第112回 株式会社ティーケーピー 河野貴輝

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第112回
株式会社ティーケーピー 代表取締役社長
河野貴輝 Takateru Kawano

1972年、大分県大分市生まれ。物心ついた頃からエジソンが好きになり、理科少年になる。小学生時代、祖父の経営する店で手伝いをし、商売に引かれる。中学生時代はアマチュア無線に熱中。大分県立大分雄城台高校から慶應義塾大学商学部に進学。学生時代、アルバイトでためた資金で株式投資を始め、痛手を被ったことで勉強不足を自覚し、財務会計ゼミで学ぶ。この世界でプロになることを目指し、卒業後は「目的別採用」を導入していた伊藤忠商事に就職、為替証券部に配属。4年間、ディーラーとして活躍した後、日本オンライン証券(現・カブドットコム証券)の設立にかかわる。2000年、上司とともに退職し、上司が代表として設立したイーバンク銀行(現・楽天銀行)に4年間在籍、取締役営業本部長などを歴任。2005年、独立し株式会社ティーケーピー(TKP)設立。現在、全国各地で500室を超える貸会議室の運営のほか、研修に必要な要素の手配など周辺事業の拡充に取り組み、急成長を続けている。

ライフスタイル

好きな食べ物

寿司と焼き肉です。
子どもの頃から、寿司と焼き肉が大好きです。どちらかといえば焼き肉のほうが好きなのですが、最近はダイエットのために寿司のほうを優先しています。それで今年6kgやせたんですよ(笑)。本社から築地が近いので、よく行きますね。行くのは場内の寿司屋さんとか、普通の店です。

趣味

ゴルフと温泉めぐり。
2009年の暮からゴルフを再開しました。以前使っていたクラブは先輩からもらった中古品だったので、自前の新品セットを揃えました。現在は毎週のようにラウンドしています。取引先とか、参画している諸団体主催のコンペが多いですね。あとは温泉めぐりが好きです。旅行業の免許を取ったこともあり、勉強かねて方々を回っています。

行ってみたい場所

行ったことのない南欧。
国内はたいていのところには行きました。海外は、アメリカやアジア、北欧に行ったことがあります。なので、まだ行ったことのないイタリアやフランス、トルコ、ギリシャあたりの南欧に行ってみたいですね。地中海を見ながらパスタを食べたり、クルーザーに乗ったりと非日常を味わってみたいです。

最近感動したこと

新入社員の「AKB48」。
2010年に初めて新卒を21人採用しました。新人がお花見を主催してくれたのですが、その時に彼らが女装してAKB48の『会いたかった』を熱唱してくれたのです。公園で衆目を集める中、恥ずかしげもなく歌い踊る彼らの姿に、「ウチもこんな会社になったのか」と感動しました(笑)。社員で埋まる会議室を見た時も、感慨がひとしおでしたね。

使われていないスペースを貸会議室に。
"三方よし"のビジネスモデルで急成長。

 2010年4月に行われた、民主党政権による「事業仕分け」第2弾。その会場となったのが、貸会議室事業を手がけるTKPの運営する「TKP東京駅日本橋ビジネスセンター」だ。使われていないオフィスビルや結婚式場、ホテルなどのスペースをいかにキャッシュ化するか。TKPは、その命題に金融の知見やITを活用して事業化に成功、設立5年で売上高35億円と急成長している。いまでは日本全国の主要都市に直営、運営受託含めて500室を超える貸会議室を展開している。成功の要因には、不動産物件をできるだけ安く調達し付加価値をつけて提供するノウハウと、無理な投資をいっさい行わずに拡大させる事業モデルを確立させたことで、"売り手よし、買い手よし、世間よし"の"三方よし"を貫いていることが挙げられる。そして、貸会議室という"OS"の上に、研修プログラムや講師派遣、什器レンタル、弁当のケータリング、利用客の交通や宿泊の手配など、さまざまな"アプリケーションソフト"を乗せて提供。2013年に売上高100億円を目指す。今回は、そんな事業を展開している河野氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<河野貴輝をつ くったルーツ1>
エジソンが大好きで、理科少年に。手製の"携帯電話"も発明する。

 生まれ育ったのは、大分県大分市。父親は石油会社の会社員で、母親は専業主婦でした。きょうだいは、2歳下の妹と、16歳下で現在大学4年生の弟がいます。ごく普通の家庭であったと思います。
 物心付いた頃から、発明家のトーマス・エジソンが大好きでした。何冊も伝記を買ってもらってむさぼり読んだ覚えがあります。影響されて、小学生時代に自分で「発明ノート」というものをつくっていました。毎日、ひらめいたことを書き付けていたんです。その中には、人間の動きに合わせて向きを変えるスピーカーなど、後年、製品化されたアイデアもあったんですよ。

 理科全般が大好きでした。生物ではいろんな動物を飼っていましたね。家には20羽のニワトリのほか、ウズラ、モルモット、カメ、金魚、そして数百匹のカブトムシやクワガタなんかがいましたし、飼ってはいませんがヘビもいました。化学の実験なんかも大好きでした。雑誌か何かの「子ども記者」という企画に応募して、地元のプールの取材ルポを書いたら5000円もらえました。生まれて初めて自分で稼いだお金です。それで試験管やビーカー、薬品を買って実験をしました。薬品の配合を間違えて爆発し、危ない目に遭ったこともあります(笑)。

 中学生になると、アマチュア無線に夢中になりました。当時は「電話級」(現・第四級アマチュア無線技士)、「電信級」(現・第三級アマチュア無線技士)という資格があり、両資格に一発で合格。モールス信号でツーツートントンと世界中の人と交信を楽しんでいました。さらに、自作の携帯電話までつくったのです。アマチュア無線は通常、1つの周波数を使って交信します。したがって、こちらが話し終わると「どうぞ」と言って相手が話すわけです。そこで私は2つの周波数帯で話せるように改造し、相手と同時に会話できるようにしました。23年前のことですが、かなり画期的なことだったんじゃないかと、今だに思っています(笑)。

<河野貴輝をつくったルーツ2>
夏休みや冬休みのたびに実業家の祖父の家へ。商売に目覚め実業家を志すルーツとなる。

 一方で、当時弁護士を題材にしたテレビドラマが話題となっており、自分も正義の味方である弁護士になりたいと思った時期もありました。その夢は、大学受験で法学部に不合格となって消えたわけですが、その代わりに「実業家になる」という夢を追うようになるわけです。その思いのルーツには、祖父の存在がありました。

 実業家の祖父は、別府市内でジーンズ店やスポーツ用品店、模型店を事業としていて、夏場は海岸で海の家などを営業していました。祖父のことが大好きで、小学生時代から夏休みや冬休みは必ず祖父の家に行って店の手伝いをしていたのです。祖父は私を商談の現場などにもよく連れて行ってくれました。そのうち商売に興味津々となり、頼まれもしないのに集客策を考えて勝手に実施してしまったこともあります。「キャンペーン中につき、1等賞はグローブがもらえる!」と。そうしたら、来店したお客さんが本当に当てて、祖母が「子どもが遊びでしたことですから」と謝って撤回している姿を見てさみしくなりました(笑)。自分は集客のためによかれと思ってやったわけですから。
 海の家では、子ども相手にトランポリンを10分100円でやらせていました。子どもがいないとほかの子どもも寄ってこないので、隣のかき氷屋さんの女の子とサクラで楽しそうにトランポリンをやるわけです。子どもが集まったところで、自分たちは抜けてかき氷を食べる。小学生にして販売促進策の重要性に目覚めるわけです(笑)。

 高校は、当時県下で一、二を争う進学校の県立大分雄城台高校に進学しました。その頃に祖父が脳梗塞で倒れ、そのことをテーマに「投げたらアカン」という題で校内の弁論大会に出場して優勝し県大会に進みました。「投げたらアカン」とは、当時プロ野球の近鉄バファローズのエースだった鈴木啓示投手がテレビCMで言ったセリフで、当時の流行語だったのです。祖父を励ますつもりでしたが、願い空しく高校を卒業する頃、祖父は他界しました。自分は会社員になるよりも、祖父のように自分で商売をやりたいと思っていましたから、祖父の死はとても悲しかったことを今でも覚えています。

<学生時代>
株式投資でゼロ・リセットを繰り返す。その悔しい思いが今の自分へのジャンプ台に

 大学受験に一浪して、慶応義塾大学商学部に入学します。学生時代はよくアルバイトをしましたね。まずは生活費を稼ぐために塾の講師や家庭教師をやり、それ以外にも時間を見つけては結婚式場や不動産会社、中華料理店などで働きました。本当は会社をつくって事業をやりたかったのですが、資本金として1,000万円なければ会社はつくれないからと、資金づくりをしているつもりでした。

 そして、300万円ぐらい貯めたところで、手っ取り早くお金を増やそうと株式投資を始めます。1993年、細川内閣がスタートした年でしたが、株価は下落し始めて損をするばかりでした。時期が悪かったのですが、自分の勉強不足が原因と考えて財務会計ゼミに入りました。
 株の知識を得ようと、新聞広告に「いい情報が入手できる」と書かれていたダイヤルQ2サービスを聞いたりしました。しかし、情報料が1回1000円で、かつ株の売買手数料が往復6%もかかります。17回取り引きすれば元本がなくなるわけです。儲かるわけがありません(笑)。
 そして、ある怪しい投資顧問会社の「30万円現金を用意したら絶対に値上がりする銘柄を教える」という誘いに引っかかり、買った直後に大暴落するといった目にも遭いました。
 そんなことの繰り返しで、アルバイトでためたお金は何回もゼロ・リセット。非常に悔しい思いをしました。「なんで自分はこうも負け続けるのか? どうすれば株の世界でもうけることができるのか?」、そう自問し、ファンド・マネージャーか株のディーラーになろうと決めたのです。こうして思い返せば、株式投資で大損した経験が今の自分をつくるジャンプ台になりましたね。

<就職>
伊藤忠商事為替証券部に就職、念願のディーラーに。世界のマーケットに向かう

 就職活動は、ファンド・マネージャーかディーラーになれる証券会社、保険会社などにしぼって取り組みました。そして、外資系証券会社、国内の証券会社とともに伊藤忠商事から採用内定をもらいました。同社の為替証券部門では当時、自社の高い信用力により低コストで資金を調達し、それを運用して利ザヤを稼ぐというビジネスを手がけていたのです。そして、同社は「目的別採用」を行っていて、自分の希望した為替証券部への配属が確定しての内定がもらえたので、同社への入社を決めたわけです。

 ところが、入社1年目は為替証券管理室というバックオフィスの部署に配属され、上司のアシスタント業務という日々。ディーラーとしてバリバリ働こうと思っていたところが、毎日夕方6時には帰寮という日々に嫌気がさしてきました。そこで、自ら証券会社のセミナーに出掛けたり、証券アナリスト資格の勉強をしていました。
 2年目からは念願のディーラーに。毎朝6時に出社し、「ウォールストリートジャーナル」や「ファイナンシャル・タイムズ」の記事をチェックして、参考となりそうな記事にアンダーラインを引いて7時に出社してくる先輩の机に置くことから1日が始まりました。
 組織とは別に、個人として10億円ぐらいのポジションを任されました。東京市場の株式の先物とオプション、債券や為替のディーリングを行い、閉まるとロンドン市場、その後はニューヨーク市場に向かいました。いろいろ稼いだと思いますが、損したことしか覚えていないんです(笑)。1億円の損失を出して始末書を書いたこともあります。それでも、基本的には楽しい毎日でしたね。

 ところが、97年の山一證券、98年の日本長期信用銀行の経営破たんで伊藤忠商事の為替証券部門も大きな影響を被り、伊藤忠商事全体で約4,000億円にのぼる不良資産が生じます。社長に就任した丹羽さんが大ナタをふるって一括処理し、2000年には史上最高益を出すという流れになるわけです。
 その一方で、丹羽さんはネット証券の時代が来ることを予感し、ネット証券会社を自社で立ち上げることを決めました。そして、私にも白羽の矢が立てられたのです。

●次週、「"三方よし"のビジネスモデルで急成長!」の後編へ続く→

ディーラーの経験から、事業運営のモットーは"損切り命!"。
成功に安住せず、常に事業の中味を点検、"スクラップ&ビルド"を追求し続ける

<転機>
ネット証券会社、ネット銀行の立ち上げにかかわる。友人の死で独立を決意

 先輩とともにネット証券会社の設立に奔走し、マイクロソフト社などの出資も得て99年4月に日本オンライン証券を設立します(同社は2001年にイー・ウィング証券と合併しカブドットコム証券となる)。設立準備に半年、設立後に半年間の出向と計1年間かかわりました。ベンチャー企業の立ち上げに一から参画し、家に帰れない日々が続きましたが、楽しかったですね。ネット証券の誕生は、リアルタイムで情報を得ながら株の売買ができるという、まさに革命的な出来事でした。

 インターネットの可能性に出合った私は、ネットオークションに引かれます。毎週末にフリーマーケットに行き、木村拓哉さんや広末涼子さんといったアイドルのグッズを数百円で仕入れてオークションにかけるのですが、地方の人が数千円で買ってくれるのです。その人たちが手に入れられないような品物を、交通費より安い値段で売る。これは素晴らしい慈善事業だと思いました(笑)。
 落札されると商品を発送するわけですが、当時は入金の確認は銀行に行って通帳に記帳しなければならないなど、一連の手続きに手間がかかりました。そして、インターネット銀行の必要性を感じるようになります。ちょうどその頃、ネット銀行の設立を計画していた直属の上司の誘いに乗ることにしました。伊藤忠商事を退職し、2000年1月に設立されたイーバンク銀行(現・楽天銀行)に転じ、取締役営業本部長などを歴任しました。同社では、4年間、資本集めや金融庁との交渉、法人や個人への営業、コールセンターの管理、マーケティングなど幅広い業務に従事。その間、晴れ舞台から修羅場まで、良くも悪くもさまざまな経験を積むことができました。また、設立4年目だった楽天の三木谷社長はじめ、東京電力やヤマト運輸、Yahoo! といった名だたる企業のトップと知り合うこともできました。自分がもっとも成長したことを実感できた4年間でしたね。

 それまでずっと「いつかは自分で事業を立ち上げる」と思い続けていましたが、臆病を自覚する私は不安もあって踏み出しきれずにいたのです。ところが、2005年のこと。学生時代の友人が不慮の事故で亡くなりました。その衝撃的な出来事に、「自分もいつ死ぬかわからない。人生は1回切り。彼のためにも後悔してはいけない」と背中を押され、起業を決断したのです。

<TKP創業>
ワケあり物件を貸会議室としてネットで売り出しヒット。ビジネスモデルを見つける

 独立を決意した私は、それまでの金融・証券全般の知識や経営企画立案、資金集め、営業支援といった経験を生かし、IPOを目指す経営者のコンサルタントになるのが自然な道と思って開業しました。しかし、人様の金儲けの手伝いでは面白くない、やはり自分で実業を手がけたいと思っていました。そんな時に受けた1件の情報が、現在のTKPのビジネスにつながるのです。

 現在の六本木ミッドタウン近くに、取り壊しが決まっている3階建てのビルがありました。そのオーナーが、2、3階の入居者は退出したけれども、1階のレストランが出て行かなくて困っているとの情報を聞きつけたのです。ピンと来た私はさっそく話を聞きにいくと、ワケありなので、家賃は相場の3分の1でいいから借りてくれないかと。それなら何とか借り手は探せるだろう、そしてサブリースすればいいと思い、「3カ月前に通告されたら必ず退出する」という念書を入れて、私自身が20坪の2フロアを坪5000円、総額20万円で賃借することにしました。そして周辺の会社に営業しているうちに、そのビルの隣で工事をしていた建設会社が工事現場事務所として1フロアを25万円で借りてくれることになったのです。相場より安い賃料でも、1フロアだけで2フロア分の賃料と5万円の利益が出ました。そして、なかなか借り手が見つからなかったもう1フロアは、暗証番号式のカギをつけて50人入れる会議室として1時間5000円で貸し出すことを思いつきます。喫茶店より安かったので、「1人あたり1時間100円」と広告を打ったら大反響がありました。

 利用者からは使用料を前金でもらえます。そして、オーナーへの賃料支払いはワケありなので後払いでOKでした。つまり、お金はたまる一方。「これはいい!」と、このビジネスを追求することにしたのです。TKPのビジネスの原型が誕生した瞬間でした。
 その後、赤坂の結婚式場が第2号店になりました。平日稼動していない宴会場を実稼動させたら、その売り上げの50%をもらうという契約です。敷金などないので原価はゼロ。経費は会議用の長テーブルを持ち込んだくらいでした。これも当たったのです。

<未来へ~TKPが目指すもの>
会議室は"OS"と捉え、その上に"アプリケーション"となる周辺ビジネスを展開

 当初は、なかなか借り手のつかない、エレベーターもないような古い雑居ビルを手当てして会議室というテンポラリーな用途に切り売りしていましたが、そのうちにお客さまから「人が集まりやすい駅前で借りたい」「もっときれいな場所でやりたい」とグレードアップしたニーズが出てきます。それに対して、より大規模なビルに最低250坪以上のスペースを確保して会議室の集合体を設け、社員を常駐させる「ビジネスセンター」をつくりました。さらに、ランドマークとなるようなビルに500~1000坪のスペースを設け、ホテルレベルのクォリティに近づけた「カンファレスセンター」を用意。全国展開も行って、貸会議室数とともに売り上げは雪だるま式に増えていきました。

 ここまで成長してこられたのは、使われていない不動産物件を稼動させることでオーナーや利用者に喜ばれ、当社は無理な投資をいっさい行わずに事業を拡大させることができるモデルの確立により、"売り手よし、買い手よし、世間よし"の"三方よし"を貫くことができているからだと思っています。
しかし、安心はしていません。会議室は現在100拠点・500室以上あり、実稼動期間は短いもので3~6カ月、長くても2年。個別の収益動向に目を配り、分散化したポートフォリオの中味を絶えずスクラップ&ビルドしてリスクヘッジしていくことが大切だと考えています。まさに金融ビジネスで培った手法が役立っていますね。

 今後は、会議室は"OS"のようなものと捉え、その上に"アプリケーションソフト"を付加する周辺ビジネスを拡大すべく取り組んでいきます。例えば、研修プログラムの提供や講師の派遣、什器レンタル、弁当のケータリング、利用客の交通や宿泊の手配など。そのために旅行業の免許も取得しました。
 その先には、会議室というインフラをさらに深堀し、製品展示会の企画・主催や採用・教育・研修業務の代行など総合的なアウトソーシングビジネスの展開も視野に収めています。これにより、2010年5月期の売上高35億円を3年後には100億円まで持っていきたいと考えています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセー ジ>
"撤退なき挑戦"はない。そのためにも、"小さく生んで大きく育てる"ことが肝心

 事業とは、挑戦と撤退を決断することの連続だと思います。逆にいえば、撤退なき挑戦はない、ということ。つまり"玉砕"してはならないのです。
 この考えの根底には、ディーラーとして相当な金額のポジションを持ち、リスクをにらんでマーケットに挑んでいた経験があります。ディーラーは"エグジット"、つまりどこでディールを終わらせ、収益を確定させるかを決断することが非常に重要です。最悪の場合は"損切り"をしなければなりません。うまくいかない玉を持ち続けていては、半永久的に損をし続けることになるからです。新興国でもない限り、そんな玉でもいつかは値上がりするという時代ではありません。"損切り命!"は私のモットーなのです。

 創業して3カ月もすれば、そのビジネスがうまくいくかどうかはわかるもの。うまくいかないとわかれば、すぐに撤退すべきです。ダメな事業を続けることほど、社会の迷惑になることはないし、抜き差しならなくなってからでは傷口は大きく広がってしまうからです。傷が小さければ、いくらでもやり直しはできます。

 そのためにも、"小さく生んで大きく育てる"ことが肝心です。よければ追加投資していけばいいのですから、最初から大きく生む必要はありません。ましてや、現代はドッグイヤーの時代。うまくいっているビジネスも、2~3年、長くても5年しかもたないと考えるべきなのです。
 かくいう私も、貸会議室ビジネスだけに頼り切らないTKPをどうつくるかを常に考えています。心の中にある"リセットボタン"に、常に手をかけている状態です。
 これから起業しようという読者の皆さんに、冷水をかけるようなことを言っているかもしれませんが、これまで数々の"玉砕"を見てきたからこそ。ご自身の事業を継続させるためにも、参考になれば幸いです。

<了>

取材・文:髙橋光二
撮影:内海明啓

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