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第128回
株式会社トランザクション
代表取締役
石川 諭 Satoshi Ishikawa
1961年、千葉県生まれ。大学時代に、貸し本事業を考案し、成功を収める。遊びとその仕事に没頭し、大学で取得した単位はわずか17単位。帝京大学法学部を中退し、アパレルの株式会社ジュンに就職。営業職として、大手百貨店などを担当する。一度きりの人生、自分で会社を立ち上げたいという思いが膨らみ、入社2年半後にジュンを退職。25歳で、株式会社トランザクションの前身となる、有限会社トランスを設立し、代表取締役に就任する。大手企業などからオーダーされるカスタムメイド雑貨のOEM製造からスタートし、2002年より自社オリジナル雑貨の製造を開始。同社のエコバッグは大ブレイクし、成長が加速。中国を中心としたアジア各国に約200カ所の協力工場を配したファブレス経営と、店舗を持たない店舗レス経営が同社の特徴。前8月期の連結売上高は約75億円。2010年10月には5社の事業会社を抱える純粋持株会社のトランザクションが、JASDAQスタンダード市場への新規上場を果たした。
ライフスタイル
好きな食べ物
和食です。
おいしいものは何でも好きですが、やっぱり和食でしょうか。温泉宿の部屋で食べる懐石料理なんて、いいですよね。でも、先の年末年始は忘年会、新年会と会食が続きまして、そのメニューがことごとく和懐石だったのです。なので、今はちょっとほかの料理にひかれていたりします(笑)。
趣味
ドライブです。
今の仕事が面白くて、それが趣味のようなものですから、あまり思い浮かびません。ゴルフも事業成功の願懸けで、すっぱりやめてしまいましたし。強いてあげるとすれば、車の運転ですかね。箱根とかの温泉に出かけたり。ちなみに、ゴールド免許です。第三京浜を走るのが好きですね。
行ってみたい場所
パラオです。
私は大のタバコ好きでして、4時間半を超えると、やばい(笑)。仕事柄海外に行く機会は多いのですが、飛行機に乗っている間って吸えないじゃないですか。だからあまり遠くには行きたくない。でも、知人からパラオへの直行便が就航したと聞きまして。しかも、約4時間半で行ける。なので、パラオです(笑)。
お勧めの本
『ベンチャー経営論』(日本経済新聞社)
著者 柳 孝一
10年以上前に出会った本です。読み終わった瞬間に、大きな感銘を受けました。以来、ことあるたびに読み返していますし、経営者の知り合いに配ったりもしています。事業を立ち上げると、どんな壁や問題が立ちふさがるか。また、それをどうやって改善していけばいいのか。とても的確にまとめられています。私自身、事業を進めていくプロセスの中で、何度もこの本に助けられました。事業を経営する立場を目指すなら、ぜひ読んでおいてほしい良書だと思います。
店舗レス&移動型ファブレスの独自戦略で、
エコでお得なデザイン雑貨を供給し続ける!
一般雑貨、エコ雑貨、ヘルスケア雑貨などの企画、製造、販売を手掛ける5つの事業会社を抱える純粋持株会社のトランザクションが、昨年(2010年)10月、JASDAQスタンダード市場への新規上場を果たした。エコ雑貨製品を中心としたファブレスメーカーとして、企画・デザインから製造・品質管理・販売までをワンストップで行う雑貨事業を展開している。同社を25歳で立ち上げ、育て上げてきたのが、石川諭氏である。「失うものなんて何もありませんでしたから、不安はまったくありませんでしたね。ただ、すぐに自社でオリジナルの雑貨製品がつくれるほど潤沢な資金はありません。そこで最初はサラリーマン時代にお世話になったアパレル会社や百貨店に営業に出向き、ニーズを聞き出しながら、販促用雑貨の受託生産からスタートしました」。今回はそんな石川氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<石川 諭をつくったルーツ1>
5段階評価の通知表で全教科「3」をとるような、
極めて普通の小学生が唯一はまった日本文学
昨日よりも今日が大事。過去の話にまったく興味がない人間なので、このインタビュー企画に自分が適しているのか疑わしいのですが……。社員にもほとんど自分の昔話をしてこなかったですしね。そもそも物心ついたとか、目が開いたと言われるのも、普通よりすごく遅かった気がしています。趣旨、大丈夫ですか?(笑)。話を進めますと、生まれは千葉県の柏市です。3歳くらいまでそこにいたのかなあ。うちの親族には自営業者がとても多くて、ご多分にもれず、父親も会社を経営していました。事業内容は1960年代に市場が急拡大し始めた、飲料などの自動販売機を設置運営するベンダーです。父は移動好きだったのか、何度も自宅の引っ越しをしていましたね。柏の次は埼玉の越谷、次は東京の江東区といった感じです。実は、私も引っ越しが好きなんですよ。社会人になってから、かれこれ10回以上は引っ越しをしていますからね。
裕福な家庭だったか? 会社経営はいい時もあれば、悪い時もあるのが常。だから、いたって普通の生活でしたよ。石川家の教育方針を問われれば、放任主義の雑草系、というかペンペン草系(笑)。兄弟は弟がひとりいまして、彼は今、うちのグループ会社で働いています。小学校の時の記憶もほとんどないのですが、唯一の自慢は、一度だけ通知表で「オール3」を取ったことがあることくらい。5段階評価で全教科「3」なんてめずらしいでしょ(笑)。まあ、それくらい普通の少年だったということですね。本を読むのは好きだったかな。自慢話を聞いたり話したりするのが嫌いなので、偉人伝は嫌いだったけど。小学校高学年の頃に、50巻くらいの「日本文学全集」を買ってもらったんですよ。だから、基本的には日本の文学小説ですね。太宰治とか芥川龍之介とか、中学に上がる前には全巻読破していたと思います。
中学は越谷の公立中学に進んでいます。部活ですか? 人とつるむのが嫌いでしたから、入りませんでした。面倒くさいから勉強もあまりやらない。だから成績も中の下くらい。いったい何をやっていたんでしょう……、ここまでの話だと、かなり暗い少年ですよね。でも、まあ普通に友達と遊んだりはしていました。塾に行かされていたんですよ。ある時から魔がさして、塾をサボるようになって、月謝袋の中に入っている現金をお小遣いにしてしまいました(笑)。夜な夜なの遊び活動は、半年くらいでばれて、当然ですが、父から物凄い剣幕で怒られました。そうそう、渋々、女子生徒から頼まれて、交換日記をしていたんです。それも面倒くさくて、日記じゃなく、あみだくじとかを書いたりしていました(笑)。お互いが教室の机の物入れにこっそり置き合うのですが、席替えしたタイミングを忘れていて、別の生徒の机に置いてしまった。あれを、みんなに読まれてしまった時は、かなり恥ずかしかった。人間の記憶って、不思議と良い思い出より、悪い思い出ばかりが残っているものですね(笑)。
<石川 諭をつくったルーツ2>
中・高・大は完全なるモラトリアム期間。
麻雀、サーフィン、ディスコと遊びまくる
高校は特別な理由もなく、私立を受験しました。で、合格したのが池袋にある、私立本郷高等学校。下世話な話ですが、この頃から女の子がとても可愛く見えてきまして、繁華街にある男子校だったこともあって、ナンパしたりされたり、遊んでばかりいました。あとはお決まりの麻雀にはまって、モータウン系のブラックミュージックを聞き始め……。ほんと、何も考えずにぽかんと過ごしていたような、まさにモラトリアムの時期でしたね。
ただ、起業家である父の背中を見て育ちましたから、小さな頃から、大人になったら雇われる側ではなく、会社をつくって経営者になりたいと、漠然と考えていました。でも、この頃に大人気となったテレビドラマ「3年B組金八先生」を見ていて、ふと自分も先生になりたいと思った。ただ、それも一瞬だけですぐに忘れてしまいました(笑)。
そうそう、過去に興味がないという話をしましたが、それは両親から受け継いだDNAの影響かもしれません。小・中・高と一緒の学校に通っていた友だちが、大人気漫画「北斗の拳」の作者である原哲夫。彼が目を悪くしたという話を聞いて、久しぶりに連絡を取ろうと、母に「高校の卒業アルバムを出しておいて」と電話したんですよ。そうしたら、「あら、引っ越しの時に捨てちゃったわよ」とあっさり。ちなみに、今では世界的に有名になった現代美術アーティスト・村上隆も本郷高校の同級生だったようです。その話を伝え聞いた時も、「本当にあの村上なのか?」と思い、卒業アルバムで確かめたいと思ったのですが、それも結局できずじまい。卒業アルバムって、子どもにとっては大事な思い出ですから、普通、捨てないですよね。我が親ながら、すごい人だと思いました(笑)。
とにかく高校の3年間は遊び倒す日々でしたので、将来のことなんて真剣に考えていなかったのです。ただ、とりあえず大学には行っておこうと、試験日が遅かった帝京大学を受験し、法学部に進学しています。大学でも相変わらず遊んでばかりいましたね。週に何回かは、千葉・九十九里方面へ出かけて波乗り。この頃はロングボードなんてなかったので、ショートボード専門です。それで、夜は夜で、東京に戻って、六本木、赤坂、渋谷、新宿などの繁華街にあるディスコに入り浸り。だから大学には本当に数えるくらいしか行っていなかったんです。まったく自慢できる話じゃないですけど、4年間で取得した単位数がわずか17単位でしたからね。波乗りに、ディスコでの夜遊び三昧。なぜ、そんなにお金があったかのか? 実は自分であるビジネスを考案して実践していたのです。それがけっこう、うまくいったんですよ。
<初めてのビジネス>
貸し本事業を考案し、潤沢な遊び資金を確保。
大学は中退となるが、アパレルのジュンに就職
当時はドトールやスターバックスなんてないですから、コーヒーを飲むといえば、街場の喫茶店が定番です。だいたい漫画の単行本が置いてあるのですが、数回同じ喫茶店に通うと全部読んでしまって、飽きてしまう。ここにビジネスチャンスがあることに気づいた。いわゆる「貸し本事業」です。また、喫茶店だけでなく、理髪店や病院、調剤薬局の待合室にも、同じサービスが受け入れられるはず。すぐに神保町の古本屋で、漫画の単行本を格安で購入し、営業開始しました。2週間に1度の頻度で漫画本を入れ替えるという約束で、3カ月で基本料金を3000円に設定したところ、これが大当たり。すぐにひとりでは立ち行かなくなり、後輩たちを仲間に引き入れ、ビジネスとして拡大していったわけです。結果、毎月60万円ほどの収入を得られるようになり、けっこう派手に使って遊びましたよ。この仕事と遊びに夢中になって、どんどん自宅から足が遠退いていきました。
1週間、家に帰らないこともざらで、警察に捜索願を出されたこともあります。大学4年になった頃、根無し草のような私を見るに見かねた父から、「人生を真剣に考えろ!」と一喝され目が覚めました。確かに、このままではいけない。ひとまずサラリーマンにでもなってみるかと。アパレルビジネスに興味があったこともあり、大人気だったブランド「JUN」を展開している株式会社ジュンに、ある方の紹介を受けて応募。結局、大学は中退することになりましたが、無事、営業職として採用されました。当時はバブル景気の絶頂期で、服があればどんどん売れていく状況だったんですよ。私は大手百貨店といくつかのフランチャイズ店を担当し、ルートセールスを続けました。業績もしっかり上げつつ、遊びも頑張りました(笑)。アパレル業界は景気も良く、モテましたからね。ただ、だんだんと、この仕事へのモチベーションが保てなくなっていくんです。
一生この状態が続いていくことを考えると、それは性格的に耐えられない。やっぱりサラリーマンは向いていないと思ったし、また、一度きりの人生、いつかは自分の会社をつくって勝負したいという気持ちも強くなっていました。また、アパレル業界で働いていて気づいたことがあります。その頃はまだ、雑貨業界というものが確立されていなかったんですね。今でいえば、無印良品やフランフランとか。あったとしても、ほとんどが輸入品。雑貨製品を専門につくる会社があったら、受け入れられるのではないかと。社員にもよく言っていますが、「あったらいいな」や「不便だな」を解決することにこそ、ビジネスチャンスがある。私は人に比べてものぐさで、面倒くさがり屋だから、それらをキャッチするアンテナの感度が高いのだと思います(笑)。そして2年半のサラリーマン生活を卒業。雑貨ビジネスでの起業を決断したというわけです。
<25歳で起業>
雑貨ビジネスという概念がまだない時代、
その市場の確立を目指し、徒手空拳で起業
1987年1月、品川区五反田の小さなワンルームマンションをオフィスとし、株式会社トランザクションの前身となる、有限会社トランスを資本金200万円で設立しました。失うものなんて何もありませんでしたから、不安はまったくありませんでしたね。ただ、すぐに自社でオリジナルの雑貨製品がつくれるほど潤沢な資金はありません。そこで最初はサラリーマン時代にお世話になったアパレル会社や百貨店に営業に出向き、ニーズを聞き出しながら、販促用雑貨の受託製造からスタートしました。当時は「景品」という言葉が、「ノベルティ」にやっと変わり始めた時代です。まだバブル景気も華やかなりし頃でしたから、ボールペン、バッグにポーチなどなど、さまざまなノベルティグッズのOEM製造のオーダーをいただくことができたのです。ありがたいことに、いきなり大忙しの幕開けとなりました。
ほぼ毎日の午前中は、グッズ製造を請け負ってくれる、足立区、墨田区、江戸川区などの縫製工場や革製品を扱う工場に出向き、オーダーされた雑貨の仕様を説明に出向く時間に当てました。もちろん、雑貨のOEM製造も初めての経験ですから、右も左もわからない。工場は電話帳で探して連絡したり、営業車で走りながら見つけた工場に飛び込みで依頼したことも。ものづくりの基本、ノウハウは、当時お付き合いいただいた下町の工場から教えてもらったと思っています。そして平日の午後と夜はアパレル会社、休日は百貨店への営業に駆けずり回る日々。おまけに夜の空いた時間は、企画書を書いたり、工場から納品されるグッズの袋詰めや箱詰め作業も。それをたったひとりでこなすわけですから、1年間は休みなんてまったく取れませんでした。
それからすぐに採用を始めて、世の中のニーズの動きに合わせながら、当社はゆっくりと拡大を続けていくことになります。社員が増えても経営者としての役目をこなしながら、スタートから10年くらいはずっと創業当初のような現場仕事も続けていました。やがて東京の町工場では製造コストが高くなり、納品価格との帳尻が合わなくなってきます。このままではまずいと、その後は徐々に国内の地方にある工場に製造委託先を移すように。それによって物流コストがかさむようになると、そのコストを削減するため、クラフトワークという物流や印刷業務を行う関連会社を設立することで対応。その後もさまざまな変化が訪れましたが、柔軟でスピーディな数々の対応戦略が奏功し、設立初年度に少し赤字を出しただけで、当社はこれまでの24期、一貫して黒字経営を継続しています。
●次週、「ファブレス&店舗レスの戦略を徹底! 昨年には上場を果たす」の後編へ続く→
企画、デザイン、製造、流通までワンストップ!
日本生まれのエコ雑貨のアジア圏販売も射程に
<エコでお得!>
OEMに加え、自社オリジナル雑貨の製造に挑戦。
エコバッグが大ヒットし、今では年間1000万枚!
その後、国内の製造コストが高騰し始めると、海外でのグッズ製造・輸入・販売を行うトレードワークスという会社を設立。中国沿岸部を中心とした協力工場と提携し、さらに価格を抑えた生産体制を確立しました。設立以来、大手企業のノベルティグッズなどのOEM製造を中心とした経営を続けてきましたが、そろそろ自分たちのつくりたいもの、あったらいいなと思える雑貨を製造したいという気持ちが強くなってきまして。10年くらい前にエコバッグを製造し、自社オリジナルの企画雑貨製品の卸販売事業にも進出しています。そのきっかけは、ウミガメがスーパーやコンビニのレジ袋を餌のクラゲと間違えて食べてしまい、死んでしまうというニュースを聞いた時でした。元・サーファーですし、海の環境問題には関心がありました。さまざまな環境負荷の軽減にも役立つし、エコバッグは必ず世の中から必要とされる商品になると確信したんです。
その後も、企業や消費者の環境に対する意識は高まる一方で、自社オリジナルのエコバッグはもちろん、大手スーパー各社、有名ブランドなどのエコバッグのカスタムメイドを数多く受託していきました。今では年間の供給枚数は1000万枚を超え、シェアはトップクラスです。以来、自社で展開するオリジナル雑貨は、基本的にエコをテーマに据えたものになっています。たとえば、ゴムの木の廃材を活用した「ラバーウッドシリーズ」。ゴムの木は20年を超えると樹液が取れなくなるんです。ゴムの木は木目がなくて軟らかく、丈夫さを重視する建具や家具には向きませんが、その反面加工しやすく、靴べらや小物入れ、フォトスタンドなどの雑貨に生まれ変わっています。ほかにも、革の端材をつかった革製品、竹を使ったデザイン箸なども、当社が供給している商品ラインナップです。
エコ雑貨でも、そうでないデザイン雑貨でも、自分たちがあったらいいなと思えるものをつくる。これが一貫して変わらないコンセプトです。機能やデザインにもとことんこだわりますが、それをリーズナブルにつくる。エコカーもエコ家電も、減税措置やエコポイントがなかったら、あそこまで売れなかったと思うのです。だから、当社の特徴であり競合他社との差別化戦略は、ファブレス&店舗レス。固定資産をできるだけ持たず、経営資源はすべからくものづくりに投下しているわけです。今では中国だけではなく、台湾、香港、ベトナム、バングラディシュ、インドと、協力工場は200カ所強に広がって、常時に約90の工場が稼働しています。常に最適な製造ラインを探し続ける、移動型ファブレスですね。もちろん、15歳以下の子どもを働かせていない、環境を壊さない仕組みを有しているなど、当社でつくった厳しい基準を満たした工場を厳選しています。
<2010年10月、上場>
機能、デザイン、価格の3拍子がそろった、
数々のエコ雑貨が、次々に大ブレイク!
もちろん、海外の工場に日本と同等の生産クオリティを求めるのは大変です。当社の社員が現地に滞在し、厳しく指導していきます。それでも、数多くの失敗を経験してきました。製品は規格どおりに上がったものの、物流の段階で雨に当たって、届いた時にはカビだらけになっていたり、納品されたバッグの縫製部分の強度試験を行ったら、何と縫い目ではなく生地そのものが破けてしまったり……。日本の常識が海外では通用しないことを、幾度となく痛感しましたね。ただし、一度した失敗を繰り返さなければ、その失敗は貴重な経験であり、ノウハウになっていきます。そこは我慢強く、しっかりとした指導を積み重ねながら、信頼関係を築き、クオリティを保っていくしかありません。そうやって地道に、200もの協力工場を有するポジションを構築していったのです。
現在では、一般雑貨、エコ雑貨、ヘルスケア雑貨の3本柱を中心に、自社オリジナル雑貨を年間約200アイテム開発していまして、グループ全体の売上高ベースで、オリジナルとカスタムメイドの比率は、だいたい半々というところ。取引先は5000社を超えています。売れ筋はいくつもあるのですが、たとえば4色ボールペン。でも、色は赤、青、黒の3色しかなく、黒がボール径1mmと0.7mmの2本。緑ってあまり使いませんよね。他社の4色ボールペンは350円以上しますが、当社は78円からという破格の低価格を実現。このシリーズは年間500万本を生産する大ヒット商品となっています。また、昨年(2010年)は災害が多かったでしょう。そこで、商品化したのがLEDライト。懐中電灯ってかっこいいものが少ないので、デザイン性も追究しました。LED電球を9つ使って、価格は400円から。これも予想以上の売れ行きを見せてくれています。
当社は世の中のニーズに順応しながら、その都度、必要と思われる関連会社を設立してきました。それぞれの会社の社長に、自分たちで利益を捻出できる経営を目指してもらいながら。その関連会社が5社となり、社員も300人を超え、グループ企業としてのガバナンス統制が取りづらくなってきた。それにより、グループで守るべき全体ルールを再設定する必要に迫られたのですが、社員は縛られることを嫌います。でも、上場すれば会社の知名度も、信頼感もアップします。だったら、上場することを共通の目的とし、試練を全員で乗り越えていこうと。そして、2010年10月に、ジャスダック市場に上場。結果的に、いろんな意味でプラスでした。また、私自身、上場によってさらにやる気が出ました。自分が考えていたよりも、株価が低かったんです。今に見ていろよ、と(笑)。トランザクションのバリューを、絶対に市場に認めさせる。反骨精神に火が付いたところなんです。
<未来へ~トランザクションが目指すもの>
5年後を見据え、10個のビジネスシーズをまく。
そのうちの3割を、10億円ビジネスに育てたい
当社は、経営形態として純粋持株会社制度を採用しており、グループ経営管理を主体としたトランザクションの傘下に、5社の機能別事業会社を持っています。ものづくりにこだわり、移動型ファブレス&店舗レスの戦略を守りつつ、一般雑貨、エコ雑貨、ヘルスケア雑貨と同程度、年商10億円以上の新規プロジェクトを、最低10個つくるのが今年の課題ですね。5年後に、その内の3割が花開くようなシーズとして育てていきたい。もちろん、雑貨というフレームから逸脱はしません。儲かるからといって、たとえば不動産事業など、外界のビジネスにはいっさい手を出さないということです。ユニクロの柳井社長は、著書で『一勝九敗』の経営を言われていますが、その上を目指してみようと。簡単ではないことは重々承知ですが、あきらめることなく挑戦していきます。
当社はこれまで、カスタムメイド雑貨の営業を自社で行ってきました。より BtoBを強化するため、昨年12月、大手広告代理店などとSPプロモーションおよびイベント事業を行っている、上場企業・株式会社テー・オー・ダブリューとの業務提携を締結。同社との協業により、企画・デザインから製造・品質管理・販売までワンストップでオーダーに対応できるトランザクションの強みがより生かされる結果となるはずです。昨今、音楽CDや雑誌の売れ行きが落ち込んでいます。そこで、音楽出版社はコンサートグッズの販売に、出版社は、おまけ付き雑誌の販売に力を入れ始めています。実際に当社は人気グループのコンサートグッズの製造委託を受けていますが、その発注量はかなりのもの。出版社からのオーダーもどんどん増加しています。ものが売れなくなると、世の会社は当然打開策を探します。そこにこそ、我々の出番があるんですよ。
また、上海に現地法人を設立し、製造だけではなく、アジアでの雑貨販売への準備が整いました。変化には必ずチャンスが隠れていると思います。起業してからずっと、私は変化に順応しながら、会社経営を継続してきました。だから、固定した企業イメージをずっと描くことなくやってきた。社是も社訓もつくりませんでした。何かしらの枠にはまったり、自由度がなくなることが最大のリスクだと考えていたからです。会社は自分自身にとってはもちろんですが、社員にとっても誇り。いいものをつくって、できるだけ安く提供し、「君たちのおかげで、業績が上がったよ」とクライアントから感謝されたい。さらに、環境負荷を軽減する商品をつくることで、地球からも感謝されたい。仕事をすればするほど、幸せな人たちが増えていく――。これからもずっと、誰も不幸にしない、トランザクションという会社に与えられた存在意義を、守り続けていきたいと思っています。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
今日よりも明日のほうが絶対に素晴らしい。
そう考えて、最初の一歩を踏み出せばいい
私は25歳の時に、右も左もわからないままの状態で、起業しています。会社のつくり方は当然として、経営の知識もいっさいありませんでした。でも、やってみたら何とかなったし、かれこれ四半世紀、常に成長しながら会社経営を継続しているわけです。事業計画書やプランなど、事前準備が大事という人もいるでしょう。これは私の持論ですが、走りながら考えればいいんです。いろいろ考えすぎた結果、怖くなって、最初の一歩が出ないケースも多いと思います。一度きりの人生、やりたいことがあるのなら、勇気を出して、そのための一歩を踏み出すべき。今日よりも絶対に明日のほうがいいことがあるんですから。そうやって自分を言い聞せると、良いのではないでしょうか(笑)。
その代り、一歩を踏み出し、起業の世界に飛び出した以上、昼も夜も、平日も休日もない覚悟で、自分が持っている資源のすべてを、ビジネスに投入する覚悟が絶対に必要です。私自身も、起業したその日から、寝る暇なかったですよ。睡眠時間4時間あればいいほう。その状態が5年くらいは続いたでしょうか。その頃には、血尿と血便が出るほど疲れがたまって、やっと用心し始めました。長生きすることは大事ですからね(笑)。あと、継続できた秘けつは2つあると思っています。ひとつは、常に大きな賭けをせず、身の丈経営を自分に課したこと。大きな損を出さないために、変化に順応しながら、少しでもバクチと思えるようなことにはいっさい手を出してきませんでした。もうひとつは、持株会社制度を使ったこと。それぞれの会社に社長を置き、自己責任で経営に当たってもらったことで、みんなが想像以上の成長をしてくれました。たくさんケンカもしてきましたけど。
ビジネスチャンスが隠れている変化を見逃さないよう、情報収集は誰よりもしていると思います。社員に言うとみんな嫌な顔をするのですが、私は見たいテレビ番組はすべて録画し、2倍速で再生して見るようにしています。そして常にノートパソコンを用意して、わからない用語が出たら、すぐに検索して調べます。また、新聞は3紙、雑誌はビジネス、雑貨、ファッション関連など、週に最低4冊は読む。書籍も分野を問わず、気になったものは購入して読みあさります。街を歩いている時は人の持ち物を観察し、電車に乗ったらできるだけたくさんの広告をチェック。そのうえで、外部とのコミュニケーションをどんどん。インプット、インプットです。頭に入れた情報はすべて知識に変わりますから、それが自分流のビジネスチャンスを見つけるための勉強。若い頃はあれだけ勉強嫌いだったのに、不思議なものですね。まあ、仕事が趣味のようなものですから、当然ですか(笑)。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓