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第139回 株式会社アベルネット/ 代表取締役
小山励基 Reiki Koyama
1964年、岐阜県生まれ、大阪育ち。高校卒業後、金物など、家庭雑貨を扱う商社に就職。営業職を希望するが、配属は倉庫の仕分け業務を担当する部署。入社1年目の12月、同社を退職し、スクラップ屋のバイトと半パチプロ生活で100万円を貯める。その資金を持って、単身上京。上京後は、バイトをしながら劇団に所属し、役者を目指した。自身の出演作は、岩井俊二監督の映画『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』。1993年に結婚。その後、現金問屋にアルバイトとして入社。商売に面白さを感じ、役者は断念。1998年1月、同社を現金問屋の同僚だった、渡邉健次氏と共に創業。2月、インターネットによる通信販売「PCボンバー」をスタート。4月、有限会社アベルを設立。初年度から年商27億円を叩きだす。2000年6月、株式会社アベルネットに組織変更。その後、順調に業績を伸ばし、東京・秋葉原、大阪、仙台、博多にリアル店舗を出店。2011年3月期、年商258億円、社員数80名。現在も果敢な挑戦と、成長を継続中である。
ライフスタイル
趣味
子どもと遊ぶことです。
うちは子どもが3人いて、高2の男、中3の女、小2の女。ちなみに長男は今、うちでバイトしています。さすがに上の二人は遊んでくれないので、休日は一番下の子とプール行ったり、疲れるくらい遊んでます(笑)。あとは、アメリカの映画やテレビドラマのDVDを観るくらいでしょうか。
好きな食べ物
ハイボールです。
缶の角ハイボールがめちゃくちゃ好きです。サントリーの普通のやつ。お酒はそんなに強くないので、350ミリ缶1本で十分気持ちよく酔えます(笑)。燃費もいいし、味も気に入っています。食べ物でいえば、ラーメンとか焼き肉とかでしょうか。意外と子どもっぽい食べ物が好きですね。
行ってみたい場所
アメリカです。
言葉を勉強してから、アメリカに行ってみたい。先日、6万円くらいするNHKがつくったアメリカのDVDを買ってしまいました(笑)。もともと西部劇が好きなんですよ。フロンティアスピリットがすごく面白くてね。このDVDは多分10枚以上のセットなんだけど、まだ3枚くらいしか見ていません(笑)。
お勧めの本
『また、売れちゃった! ~一瞬で顧客の心をツカむ! 売上5倍を達成する凄ワザ88』 (ダイヤモンド社)
著者 河瀬和幸
現場訪問2400回、実際に店頭に立ち、人の5倍を売り上げ、東急ハンズで8年連続売上1位を作った伝説の「完売王」が明かす、誰でも何でも売れるようになる「販売ワザ」のノウハウが満載です。商品の機能特性を独学で勉強し、実践で売れる方法を発見していく著者の経験から、非常に多くのものが学べると思います。僕自身も、この本から得たノウハウを商売にどう生かしていくか、真剣に考えています。
現金問屋の同僚とたった二人で始めたネット通販。
パソコン、家電の激安販売で、年商260億円企業に!
パソコン、家電を中心としたネット通販で、年商260億円! 現金仕入れで激安価格を実現し、価格.comを徹底研究、そしてフル活用し、ネット通販業界で独自のポジションを築いた株式会社アベルネット。多くのユーザーが、同社の運営する「PCボンバー」で、嬉しい激安家電を手に入れている。1998年、勤務先の同僚と二人、この会社を立ち上げたのが、代表取締役を務める小山励基氏だ。「ライバル会社もありますが、彼らは楽天をうまく使う、ヤフーショッピングをうまく使うなどなど、やり方はいろいろあります。うちが成功した理由はいくつかあると思いますが、やはり価格.comの使い方を徹底的に研究して、試行錯誤を繰り返しながら、常にライブ感覚で一番いい方法を探ってきたことにあるのではないでしょうか。」。今回はそんな小山氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<小山励基をつくったルーツ1>
夏休みの宿題を一度も提出したことがない!?
悪ガキ仲間と奔放で自由な少年時代を過ごす
父は建設機械の商社に勤めるサラリーマンでした。新規マーケットを開拓する切り込み隊長的な営業マンで、父が26歳の時に赴任していたのが岐阜県。僕はその時に生まれました。20代中盤の若さで、現場を任されていたようですから、けっこうなやり手だったのでしょう。それからすぐに大阪に転勤になって、僕の記憶は自宅のあった茨木市から始まっています。小学校に入学した頃、大阪万博が開催されて、田舎だった街がいっきに発展していきました。家の周りは田んぼに囲まれていましたけどね。近所にどぶ川があって、近所の兄ちゃんがシャベルでどぶをさらっている。「何してんの?」と聞いたら、「万博が来るからきれいにしてんねん」と(笑)。大阪の人々にとって、それくらいのビッグイベントだったんですね。それでも、最寄り駅の前に広がるターミナルは、まだ舗装されていなくて、土のままだったことも覚えています。
父も母も厳しかったですよ。小学校に上がると、近所の悪ガキ連中と悪いことばかりしていましたから、いつも怒られていましたね。火遊びしたり、けんかしたり、何かを壊したり……(笑)。すぐにばれて、父から何度もぼこぼこにされました。学校には友だちがいるから行っていましたけど、ただそれだけ。勉強は、本当にまったくしなかった。夏休みの宿題も、ずっと出したことがない。でも、意外と要領はよくて、テストとかではまあまあの点を取る。父からは、目標を持てとよく言われていました。でも、その意味すらわからない体たらく。友だちと遊ぶほかは、マンガを読んだりして、ぼーっとする。今考えても、無気力な子どもでしたねえ。ただ、理科の授業だけは好きでして、卒業文集の夢の欄に、「科学者になる」と書きました。それも、一瞬思っただけですけど(笑)。
中学では水泳部に入ってみました。でも、先輩からのしごきがひどくてね。それがあまりにアホらしくて、やっとプールに入れる夏を前にして退部。それからは帰宅部です。やっぱり同じように悪いのが集まって、悪さばかりしてました。でも、とことんのワルにはならない、ちんぴらみたいな感じでしたね。で、ギターを始めました。最初はフォークから入って。弾き語りをしたかったんですよ。そうこうしているうちに、ギターができるので、友だちからバンドに誘われて、KISSやDEEP PURPLEのコピーを始めて。学校の文化祭で披露したりしましたけど、演奏は最悪でしたね(笑)。勉強は相変わらずまったく。高校に行くつもりなかったのですが、先生から「まあまあの高校には行けそうだぞ」と言われましてね。みんな高校行くみたいだし、自分も行こうかと。
<小山励基をつくったルーツ2>
習い事も部活もすぐに辞める自分だったが、
バイトは高校を卒業するまで約4年も続いた
それである私立高校を単願で受けたのですが、説明会に行ったら、集まったやつらの頭の悪さに嫌気がさして、自ら辞退。自分も頭悪いのにね(笑)。で、反則なんだけど、公立高校を受けたら見事に不合格……。15歳で浪人生活ですよ。それから京都にある予備校みたいなところに通い始めました。ここでいろんな受験テクニックを教わって、ある程度の高校には行けそうだったんですが、仲間がいる地元の公立高校に進学しました。偏差値は高くないけど、楽しそうだったから。ただ、1年下のやつらと同級生になることをすっかり忘れてた。入学後に、失敗したなあと(笑)。そうそう、予備校時代から、当時、急成長を始めていたダイエーの下請けの食品倉庫でバイトを始めています。習い事も部活もすぐに辞める僕でしたが、バイトは高校を卒業するまで約4年も続いたんですよ。
高校の授業が終わって、17時から22時が勤務時間。巨大な冷蔵庫の中で、ダイエーの各店舗に納入される食品を仕分けるのが仕事です。真面目にやれば認められるってことを、この時初めて経験した気がします。あと、大人でもサボる人がいることを知ってびっくりしましたね。今から20年前で、毎月7万円ほどがバイト料。けっこうな金額でしたが、パチンコやったり、スクーター買ったりで、すぐになくなっていました。ちなみに父は、その後独立して自分で会社を経営していました。一度倒産の憂き目に遭いましたが、借金を背負いながらも、再起を果たしていたんです。そんな父を僕は尊敬していましたし、自分も高校を卒業したら営業職に就こうと。大学に行くつもりはまったくなかったですから。
実は、バイト先を独立する先輩から、「一緒にやらないか?」と誘われていたんですが、倉庫仕事はいつでもできると断って、高校の就職相談室に来ていた、いくつかの就職先を父に見せて相談。で、営業をするつもりで、家庭雑貨を扱う卸商社に入社したのですが、配属された部署は、何と倉庫での仕分け業務(苦笑)。営業するまで3年間ここで働けと。まあそんなものかと、一生懸命働いてはみたのですが、給料は安いわ、上下関係は厳しいわ、仕事はきついわで……。入社した年の12月に、ボーナスをもらって退社しました。退職後、特にやることを決めていませんでした。ただ、ボクシングをやっていた親友が、東京のジムに移籍するという話を聞いて、自分何となく東京へ行ってみようと考えるように。
<東京へ>
バイトと劇団活動の掛け持ち生活の始まり。
バブルがはじけ無職になるが、結婚を果たす
それから、時給の高いスクラップ屋でバイトを始め、あとはパチンコの攻略法を編み出して、半パチプロのような生活。でも、1年間で100万円くらいの金が残ったんですよ。そして1985年の11月に単身上京し、アパート暮らしを開始。この頃、またまた何となくですが、役者になりたいと思ってたんですよ。で、生活費を稼ぐために工事現場で働き始めたら、そこのバイト仲間が小劇団に所属していたんです。これは渡りに船と、その劇団にもぐり込み、工事現場、新聞回収などなど、いろんなバイトをしながら、劇団の活動を続ける生活が始まりました。その間、いくつかの劇団を渡り歩きながら、今の仕事にもつながる、家電の現金卸問屋でも2年ほど働いています。
劇団の活動は面白かったですよ。舞台けいこが始まると、バイトができないので、体が空いた期間に稼ぎのいい肉体労働をする。バイトで稼げるやつのほうが、余裕がありますから、公演でも出演できる確率が高いんです。僕の場合は、客演も含めて年に4本くらいの劇団の公演に出演していましたね。その間にも、クイズ番組の再現シーンの役者や、サスペンスドラマの端役など、テレビの仕事もいくつかこなしながら。ちなみに、僕の出演作といえば、麻木久仁子さんの彼氏役として出演した、岩井俊二監督の映画『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』です。そうやって、数年間はバイトと役者を掛け持ちしていました。
劇団って大道具の仕事もあるでしょう。バブルの頃は、ビジネス展示会が花盛り。出展会場のブースづくりの仕事が山ほどあったんです。僕もその仕事をけっこうこなして、毎月40万ほどを稼いでいました。で、1993年に今の妻と結婚するのですが、バブルがはじけてその仕事が激減……。結婚した時は、ほとんど無職の状態でした。そうやって大工みたいな仕事をしていましたから、家具職人にでもなろうかと考えたのですが、聞けば10年くらいはほぼ無給の下積みだと。それじゃあ意味がないと、以前世話になっていた、秋葉原にあった家電の現金問屋に連絡してみたのです。すると、「バブルははじけたけど、好景気も不景気もうちはまったく関係ない。いくらでも仕事があるので、明日から来い」と。で、結婚式の1週間後には、その家電現金問屋でバイトを始めています。
<商売の道か役者の道か>
現金問屋に入社して、商売の面白さを実感。
薄利多売でOK、早く売りさばくのが鉄則
役者の仕事も細々とではありますが続けていました。現金問屋で働き始めて少しして、ダウンタウンの浜田雅功さんと、中山美穂さんが共演したテレビドラマの端役として出演する機会を得たんです。そんなある日、撮影現場で待機していた浜田雅功さんを前にして、僕はうまく挨拶ができなかった。大物芸能人を前にして気おくれしたのか、演技の研究もあまりしていない自分に自信が持てなかったのか……。理由はいまいち自分でもわかりませんが、そのことがきっかけとなって、役者への興味がだんだん薄れてきたんです。まあそれとは関係なく、現金問屋での仕事が肌に合ったんでしょう。どんどんこのビジネスが面白くなってきていましたから。
現金問屋、俗にバッタ屋とよく言われますが、値崩れしてでも売りたい商品を持っている人がいて、安ければその商品を買いたい人がいる。その間に立って、商品という情報を右から左へ動かして、利ざやを稼ぐ商売です。僕が勤務していた会社の扱い商品は家電中心だったのですが、自分が任されていたのは、雑貨、ブランド品、化粧品など。ただ、この会社は儲かるなら何でもやっていいという社風で、いろいろなチャレンジをさせてくれました。スポーツ新聞に「何でも買い取ります」という広告を出している関西の現金卸問屋がありましてね。これを実践させてもらった際には、植木鉢から食品まで、実にいろんな商品の売り込みがありました。
当時はインターネットがまだなかったので、そうやって安く仕入れた商品を、電話帳を片っ端から調べ、買い手を探して、営業する。ただ、僕は営業よりも、仕入れる際の駆け引きに圧倒的な面白みを感じていました。現金で買い取るという立場の強さ、売主の足元を見ながら駆け引きするテクニック。大きなトラブルにはまったことはありませんでしたが、偽物やコピー商品をつかまされることもある、騙し騙されのスリリングな世界です。ただし、きちんとした商品をしっかり見極め、安く仕入れることができれば絶対に損は出ない。また、在庫を持たず、薄利多売でもいい、できるだけ早く売りさばくのが鉄則です。そしてこの会社で僕は、現在、当社アベルネットの専務であり、ビジネスパートナーの渡邉健次と出会ったのです。
●次週、「激安インターネット通販、年商260億円に成長!」の後編へ続く→
価格.comの仕組みを徹底研究し、常時激安No.1!
リアル店舗も展開し、顧客の不安心理を取り除く
<同僚に誘われて>
がめつくやらずに薄利多売を徹底する。
創業初年度の年商はなんと約27億円!
現金問屋の同僚だった渡邉健次は、僕に「有給がもらえるから、バイトではなく社員になったほうがいい」とアドバイスしてくれた男です(笑)。実は、少しだけ役者に未練があって、有給使えば両立も可能かと思ったんですけど、仕事が面白くて、忙しくて、結局、役者はもうええわと(笑)。現専務の渡邉(以下・専務)に、「独立しませんか?」と誘われたのが独立のきっかけです。専務は前職でもパソコンを専門に扱っていて、少し個人客向けの通信販売もやっていたんですよ。僕も少し手伝っていたのですが、当時で定価30、40万円するノートパソコンを現金で格安に仕入れて、20万円くらいで売る。それがめちゃくちゃ売れた。そして専務は、「これからはインターネットの時代が来ます。個人向けにパソコンの激安販売を始めたら、絶対に儲かります」と言うわけです。さらに、「ここは給料も低いし、一緒に辞めて事業を始めましょうよ」と(笑)。僕は専務の人柄と商売センスを買っていたので、「ほなら辞めるわ」と。で、4年半勤務した、現金問屋を退職し、1998年に今の会社を創業したのです。
専務はパソコンの相場にものすごくくわしくて、彼が言うことなら間違いないだろうと。独立当初は、ふたりで昼くらいに集合して、買い取り屋やリサイクルショップ、質屋など、お客さんのところへパソコンを仕入れに行って、それをお客さんのところへ売りに行って、10万円くらい利益が出る。そんな日々を1月ほど続けて、僕は「これはええなあ」と思っていたんですよ。そうしたら専務が、「このままじゃダメです。通信販売をやるんだから、すぐに事務所を構えましょう」と。「ええ~!」ですよ。でも、わかったよと(笑)。最初はね、卸が多かったですよ。開業資金は、たぶん500万円もありませんでした。仕入れが1000万円だとすると、売るところにまず500万円もらいに行くんですよ。その後、うちの500万を合わせて仕入れに行って、それを納品するという。専務が前の会社でその信用を完璧につくっていたんです。だからどの業者さんも、先にお金を貸してくれました。また、がめつくやらずに薄利多売でいくことを継続。それを徹底することで、どんどんお客さんが増えていきました。で、初年度の年商が約27億円です。
通信販売のほうは、専務が手づくりのサイトを作成。パソコンの品番を記入したエクセルを貼っていた程度のものですが。当時はパソコンに詳しい人向けに情報を提供していたので、型番だけでスペックもわかってもらえたんです。すぐに「PCボンバーなら、安くパソコンが手に入る」と、その筋の人たちには有名になりました。専務は価格.comの創業者とめちゃくちゃ仲良しで、前の会社にいた頃からつきあっていました。ちなみにうちは、価格.comの登録店1番です。実は、価格.comの存在があったことも、専務が独立を決めた大きな理由だったようです。僕は何も考えていませんでしたけどね(笑)。あと、専務はコンピュータ雑誌の記者たちともすごく仲良くしていましたね。いろんな人たちと、「一緒にご飯食べに行こう」と。当時の僕は「何やってんねん……」と思ってましたが、その記者たちがいい記事を書いてくれる。彼なりの上手な接待だったんですね。
<顧客心理を徹底研究>
創業して以来、バッタ屋という言葉を一切使わない。
激安商品を提供するけれど、あくまでも小売り業者
そうやって価格.comを活用し、コンピュータ雑誌の記者たちとの付き合いを深め、とにかく「うちのパソコンが一番安い」ということを継続して広報していきました。本当は個人に販売するほうが利益は出るのですが、独立して5、6年目までは、現金をつくるために卸もやっていました。なぜななら、銀行がお金を貸してくれませんでしたから。ライバル会社もありますが、彼らは楽天をうまく使う、ヤフーショッピングをうまく使うなどなど、やり方はいろいろあります。うちが成功した理由はいくつかあると思いますが、やはり価格.comの使い方を徹底的に研究して、試行錯誤を繰り返しながら、常にライブ感覚で最適な方法を探ってきたことにあるのではないでしょうか。
この会社を立ち上げてから、僕たちはバッタ屋という言葉を一切使っていません。激安のパソコンを提供するけれど、あくまでも小売り業者であるというスタンスを貫きました。僕はガラが悪いので、電話注文には出ない。専務にそう釘を刺されましたよ(笑)。目指すのは小売りである。だから、接客の際の言葉使いも丁寧に、アフタフォローもしっかりやる。バッタ屋から、パソコンの通販に進出してくる会社がいくつかありましたが、それらを徹底することで絶対に負けることはない。もちろん、逆に店舗や商社から、通販に進出してくるケースもあります。そしたら、その会社のやり方も研究して、勝てる方法を研究し、試し続ける。そうやって本気でナンバーワンの小売り業者を目指したわけです。
もうひとつ、創業当初からリアル店舗をつくったことも大きかったですね。ネット通販だけでは顔が見えないので不安になるお客さんもいるでしょう。リアル店舗があるとお客さんは安心するんですよ。販売業者の住所を見た時に、何とかマンションの○号室というよりも、何とかビルの1階でショップを持ってる業者のほうが、絶対に不安がられないでしょう。「お金を先に振り込むのに、マンションの一室……本当に大丈夫」と。ただし、リアル店舗を持っていると間違いなくコストはかかります。ただ、ヤマダ電機さんとか、ヨドバシカメラさんとか、店舗にいくとさすがにいい接客されますよね。もちろん、展示している商品点数ではまだまだ勝てませんが、量販店さんには憧れますね。
<未来へ~アベルネットが目指すもの>
自分たちの信じるやり方で、どこまで行けるか。
おろしていない貯金は、まだまだ山ほどある
僕らは愚直と言われるくらいまっすぐな商売をしてきました。たとえば、商品が手元にないのに、サイトに商品を掲出して注文が入ってから商品を探して仕入れるという会社もあるんです。そういうのはすごく嫌だった。また、少人数で安く仕入れて安く売るだけでもしんどかったのですが、3年保証、5年保証をつくったり、取り付け設置を開始したり。顧客が望んでいるであろうサービスは少しずつ拡充していきました。先ほど商品がないと情報を掲出しないと言いましたが、そんなに急いでいないお客さんが買ってくれるならと、あらかじめ業者と提携して、お米や海産物などの取り寄せサービスもスタート。ほかにも、カード決済の専用サイトをつくったり、テレビを売ってるんだからテレビ台も売ろうとか、そういった他社がやっていることをうちも大々的にやり始めようと。
ほかのネット通販だったら普通にやっていることをずいぶん我慢して、たとえば5、6年前まで電話注文に固執していたんですよ。やっぱり、声と声がつながっているほうが安心できるじゃないですか。2006年頃からやっとショッピングカートを導入したくらいです。そういった意味で、うちは、まだまだできること、言わば、おろしていない貯金がまだまだいっぱいある。それらのことをしなくとも、これまではしっかり数字がつくれていた。それが今まで。でも、これからは、さすがにそれではいかんだろうと。少人数で頑張ってきましたから、余裕がなかったという実情もあります。ネット通販の研究はずっと継続してきましたが、自社サイトのSEO対策すらしていませんでしたから(笑)。で、最近になってやっとSEO対策を自社で研究し始めたところなんです。
PCボンバーは激安パソコンのイメージが強いですが、今では扱い商品点数は常時1000点ほど。販売数でいえばデジカメが一番多く、販売金額では液晶テレビが一番です。でも、同業の中でも、うちがパソコンを一番売っているんじゃないですかね。それはやはり、価格が他社より安いから。この王道のポイントは絶対に外せません。実は、楽天やアマゾンから出店のお誘いを何度もいただいています。いまだ決断はしていませんが、これもうちの伸びしろ、おろしていない貯金のひとつですね。今後は、インターネットの可能性を模索しながら、扱い商品のラインナップをどんどん拡大していきたい。また、もっと大きなリアル店舗もつくってみたい。今、社員数約80名、前期の年商が約260億円。自分たちの信じるやり方で、どこまで行けるか。試したいことが、まだまだ山ほどあるんです。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
独立前にたくさんの信頼関係を構築しておくこと。
特に何でも聞ける経営者の方との関係が大事
とにかく、会社勤めをしているうちに、信用をつけなさいと言いたいですね。僕らは前勤務先と同じような業態からスタートしましたが、お客さんとの信頼関係、価格.comとの信頼関係、また、コンピュータ雑誌の方々との信頼関係、それらに感謝しながら、ずっと続いているから今の自分たちがあると思っています。また、僕たちとは違ったかたちで、勤務会社とはまったく別の業種で独立するのだとしても、信頼関係は絶対に役に立ちますから。ちなみに、たとえば僕が一番苦労したのはお金を借りることなんですよ。そのノウハウは自分だけではなかなか習得できません。そもそも、僕らの独立は、前勤務先や同業者からすごく嫌われたんですよ。だから、誰も何も教えてくれませんでした。
勤務先の社長でもいい、取引先の社長でもいい、そういったことを相談させてもらえる、教えてもらえる先輩経営者との信頼関係をつくっておくべきだと思います。ただし、そこで答えをもらえるわけではないんです。でも、一人で考え、悩むよりは絶対にましです。僕はドリームゲートのこのインタビュー記事をよく読むんですけど、いろんな経営者の軌跡を読んで、「あ、僕と同じや」「同じ苦労してる」「僕なんかよりもっと苦労しているな」とか、そんな発見が勇気になったり、前向きになったり、やる気になったりするんですよ。商売は継続が前提です。継続のためには商売を面白くするしかないですよね。僕らの場合は、常に忙しくて、失敗したら次の対策を考えて、うまくいって、失敗してまた考えて、その繰り返しでしたけど、それらすべてが最高に面白かった。
あと、僕と専務は創業の時からよきパートナーとして共同して経営に当たってきました。よく、共同経営は失敗が多いと言われますが、本物の信頼関係があれば大丈夫ですよ。僕は本当に専務のことを信頼しています。たとえば、専務から、「10万円でこのパソコンを仕入れて」と言われたとしますよね。それで、売り手が「11万円で」とか言ってきたら、僕はブチ切れます。「あほ! うちの専務が10万円っていってるんや!」で、電話をガチャンと切る。そのうえで専務に相談すると、「なら、10万5000円で」、となる。その後に、「おう、だったら10万5000円で買おうじゃないか」。まあ、実際はこんな口のきき方はしてないですけどね(笑)。で、商談成立。そのくらい専務のことを信頼しています。なぜなら、彼の言ったことを実践して失敗したことはほとんどないから。逆に、自分で勝手にやったことで痛い目に遭ったことは何度も(笑)。もちろん、たまにはケンカもしますけど、専務は僕が「わー!」ってなるのを抑えてくれる。最高のビジネスパートナーなんですよ。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓
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