- 目次 -
第103回
プロフィール 株式会社アクロディア 代表取締役社長
堤 純也 Junya Tsutsumi
1965年、神奈川県生まれ。父の勧めで、小学生時代から医学部志望。県立小田原高校に進学し、医学部を目指すが、推薦制度への応募に合格し、慶應義塾大学理工学部数理科学科へ進学する。日本初の人工知能言語システムを開発した、中西正和研究室で人工知能を研究。修士に進んだ頃から、コンピュータ業界でのアルバイトを始める。その後、慶應義塾大学大学院博士課程に進み、カーネギーメロン大学主任研究員など務める。 (在学中の1991年、友人が社長を務める株式会社エイチアイに入社。ネット携帯電話黎明期に開発した3Dエンジンが、会社の経営危機を救うスマッシュヒットとなる 。2002年、エイチアイの取締役副社長兼Chief Technology Officerに就任。2004年、エイチアイの取締役を退任。同年7月、株式会社アクロディアを設立し、代表取締役社長に就任する。2006年10月、東証マザーズに上場を果たした。
ライフスタイル
好きな食べ物
魚料理が好きです。
魚系が好きです。寿司とか、和食とか。平日の夜は仕事関係の会食が続きますから、健康のためには、やっぱり和食がいいのかなと思っています。居酒屋も好きですが、会食にはあまり向きませんね。お酒はワインに焼酎、日本酒となんでも。好んで飲むのはワインでしょうか。
趣味
スキューバとゴルフ。
昔からの趣味はスキューバダイビングです。年に2回ほど、長いお休みをいただいて、海外で潜りを楽しんでいます。あとは、経営者仲間に誘われて始めたゴルフですか。ゴルフは月に2、3回ほど、コンスタントにプレーしていますね。アクロディア社内のコンペにも参加しています。
行ってみたい場所
エアーズロックとグレートバリアリーフ。
先日、オーストラリアを旅行したのですが、エアーズロックに行きそびれてしまいました。いつかぜひ、あの巨大な岩山をこの目で見てみたいと思っています。昔一度潜った、グレードバリアリーフにも行きたい。上場前に行こうとしたら、危ないからと止められましたが(笑)。
最近感動したこと
「アバター」です。
映画の「アバター」は、すごかったですね。久々に映画を観て感動しました。3D映像がやはり素晴らしくて、仕事上のヒントもいくつか得ることができました。ただ、字幕版の3Dだったのですが、日本語字幕も一緒に飛び出てくるんですよ。ちょっと、あれはいただけないですね(笑)。。
最先端技術こそ、使いやすくなくてはならない。
抽象化の技術で、ユーザー思いの製品を開発し続ける
携帯電話の機種変更をした後、前機種との操作性の違いにとまどった経験がある方は多いだろう。これは、携帯電話機メーカー各社が、それぞれ独自の UI(ユーザーインターフェース)を提案することで、顧客を囲い込む戦略を進めた弊害といえる。しかし、ユーザーはただ、自由に、便利に、たくさんの優れた携帯電話の機能を使いたいのだ。メーカーの思惑と、ユーザーの願いの間に存在する問題を解決するために、立ち上がった男。それが、株式会社アクロディアの堤純也氏である。「もちろん、シニアも小学生も、会社員も主婦だって使う携帯電話ですから、万人が最適と感じるUIなど存在しません。ならば、OSとアプリケーションの間でミドルウエア機能させ、UI自体を抽象化し、好みの使い方を自由に選べるようにすればいい。当社の製品“VIVID UI”が、そのソリューションを実現しました」と語ってくれた堤氏。今回は、そんな堤氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<堤 純也をつくったルーツ1>
海、山、川、小田原の自然と遊んだ少年時代。中学生からコンピュータに親しみ始める
生まれは神奈川県の小田原市です。父は高校の教師で、母は専業主婦。私はふたりの間に生まれたひとりっ子。いたって普通の少年だったと思いますが、小学生時代から勉強はけっこうできたほうだと思います。担任の先生からもかわいがってもらっていましたし。父は文科系の教師だったのですが、本当は医者になりたかった人。自分の夢を息子に託したかったのか、「純也はぜひとも医者を目指せ」と。そんなことを言い聞かされていたこともあって、算数や理科が特に得意でした。5年生になると、父は自己流で私に勉強を教えてくれるようになりました。私ひとりだけに教えるのはもったいないと、近所の子どもたちも集めましてね。まあ、ボランティアの私塾のようなものですね。
勉強ばかりかというとそうではなくて、仲間とソフトボールやサッカーに興じたり、海が近いので釣りにはまったり。鯖の大群がやってくると、もう何十匹も釣れてしまうんですね。鯖って、鮮度が落ちるのが早いでしょう。だから、大量に釣れた日はご近所に鯖を急いで配り歩いていました。また、小田原には山もあって、山遊びも楽しかった。みかん畑がたくさんありましてね。収穫の時期が終わると、みかんの木にいくつか超完熟の実が残っている。このまま腐らせるのはもったいないので、仲間と拝借して食べるわけです。もちろん、本当はいけないんですけど。いや、おいしかったですよ。ただ、一度だけ先生にそのことがばれて、怒られてしまった記憶があります。
進学した公立中学は、運動部と文化部、両方に入ることがルールでした。運動部はサッカー部に、文化部は科学部に入部。当時で40年以上、小田原市を流れる酒匂川の水質検査を継続していた部で、理科系好きの私にはぴったりでした。科学部では最終的に部長を任され、神奈川県が開催するシンポジウムで、データ発表なども行いました。その頃ですね、初めてパソコンを手にしたのは。水質検査のデータをまとめる時にも使えるそうだと、マイコンキットを買ってきて組み立てた。その後も、計算機に毛がはえた程度の機能でしたが、プログラミングができるポケットコンピュータを手に入れて、いろいろいじっていました。思い返せば、この頃から携帯可能な情報機器が好きだったんですね。
<堤 純也をつくったルーツ2>
医学部進学を目指して受験勉強を続けるが、推薦制度を活用し、慶應の理工学部へ進学
中学でも成績は良かったです。でも、恋も普通にしましたし、不良たちとも分け隔てなく遊んでいました。当時の神奈川県は、学区規制が厳しく、ア・テストという高校入学判定に極めて重要な試験がありまして。私はそれらのルールに従って、県立小田原高校に進んでいます。サッカーはもうやめると決めていたこともあり、入部したのは弓道部です。入ってからわかったのですが、かなり厳しい練習を強いられる部で、1日10回の腕立て伏せから始まり、1日10回ずつ加算されていく。1月後には、なんと1日300回! 参りましたよ。そもそもなぜ、弓道部を選んだのか? その理由は不純なんですが、中学時代から付き合っていた彼女が弓道部に入ったからです(笑)。
毎日、放課後は部活動。土曜日も半ドンの後は部活動。忙しかったですね。でも、友人たちと麻雀をやったり、バンド活動に誘われてドラムを始めてみたり。遊びもしっかりやっていました。ただ、私の場合、ドラムを叩くと、手と足が同時に動いてしまう(笑)。下手でしたねえ。だから、音楽にはあまりのめり込めませんでした。バイトは校則で禁止されていましたが、学校の許可を取って、叔父から紹介されたスーパーで夏休みの1カ月間働きました。鮮魚コーナーの下働きでしたが、あれはかなりつらかった。そんな日々を送りながらも、パソコンへの興味はずっと褪せることなく。当時発売されたNECのPC-98を手に入れたりと、相変わらずメカいじりは趣味として続けていました。
医学部志望は変わりませんから、勉強もしっかり継続。父が筑波大学を卒業していたこともあり、筑波大学の医学部を目指そうと。調べると、臨床よりも研究が強いことがわかった。その点も、自分に合っていると思えましたので。が、小田原高校には慶應義塾大学の推薦枠がありまして。しかも、奨学推薦という、4年間学費免除の。かなりハードルが高いと聞いていましたから、無理だろうと思いつつ、軽い気持ちで応募してみた。そしたらなんと、合格してしまった。そんな経緯で、私は慶應義塾大学の理工学部数学科に入学することになるんですよ。当時は人工知能の研究が盛んで、コンピュータ好きの私にとっては、その研究に携われることも魅力でした。医者への道はここで断たれたわけですが、父からは「教師にはなるな」という以外、大きな反対はされなかったですね。
<人工知能の研究に没頭>
脳の仕組みを知らないと、この研究はできない。何となく医学にも通じるものがあると感じた
大学の1年次は単位を取るのがけっこう大変で、比較的真面目に大学へ通っていました。でも、2年に上がると少し楽になり、家庭教師のバイトを始め、テニスサークルの仲間たちと夏はテニス、冬はスキーと、楽しい時間を過ごす。それはそれで面白かったですよ。で、3年になると専門を考え始め、やっぱり人工知能だと。自然言語処理は、コンピュータに人間の言葉を教える技術です。脳の仕組みを知らないと、この研究はできないので、何となく医学にも通じるものがあると思えました。難しいロボットをつくるようなイメージですが、メカニカルとは少し違う。人の知能の基礎を紐解いていくような部分に、面白みを感じたのですね。
4年になってゼミに入り、本格的な研究に着手し始めます。研究室は、日本初の人工知能言語システムを開発された中西正和先生の研究室。中西先生は残念ながら2000年に永眠されましたが、日本のインターネットの父と呼ばれる村井純さんも、この研究室のOBですね。そうやって希望どおりの研究室に籍を置いた4年次の1年間、人工知能の研究を続ける中で、多少は就職も考えました。1987年当時は、バブル景気が最高潮の頃でしたしね。ただ、研究がやっと面白くなってきたこのタイミングでやめるのはもったいない。結局、研究を続けたいという思いが勝り、私は修士課程へ進むことを決めました。この頃は、研究者として大学に残り、将来は教授になるのかなと思っていました。
修士課程に進むと、授業もそれほど多くなく、時間がけっこう自由になるんです。産業界の方々ともお付き合いするようになって、自然とコンピュータ業界でバイトを始めるようになりました。大学では普通にインターネットやメールが使われていましたが、まだ世の中にはまったく知られていない時代です。人工知能関連の技術をコンピュータに付加していく、エキスパートシステムが産業界から求められ、SI会社などから依頼されたシステムコンサルティングやプログラミングのお手伝いをするように。これまで大学で研究してきた自分の知識が、産業界に貢献している。しかもそれに価格がついて、世の中に出て行くわけです。漠然とですが、コンピュータサイエンスの新しい可能性を感じることができました。
<起業前、副社長CTO時代>
ネット携帯電話黎明期に開発した3Dエンジンが、会社の経営危機を救うスマッシュヒットとなる
同じ研究室の先輩が働いていた、UNIX系の業務システム開発を主に請け負うエイチアイという会社に出入りするようになりました。慶應義塾大学のOBたちがギルド的に集まって法人化した、活気ある雰囲気の会社でしたね。創業者である当時の社長の健康上の理由で、その経営を引き継いだのが公私ともども仲良くしていた、現社長の川端一生さん。彼からの誘いもあって、プログラムを設計したり、書いたり、そのうちスタッフもつけられ、プロジェクトマネジャー的な仕事を任されるように。その頃の私は、博士課程に進んでいて、二足のわらじ状態を続けていました。最初はバイト感覚で手伝っていましたが、だんだんと事業を拡大していくこの仕事が面白くなっていくんですよ。
そして、博士課程の修了を1年後に控えた1994年に、エイチアイの取締役になりました。しかし、バブル景気がはじけ、徐々にBtoBのシステム開発案件が減っていきます。このままではまずいと、BtoCマーケットへの進出を模索し始めました。当時は、プレイステーションやセガサターンなどのゲーム機で、3D技術が使われるようになった頃です。また、Windows95が発売され、パソコンでもゲームがきるようになりましたが、まだ3D表示技術は登場していません。ならば、パソコンで動く3Dゲームをつくってみようと。それが3Dに関わり始めたきっかけですね。そして、「ディアドッグ」という3D愛犬育成シミュレーションソフトを開発・発売。これがそこそこ売れて、その副産物として生まれた、3Dゲーム用開発エンジンが、ゲーム制作会社などに受け入れられるようになっていきます。
その後、私は副社長兼CTOに就任し、経営改善のための画策を続けましたが、なかなか経営状態は上向かず……。背に腹は代えられませんので、いろんなお取引先にお声がけしたところ、ある会社から「iモードが登場し、携帯でJAVAアプリが動くようになるが、3Dで表示させることはできないだろうか」という声が。それで、3Dモデルのキャラクターを携帯電話上でリアルタイムに動作させることができる、3Dレンダリングエンジン「マスコットカプセル」を開発。これが、2001年にJ-PHONE(現・ソフトバンクモバイル)の携帯電話に搭載され、国内外の多くの通信キャリアが次々に採用を決定。この成功により、エイチアイは息を吹き返し、上場を目指すことになるのですが、私は自分と会社の方向性の違いを感じ始めていました。
パートナーを巻き込んだポートフォリオ経営で、
国内外の携帯電話UIの新市場を次々に開拓!
<アクロディア、始動!>
通信キャリア、コンテンツプロバイダ、ほか開発会社などと提携しながら製品開発
エイチアイ在職中、ひとつの強い製品が会社を支えていましたが、私は、次の一手となる新たな技術開発に取りかかり、複数の製品ポートフォリオを持って会社を成長させたいという気持ちが徐々にわき始めていました。3Dの開発は自分自身、十分やりきったと思っていて、新しい技術をつくり出すのが自分の役目と考える中、会社と自分の目指す方向性の違いを感じ、「もう、ここにいる必要性はないのではないか」と。私がエイチアイを退社した2004年は、ちょうど携帯電話の多機能化競争が激化していて、ユーザーにとって機能満載というメリットがある反面、UI(ユーザーインターフェース)の使い勝手が限界に来ていることに強い危機感を覚えていました。携帯電話関連業界ではそこそこ名がとおる存在になっていましたから、私の考えに耳を傾けてくれる人もいるだろうと。現代を生きる人々にとって一番身近な情報機器である携帯電話のUIを、メーカーの呪縛から解放するために、起業を決意したのです。
携帯電話機メーカーはユーザー囲い込みのために、各社がさまざまなUIを搭載しています。しかし、ユーザーが今とは別のメーカーの携帯電話に機種変更した際、使い勝手が違って困ってしまう。もちろん、シニアも小学生も使う携帯電話ですから、万人が最適と感じるUIなど存在しません。ならば、OSとアプリケーションの間で機能するミドルウエアとして、UI自体を抽象化し、好みの使い方を自由に選べるようにすればいい。UIの重要性を感じ始めていたキャリアさんからの好感触も得て、2004年7月に設立した株式会社アクロディアで事業を開始。ただし、UIだけではなく、携帯電話の複数の機能に対応したミドルウエアをラインナップする、ポートフォリオ型の経営を目指そうと。これは、過去、ひとつの強い製品に経営を依存させてしまった、自分への反省点でもあります。
ポートフォリオ型でいくということは、複数の製品を開発する必要がありますよね。しかし、最初から潤沢な開発資金があったわけではありません。ミドルウエアの販売に関しては、ライセンス料課金形式でいくことは決めていました。そこで、通信キャリア、コンテンツプロバイダ、ほか協力いただける開発会社などと提携しながら開発を進めることに。当社の提案にメリットを感じ、共同開発に参加いただける場合、提供いただいた開発資金に応じて、製品販売後のライセンス料をお支払いしていくわけです。出資者としてご協力いただくケースも多いです。ちなみに、NTTドコモさん、KDDIさんも当社の主要株主になっていただいています。
<UIソリューションで勝負!>
14種類の製品ポートフォリオで、幅広い携帯機能に向けてアプローチ
2004年12月、当社が最初に世に送り出した製品は、携帯メールのテキストのキーワードをピックアップして、自動的に3D表示する「VIVID Message」です。これは、私の海外人脈が生き、中国のチャイナユニコムさん、韓国のサムスンさんがすぐにライセンス契約を締結してくれました。そして2005年12月には、ユーザーインターフェースエンジン「VIVID UI」を開発。これも、サムスンさんがすぐに手を挙げてくれ、期間限定ですが、日本以外の海外販売独占契約を結んでいます。海外の会社は、本当に良いと認めたら、すぐに採用を決めてくれる。一方、日本の会社はコンサルティングから始まって、試作製品の受託開発、実装実験、仕様決定を経て、実際に携帯電話に搭載されるまで最速でも1年半はかかるでしょうか。このスピード感の差が、日本の弱みなのかもしれません。ただ、時間をかけて慎重に進めるからこそ、製品への信頼が深まり、競合を寄せ付けないというメリットもあるのですが。
おかげさまで、初年度から黒字スタートでき、2006年にはNTTドコモさん、ソフトバンクモバイルさんが「VIVID UI」の採用を決定。その年の10月には設立2年3カ月という短期間で、東証マザーズに上場を果たすことができました。当社のビジネススキームの特徴として、インベスターとして参加いただいている会社さんが多いですから、上場により、みなさんをハッピーにすることができたかなと。上場できたこと自体より、そのことが嬉しいですね。今では、大手通信キャリアが提供している主要携帯電話の多くに、「VIVID UI」が搭載されるようになりました。まず、ナンバーポータビリティの導入に向け、ソフトバンクモバイルさんの「S!おなじみ操作」に採用されたのですが、これは、ユーザーが使い慣れた機種の操作方法を新しい機種でも設定できキャリア変更がしやすくなるというものです。また、NTTドコモさんにも採用され、日本におけるきせかえコンテンツサービス市場を生み出し、今ではその成長を支える基盤技術となっています。KDDIさんでも、UIを簡単に切り替えることができる「ナカチェン」の技術として採用されています。
先ほども申しましたが、当社はこれが最適というUIを提案をしているのではありません。UIを抽象化し、ユーザーの使い勝手の向上に貢献するだけ。そういった意味で、メーカーは「VIVID UI」の上に新たなUIをつくることができます。ただし、何を使うか選ぶのはユーザーですよ、ということです。ポートフォリオの話に戻りますが、携帯電話の5大機能は、「UI」「メッセージ」「コミュニティ」「ゲーム」「カメラ」だと考えています。これらのカテゴリで必要とされるであろうソリューションシステムを開発・提供していくことで、全方向のアプローチが可能となる。現在、「VIVID UI」を筆頭に、「VIVID Movie」「VIVID Panorama」「絵文字Lite」など、14種類の製品ポートフォリオで、幅広い機能に向けたアプローチを展開しているところです。
<未来へ~アクロディアが目指すもの>
情報端末ユーザーが感じるすべての不便を、抽象化の技術を持って解決し続けていく
今、iPhone、アンドロイド携帯など、スマートフォンがどんどん販売台数を伸ばしています。UIの分野はある程度広げることができたと思っており、次の柱を育てるために、海外を手始めにスマートフォン・マーケットへの挑戦をスタートしました。UIのソリューション手法と同じく、これは各種OSの抽象化への取り組みです。スマートフォンの世界も、メーカーのプラットフォームの別による、アプリの囲い込み競争が起こっています。別のOS携帯で購入したゲームなどのアプリが、異なるOSを搭載した新機種では使えないというわけです。当社が開発した「VIVID Runtime」は、そんなプラットフォームの呪縛から、ユーザーを解放します。すでに高い評価を得ており、販売予測も好調。国内市場では今もUIのミドルウエア企業というイメージが強いですが、グローバル市場では「VIVID Runtime」のアクロディアとして有名になりつつあるようです。
たとえば、音楽配信ビジネスを始めたくても、MP3プレイヤーが存在しないと商売にならないですよね。これから独自のコンテンツを販売していきたいと考えるコンテンツプロバイダと一緒に、新しいプラットフォームを共同開発していく。そんなB2B2C的な、場づくりビジネスへの取り組みもスタートしています。また、B2B2C事業としては、Eコマースにも参入していますが、正直、現時点では収益の下支えをしているとはいえない状況です。そもそもコンテンツサービスは2種類あると考えていて、たとえばひとつはモバゲーやグリーなどのデジタルコンテンツの提供事業。もうひとつが、物販を扱うリアル系のコマース。当社ではデジコンに加えて、リアル系を扱うEコマースが次の成長ステップの柱になると考えています。
デジカメ、カーナビなど、ほかさまざまなデバイスに挑戦したい気持ちはあります。が、携帯電話のような生活に密着した情報端末に育つかどうか、まだ疑問が残る。ここしばらくは携帯電話マーケットに主軸を置き、横展開を図っていく計画です。設立当初から、売り上げで100億円、営業利益20億円の企業づくりを目標としてきました。前期の年商が50億円弱ということは、まさにまだ道半ば。国内市場だけで100億円企業になるのは難しいので、海外に注力していかないと。今、売り上げシェアの70%強が国内なので、できるだけ早く50対50に持っていきたいと考えています。携帯電話はこれからも確実に発展していく情報端末です。私たちの得意技である抽象化のソリューションで、使える人、使えない人の差を今以上に埋めることができる。技術は使えば使うほど進化していくものでしょう。使える人を増やすことが、技術の発展につながる。そういった意味で、ユーザーの「困った」を改善するこの事業は、アクロディアに与えられた社会的な役割でもあると思っているんです。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
自分が一番得意なこと、好きなことを突き詰めて考えていけば成功確率は高くなる
私がエイチアイという会社に入社した1990年代前半、携帯電話マーケットがこれほどのビッグマーケットになるなんて、誰も予想できなかったと思います。今、環境、エコなどもみなさん興味ある分野でしょうが、まだまだこれからどうなるかわかりません。何が言いたいかというと、事業としての将来可能性を加味して事業を検討するのも大切ですが、やはり自分が一番得意なこと、好きなことを突き詰めて考えていくほうが成功確率は高い。また、そのほうが自分でやる社会的意義が大きくなります。そのへんの勘というか、バランス感覚が経営者に必要な要素だと思っています。また、起業家という意味では、会社の数字を育てるだけではなくて、自分の主義や主張、こうあるべき姿を追求していってほしいですね。私自身ができているかどうかは置いておいて(笑)。
単に好きなことだけをやりたいなら、それはボランティアでやればいい。会社経営を継続させ、発展させていくためには、当然ですが利益を上げないと頓挫してしまいます。ステークホルダーとは、自社が提供する事業に共感し、出資してくれたり、商品を買ってくれたりしてくれる存在です。うちの場合も、「VIVID UI」をステークホルダーが気に入ってくれたから出資や共同開発が発生して、今があるわけで、「それはいまいち」と言われていたら今はない。いずれにせよ応援の対価として、何をどうやってお返ししていくか。特に、株式会社をつくって経営していくなら、利益を何らかのかたちで還元して行く。それが当たり前のルールですから。もちろん金儲けばかりに執着してはダメですが、世の中から必要とされるものであれば、必ず儲けは後からついてくると思っています。
ビジネスヒントですか? 携帯電話の今後を考えると、クラウド化とか。まだ業界でも真剣に話されていないので、アイデアしだいで参入の余地が大いにある。昔のパソコン以上の機能を搭載した今の携帯電話は、貴重なレアメタル、非常に高価なCPUを使っています。クラウド化により、サーバーに今ある機能の代わりをさせ、端末は表示機能だけを持つシンクライアント化していく。そうすることで、メーカーも安く端末をつくれるようになりますし、エコにも多大な貢献を果たすでしょう。何をするにせよ、いったん起業したなら途中であきらめず、最後までやり遂げることです。そういう私にも、いろんなトラブルが何度もやってきました。でも、志はまだ先にありますし、ステークホルダーが多いですし、逃げ出すわけにはいきません。リスクヘッジも重要ですが、逃げ出せない状況を自らつくること。それも最後までやり遂げるための良策なのかもしれないですね(笑)。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓
Q.起業することは昔から決めていますが、 何の事業をやるか決め切れません。どうすればいいでしょうか? (東京都・会社員)
A.
まずは自分が「一番やりたいこと」をやってください。
そして、相談したり、時には苦言も言ってくれる、二人三脚の相棒のような方が必要だと思います。とことん事業について語りあって、方向性を決められてはい かがでしょうか?
もう一つ、自分の好き嫌いでは決められないのであれば、社会的にどれが一番貢献できるかを基準にされても良いのではないかと思います。社会的に貢献度が大 きい事業ほど、協力者の方々を集めやすいと思います。