第154回
株式会社エイ・アイ・シー
代表取締役
坂本 佳昭 Yoshiaki Sakamoto
1966年、東京都生まれ。転勤族の父の仕事の関係で、中学までに6回の転校を繰り返す。中学からは岐阜県で暮らすように。地元でも有名な、不良高校を卒業し、一浪後、大学に進学。バイトと海外放浪を繰り返す。大学4年から、学内にある歯学部生向け売店でのバイトを開始。大学卒業後は、その売店の親会社である医療機器メーカーに就職した。スペイン支店での駐在も経験。1999年、ITベンチャーに転職するが、すぐに中堅コンビニ本部へ再転職。2000年、最初の勤務先である医療機器メーカーの社長に請われ、休眠会社を復活させるかたちで、株式会社MDコミュニケーションズを設立。「ホワイトエッセンス」の構想を練り始める。2003年、MDコミュニケーションズから、FC本部を継承するかたちで株式会社エイ・アイ・シーを設立し、代表取締役に就任。2005年より、歯科医院を対象とした、「ホワイトエッセンス」のFC展開を本格的にスタート。2012年12月現在、全国に「ホワイトエッセンス」を77店舗展開。2013年には台湾に出店し、アジア展開もスタートさせる予定。
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ライフスタイル
好きな食べ物
おいしいものなら何でも。
好き嫌いはほとんどありません。どんな食べ物が好きかと聞かれれば、おいしいものなら好きですし、まずいものは嫌いですと答えます。それは、和洋折衷どんな料理のジャンルでも同じです。お酒はビールをたしなむほどで、ほとんど飲みません。
趣味
思いつかないんです。
映画をよく観ますし、本もよく読みます。また、たまに休みができたら、アジア諸国への弾丸旅行にも出かけます。ただ、趣味って1番の仕事を忘れて、2番目に打ち込めるものでしょう。そういった意味では、どれも違うんですよね。
行ってみたい場所
ありすぎて困っています。
学生時代に海外をよく放浪しましたが、行ってない場所がまだまだある。アマゾン川、ギニア高地、ロッキー山脈などなど。本当に、ありすぎて1カ所に絞り切れません。冒険旅行したいですね。でも、今、冒険に出かけたら、死んじゃいそうですね(笑)。
“笑顔創造産業”というブルーオーシャンを発見。
歯科医院を対象にしたFCビジネスが大ブレイク!
口元を健康で美しくする国内デンタルエステサービスのパイオニア、株式会社エイ・アイ・シー。「マーケットそのものを創出し、世の中にまったく新しい価値を提供する」という理念のもと、同社が「ホワイトエッセンス」1号店を東京・渋谷に出店したのは2001年7月のこと。以来、FC展開を中心に、2012年10月までに74店舗を出店してきた。このビジネスを立ち上げたのが、同社の代表を務める坂本佳昭である。「今、一番うれしいのは、社員や加盟店の方々の顔つきが、明らかにいい方向に変わっていく様を見られた瞬間。その一瞬の満足のためだけに、私はこの仕事をやっているのかもしれません」。今回はそんな坂本氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<坂本佳昭をつくったルーツ1>
転校の繰り返しで、思考回路が停止状態に。
たくさんの“いじめ”も経験した少年時代
生まれたのは、東京の昭島市ですが、父がメーカーに勤める転勤族で、中学になるまでに、6回も転校しています。東京だけでも3回、それから、茨城、岐阜と。転校するたびに環境が変わるでしょう。いじめも受けました。当時は、人気者だったと思っていたのですが、大人になって振り返ると、やっぱりあれはいじめだったと(笑)。初めて転校した低学年までは普通の子だった記憶がありますけど、転校をするうちに、自分の中の何かが壊れていったというか……。夢も希望もない、学校でもまったく先生の話を聞かない、まるで無の状態。勉強もまったくできず、正直、アホですよ。先生から、「特別支援学級に行ったほうがいいのでは」と言われたこともあります。
確かに、中学3年までは、アルファベットを全部言えなかったし、分数の計算もできませんでしたから。小学校6年で転校した、岐阜が一番ひどかったでしょうか。関東からやって来て、クラスで最初の挨拶をしたのですが、それからつけられたあだ名は“ニセモン”です。きっと、関西の子にとって、関東の子はスマートなイメージがあるのに、私は見かけもダメ、勉強もダメ、これといった趣味もない。よけいいじめられましたね。本当に、言いたくないくらい、いろんな目に遭いました。そこからますます閉じこもって、ものを考えること自体、放棄していたように思います。
中学から、高校卒業までは、岐阜ですごしています。まったく勉強しなかったから、高校は、受験すれば誰でも合格するような、荒んだ男子高にしか行けませんでした。周辺の中学から有名な不良たちが集まっていて、常時、クラスの半分が謹慎させられているような状態です。タバコは当然、シンナーやっている奴もたくさんいました。そんな掃き溜めのような高校でしょう。当然、ケンカは日常茶飯事。不良たちに、いつやられるかって、常にビクビク。まさに、毎日がサバイバルでしたね。そんな環境の中で、1年で最初のテストを受けたら、私が1番になってしまいました。あの時は、本当に驚きましたね(笑)。
<坂本佳昭をつくったルーツ2>
不良高校卒業から一浪後、自宅から通える大学へ。
バイトで稼ぎ、海外放浪の旅を楽しむ
私はタバコもシンナーもまったくやらず、普通の制服に、七三分けの高校生でした。そんな私でしたが、なぜだか一部の不良に気に入られて、他校とケンカする際には、いつも誘われていたというか、駆り出されていました。味方も敵も派手な服装で、パンチパーマや金髪ばかり。その中で、私一人だけが七三分け(笑)。敵からしてみれば、すごい違和感があったはずです。何度そんな修羅場をくぐったか、もう覚えていません。でも、集団のケンカに勝つための指令の出し方、先制攻撃の重要性、人間の急所の攻め方など、高校時代にケンカのセオリーを叩きこまれたんですよ。一度も頼んだことないんですけどね(笑)。
父から「高校を出たら大学に行け」と言われていましたが、とても無理なわけです。同学年の中でも、現役で大学に進んだのは、5人くらい。ほかは就職するか、今で言うフリーターですよ。現役時代は、受験費用をもらいましたが、そのお金はすべてパチンコで消えました。で、一浪は予備校に通うという名目で、名古屋で一人暮らし。仕送りしてもらったお金は、やっぱりパチンコで消えました(笑)。その頃、パチプロの師匠がいて、彼の小間使いをやってたんですね。「俺もパチプロになりたい」と。でも、ある日彼から屋台に呼び出されて、味噌おでんを食べながら言われた言葉が、「おまえには才能ないから、やめとけ」。「俺はパチプロにすらなれないのか」……と。けっこうショックでしたね(笑)。
一浪後に進学したのが、岐阜の自宅から通える、私立大学です。入学後、ホテルのレストランでバイトしている時、東大卒の人たちと一緒でした。彼らは最高学府を出たにもかかわらず、バイトで金を稼いでは海外放浪へ出かける、ヒッピーのような生活をしていたんです。私もそのスタイルに憧れて、大学2、3年は、稼げるバイトをしながら、アジア、ヨーロッパを主に放浪していました。見知らぬ海外の街には、甘い罠がたくさん潜んでいます。今日の甘い誘いは罠じゃない、今日の誘いは危険だ――だんだん自分のアンテナが鋭くなっていくのがわかるんですよ。もちろん、失敗もしましたが、毎日がヒリヒリしているというか、「俺は生きてる」って感じで、充実した日々をすごしていましたね。
<就職>
ラクをしたいと入社した医療機器メーカー。
マイペースの徹底が奏功し、業績を上げる
この大学には歯学部があって、歯学部専用の売店がキャンパス内にありました。歯学部生に、授業で使う、歯の模型や、歯科の材料を販売しているという売店です。ひょんなきっかけで、私は大学4年からここでバイトをすることになりました。すると、知り合いの歯科医の先生もできて、いろいろ奢ってもらったり。当時はバブル景気で、みんな羽振りがよかったんですよ。歯科医の先生相手の商売って、ラクかもしれない……。で、その売店の上司から、売店の親会社である医療機器メーカーA社を紹介してもらって面接を受け、内定をいただいた。証券会社などほかにも選択肢はあったのですが、私の場合は、「ラクしたい」を第一優先させて、A社への就職を決めたんですよ(笑)。
配属されたのは、東京・上野のA社の本社です。任されたのは、歯科大学への新商品の営業や、実験の依頼、歯医者の新規開業の企画・プランニングなどの業務です。基本、真面目に仕事に取り組みましたが、どうしてもラクをしたいわけです(笑)。会社を出た後、喫茶店に入り浸ったり、海を眺めに行ったり。仕事をさぼることも忘れませんでした。後でわかったのですが、私に割り振られたのは、過去にトラブルがあって、出入り禁止になっている顧客が多かったんですよ。でも、私のマイペース営業が奏功したのか、徐々にまた取引が再開できたりして。上司から、「坂本は意外とやる」という評価をいただき、私のマイペースは社内でも許されるものになっていきました。
入社して4年目、スペイン支社の人材募集があることを知り、自ら手を挙げました。その希望が聞き入れられ、グループ会社で1年の研修後、私はスペイン支社に着任。驚いたのは、現地スタッフの私以上のやる気のなさと、本社への悪口の数々でした。私は正しいと思う文句は言いますが、基本、会社のことは好きなんです。この時、正義感がうごいてしまって、「このままではスペイン支社はまずい」という内容のレポートを50枚ほどしたためて、日本の本社あてに送ったんですよ。そしたら、本社の社長と役員がこのレポートを気に入り、「坂本という男は面白い。日本に戻そう」となった。で、結局私は、日本に戻ってくることになるのです。
<転職>
フランチャイズビジネスの可能性を感じ、
中堅コンビニ本部で店舗開発業務に従事
日本に戻ってからは、スペインからの輸入業務をしながら、産婦人科市場をターゲットとする新規事業など、さまざまなプロジェクトの推進役を任されました。専門知識もないなか、多い時は6つほどのプロジェクトをゼロから動かすわけです。しかも私は平社員のままでしたし、言うべき時は歯に衣をきせずに何でも言う“生意気気質”だから、中間管理職の人たちからはよく思われません。「何だ、あの若造は!」と。でも、社長や役員たちは、本気で私に期待してくれていたから、やるしかない。もちろん、簡単ではありませんでしたが、どうすれば周りの人を巻き込めるか、どう振る舞えば“可愛げのある若造”と思ってもらえるかなど、プロジェクトチームをうまく回していくための術をたくさん学ばせてもらった、非常に貴重な経験となりました。
また、社長と若手社員で構成された、A社の将来ビジョン策定プロジェクトのメンバー7人にも選ばれていました。歯科医がA社のメイン顧客でしたが、このマーケットは以前ほど儲からなくなっていました。ここに医療機器を売り続けても、将来は明るくない。そこで、何度も会議を繰り返し、「歯科医のフランチャイズ展開」というアイデアが出てきたんですよ。自分自身、「確かに、それは面白い」と思っていたのですが、このプロジェクトは何となくうやむやのまま終息していってしまいました。そんななか、相変わらず生意気な私は、徐々に上司との関係が悪化し、大きな溝ができ、まったく行きたくなかった新設部署に異動させられてしまうのです。これが入社10年目のことでした。
A社のことは好きだけど、このままここにいては自分がダメになる……。「フランチャイズ(以下FC)」というキーワードが頭に残っていた私は、転職活動を開始。FCといえばコンビニエンスストアですよね。で、コンビニ本部を中心に面接を受けることを決めたのですが、その直前にIPO直前の某IT企業からスカウトされ、その会社に入社しています。1999年当時はITバブル。その会社も資金は潤沢でしたが、入ってみたらやっていることがずさんすぎて、あきれました。ここはすぐに退散し、結局、某中堅コンビニ本部へ転職。店舗開発の仕事に従事することになります。いくつも大型のFC新規契約を締結し、結果は出せたのですが、数字と結果至上主義の社風が、私には合わなかった。そんな時に、古巣のA社の社長から「戻ってこい」という声が届くんですよ。
●次週、「デンタルエステのFC展開という、新市場を創出して勝負!」の後編へ続く→
現在、ホワイトエッセンスの店舗数は国内70店舗強。
2013年の台湾出店で、アジアへの展開も視野に
<起業へ>
ブルーオーシャンを自らつくるくらいでないと、
苦労してベンチャーをわざわざやる必要性はない
最初は丁寧にお断りました。退職前、熱心に慰留していただいたのに、それを振り切って辞めたわけだし、戻ったとしても居心地が悪いだろうと。そうしたら、「休眠会社を復活させるから、そこで好きなことをやっていい」。そこまで言っていただいて、やっと私の気持ちが固まりました。2000年6月、株式会社MDコミュニケーションズを設立し、歯科医のFC展開を本気で検討し始めたのですが、A社の主要顧客である歯科医の市場とバッティングすることになります。そこで、考え出したのが、歯科医院が提供するデンタルエステサービス「ホワイトエッセンスのFC展開」です。このサービスを端的に説明すると、歯を削らすにホワイトニングする審美サービスが、一般の歯科医院で、しかも格安で受けられるというもの。正直、誰も手がけていない新しいビジネスですし、勝算などありませんでしたが、ニーズの存在だけは、私自身、確信していました。
もうひとつ、どうせやるなら、何かの二番煎じの事業ではなく、まったく新しい市場、新業態をつくりたいと思っていたんです。また、そんなブルーオーシャンを自らつくるくらいでないと、苦労してベンチャーをわざわざやる必要性はないとも。そして、FC展開前のアンテナショップ開発をスタートしたのが、2001年の1月。ホワイトニングの材料を自社開発するため、歯科医とのプロジェクトチームを発足し、同時に、出資者の募集、物件探し、協力してくれる歯科医、歯科衛生士の採用、広告代理店との提携をいっきに進めました。そして、2001年の7月、1号店となる「ホワイトエッセンス渋谷店」をオープン。お客さまですか? 最初はまったく(笑)。知名度ゼロでしたからね。私はといえば、朝5時に起きて宣伝チラシをポスティング、9時から夜の9時まで店に立ち、帰宅後は深夜の2時までホームページづくり。そんな日々を数カ月は続けました。
それでも店は閑古鳥が鳴く状態で、店舗運営を維持できるのも時間の問題となった頃、偶然、某テレビ局のディレクターが顧客として来店されました。その方が、従来の5分の1ほどの価格でホワイトニングができる当社のサービスを絶賛され、人気情報番組で紹介してくれることになったんです。今思っても、本当にラッキーでした。この番組の放送が終わった瞬間から、店の電話が3日間ずっと鳴りやみませんでしたから。そのおかげで、10カ月先までの予約がいっきに埋まった。また、大手アパレル企業から声がかかり、「銀座の店舗の場所を提供するので、ホワイトエッセンスを運営してほしい」と。そんなラッキーも重なり、当社は、着々と本格的なFC展開の準備を進めていくことになります。
<組織力の強化>
ホワイトエッセンスは、歯科医院に
新たな収益源を提供するだけではない
それから2年くらいは、材料をさらに進化させ、施術の時間短縮への取り組みを継続。運営マニュアルも整備していきました。その間の2003年10月、MDコミュニケーションズからホワイトエッセンスのFC本部として事業を継承し、株式会社エイ・アイ・シーを設立。私が代表取締役に就任しました。そして、歯科医へのFC展開を本格的にスタートしたのが、2005年くらいから。最初のFCオーナーは友人の開業医、2番目が知り合いの勤務医です。歯科医の先生にとっては、当社はまだまだ怪しい会社ですから、まずは気心知れた方々から(笑)。ちなみに、当時のスタッフは私を含めて3人のみでした。現在のスタッフ数は18名となりましたが、これからも小さな本部で会社を運営していく方針を変えることはありません。
その後の戦略としては、歯科医師向けに、有料の「歯のホワイトニングセミナー」を開催。これがけっこう当たったんですね。そして、セミナー参加者のなかで、FC加盟に興味を持たれた歯科医師に説明資料やDVDをお送りしながら、商談に結び付けていきました。FC展開を進めていくなかで、いろいろな発見がありました。ホワイトエッセンスは、歯科医院に新たな収益源を提供するだけではないんです。歯科医師も歯科衛生士も国家資格保有者ですから、組織に貢献する意識が薄いんですね。だから院長である歯科医がいくら頑張っても、組織としての歯科医院を機能させないと、経営は継続して上向いていかない。しかし、当社のFCに加盟後、歯科衛生士はホワイトエッセンスの施術を通じ、医院に貢献している実感を得、歯科医師は歯科衛生士のマネジメント、戦力化が経営者としての重要なミッションであることを実感されているようです。
FCに加盟した歯科医師から、「スタッフマネジメントが楽しくなった」「導入後、スタッフのことが以前に比べて好きになった」などのコメントが届くことも多く、組織力の強化が、ホワイトエッセンスが提供している一番のメリットだということを痛感しています。また、歯科医師の多くは、患者のために最高の治療をしたいと思っていますが、保険診療が邪魔をしているんです。でも、自由診療であるホワイトエッセンスなら、お客さまが望む施術が保険の制限なくでき、しかも心からの「ありがとう」が返ってくる。そうやって、歯科医師の保険診療に対するジレンマを和らげるという効果もある。加盟者からは、「エイ・アイ・シーは、歯科医師の“仕事満足”を本気で考えてくれる会社だね」と言っていただけることも。それは、私たちにとって最高のほめ言葉です。
<未来へ~エイ・アイ・シーが目指すもの>
中長期的視点で、このマーケットと
新しい笑顔創造文化を育てていきたい
2012年10月現在、ホワイトエッセンスの店舗数は74店舗まで広がっており、累計で20万人強のお客さまにご利用いただいています。今、国内に歯科医院は6万8000軒あるといわれていますから、まだまだのびしろは大きい。ただし、FC加盟契約を伸ばすだけなら簡単ですが、当社はそれをよしとしません。誤解を恐れずに言えば、お医者さんの中には傲慢な方も多いのです。もしかしたら、9割以上がそうかもしれない。FCビジネスで一番大事なものは、本部の加盟店マネジメントだと考えます。本部は常に加盟店にとって、“師匠”の存在でなくてはらないのです。当社がビジネスモデルのブラッシュアップをするのは当然ですが、施術方法、接遇基準など、顧客満足を高めるための指導を素直に聞いていただけないと、FCビジネスはとたんに立ちゆかなくなる。だから、当社の開発担当は「加盟してください」というお願いはいっさいしません。おそらく、申し込みいただいた件数の7割はこちらからお断りしています。
そうやって、ホワイトエッセンスのクオリティを厳密に保ちつつ、当然、サービスの提供エリアを拡大していく計画です。まずは2014年3月末までに、国内100店舗を達成できればいい感じでしょうか。そして、海外への挑戦もすでに視野に入っており、2013年早々に、まずは台湾で海外1号店を出店します。最初は中国本土の線も考えたのですが、昨今の政情を鑑みて、比較的、親日的な台湾を優先しました。そこでしっかりマーケティングを行い、その後はインドネシア、ベトナムなど人口の多いアジア諸国へホワイトエッセンスを広げていきたいと思っています。この事業を当社では「笑顔創造産業」と位置付けています。ホワイトニング以下、ホウレイ線ケア、ホットリップエステなど、30種弱の笑顔創造メニューをご用意していますが、こちらも慎重にスクラップ・ビルドさせながら、最適なラインナップを開発、ご提供していく予定です。
IPOを考えた時、”大人の会社”として、公器の器にしていくことが、その目的のなかでもっとも重要であり、いずれ機会があれば……とは、思います。ただし、私どものビジネスは従来にないビジネスモデルですから、中長期的視点で、このマーケットと、新しい笑顔創造文化を育てていきたいと考えていますから、今のところ、IPOは、積極的に考えていません。それよりも、私が大言壮語して始めたこのビジネスに巻き込んだ、社員やFC加盟店、そのほか取引先各社の方々にお返しをしないといけません。ふいたホラを、どこまで本物に近づけるか(笑)。そのための努力なら、いくら力を注いでも惜しくはありません。今、一番うれしいのは、社員や加盟店の方々の顔つきが、明らかにいい方向に変わっていく様を見れられた瞬間。その一瞬の満足のためだけに、私はこの仕事をやっているのかもしれません。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
日本を元気にするような、新しいマーケットを
自ら創出するくらいの気概で挑戦してほしい
特別、経営者になりたかったわけでもなく、スタートは雇われ社長のような立場でしたが、立ち上げた事業を始めた以上は、やり続けなくてはいけないという思いでここまできました。だから、アドバイスなんて、あまり偉そうなこと言えないんですけどね。たまに休みができると、1泊や2泊であっても、ソウル、香港、マカオ、台湾、クアラルンプールなど、アジア諸国へ弾丸旅行に出かけます。どこの街に行っても、日本より活気があて、ものすごく元気。毎回、やっぱり日本は元気がないし、保守的な若者が増えていると感じています。どうせ起業するなら、小さくまとまらず、日本を活性化させたり、元気にするような事業をしてほしいと思います。そこを目標にやっているんだと自分で自分を信じることができれば、どんな苦境がきても踏ん張れると思います。
起業する時って、たぶん利己的な欲求が高くなりますよね。私もこの事業を始めた頃は、失敗したらホームレスになるのか、老後はめちゃくちゃになるのかって、自分のことばかり考えていたように思います。その代わり、社員には、「腹くくってやってるから、口出しせず任せてくれ」と言いきっていました。でも、やはりそれではダメな社長なんですよ。社員を信じて、仕事を任せていける社長でないといけない。それがわかるまでに、かなりの時間を要しました。心臓を悪くしてしまって、社員に頼らざるを得なくなったのですが、これが奏功しました。自分自身の健康管理も気をつけるようになりましたし(笑)。でも、当社は少数精鋭をよしとする組織なので、仕事量が多く、高いクオリティを求められますから、本当にみんな頑張ってくれています。心からありがたいと感謝しています。
ビジネスアイデアよりも、マーケティングよりも、大事なものがあると思っています。どんなビジネスモデルであっても、本気になって一緒にやってくれるパートナーと出会えるかどうかで、成功の可能性は大きく違ってくるでしょう。最初はどんなに斬新だといわれた商品やサービスでも、ほとんどが真似されて、下手すれば二番手の商品のほうがシェアを取ってしまう。世の中を見渡せば、オリジナルから少し姿を変えた商品があふれています。そう考えれば、どんなものだって売れる気がしませんか。それを実現してくれるのが組織力であり、仲間だと思うのです。でも、そのようないわゆる“レッドオーシャン”での戦いをおすすめしているわけではありません。ぜひ、日本を元気にするような、新しいマーケット、“ブルーオーシャン”を自ら創出するくらいの気概で、挑戦してほしいと思います。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓