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第55回
株式会社地域新聞社 代表取締役社長
近間之文 Yukifumi Chikama
1953年、北海道生まれ。地元の進学校を卒業したにもかかわらず、なぜか日本体育大学に進学し上京。体育会系とは無縁の生活が一転、器械体操部に入部 し、まさに血と汗と涙の4年間を過ごす。大学卒業後、設立わずか1カ月の幼児体育を推進するベンチャー企業に、社員第1号として入社した。スタートアップ 期の推進、新規事業の立ち上げ、経営の再建まで、8年間同社に尽くすが、経営者の嘘に落胆し退社を決意。1984年、30歳の時に、地域密着型のフリー ペーパーを発行する有限会社八千代地域新聞社を設立。1987年に株式会社化、1988年に現在の株式会社地域新聞社に商号変更している。バブル崩壊後、 経営難に陥るが、少数精鋭でこの危機を乗り切った。その後は、「人の役に立つ」を企業理念とし、順調な経営を続けている。現在、地域新聞社が発行する「地 域新聞」の配布部数は、千葉県と埼玉県の一部エリアで約170万部。昨年10月には、ヘラクレス市場に新規上場も果たしている。趣味は、読書、ボクシン グ、マラソンなど。
ライフスタイル
好きな食べ物
3食麺類でもOKです。
朝からラーメン食べる時もあります。麺類が大好きですから、朝、昼、晩と3食でも全然かまわないくらい。ちなみに、お酒は何でも飲みます。毎日飲んでいま すが、控えるのは高熱が出てしまった時くらいでしょうか。中でも日本酒が好きで、ずっと飲み続けていたいと思うくらい好き。ですが、やはり太りやすいの で、最近はウィスキーで我慢しているんですよ(笑)。
趣味
マラソンです。
52歳で佐倉マラソンの10kmレースに出場してから魅了されてしまいました。昨年はフルマラソンに挑戦して、5時間を切ることに成功。今ではマラソン コーチの指導を受けながら、週2回ポイント練習として、30km、8kmのランニングを続けています。月間で300kmを走る計算です。練習納めは12月 31日の大晦日、練習始めは1月1日の元旦(笑)。それほどマラソンにはまっています。
休日
練習の日です。
家の掃除を少し手伝って、あとは3時間くらい走ります。その後は、20分くらい書籍や雑誌を読みながら半身浴をして、汗をこれでもかというくらい出し切っ て、そこで飲むビールのうまいことうまいこと(笑)。あと、マラソンレースに出場した後の、焼肉とビール……。「これぞ人生!」って爽快な気分になれます よ。
行ってみたい場所
芦ノ湖ですかね。
新卒採用の説明会行脚で全国を飛び回っていますけど、もともと出不精なので、海外も国内もあまり旅行はしません。ただ毎年、箱根駅伝の応援をするため、芦 ノ湖に泊まっているんです。今年は芦ノ湖でマラソンの個人合宿を張る計画をしていますから、それを早く実現したいと思っています。
地域で一番使ってもらえる情報紙をつくり続け、
世界一の配布部数を誇る新聞社をつくりたい
まさに紙と鉛筆だけ。経験もノウハウもまったくないまま、夫婦ふたりでまったくのゼロから始めたフリーペーパー発行事業。今から24年前の1984年8 月、千葉県八千代市にある4畳半の自宅で産声を上げた地域新聞社が、昨年10月にヘラクレス市場に新規上場を果たした。創刊号はB4用紙1枚の裏表でモノ クロ版、配布部数は2万2000部だった。そこから幾多の苦難を乗り越えて、今では配布エリア49版、総配布部数約170万部を誇る地域密着型新聞社とし て成長を続けている。同社の代表を務める近間之文社長は言う。「徹底した地域密着型営業を継続したことと、宅配制度の充実が当社をここまで成長できた理 由。もうひとつ、“人の役に立つ”という企業理念を何よりも大切にしてきたことです」。そして今、地域新聞社は2000万世帯への配布実現を目標に、世界 一の新聞社になることを本気で目指している。今回は、そんな近間氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大 いに語っていただいた。
<近間之文をつくったルーツ1>
小樽で生まれ育った自然児が、オール5の秀才に大変身
北海道の小樽市が私の生まれ故郷です。父は電電公社(現・NTT)勤務の会社員で、母は普通の専業主婦。2歳下の妹と5歳下の弟がいて、私は長男と して厳しく育てられました。特に母からは「あなたはお兄ちゃんなんだから」と、いつも怒られていた記憶があります。よく殴られましたよ、母には(笑)。で も、度胸はつきましたよね。そうそう、私は50歳になってボクシングを始めたのですが、ある試合で優勝したんです。その当時の経験が生かされているのかも しれません(笑)。そんなに裕福ではなかったと思いますが、幸せな家庭でした。
小樽は山と海に挟まれた、とても坂が多い街です。私は幼稚園にも行っていませんし、小学校2年までは家にテレビもなかったですから、ずっと外で遊んでいま した。昆虫採集、山葡萄狩り、山に秘密基地をつくったり、木を削って木刀や弓をこしらえてチャンバラごっこもよくやりました。冬になれば、スキーにソリに 雪合戦。夏は2週間しか海に入れないけど、海水浴。夏の時期でも北海道の海は寒いんです。いつも唇が紫色になって、ブルブル震えるくらい。本州の海に入っ た時は、海水のぬるさに驚きましたよ。まあ、完全なる自然児でしたね。
小学校に上がると、担任のおばあちゃん先生によく立たされていました。授業中に気になる女の子のそばまで歩いて行っちゃうんですよ、まだ自然児だから (笑)。ようやく人間らしくなってきたのは小学校3年あたりですよ。でも、勉強をしたという記憶はまったくありません。そうそう、この間、母から言われま した。「あなたはよくこの年まで生き残れたね」と(笑)。高いところ登ると必ず飛び降りる子どもだったんで、いつかそのうち危ない目に遭うのではと思って いたみたいです。
勉強が面白いと思うようになったのは中学に入ってから。母から本をたくさん読みなさいと言われ音読を実践していたので、国語の成績だけは良かった んですよ。通知表はいつも国語と体育が5でしたから。で、中学の数学で方程式と出会うわけです。なぜか、あの「X」というのがどうにも気に入ってしまっ た。それから勉強が面白くなって、どうせやるならオール5を目指してみようと。私は常に目標を掲げていないと生きていけないタイプ。この傾向が年を重ねる ごとに強くなっています。生まれ持った非凡な才能はないんですけど、努力し続ける才能は人一倍あると思っています。結果、3年になった年はずっとオール5 を取り続けることができました。
<近間之文をつくったルーツ2>
進学校へ合格するも自堕落な日々……。自分を鍛えなおすため体育大学へ
そんなわけで、中学の頃から自己成長に貪欲になって、成績も常に学年で3位以内に入っていました。北海道では、やはり北海道大学に進むのがエリート コース。親からもそう勧められて、私は一番の進学校に入学するんです。でも、決められたレールに乗ってしまうのは面白くないと考えるように。徐々に勉強す る意味が見つからなくなり、成績はすぐにガタ落ち。うるさい親から離れ、下宿して一人暮らしを始めていましたので、ものすごく自由。1年の時は学校に行っ ていたのですが、だんだんサボるようになって……。毎日本を読みふけったり、友人たちと夜を徹して語り合ったり。太宰治の『人間失格』を読んだのがまず かったのかもしれない(笑)。あれは二日酔いの文学ですから。
そんな生活を送っていた高校2年のある日、学校から電報が届くんですよ。あと3日休んだら留年になると。留年したらさすがに親に悪いと思い、渋々ですが授 業には出るようになりました。でも、明確な目標が見つからなくて、勉強には身が入りません……。転機は高校3年の秋に訪れます。失恋しちゃうんですよ。相 当手痛い。なぜ、こんな目に遭うのか考えてみました。そこで出した結論は、今の自分には魅力がないということ。やさぐれている自分を鍛えなおさなければ。 そう思っていた雪が降る11月、ある書店に入ったんです。やはり大学には進んだほうがいいだろうと、進学情報本を買って読み始めたら、日本体育大学という大学があることがわかった。これだ!と。血と汗と涙で自分を磨くためには、日体大はぴったりじゃないか。両親に体育の教師を目指すと話したら納得してくれました。でも、この進学校から日体大に進学する生徒なんてほとんどいません。それで高校の体育の先生に相談すると、「まあ、器械体操部が無難だろう」と教えてくれたんです。その話を信じて受験し、無事合格。試験には実技もありましたが、ペーパーテストは高校受験の時よりもやさしかったんじゃないですかね(笑)。
<日本体育大学器械体操部へ>
まさに血と汗と涙の4年間を過ごし、人間としての成長実感を得た大学時代
日体大の器械体操部は、具志堅選手や森末選手なども在籍していた、日本のトップレベル。400人くらいの所帯で、A軍からD軍までに分かれていま す。当然ですが、私はD軍に振り分けられました。1日8時間は練習し続けましたよ。でんぐり返しから始め、床、吊り輪、平行棒まで、1日1個は新しい技を 覚えることを自分に課して。体操の技って危険と隣り合わせでしょう。だから、毎日もしかしたら死ぬかもしれないと思っていました。翌日に斬り合いをする武 士のような心境です。そんな日々を過ごしていくうちに、いっさい怖いと思うものがなくなりましたよ。そして2年後には、ダブル宙返りやムーンサルトまでで きるようになっていましたね。
日体大の寮生活はまさに軍隊のようでした。私は高校まで部活動にも入らず、自由に生きてきましたから、その態度が先輩たちは気に入らなかったんでしょう。 しつけと称して、コンクリートの床に正座させられて、殴る、蹴る、ですよ。ある時なんて顔がゆがむくらい殴られて、目の前をとおり過ぎた同期の女の子が私と 気づかなかったくらい。でもですね、心から愛情を持って私を良くしようと思っている先輩から殴られると、その気持ちがゲンコツから伝わってくるんですよ ね。もちろん、そうじゃない先輩もいましたけど。
2年の最後に腰を痛めてしまって、思うような練習ができなくなった。もう大学も辞めようかと思っていた時、体操部の部長から「部のマネジャーをやってくれ ないか」と言われたんです。どうしようか悩みましたが、全部員が投票するマネジャー選挙に出てみました。そしたらほぼ全員が私に投票してくれた。みんなが 選んでくれた以上もうやるしかないと、結局残りの2年間は体操部の選手から一転、マネジャーとしての日々を過ごすことになりました。これまで、自己の成長 のみを柱に生きてきた私が、部員400名のために行動することになるわけです。
練習の補助、指導から始まって、体と心のケア、そのほかにも部費の出入金の管理、先生とのバトルなど、当時の私の気持ちは400人の部員たちとほ とんど同化していたように思います。日体大での4年間で、18歳までノンポリで過ごしてきた私は完全に体育会系に変身しました。血の小便を流すほど一所懸 命練習したので、体はブルース・リーみたいになり、マネジャーの経験で組織運営のノウハウをしっかり身につけることができた。これまでの人生を振り返って 考えてみても、一番自分が人間として成長した時期だったんじゃないでしょうか。
<設立1カ月のベンチャー企業へ就職>
立ち上げと再建に尽くした8年間。経営者の嘘に落胆し、起業を決意
成長実感だけはありましたが、将来のことなんてまったく考えていないわけです。卒業式すら出ていませんし。卒業のために必要な1単位を落としてしま い、すわ留年かとなったのですが、運動生理学の教科書を1冊丸ごと覚えて追試に臨み、なんとか卒業だけはすることはできました。するとある先生が「お前に ぴったりな会社がある」と。1月前にできたばかりの社会体育を事業の柱にすえている会社で、幼稚園などにインストラクターを派遣するという。面接に行った ら、ビリヤード場の片隅にオフィスがあって、まだ社長と役員のふたりだけ。おまけに給料も出るかどうかといった感じ……。ゼロからの船出、気に入った! すぐに入社する意思を伝えていました。私は究極のドMなんですね(笑)。
幼稚園に行って跳び箱のやり方とかを、自ら見本を示しながら教える仕事です。3~6歳の幼児たち20人くらいを手足のように動かさなければならないので、 部下たちには「7色の顔を持て」と指導していました。幼児たちにとって、時には教師であり、父であり、兄であり、仲間であるという、場面場面に応じて怒っ て笑って、瞬時にその顔を使い分けるんですよ。この仕事をとおして、精神的に鍛えられたと思いますし、表現力も磨かれましたよね。最終的には90人ほどの 部下を持つまでになりました。
20代後半で、千葉県の花見川団地でスイミングクラブを立ち上げろという辞令が下されます。地主であるオーナーとの交渉、自社のインストラクター にパートのおばちゃんたちの指導など、それは大変なプロジェクトで、ストレスで髪がごっそり抜け落ちるほどでした。オープン後、ほどなく軌道に乗せること ができたのですが、今度は会社全体の経営が思わしくないので、本社主導の建て直しに参加せよという辞令が。まず徹底した内部調査を行い、これはスタッフ全 員の意識改革をするしかないということがわかりました。
業績回復が実現した暁には、賞与アップという約束を経営陣に取り付け、インストラクター全員が参加する5泊6日の合宿を張ったんですよ。そして朝 4時半からスタートする長丁場かつ厳しい合宿は奏功し、インストラクター全員の意識改革に成功。それだけではなく、会社の業績も半年後には前年対比でなん と約2倍に。当然、賞与は大幅にアップすると思っていたのですが、もらってみたら全然上がってない……。この裏切りにはプチンときた。私自身の信条は「口 に出したことは絶対にやる」ですから。もともと早く給料を支払う側に回りたいという独立心が強かったこともあり、このタイミングで会社を辞め、起業に挑戦 することを決断します。「何を考えているのか意味がわからない」という妻の説得が、最初に潜り抜けなければならない関門でした。
創業24年、合言葉はずっと“犬小屋とガレージ以外!
”地域新聞をあなたの役に立つために配布し続けます
<有限会社八千代地域新聞社、誕生>
妻と幼い2人の子どもを抱え、ゼロからの起業スタート
結局、社会体育事業を行うその会社には8年間お世話になりました。ちょうど私は30歳、男30にして立つということわざも背中を押してくれた。しか し、「会社を辞めたい」と告げられた妻は猛反対です。35万円ほどもらっていた毎月の給料がなくなり、おまけに当時、3歳と1歳の女の子がいましたから。 そもそも会社を辞めて独立することが目的で、実際に何をやるか明確に決めていなかったんですよ。ラーメン店でも本当は良かったくらい。ただ、ある雑誌で当 時はまだニューメディアと呼ばれていたフリーペーパーが説明されている記事を読んだんです。これなら地域密着で自宅を仕事場にすれば家族と一緒にいられる し、紙と鉛筆があればあとは外注でいける! それでも妻にとってはありえない話のわけです。納得してくれるまで1カ月くらいかかったと思います。そして 1984年8月に現在の会社の前身となる有限会社八千代地域新聞社を設立。スタッフは私と妻のふたりだけでした。
元手は親から借りた200万円。何もわからないまま、がむしゃらに取材活動と広告営業を開始し、地域新聞創刊号を設立2週間後には発行していまし た。配布部数は2万2000部。創刊号に掲載いただいた有料広告は、3万円の枠が2本で6万円のみ……。また、当初から手配りで配布していたので、配布員 さんへの報酬、新聞の紙代、印刷代などで瞬く間に200万円の資金は底を尽き、1984年の年の瀬には1円もない状況になってしまった。それでも何とか地 道に発行を続けていたので認知度がアップしたのでしょう。年が明けた頃から、広告を入れたいと電話がかかってくるように。やはり継続は力なりなんですよ ね。
何とか広告収入の目処が立ち始め、少しずつ発行エリア、配布部数が伸び始めます。しかし、12万部ほどを配布していた1990年、前年と比べガク ンとお客様の広告出向ペースが激減したのです。バブル崩壊の幕開けでした。だんだん毎月の資金繰りに窮するようになり、借金をしても資金が足りず、社員の 給料を4カ月も滞納してしまったのです。
<企業理念のつくり方>
倒産の危機を潜り抜け生まれた、「人の役に立つ」という志
朝、出社してみるとデスクの電話に「社長、1万円でいいので、給料ください」というメモが張られていた……。これまで一所懸命会社に尽くしてくれた 社員からの催促に、胸が潰れそうな思いでした。みんなすごく気のいい人たちだったんです。当時25人いた社員たちは、会社に負担をかけないようみんなで相 談して、少しずつゆっくり順番に退社していってくれました。結果、1年後には私たち夫婦を含めて4人だけが会社に残ることになります。その間、1人5役の 働きで奮闘し、何とかこの危機を脱出することができたのです。少数になると精鋭にならざるを得ないことがわかりましたよ。しかし、「あの頃のあなたの目 はマークが付いていた」と妻に揶揄されるくらい、お金には揉まれに揉まれた。ただそれ以降、お金は道具だと客観視できるようになりましたね。
バブル崩壊の危機を乗り越え、業績も盛り返した1993年頃、自分のモチベーションが一気にダウンします。なぜ会社を成長させなければいけないん だろう……? 豊かな生活、お金、他人からの賞賛が、まったく意味のないものに思えてしまったんです。物欲もいっさいなくなった……。少数精鋭を続けてい ましたから、年間数千万円もの経常利益が出るわけです。このまま現状維持すれば、一生生活できるかもしれない。でも、それでいいのかと自問自答しながら数 カ月間悩み続けました。そんなある日、また書店に入るんです。大学進学で迷っていた時のように(笑)。そこで手にしたある本に「人がこの世に生まれてきた のは、誰かの役に立つためである」、そんな内容が書かれてあった。それが自分の中にストンっと落ちてきたんですよ。そういえば会社も人で成り立っている。 社員や配布員さんたちみんなの生活を支えている。会社経営を人のために役立てればいいんだと。
悩んでいた自分がその時に解放されました。紙面づくりも、広告営業も、会社経営のすべてを「人の役に立つ」という視点で見るようになったんです。 自社においてはそれが憲法よりも正しい理念であり、クレドそのもの。そして私は、その理念を守る番人になろうと。その後の1998年、初めて私たちの発行 エリアに成田市のフリーペーパー業者が攻め込んできました。焦りと恐怖が生まれ、さてどうしようと考えました。有史の有名な戦争で、篭城して勝利したのは 208例のうち8つだけ。よし、攻めて行こう! 私たちのお役立ちの範囲を広げられるだけ広げていこう! そう決断して初の支社を立ち上げたのが成田支社 でした。これまで地域新聞は、すべて地続きで発行エリアを増やしてきたのですが、初めて飛び地での勝負をすることになったのです。
<未来へ~地域新聞社が目指すもの>
目指すは総配布部数2000万部!世界一の新聞社を本気でつくる
それからも千葉県内で順調にエリアを拡大し、地域新聞は1エリア3万世帯前後を基準としながら、手配り式のフリーペーパーの発行を続けてきました。 そして、2000年には配布部数50万部、2002年には100万部を達成。現在の発行エリアは千葉県と埼玉県の一部にも進出し49版です。ちなみに全 版、地域密着の情報を掲載しますから、記事の内容は版によって異なり、ページ数も4~20ページまでいろいろ。大変ですが、これが地域密着の最大の強みで すからやり続けるだけ。配布部数は2008年3月現在で、約170万部。おかげさまで社員数も190名まで増加し、これからは毎年、新卒学生を30名ほど 採用する予定です。また昨年の10月、ヘラクレス市場への上場も果たすことができました。千葉県でナンバーワンのフリーペーパー配布率を達成しましたの で、今後は日本一、世界一を本気で目指します。
数年後に埼玉で200万部の配布を目指し、その後、神奈川、生活者の多い東京都下への進出を計画しています。そしてまず、総配布数1000万部が 当面の目標ですね。当社の基本戦略は、日本一手間をかける新聞づくり。私たちができるお役立ちは何でもやる。地域に密着しながら、さまざまなニーズを掘り 起こしていきます。そうやって3万世帯前後の小さなエリアでナンバーワンのポジションを勝ち取る努力を積み重ね、1000万という面ができれば、今よりも もっと面白い展開が可能となるでしょう。
配布数が増えることで、当然ですが、紙面広告、折り込みチラシの量がまず増加するでしょう。反響の高いメディアを有した広告代理店というポジショ ンもどんどん高まっていく。もちろんエリアを広げる面展開を続けながら、そこにどんどん新しい柱を立てていきます。インターネットとの併用は常に模索して いますし、マーケティング事業にはかなりの強みを発揮できるはずです。例えば八千代市は、読売、朝日、毎日の大手新聞が約6割の世帯を占めていますが、地 域新聞の配布率は9割以上。アンケートもかなりの率で回答していただいているので、きめ細かい地域特性を把握することが可能なのです。また、現在2500 名強の配布員さんを活用した、サンプリングやバイラルマーケティングも。そんな新しい柱をコラボレーションさせながら、配布エリアを広げながら、最終的に は2000万世帯への配布を実現したい。どうせやるなら、発行部数世界一の新聞社になりたいですから。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
失敗しても命までは取られない。まずは一歩を踏み出すことが大事
会社経営とはそもそも、大変難しいものです。日本の会社の中で中小企業が99.3%を占め、倒産、自主廃業する会社もたくさんあります。経営者は当 然、雇用した社員に給料を払い続けなければなりませんし、壁、障害、さまざまな無理難題がどんどん押し寄せてきます。それらすべての責任が社長の肩に重く のしかかるわけですよ。でも、私はどんな問題も本気になれば修正することは可能だと思っています。そのためには、小ずるくならず、楽することを考えず、正 面から苦労に突っ込んでいくことです。小さくまとまろうとすればするほど、せっかくの学びの機会が逃げていく。失敗も大いにけっこう。どうせ失敗するな ら、若いうちにするに越したことはない。多分ですが、命まで取られることはないですから(笑)。
そういった意味で、経営者にとって会社とは自分を成長させてくれる装置だと思っています。倒産の危機を乗り越えたことで、お金が道具であることや、会社 の存在理由が何であるかという真理を、身を持って理解することができましたからね。金持ちを夢見て上場企業をつくることが、いかにバカらしいことか。そん なことを考えるより、若いうちはがむしゃらに血と汗と涙で自分を鍛えたほうがいい。本もたくさん読んで学んでください。そして、何のために自分は起業する のか、とことん考え抜く。苦労を重ねれば重ねるほど、本当の理念や生き様があらわになってくるのです。
理念なき会社経営ほど意味がないものはない。私たちの企業理念は、人の役にたち続けることです。それを御旗に経営を続けていると、どんどん厳しい 問題が生まれてきて、どんどん苦しくなります。私はマラソンをやっていますが、レースの前、今でも逃げ出したくなります。やめる言い訳が百くらい出てく る。でも、それをひとつずつ潰していくからこそ、走り始めることができて、感動のゴールを迎えることができるのです。会社経営はマラソンと似ていると思い ます。まず、走り始めることが大切。ぜひ、失敗を恐れることなく、すべてが自分を成長させてくれる学びの機会と捉え、起業の第一歩を踏み出してほしいと 思っています。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康
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