第156回
株式会社シフト
代表取締役社長
丹下 大 Masaru Tange
1974年、広島県生まれ。1997年、同志社大学工学部機械工学科卒業。大手企業を中心に就職活動をするがすべて不合格。大学卒業後、フリーターとなり大学院受験を目指す。2000年、京都大学工学研究科機械物理工学専攻修了。同年、製造業向けコンサルティング会社の株式会社インクスに入社。たった3名のコンサルティング部門を、5年で50億円、140人のコンサルティング部隊に仕立て上げる。工程の短縮手法として、プロセステクノロジーの特許を取得。個人としても2億円のコンサルフィーを稼ぐ売れっ子コンサルタントだった。2005年、株式会社シフトを設立し、代表取締役社長に就任。起業後の数年間は紆余曲折を繰り返したが、2010年、ソフトウエアなどのテストのプロセスを、仕組み化・IT化によって効率化する新市場を開拓。その当時、メンバー数は12名だったが、2012年末には280名と急成長を遂げている。また、2012年の3月、三井物産、NTTインベストメント・パートナーズなどから総額4億7200万円の増資を実施。来年度にはスタッフ400人体制となる予定。
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- 目次 -
ライフスタイル
好きな食べ物
うにとかイチゴとか(笑)。
なんだろう? うにとかイチゴとか(笑)。あと、貝類のお寿司も好物ですね。お酒もけっこういけますよ。赤ワインが多いかな。飲む時は一人で1日2本くらいいけますね。赤ワインならガバガバ飲んでも翌日に残らないですが、焼酎はなぜか100%アウトです(笑)。
趣味
息子とのひと時です。
早く息子といちゃつきたいんですよ。「パパ、こんなビジネスモデル、どう?」「おまえ、頭いいなあ」とか(笑)。早く成長してほしいと思ってます。あとは、うちのCOO、CFOたちといろんなビジネスについてたくらむ時間も、僕の趣味といえば趣味でしょうか。
行ってみたい場所
南アフリカ共和国です。
単純にまだ行ったことがないからですが。アフリカなんだけど、圧倒的な先進国じゃないですか。テスラモーターズ社、シティソーラー社を立ち上げた、イーロン・マスク氏の生まれ故郷でもありますしね。その社会構造や文化をこの目で見てみたいです。
急成長が止まらない“テストを科学する会社”。
日本発のサービスで、世界市場を獲りにいく!
国内だけでも4兆円規模といわれる、巨大なブルーオーシャン・マーケットを開拓――。それが、欧米のアーキテクト、日本の品質保証・生産性、アジアのリソースを軸に、世界で独創的なサービスを提供する“テストを科学する会社”、株式会社シフトだ。同社の代表を務める丹下大氏が起業したのは2005年。同事業に着手したのはメンバー数わずか12名だった2010年だが、今やメンバー数280名と驚異的なスピードで急成長を続けている。「僕たちが人の50倍、100倍働いていいサービスをつくり社会に還元できれば、例え格差社会であっても、多くの人が楽しく生活できるはずなのです。そして、才能ある人は、自分の脳みそを使って社会に新しい価値を還元する役目と自負を持って仕事をするべきだし、もちろんシフトもそんな脳で汗をかくアスリートたる人材が集まる会社にしたいと本気で思っています」。今回はそんな丹下氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<丹下大をつくったルーツ1>
優秀な兄の存在が大きなコンプレックスに。
自分の存在意義に悩まされた少年時代
生まれは広島県の神石町。福山市の北に位置する、人口3000人ほどの町です。父は高校の数学教師、母も公務員。親戚にも教師が多くいました。3つ上に兄がいて、ものすごく頭がよかったんですよ。県下一の進学校、広島大学附属福山中学に軽く合格しましたから。この兄の存在が、重くのしかかっていたコンプレックスの原因。僕からすれば彼は天才で、勉強はどうしてもかないません。才能を与えられた人、与えられなかった人――。世の中は不公平にできていると、悔しく思っていましたね。小学4年の時、母から「将来は何になりたいの?」と聞かれ、野球少年だった僕は、「プロ野球選手になる」と答えていました。当時、広島カープの山本浩二選手の年俸が、確か8000万円。リップサービスしておかないと、もうご飯をつくってもらえないとビビってたんです(笑)。
でも、小学生最後の野球の試合は、11対2で惨敗。上には上がいる事実を残酷に突き付けられ、プロ野球選手の夢はあきらめました。当時、クラスの隣の席に座っていた社長の息子の弁当が、かなり豪華だったんですよ。そいつは僕より成績悪いのに、焼肉やマツタケのしぐれ煮とか入っていて(笑)。その時、「野球選手じゃなくて、社長になればいいんだ」と閃いた。相変わらず母にかまってほしくて言いました。「僕は将来、会社の社長になる」と。それ以来、将来の夢は一貫してぶれず、“社長”です。その夢を叶えるために、中学は兄と同じ、広島大学附属福山を受験しましたが、残念ながら不合格……。今でも覚えていますが、兄にこう言われたんです。「おまえはムシケラだ――」。子どもの僕には衝撃でした。悔しくて泣きました。あの時は、本気で兄を嫌いになりました。
兄は天才、僕は凡才――。親戚の集まりに行くと、長男の兄はみんなに名前で呼ばれてちやほやされますが、二男の僕は名前すら覚えてもらえない。自分の存在意義って何なんだろうと、ずいぶん悩みました。僕にとって目の上のたんこぶだった兄は、高校に上がった頃からだんだん学校に行かなくなり、成績は急降下。高校卒業後は、日本一偏差値が低いといわれている大学にしか入れず、しかも入学して3日で辞め……19歳でホストになって、建設会社を興すも借金まみれになり、さらにいろいろと紆余曲折ありましたが、今では地元で一番人気のバーと旅館を経営する、いっぱしの実業家になりました。人生どう運ぶかなんて、本当にわかりませんね(笑)。
<丹下大をつくったルーツ2>
受けた大手企業の就職面接はすべて不合格。
このままでは社会不適格者になる、と不安に
中学は地元の公立に進んでいます。野球部に入ってはいましたが、しっかり勉強もしていました。部活が終わったら家に帰って、毎日決まって19時に夕飯、それから勉強を始めて22時に風呂、勉強を再開してだいたい朝の4時半まで続けるわけです。夕飯と風呂の時間が少しずれただけで、いらいらするようなストイックさで。なぜかというと、小6の時に見たテレビ番組で、人間の脳のピークは14歳だと知って、それがインプットされていたから。そうとう焦ってたんですね(笑)。数学、理科、英語は常に100点満点、国語と社会は95点。そんな感じで、学年ではダントツ一番です。そんなキチキチした毎日でしたけど、おちゃらけた性格で友だちは多かったし、かわいい彼女もいましたよ(笑)。ただし、そのくらい必死で勉強していることをいっさい口外しませんでしたから、誰も僕の水面下の努力を知らなかったんじゃないでしょうか。
広島大学附属福山高校を受験するも、再び不合格。結果、広島県立府中高校へ進学しました。野球はもう十分やった感があったので、高校ではサッカー部に入部しています。当時は広島代表選手がゴロゴロいた部で、同級生からJリーガーも生まれました。そんな強豪校でしたから、僕はほぼ2軍の盛り上げ役。でも、高校時代は友だちにも恵まれて、ものすごく楽しかったですね。夜、みんなで誰かの家に集まって、いろんなテーマを決めて、勝手に「朝まで生テレビ」のような討論をして遊んだこともいい思い出です。あまりに楽しくて、社長になる夢も忘れていたくらい(笑)。ただ、大学はやっぱりいいところに行きたいと、高3になってから受験勉強を開始。東大、京大を目指してみましたが、現役でそこまでは無理でした。
学びたい学部を調べ受験した結果、同志社大学と横浜国立大学に合格し、同志社大学工学部機械工学科に入学しました。京都で一人暮らしを始めた大学生活は、サッカーサークルに入って、あとはガソリンスタンドのバイトにコンパ。また、ロン毛でバイクを乗り回して、遊んでばかりいました。そんな楽しい大学生活を満喫し、僕の頃は就職氷河期と言われていた年代でしたが、学部・学科的にはエンジンやロボット関連だろうと考え、IHI、三菱重工、トヨタなどを受けてみました。ただ、当時の僕は本当にピュアだったんですよ。ロン毛に私服で面接に行っていましたからね。「これが本当の自分ですから」と。でも、面接官は「君、いったいどうしたの?」って感じだったと思います(笑)。受けたすべての企業から落とされ、頼みの綱だった同志社大の大学院もやっぱりダメ。何とか卒業はできたのですが、本当にギリギリの成績でした……。
<就職>
自分がひと花咲かすならここだと直感。
社員60名のベンチャー企業で未来を育てる
大学卒業後、就職浪人する道もあったのですが、何となく中途半端に思い、一旦けじめをつけることに。バイトを始めフリーターとなって、改めて大学院を受験することにしたんですよ。大学入試と違って、過去問題の対策などなく、とても難しいチャレンジです。遊び仲間との縁も切って、遮二無二なって勉強しました。その結果、京都大学、同志社大学、慶應義塾大学からの入学許可を獲得。そして僕は、京都大学大学院工学研究科機械物理専攻で研究をすることを決めたわけなんですが――そこは数学オリンピックのメダリスト級の学生がゴロゴロいる場所だったんですね。僕とは比べ物にならない優秀な天才たちと、教授が醸し出す超アカデミックな空気感……。その雰囲気になかなかなじめず、想定外に苦しい2年間がスタートしたわけです。
毎日、そうとう暗い顔をしていたんでしょう。当時の彼女に何度か、「頼むから自殺はしないでね」って言われていました(笑)。いや、本当に早く2年が過ぎてくれないかなと思っていました。ただ、そんな苦しい環境のなか、自分なりに精いっぱいこの分野の研究を突き詰めたことで、ゼロから物事を捉えて考える癖だけは身についたと思います。もちろん研究者への道は早々にあきらめていましたので(笑)、就職活動を始めました。あるコンサルティング・ファームの面接で、ロジカルシンキングの重要性、自分の価値を高める人生設計、物事の考え方を知ったことが大きかったです。ここへの入社には至りませんでしたが、僕にとって、目からうろこが落ちたような得難い経験となりました。
その後、NRI、NTTデータ、アクセンチュアなど、コンサル系企業の面接を受けた結果、僕が選んだのは製造業向けコンサルティング会社の株式会社インクス。2000年に入社した当時は、まだ社員数60人ほどの小さなベンチャーです。ただのコンサル企業ではなく、3次元CADを使った金型設計コンサルを得意とする、地に足のついた企業といった印象でした。また、会社のナンバー2がマッキンゼー・アンド・カンパニー出身だったことも、「ここには、何かがある」と感じたポイントです。大手コンサル企業の安定感はないですし、もしかしたら明日つぶれるかもしれないベンチャーだけど、同級生たちよりも遅れて社会人になった自分がひと花咲かすならここだろう、と直感したんですね。目の前の安定ではなく、将来の成功に賭けたギャンブルを打ったというわけです。
<会社員時代>
プロセステクノロジーのアイデアを事業化し、
140人の部隊を率いて年間50億円を稼ぐ
インクスの創業者であり、当時の社長が「高学歴好き」という情報を入手していました。そこで、内定式のあいさつ後、社長がトイレに立った際についていき、用を足している横で、「京大院卒の丹下です! 何でもやります!」と猛アピール(笑)。また、新入社員の新規事業アイデア発表会でも抜群の評価を獲得し、配属は社長直下のポジションを確保しました。同期入社組で携帯電話とノートパソコンを持たされていたのは、僕だけだったと思います。ただ、この仕事が僕にとっては物足りなく、その後いろいろ工作して、コンサル部門のナンバー2に拾ってもらうことに。この人がインクス時代の僕の恩師であり、育て親です。この部署では、上司のコンサルタント30人のスケジュール管理、プレゼンの代行などを任せていただき、短期間でビジネスをまとめる術を学ぶことができました。
インクスでは3次元CADが使えるコンサルは稼げるのですが、僕は苦手。その代わりに得意だったのが、プレゼンで多用していた、エクセルやパワーポイントでした。そこで、自分の力で何とか社業に貢献できないかと考え構築したのが、ありとあらゆる製造業の工程プロセスを短縮するための仕組みです。しかも、誰にでも使え再現性が高いという。試しに大手自動車メーカーの研究開発部門に提案してみたところ、これが大絶賛されたんですよ。2002年、このプロセステクノロジーのコンサルビジネスはたった3人の所帯でしたが、その後140人の部隊に成長し、年間50億円を稼ぐインクスの大きな事業の柱となりました。そして、2004年、29歳になった僕は、インクスを退職する決意をします。もちろん、小6の時に決めた自分の夢を叶えるためです。
インクスで社長になるという道も考えましたが、早くても20年はかかるでしょう。それまでに、自分や会社に何が起こるかわかりませんよね。20代での起業は経験知不足のリスクがあり、40代以降ではスタートアップ期の体力不足のリスクがあるとも考えていました。また、会社員時代に、自分一人でも稼げる仕事能力、部下のマネジメント力、お金の知識という3つを習得することを決めていましたが、3つ目のお金については起業して学ぼうと。いずれにせよ、決意した以上、実行しなければそれは必ず後悔となります。後悔だけはしたくなかったので、決意した翌日の朝、上司に辞表を出しました。それから2005年に退職するまでは、業務をしっかり続けながら、これまで僕が手がけた仕事に関するノウハウ・マニュアルを残す、いわゆる“遺書づくり”をしながらすごしていました(笑)。
●次週、「ソフトウエアのテスト市場を開拓し、大躍進!」の後編へ続く→
欧米のアーキテクト、日本の品質保証・生産性、
アジアのリソースを軸にしたビジネスに大注目!
<起業へ>
起業から5年間は、紆余曲折の繰り返し。
大手ネット企業のコンサルで宝の山を発見
2005年に会社を退職し独立しましたが、決まっていたのは「シフト」という社名だけ。なぜだか、インターネットのドメインを取るには社名が必要だと(笑)。僕たちは第二次ベビーブームで、220万人くらいの同級生がいます。高度経済成長期はおろか、バブル景気も知らず、就職氷河期に見舞われたつらい世代です。ただし今後、僕たちが新しいビジネスをつくっていくことで、世の中の価値観を自分たち流に“シフト”させていくことはできる。そう考えていた時に、日産のテレビCMを見て思いついた社名です(笑)。あと、会社員を辞めたらローンが組めないことを知っていたので、在籍中に自宅マンションと高級外車を購入しています。起業したら、自分で稼がないともう後がないという、背水の陣をしいたというわけです。いずれにせよ、スタート時はたった一人の船出でした。
そういえば、僕は独立するまで営業をしたことがなかったんですよ。これはまずいと、ビジネス交流会に参加して、これまでやってきたプロセス効率化コンサルの話をしながら名刺を配ると、意外と食い付きがよかったんです。その後、営業アウトソーシング会社と組んで、携帯販売会社の物流コンサルの仕事を得ました。プロセスの可視化、IT化による効率化の提案をすると、かなりウケまして。こんな若造が「先生」なんて呼ばれて、フィーをいただくわけです。それでもまだまだ資金に余裕はありません。知名度が低いので、横浜、川崎などで開催されたビジネスオーディションに出場。数十社の中で、優勝、グランプリを獲得するなどして、お金をかけない自社のPRを続けていきました。
2年目くらいから社員採用を始め、コンサルと並行して、携帯のGPS機能を使ったSNS事業や、レンタルビジネスを立ち上げたりしたんですよ。僕自身、コンサル商売をあまり好きになれなかったんですね。でも、いろんなことに手を出しすぎて、会社がぐちゃぐちゃになってしまった……。結局、どの事業も半年くらいで撤退し、やはり僕たちはBtoCビジネスは苦手だと判断し、BtoBへの集中を決めましたが、18人いた社員は12人に減ってしまいました。この頃、ある大手ネット企業のコンサルを請け負ったんです。社内のテスト部隊のコンサルでしたが、そこはほぼ人力の世界であり、僕に言わせれば、まったく効率化がなされていなかった。仕組み化できれば、確実に勝てる――。2009年の後半くらいからです、当社の事業の柱をソフトウエアのテスト市場に“シフト”していったのは。
<成長のプロセス>
ブルーオーシャン・マーケットを開拓し、
パイオニアとしていっきに勝負をかける
ただ、この市場で、1人当たり250万円のフィーという従来のコンサル型のビジネスモデルは合わないと考えました。そうではなく、テストのプロセス自体をしっかり仕組み化・IT化によって効率化し、メーカー、ソフトウエア企業、ネット企業などあらゆる業界に広くあまねく提供していくほうがいい。しかも、それを格安で提供する。そして、合格率3%の難関をパスしたQA(Quality Assurance)エキスパートからなる技術者集団を組織し、一方で、テスト活動の統合環境クラウドシステム「CAT」を開発。うちのやり方であれば、競合の半額以下でより正確なテスト結果を提供できます。この事業を始める際、「1480円/1時間一人の料金でテストします」と書いたチラシを1000枚ほど配布しました。最初にオーダーをいただいたのは2010年3月、東北地方に本社を置く医療施設向けシステム会社です。赤坂のマンションの一室に設置したテストセンターで、初案件となる業務を稼働させてからまだ2年しか経っていないんですね。
振り返って思えば、ソフトウエアのテスト市場にシフトする前に、残ってくれた12人の社員には本当に感謝です。今のところの話ですが、彼らにむくいることができて、本当によかった。会社って、SNSみたいなものだと思うんです。たくさんの仲間が集って、トラフィックが増加して、全体が盛り上がることが一番大切。1年で1回大型の仕事をつかむよりも、小さくても、薄利多売でも、毎日受注が入ってきたほうが社内はどんどん盛り上がります。当社の場合、安くて品質のいい結果をお約束できますから、顧客から喜んでもらったり、ほめられたりします。そうすると当然、社内でも仕事でほめられる人間が多くなりますから、みんなが常に踵が少し上がった状態というのでしょうか、前向きになってくれるんですね。ほめて伸ばす――。僕が心がけている、マネジメントスタイルです。人間誰しも、ほめられるとうれしいですからね。
主力サービスの「CAT」を投下して以降も、リリース前のオンラインゲームやソーシャルアプリに対し、ユーザーから改善アイデアを募る開発サポートサービス「みんテス」、主婦をはじめとした在宅ワーカーをクラウドソース化し、Webサイト更新時における定常的なチェック業務を行う「ママテス」を開始するなど、新規事業にも積極的にチャレンジしていきました。もちろん、これらのほかにも同市場から求められるであろう新たな仕組み化をどんどん継続しています。当社が、脱職人化、システム化によって開拓したソフトウエアのテストというフィールドは、競合がいない、いわばブルーオーシャン・マーケットです。そのパイオニアである先行者メリットを最大限に生かし、すでに大手上場企業や世界的企業からもビジネスパートナーに選ばれており、2012年12月現在、約120社に当社のサービスを導入いただいています。
<未来へ~シフトが目指すもの>
世界に通用し、世の中の人が幸せになる
価値あるサービスを創造し続ける
今、国内のソフトウエアテストの市場規模は4兆円と言われていますが、アウトソーシングされて顕在化しているテスト業務はわずか1%の400億円。では、それ以外の99%はどうかというと、各社が自社でまかなっているのが現状です。そのやり方では、高い固定費がかかるうえに、エンジニアの方々のモチベーションも下がってしまう。今後はまず、この顕在化していない3兆9600億円の大市場を思いきり取りにいきながら、日本で圧倒的ナンバー1のポジション獲得を目指します。また、昨年(2012年)の3月には、三井物産、NTTインベストメント・パートナーズなどから総額4億7200万円の増資を実施。来年度にはスタッフ400人体制となる予定で、さらなる高みへ向かうステップアップの準備も整えました。
今、東京、札幌、福岡とインドにテストセンターを構え、グローバル展開もシンガポールに拠点を設置、米国への進出準備も着々と進んでいます。今後も東南アジアを中心に拠点展開はスピードアップさせていく予定です。少し話を変えますが、日本人にはフェイスブックやツイッターはつくれなかったと思うのです。そのために必要となる創造力では、残念ながらアメリカ人には勝てない。でも、我々には、卓越した標準化、効率化、品質管理の能力に加え、きめ細かでやさしいおもてなしの心があります。シフトは、そんな日本らしさから生まれたビジネスアイデアと、アジアのリソース、それから欧米のアーキテクトを活用した、品質保証、生産性向上のサービスを提供している技術者集団です。もちろんテスト事業を進化させるだけではなく、新しいIT分野のビジネスへの研究開発と挑戦も続けていきます。
冒頭でもお話ししましたが、残念ながら才能という点において世の中は公平ではありません。だから、何らかの才能を与えられて生まれてきたと思うなら、その才能を周りの人たちのために使うべきだと考えています。僕たちが人の50倍、100倍働いていいサービスをつくり社会に還元できれば、例え格差社会であっても、多くの人が楽しく生活できるはずなのです。そのイメージに近いのは、安くておいしい飲食チェーン、格安ファッションショップなどのビジネスを創出した企業でしょうか。才能ある人は、自分の脳みそを使って社会に新しい価値を還元する役目と自負を持って仕事をするべきだし、もちろんシフトもそんな脳で汗をかくアスリートたる人材が集まる会社にしたいと本気で思っています。今、毎月10~20人のペースで優秀なスタッフが増えています。シフトの使命は、「世界に通用し、世の中の人が幸せになる価値あるサービスを創造する」。ここで学んで、独立して、さらに大きな“業を自ら企てたい人”も、もちろんウエルカムです。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
自戒の念を込めてアドバイスをしておきます(笑)。
ビジネススキームを固めてから起業しましょう!
日本は起業家を目指す人にとって、とても恵まれた環境だと思います。オフィスは自宅でもいいし、電気は格安で使えますし、インターネットのインフラも整っている。もちろん、クラス社会でもない。誰が何に挑戦してもいいわけです。資金調達の面でいえば、ベンチャーキャピタル(VC)も多いし、今ならクラウドファンディングもある。例えば、「つくる人を増やす」と言っているIT企業があるように、つくり手もたくさんいる。足りないのは、ビジネスアイデアと売れるものをつくるという点でしょう。そういった意味でも、僕のミッションは“業を企てる人”を育てることだと思っているんですよ。もちろん、何でもつくれば売れるかというとそうではなくて、それを使って商売したい人がたくさんいないと結局は売れません。ビジネスアイデアもそんなビジネススキームまでしっかり考えておかないと危ないですよね。そこに集った人たちを不幸にすることになりますから。
そこまで考えたビジネススキームを持たずに起業する人って、アウトだなと。僕もそうでしたから、自戒の念を込めて言いますけど(笑)。僕が美しいと思うのはフェイスブックのようなやり方です。ベータ版を出したら、一気にユーザーが集まって、これはもうビジネスにするしかないという起業のかたち。会社を辞めてからビジネスを考えるのって、本当に苦しいんですよ。だから、会社員のうちに、学生のうちに、できるだけいろんなことに挑戦して、トラフィックが集まる、人が集まることを見つけてからスタートするべきだと思います。僕の場合も、今のビジネスを始めるまでに5年もかかってしまったわけで(笑)。こんな僕にずっとついてきてくれた社員には頭が上がらないですよ。僕にとって本当のエンジェルは、苦境の時期に残ってくれた彼、彼女たちだと心から感謝しています。
今、多くのスタートアップベンチャーに、少額投資を行うVCも増えてきています。確かに、起業家という競技人口を増やさないと、ビジネスが磨かれないことも事実。ただ、起業すれば、誰もが必ずその仕事の責任感の重さに気づきます。ここは、その重さに耐えられる人しか、継続できない世界です。でも、耐えられなかったらそこでやめればいい。継続できるかどうかは、その人の人間性如何によりますから何とも言えないですけど。いずれにせよ、僕は起業家を増やしていきたいと心から思っています。最初はお金が欲しいとか、そんな理由でもいいんですよ。僕なんか、小6の時、母におべっか使ったことが、社長を目指した最初の動機でしたから(笑)。最後に、本当の意味で、あなたのビジネスが社会に貢献できるのか――。そこだけは、しっかり見極めてから、挑戦してほしいと思います。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:大平晋也