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第101回
株式会社アースホールディングス 代表取締役
國分利治 Toshiharu Kokubun
1958年、福島県生まれ。ケンカばかりの小中時代をすごし、工業高校の電気科へ進学。勉強はそっちのけで、バイト三昧の生活を送る。卒業後、地元の縫製工場に就職。雇われない仕事をしたいという思いがふくらみ、そのための職業を美容師と決定。ボストンバッグひとつを手に東京を目指す。新宿の美容室の下働きからスタート。以後、10年間、休みを惜しまず働き続け、17店舗の出店マネジメントを任される。30歳で独立し、葛飾区・青砥に「EARTH(アース)」の1号店となる席数8席のサロンを開業。37歳、アメリカ視察で見学した、大型サロンに感動。帰国後に、大型サロンをオープンさせ、業績を急拡大させた。また、黒字店を譲るという独自のフランチャイズ・システムが奏功し、約10年で16人のFCオーナーを育て、100店舗を達成。2007年にはロンドンへの出店も果たす。現在、オーナー40人、店舗数約200。スタッフ数3000名を抱え、アースホールディングスの総帥として新たな挑戦を続けている。著書に、『成功を引き寄せる 地道力』(扶桑社)がある。
ライフスタイル
好きな食べ物
卵かけごはんです。
最後の晩餐は、卵かけごはんですかね。コレステロールが高いからあまり食べないんですけど。基本的には、そんなB級グルメが好きです。洋食派ではなく和食派ですね。お酒は基本的に何でも飲みますよ。でも、最近は焼酎が多いかな。地方に行くと、場所場所で飲みたいものが変わりますが、日本酒は先日も記憶をなくしたので要注意です(笑)。
趣味
ガーデニングでしょうか。
ガーデニングですかね。家でもやりますし、サロンの店舗でも。地方の店では、「すみません、どこのガーデニング会社の方ですか?」とスタッフに質問されたこともあります(笑)。今自宅を建築中で、広めの庭があるので、さらに本格的にやろうかと。あとは、温泉ですかね。東北の秘湯といわれる温泉は、ほとんど回っていると思います。
行ってみたい場所
八甲田山の酸ヶ湯温泉。
やっぱり温泉に1週間くらい入り浸りたいですね。パジャマのまま湯治気分で過ごすとかね。八甲田山の酸ヶ湯温泉で、ペーハー値2とか3ほどの体が溶けてなくなっちゃうくらいの酸っぱいお湯に3時間くらいつかって(笑)、いろんな考え事をするとか。そこがけっこう気に入っていて、かれこれ4、5回は訪れているんですよ。
最近感動したこと
スタッフからの手紙です。
青森のスタッフからもらった手紙です。便箋3枚に手書きで書いた思いを送ってくれて、手紙って最近新鮮ですし、すごく嬉しかった。内容は、私が先日出版した本の感想だったんですけど、社長に会いたいので東京のサロンで働きたいって。『成功を引き寄せる 地道力』という本なのですが、20代の若者にぜひ手にとってほしいと思っています。
全国200店のヘアサロンを展開し、年商200億円。
業界の風雲児が目指す、ビジネスファミリーの構築法
全国で約200店舗を展開するヘアサロン、「EARTH(アース)」。アースホールディングスの代表・國分利治氏が、大型サロンと独自のフランチャイズ・システムを組み合わせた経営戦略で急拡大した美容グループである。現在、約3000名のスタッフを抱える國分氏の夢は、100人の経営者を育てること。これが今後の彼の使命であり、ライフワーク。「今、フランチャイズオーナーは40名。中には40店舗を経営し、年収1億円を取るつわものもいるんですよ。彼はまだ34歳ですけど、8年間ずっと休みなく働いています。まだまだ100人の経営者づくりは夢の途中ではありますが、これからも、同じ考えを持って私の目指す未来を理解してくれる仲間、ビジネスファミリーをつくる仕事に注力していきたいと思っています」と語ってくれた國分氏。今回は、そんな國分氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<國分利治をつくったルーツ1>
小遣い稼ぎのため、ケンカ三昧の少年時代。強烈な飽き性のため長続きした趣味もなし
生まれは福島県にある飯坂温泉の近くの町で、家族構成は5人です。建設会社で働く父と、家計を助けるためにパートに勤しむ母。私は姉と妹に挟まれた長男として育ちました。小学校に上がってからは、ケンカばかりしていましたね。けっこうな貧乏家庭だったので、自分の小遣いを稼ぐために(笑)。そんな私を心配して、学校の先生がよく家庭訪問にやって来るわけですよ。「どんな教育をしているんですか。少しでもいいからお小遣いをあげてください」って。先生の前で背中を丸くして恐縮する母を見ながら、その瞬間は「申し訳ない」と思うのですが、私の悪ガキぶりはいっこうに収まりませんでした。仲間たちと野球やサッカーとかをやって適当に遊んでいましたが、飽きっぽい性分なので、のめりこんで続けたものはないですね。
ちなみに、小学校の卒業文集に書いた将来の夢は、「芸能人になりたい」でした。昔から目立ちたがり屋なんです。家の庭に柿の木がありました。母からは「ここに登って落ちたら3年以内に死ぬ」と言われていた恐ろしい木です。でも、私はそう言われると、どうしても登りたくなってしまう。そうしたら案の定、木からズドンと落下して、別の木の切り株に背中をぶつけて大怪我してしまった……。すぐに病院に運ばれて、縫合手術を受けました。ヤブ医者だったんですかね。今でも背中におかしな傷が残っています。昔から背が低いことがコンプレックス。中学からはみんな部活に入るので、私もバスケットボール部に入部してみました。背が伸びるかもしれないと思って。でも、球拾いばかりで試合に出られないので、1カ月くらいで辞めました。背も伸びないし。
中学は坊主頭が校則だったんです。イヤでしたね。髪の長さはいつもギリギリで。そろそろ規定にひっかかると思うと、前の晩からタオルで頭を覆って寝るんですよ。そうすると髪の毛がペタンとなって、生徒指導の先生をだませるという。そうそう、今、私は美容業界で仕事をしているわけですが、この間、親戚のおばさんに聞いたら「あんたは中学の頃から美容師になりたいと言っていた」と。まったく記憶がないんですけどね。ケンカですか? 本当はケンカなんて好きじゃないんだけど、やっぱり小遣いを勝ち取るために中学でもよくやってました(笑)。ちょっとだけフォークギターにはまって、あれも1カ月しか持たなかった。あとは仲間と麻雀やったりですかね。あまりいい記憶がないなあ。
<國分利治をつくったルーツ2>
バイクを買うために毎日バイトに明け暮れる。高校はただ睡眠補給するための場所と化す
悪さばかりしていたけど、要領がいいので、警察のご厄介になったことはありません。ただ、ケンカばかりしていたでしょう。父から、「そんなにケンカが好きならヤクザになれ。何でも中途半端にやるんじゃない。事務所を紹介してやる」と言われた。中学の頃、父が酔っ払ってヤクザと血みどろの殴り合いをしているシーンを覚えています。しかも家の中で(笑)。そんなですから、真実味があった。もちろん本心は「おまえにそこまでの根性はない。上には上がいるんだ。まともになれ」という意味だったと思います。また、母からは、「せめて高校くらいは出ておいて」と泣きつかれていました。それで家の近くの公立高校を受験したのですが、不合格。仕方がないので、ちょっと離れた場所にある私立の工業高校の電気科に進学したんですよ。一番簡単だったので。
第二志望の高校ですし、勉強する気なんてさらさらない。新聞配達に始まって、旅館の清掃、夏休みは桃の仕分け作業などなど、バイトに明け暮れていました。3年間、一度も教科書持って学校に行ったことありませんから。ただ寝に行く場所と化していましたね、私にとっての高校は。新聞配達を終えて、高校に行って睡眠時間を取って、放課後は旅館でバイト。朝まで麻雀やって、新聞配達。そんなわけで学校にはほぼ毎日行っていましたから、きっちり3年で卒業しています。赤点ギリギリでしたけど、やっぱり要領が良かったから。なぜバイトをしまくったかというと、どうしてもバイクがほしかった。田舎の不良はバイクがないとカッコつかないですからね。本当はナナハン(750CC)がほしかったんだけど、最初に買ったのはヤマハの125CCのバイク。それでもかなり嬉しかった。
高校3年の夏休みは、思い出づくりも考えて、仲間と一緒に富士山のふもとのゴルフ場で泊まり込みのバイトへ。夜は大学生バイトたちと麻雀で勝負して、けっこう稼がせてもらいました(笑)。富士山頂に登れたこともいい思い出です。この頃ですかね、会社員の父親の働き方を見ていたり、バイトで人に使われたり、雇われる側より雇う側、経営者になりたいと強く思い始めたのは。そうはいっても、何をするとか明確なものが決まっていないので、高校卒業後はひとまず地元の縫製工場に就職。スーツにボタンを付ける際の穴あけ作業をしながら、就業後は毎日クルマで彼女と遊びに出かけていました。が、就職して2年目のある日、交通違反を犯して免許を失効してしまった……。田舎にいて若者がクルマに乗れないって、真面目に死活問題なんです。どこにも行けないし、まったく遊べなくなる。笑い話でもなんでもなく、これがきっかけで、私は東京行きを決断。東京ならクルマがなくても生活できるし、遊べるし。絶対に東京で一旗挙げてやると。
<東京へ>
バッグの中には10万円と目覚まし時計。まずは3年間休まず働くことを決意する
では、東京に行って何をやるか。手に職が付けられて、できるだけ早く店をつくって経営者になれる仕事は何か考えて、頭に浮かんだのが、理容師、美容師、調理師、コックの4つ。その中で一番かっこいいと思えたのが美容師だった、と。そうやってとりあえず職業を決め、週刊誌『女性セブン』に掲載されていた、新宿歌舞伎町にある美容室(サロン)の求人広告に応募したんです。履歴書を送って電話したら、「できるだけ早く来てほしい」との連絡が。そして、彼女とは「25歳までに経営者になって必ず迎えに来る」と約束。現金10万円と目覚まし時計が入ったボストンバッグひとつだけを持って、19歳の私は上野駅を目指しました。で、東京に住んでいた友人に歌舞伎町まで連れて行ってもらい、例のサロンに無事到着。今日まで続く私の美容業界人生が幕を開けました。
初めてサロンに行ったその日から、店内の掃除、タオルなどの洗濯、チラシ配りをスタート。寮完備とありましたが、寝泊りするのは6畳一間の店長の部屋でした。4人くらいのスタッフがその部屋で生活する、いわゆるたこ部屋ですよ。サロンの営業時間が終わったら、シャンプーやカットの練習をして、通信教育の資格取得を目指す毎日。ただし、私の目標はカリスマ美容師になることではなく、経営者になることです。人に使われることは嫌でしたが、何事も経験。そこで、飽きっぽい自分を封印するために、まずは3年間、正月以外は1日も休まず働くというルールを自分に課しました。さらに、たくさん仕事をこなせば経営者への道が早く開けると信じ、朝は誰よりも早く店に来て練習するなどして、日々の仕事に取り組み続けたのです。
私が入店したサロンは、10店舗ほどのチェーンを展開していました。23歳になった頃、歌舞伎町店の店長が代々木店のフランチャイズオーナーとして独立。私を引っ張ってくれました。そのサロンには休日をしっかり取る店長がいましたが、相変わらず休みなく働き続ける私に気後れしたのか、数カ月後に店をやめてしまった。「誰か店長になりたいやつはいないか?」。オーナーからスタッフへの呼びかけに、いち早く手を挙げたのが私です。「じゃあ、國分、やってみろ」ということになり、年上の先輩を差し置いて23歳の私が店長になったというわけです。店長になった私は、さらに一所懸命、仕事にのめり込みました。結局、入店して以来10年間、正月以外は1日も休まず働き続けたんですよ。
<チラシ配りの世界記録?>
スタッフを従わせるために率先垂範。1カ月で20万枚の来店促進チラシを配布する
25歳にマネジャーとなり、そのオーナーと共に計17店舗の新規出店の仕事に携わることになります。尊敬できる人でしたし、出店後のサロンを軌道に乗せるまでの業務をある程度任せてもらえたので、好きなことができて楽しかったですよ。ただ、オーナーはできるだけ経費をかけずに業績を向上させていくタイプでした。手渡しで配る宣伝用のチラシは白黒のペラペラのもの。街の既存店から顧客を新規店に引っ張ってくるために、私は量的な勝負をすることにしました。この当時、ギネスには乗りませんが、絶対に破られないであろう記録をつくっています。1カ月で20万枚のチラシを配ったんです。月に20日チラシを配ったとして、最低でも1日当たり1万人とすれ違う必要があります。来店促進効果の期待はもちろんですが、上の者が率先垂範して、やるべきことをスタッフに見せ付ける必要性を感じていたのです。
スタッフの採用や教育も私のミッション。美容師は若くてやんちゃな子が多いんですよ。そんな子たちを従わせるためには、やはりこっちの力を知らしめなければいけません。そうやって自分も必死で踏ん張りながら、夜は飲みに誘って悩みを聞いてあげるという。店舗数が増えるごとに仲間も増えていく仕事にやりがいを感じていましたが、やっぱり辞めていく子も多いんですね。オーナーは採用費もできるだけ“かけない派”でしたから、求人は電柱への募集チラシ張りでまかなわざるを得ませんでした。今考えれば、そんなチラシでよく応募してくれたなと(笑)。どう考えても怪しいですよね。私も深夜にチラシを張りながら、何度警察に捕まりそうになったことか。「今に見てろよ。経営者になって絶対に大成功してやる」という気持ちだけが私を支えてくれていました。
25歳で経営者になる夢はどうしたか? ああ、実は田舎の彼女は私が上京して3年後に別の男と結婚しちゃったんです。なので、25歳という期限は早々に立ち消え(笑)。結局、独立して最初のサロンを構えたのは30歳になってから。新規出店のマネジメントをしながら、私は美容師にしっかり力をつけさせることで業績を挙げればいいと考えていたのですが、オーナーはそのためのお金をいっさい使わせてくれない。チェーンのナンバーツーとはいえ、自由にお金が使えないジレンマ……。しかも、私が経営を見ていた東京・立石(葛飾区)のサロンを利益目当てに勝手に売り払ってしまった。ここが潮時、立石の近くに出ていた10年くらい経営していた約20坪の居抜きサロンを契約して、自分の考えるスタイルでサロンを経営する決意を固めたのです。
大型サロンと独自のFCシステムで急成長!
100人の経営者を育てることが今の夢
<30歳で最初のサロンを構える>
創業から5年ほどは低空飛行を続けるも、37歳、アメリカ視察旅行でチャンスを見出す!
最初の店は、東京・青砥(葛飾区)にある20坪ほどの居抜きサロン。保証金や内装費などを含め約500万円ほどで開業しています。入り口の上に、ボロボロのテントがかかっていたのですが、かっこ悪いので取り外し、骨組みむき出しのまま営業していました。もともと多店舗化していく計画でしたので、その年に2店舗目を出して、5年目には4店舗まで店舗数を増やしています。すべて20坪くらいの小規模サロンです。この当時の全店合わせた年商が1億円くらい。私の年収が600万から800万円くらいだったでしょうか。35歳で4つのサロンのオーナーといえば聞こえがいいかもしれません。しかし、当初の目標は20店舗、年収2000万円。独立前に17店舗を立ち上げた実績から、楽勝だろうと考えていたんです。それがこの程度かと……。この頃の私はかなり焦っていました。
まず、人がなかなか定着してくれないんです。もちろん、スタッフが長続きしてくれるようコミュニケーションをしっかり取るなどさまざまな努力を続けていました。それでも若い子は理由もなく、急に店に来なくなる。また、美容師としてしっかり技術を身につけて、そろそろ店長に抜擢かと思い始めた3年目くらいのスタッフが、「オーナー、独立します」と店を去っていく。水商売と似ているなあと……。少人数のサロンで、スタッフがひとりいなくなるのは相当な痛手です。もちろん、前に勤務していたサロンでも人の出入りは激しかった。そもそも、これは美容業界全体が抱えている悩みなんですね。「どうすればこの状態から抜け出せるのか……」。その方法を思いあぐねていた私に転機が訪れたのは、1997年2月のことでした。
サロン経営者の勉強会仲間に誘われ、アメリカの視察旅行に出かけたんです。その時に見学したのが、400坪ほどの広大なフロアにたくさんの美容師が忙しく働く大型サロンでした。20坪の私のサロンとはあまりにスケールが違う、その活気あふれるサロンの雰囲気に心動かされました。「これだ!」と。それまでは5、6人のスタッフでサロンを回していましたが、20人ほどのスタッフを揃えた大型サロンならひとりくらい辞めても問題ない。スタッフの出入りを気にしながら経営を続けることに疑問を抱いていた私にとって、かなり明るい光明が見えた気がしました。そして、決断。「大型サロン経営にシフトする!」。帰国して4カ月後、足立区の綾瀬に65坪、スタッフ20人の大型サロンを開業。これまで会社の内部留保として残してきた1000万円と、銀行からの融資2000万円をかけ、私の新しい挑戦が始まりました。
<創業から20年で約200店舗を開業>
大型サロン&独自のFCシステム戦略が奏功し、3000人のスタッフで年商180億円を稼ぎ出す
37歳で挑戦した最初の大型サロンは、すぐに結果を出してくれました。初月の月商が1000万円。これまでの4店舗すべての月商と同程度を、1店舗が叩き出したわけです。「いける!」。その勢いに乗り、翌年には、75坪の千葉・松戸店、70坪の柏店、140坪の千葉店とオープンさせ、すべてのサロンが経営的な成功を収めました。20代の時間をすべて仕事に捧げ、30歳で独立し、厳しい紆余曲折を経ながら7年。悩みながらもひとつの方法にたどり着くことができた。地道にコツコツ継続してきた自分のやり方は間違っていなかった。そんな自信がやっと生まれたのがこの頃ですね。以来、私は自分の給料をいっさい上げず、利益のすべてを会社に残し、39歳で3億5000万円をかけて念願の自社ビルを建てました。「小さくてもいい、自分の店を1軒持ちたい」。19歳で東京に来た時の目標を、20年かけて叶えることができたのです。
次に着手したのが、フランチャイズオーナー制度の導入でした。店舗数を拡大し、新店舗の経営を軌道に乗せるには店長の手腕が重要です。ただし、雇われ店長では売り上げの伸びがそれほど期待できず、さらに、経験だけ積んで独立されたら教育のしがいがありません。だったら最初からオーナーになることを目標に頑張ってもらえばいい。そう考えたわけです。昔から美容業界にのれん分けシステムは存在していました。が、多くの場合、独立したいスタッフに与えられるのは赤字店。それではモチベーションが上がりません。そこで私はまったく逆の発想で、黒字店をオーナーに譲ることにしました。独立したいスタッフは美容師としての腕を高めてまずは店長を目指す。そして売り上げを伸ばし、人材を育成し、一定期間実績を出すことで、愛着あるサロンのオーナーになる。この独自のフランチャイズ・システムがその後の急成長を加速してくれました。
30歳から40歳までは、経営者として飛躍するための仕込みの期間だったと思っています。そして41歳になった私は、100人の経営者を育てるという計画を立てました。それから10年で、当社のサロンは約200店舗を展開。3000人のスタッフを抱え、年商は200億円に手が届くところまできています。やはり、頑張った店長にオーナーになってもらい、黒字店を譲るという独自のフランチャイズ・システムの導入が一番の成功要因でしょう。現在、高い技術力と豊かな人間性を兼ね備えた40人のオーナーが全国で活躍してくれていますが、中には40店舗を経営し、年収1億円を取るつわものもいるんですよ。彼はまだ34歳ですけど、8年間ずっと休みなく働いています。まだまだ100人の経営者づくりは夢の途中ではありますが、これからも、同じ考えを持って私の目指す未来を理解してくれる仲間、ビジネスファミリーをつくる仕事に注力していきたいと思っています。
<未来へ~アースホールディングスが目指すもの>
夢であり目標であり、もはやライフワーク。100人の優秀な経営者を育て上げたい
これまで、お客様のニーズに耳を傾けながら、トリミングサロンとカフェを一体にしたサロン、ご家族やカップルで来られるサロン、バーラウンジなど、これがあったら面白い、カッコイイと思うものには積極的に挑戦してきました。もちろん、スタッフのモチベーションを高めるという側面もあります。イギリスのロンドンにサロンを出したのも同じような考え方からです。そもそも似たような店をつくりたいと思わないですし、ほら、私は飽き性でしょう。だから、自分にいい意味でのプレッシャーを与え続けるために、これからもたくさんのチャレンジを続けていかないとね。ただ、世界的な不況がやはり美容業界にも影響を与えています。ここ7、8年は、お金とモノで経営をカバーしてきましたが、今後2年くらいは新規の出店ペースを少し緩めて、スタッフ教育のテコ入れをしようと考えています。
やはり、オーナーやスタッフの力でお客様を呼べるサロンが強い。スピード出店が成功した代償として、スタッフ教育が少し疎かになってしまっていた反省点が残りましたから。また、当社は「チームマイナス6%」に参加しています。エコ店舗へのシフトも急いでいるところです。昨今は、暗めの落ち着いたサロンを好まれるお客様も増えています。LED照明に変更することで、電気使用料が約3分の1に削減できるのです。グループ全体でLED照明を導入すれば、年間で4億円かかっているコストを2億円にカットできます。さらに、店舗に太陽電池パネルを設置して、電気自体を自社でまかなう計画も進行中です。エコな生活が今やおしゃれの代名詞のひとつですから、アースを選ぶ際のひとつの選択肢となってくれればと。
また、生物学の第一人者、青山学院大学の福岡伸一先生と共同で、有害な要素を含むカラー材廃液処理の際、微生物に影響を与えない除去方法を開発しています。これはすでにアースの店舗で実施中です。そもそもアースの名前の由来は「EARTH=地球」。これからも私たちが暮らす地球に優しい経営を続けていきたいですね。さて、未来に関してですが、10年後はどうなるか私も想像できません。でも、5年後には、中国、シンガポール、ベトナム、インドなど、アジア各国でアースのサロンを展開していたいと考えています。そのためにもやはり、優秀な経営者を育てていかなければ。ビジネスファミリーと呼べる経営者を増やしながら、そんなメンバーたちと飲んだり、遊んだりしているのが最高に楽しい。だから、100人の経営者をつくるという夢は、私にとって大切な仕事でもありますし、ライフワークのようなものなのかもしれません。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
まずは夢を目標に変えて、明確な期限を定める。そして1日にすべきことを具体化し、行動し続ける
何でもそうですが、期限を定めないと今日やることが決まりませんよね。たとえば、富士山のてっぺんに上るという目標を立てても、期限がなければいつでもいいわけですから、ただの夢で終わってしまうでしょうね。でも、1週間後に登ると決めた瞬間に、今日やらなければならないことが具体的になる。すぐに情報収集を始めなければいけないとか。いずれにせよ、夢までの期限を短くすればするほどいい。やることが増えますから動かざるを得なくなりますし。遅くとも3年後に期限を設けるべきですね。そして、2年くらい経ったら再び次の3年後の目標を定める。120万円を3年で貯めるとしましょう。2年で60万円しか貯まらなかったら、2年目以降の目標を変えなければならない。だから目標までの道のりを割り算して、毎日やるべきことを明確にする。その繰り返しを自分の気持ちでしっかり管理できる人でないと、経営者として大成できないと思います。
夢の素となる事業アイデアはどうつむぎだすか? 私の場合は昔からジャンルを問わず、本や雑誌をかなり読みますね。最近は飲食関係とか。サロンに近いところがあるんです。職人の世界ですし、味、サービス、内装で勝負するわけですから、とても参考になります。個人的には、古くて汚くておいしい飲食店が好きですね。そんな店の情報から、「100年くらいかけてどんどん味が出てくるようなサロンをつくりたい」という発想が生まれたり。エコにもつながりますしね。ただ、そういった店づくりの素材は高いから(笑)。考えなきゃいけない。あとは、いろんな遊びですかね。サーフィン、スノボ、野球とか、飽きっぽいという理由もありますが何でもやる。そんな遊びをしながらも、考えることはすべて仕事につながっていくんです。スタッフとの話題もたくさんできますしね。
起業の大前提は継続です。私はやはり人、仲間がいないと続けられないだろうなと思います。そもそもサロン経営はひとりでは成り立ちませんし。10人、100人、1000人と仲間がより多いほうが絶対にビジネスは楽しくなる。少数精鋭という考え方もありますが、私は多数精鋭がいい。少数だとやっぱりこじんまりまとまっちゃうんですよね。可能性を秘めているのは人でしかない。モノは変わってくれないですから。瞬間的に人の可能性が開花して、経営にドライブがかかった経験もたくさんあります。だから、多数精鋭を信じて経営を続けているんですよ。現状維持で守りに入ってしまうと、きっとそこで終わり。継続したいなら拡大志向、攻めの姿勢を貫かないと。自分自身を成長させていくためにも、集ってくれたスタッフの存在感を高めるためにも、必要なのは人。拡大志向を捨てた生活のためだけの経営は、いつか続かなくなると思います。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓
Q.起業するからには、株式上場を目指すべきでしょうか?。
上場のデメリット、非上場のメリットについてどのように考えていますか?(東京都 会社員)
A.
必ずしも上場を目指す必要は無いのではないでしょうか。
弊社に関してで言うと、今のところ上場は考えていません。
確かに上場することで資金は集まるかもしれませんが、株主への配慮などからスピーディーな意思決定が出来なくなる可能性もあります。