメンバーも地元の不良上がりが勢ぞろい。みんなやる気がなく、やる仕事もあまりないのか、勤務時間中に宴会場でビデオ鑑賞会を開いている。社員に話をしても、経営用語自体が通じない。あきれ果てて、こりゃあ無理だと、1年くらいは僕もぶらぶらやっていたんですよ。そんな時、ひとりの社員が「浅田さん、この会社には未来がないと思うんです。このままならもう退社するしかない」と直訴してきた。たったひとりでも頑張りたいと思う社員がいてくれたことに気づけなかった自分……。この瞬間、ショックを受けると同時に猛省しました。そして、本気で会社を変えていこうと決心したのです。

 人こそすべて、ここは鬼になり切ろうと。メンバーの総入れ替えに着手し始めます。新しい人材を採用しながら次々に辞めさせました。でも、武田鉄也さんの腐ったみかん箱の話は本当でした。これはと思って採用した人材でも、悪い中に入ると、影響されてどんどん腐っていく。リストラの過程では、社員に囲まれて脅されたこともありました。トップの僕が「お前が辞めろ」って言われましたからね。もう意味がわからない(苦笑)。それでもあきらめず改革を続け、3年くらいかかりましたが30人の新体制が完成したのです。やっと地平線の彼方に朝日が昇る景色が見えてきた。そんな感じでしたよ。そして気がついたら、赤字からのV字回復を遂げていたのです。

お客様の最高の笑顔を見続けられるよう、“日々是戦場”の精神で経営しています

<父と家業との決別>
実績を残すもまったく父に認められず、会社を飛び出し仲間たちとともに起業

 V字回復の後、富山のレストランバンケットの開業を成功させ、更なる事業拡大を目指し、1999年、名古屋の住宅街に「オ・バルキーニョ」というハウスウエディング会場をオープン。これが初年度から稼動限界を超えるほどの大成功を収めたのです。ただ、年に1回程度、名古屋を視察しに訪れる父は「なぜ、社員に高い給料を払ってまでやる必要があるのか」と、こうくるわけです。僕は事業を大きく手がけて自分も社員もハッピーになりたい。どうしてもそこが相容れない。つまり父が目指したのはオーナーカンパニーで、僕はパブリックカンパニーを作りたかった。そこで初めて父と衝突しました。最後には「出ていけ!」と言われる始末。もう我慢の限界と啖呵を切ってしまい、急慮退職を余儀なくされたのです。

 さて、これからどうしようと考えていた時、知り合いの会社から副社長になってくれと打診されたこともありました。妻に相談したら「うまくいかないと思う」と、あっさり(笑)。その後、今度は前社のメンバー5人が、「浅田さん、一緒にやりましょう」と家まで直談判にやってきた。本当は20代でかなり頑張ったので、30代はちょっとゆっくりしようと思っていたんです。でも、自分が頼みにしていた彼らから頼まれたらやるしかないと、ノバレーゼの前身となる株式会社ワーカホリックを設立。そして僕が代表取締役に就任し、イタリアンドレスを中心としたドレスショップの運営と、レストランなどの婚礼の受託運営をスタートさせました。

 名古屋のウエディング業界で、当社の評判が少しずつ広まってきた頃、知人の紹介で、ある有名老舗料亭と5年の独占契約で婚礼プロデュースを担当することになったんですよ。年間で10組程度の披露宴を手がけていた料亭に、「年間で100組やりましょう」と宣言したので、先方も疑心暗鬼です。慣れない現場と衝突したこともありましたが、結果的には年間120組の実績を達成したのです。しかし、2年半後、突然予告もなく料亭側から契約打ち切りを通告されてしまった。こちらにいっさい落ち度はありません。やり方はわかった、もう自分たちでやれる。そうすれば利益が大きくなる。そう考えたのでしょうね。この時に、僕はこれまでの経営方針を変える決意をしました。

<2003年、「アマンダンテラス」誕生>
ロケーションとデザインセンスは抜群。さらに料理の味も際立つゲストハウス

 やどかりの悲しさをこれでもかというほど痛感させられましたよ。それで、これまでの業務委託の婚礼プロデュースがメインという経営方針を変更し、自前のウエディング施設を持ってやっていこうと決意したのです。父の家業を立て直したのもある意味業務委託のようなものでした。その後、自ら計画したドレスショップや、ハウスウエディング会場「オ・バルキーニョ」の立ち上げや運営が、苦労はあったけれど、どれだけ楽しかったことか。結局は、料亭とのトラブルがきっかけとなり、本来僕たちが得意としていて、本当にやりたかったことに帰結していったということです。今では感謝しています。

 2003年9月、名古屋市の郊外にある高台に、ハウスウエディング会場「アマンダンテラス」をオープン。名古屋の街並みが一望できるテラスがあるゲストハウスです。料理は会場横に設置されたオープンキッチンで、シェフが列席者の目の前で腕をふるい、出来たてをそのままサーブ。これまでウエディングビジネスに携わった経験から得てきたエッセンスをすべて盛り込みました。そして「アマンダンテラス」は僕たちの予想を超える大成功を収めるのです。

 過去、結婚式に列席した人から料理が美味しかったという話を、僕はあまり聞いたことがありません。それもそのはず、大人数に対応するためにはいつも内容が同じパッケージ料理がホテルや式場にとっては楽ですから。しかし、それではつくる側であるシェフのモチベーションは上がらないでしょう。そこで、当社の会場では婚礼のない平日はレストラン営業を行うことにしました。シェフが常に食材の鮮度、味や旬の素材にこだわって、料理だけを楽しみに来店してくれるお客様と日々ガチンコで勝負する。当然、自分の味でリピート客を増やしたい。だから、シェフも必死で研究し腕を磨こうとする。手間もお金もかかりますが、お客様の笑顔を一番大切に考えれば当然だと思っています。また、料理の美味しさも当社が選ばれる際の大きなポイント。大変ですが、もう後には引けませんね(笑)。

<未来へ~ノバレーゼが目指すもの>
データベースマーケティング、海外展開と、宝の山はまだまだある

 「アマンダンテラス」の成功を足がかりに、東名阪を中心として、ゲストハウス、ドレスショップの展開を開始しました。おかげさまで各地のお客様から好意をもって当社のサービスは受け入れられ、業績も順調に推移しています。徹底した顧客思考のポリシーと、人こそ命で勝ち取るセオリーを愚直なまでに推進していっているだけだと思っているのですが、評判が評判を呼び、金融機関や土地オーナーから次々と情報が流れてくるように。人をたくさん育てたいという思いもありましたから、どんどん出店ペースが上がっていきました。ちなみに新卒採用は設立2年目から行っており、今年は57人の新卒学生が入社してきます。

 2006年10月、東証マザーズに上々を果たしています。そして2008年3月現在、直営の物件として、ドレスショップ13店舗、ゲストハウス・結婚式場11店舗、再生型ホテル1軒を運営中。婚礼プロデュースのアライアンス先として、京都の料亭「岡崎 つる家」、那須の「観季館(二期倶楽部庭内)」など6店舗。今後もウエディングマーケットでは、少子化の影響も含め、淘汰が激しくなると予想しています。一番の要因は、顧客ニーズに応えられなくなったホテルや専門式場が増えているということ。そこで必要とされるのが、やはりしっかりとしたソフト力、ウエディングコンテンツを持った僕たちのような会社です。新規店を投下してあるエリアで勝負しながら、同じエリアで勝負をあきらめたホテルや式場などに提携などの手を差し伸べる。また当社の強みでもある再生事業を一層強化していきたいですね。マーケット規模は縮小しても、そうやって常に選ばれるための提案をしながら、サービスの提供拠点を増やしていくことで、これまでどおり成長していけると考えています。

 婚礼時に使う総費用平均が800万円で、そのうち50%以上が結婚式費用以外の新生活に充てられています。当社は結婚したお二人が1周年を迎え、銀婚式、金婚式と続いていくデータベースを保有していますが、まだ有効に活用することができていません。ここにも大きな仕掛けができるでしょう。そしてもうひとつはアジアを中心とした海外マーケットへの進出。と、これから手がけていく市場はまだまだあるわけです。そのためにも、優秀な人材をたくさん確保し、ノバレーゼを成長させながら継続させていきたいのです。ちなみに、僕は45歳で引退する計画を立てています。やはりオーナーが退くリミットをつくっておかないと、事業継承が難しいと思っていますから。たとえば50年後、僕がこの世を去った時にノバレーゼが優良企業として存在していて、「浅田さんという人がこの会社をつくったんだね」と誰かが言ってくれたら、最高に嬉しいでしょうね。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
私利私欲を捨て、周囲を幸せにすること。この継続があなたを成功に導いてくれます

 ただ社長になりたいとか、お金持ちになりたいとか、私利私欲を一番に求めて起業しようとしたら、まず続けることが難しいでしょうし、いつか失敗してしまうのではないでしょうか。僕の場合ラッキーだったのは、父が経営者だったこともあり、持つ物も、食べることも、それほど苦労していませんでした。だからいつも楽しい人生っていいよね。それで周りのみんなが幸せで、結果、自分も幸せになれればいい。ずっとそういう考えをしながら生きてきたのです。もうひとつ、リクルートという会社と出会えた事で、人の大切さを痛感できました。周りにいる人を幸せにすることで、自分が幸せになれる。その循環を維持させることができれば、きっと起業しても幸せな人生が見つかると思っています。

 そうなれた時に自分を振り返ってみると、世のため人のため、社会への貢献のために働いている自分に出会えるでしょう。そこで勘違いして私利私欲を求めてしまう経営者も多いんです。常に自分は満たされている、幸せである、欲張らずもっともっと高い志のために生きていこうと思うことです。時価総額日本一を目指すなんてナンセンスですよ。顧客満足日本一を目指した結果、時価総額が増えていた。それならわかりますけど。お金儲けのために社員を働かせている会社は、儲からなくなった瞬間に、そこに集ってきた社員がクモの子を散らすように去っていきますから。

 事業アイデアも、多くの人が新しいもの新しいものを探そうとしています。でも、僕はいつか地味なカレー屋さんとかラーメン屋さんなども開業して勝負してみたい。ずっと飽きられないもの、シンプルなものほど強いものはないと思うのです。そういった意味で、これからは新しいものだけではなく、古くからある日常とか本質というキーワードの中に、面白いビジネスが隠されているのかもしれません。いずれにせよ、私利私欲を捨て、人の幸せを最優先する。起業人生の本当の成功とは、そこにあると思います。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康

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