第88回 アニコム損害保険株式会社 小森伸昭

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第88回
アニコム損害保険株式会社 代表取締役社長 
小森伸昭 Nobuaki Komori

1969年、兵庫県神戸市生まれ。兵庫県立長田高等学校卒業後、京都大学農学部へ進学。3年次に転部し、経済学部へ。大学卒業後の1992年、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)に入社。1996年、経済企画庁(現・内閣府)に出向。経済白書や国民生活指標などの作成、調査業務を担当し、健康保険制度の制度的疲弊を実感する。3年の出向期間を終え、1999年に東京海上へ戻る。この頃から、独立起業の意識が高まり始めた。2000年に東京海上を退社し、「どうぶつ健康保障共済制度」を扱うアニコムクラブおよび、運営会社として株式会社BSPを設立。創業後すぐに、自ら解散宣言を発するほどのどん底を経験するも、周囲の協力を得ながら事業を軌道に乗せる。共済時代の加入頭数は30万頭を超えた。2006年の保険業法改正を受け、金融庁に損害保険業免許の取得を申請し、2007年12月に免許を取得。日本初のペット専門損害保険会社が誕生。2008年1月、アニコム損害保険株式会社としてペット保険の販売を開始した。

ライフスタイル

好きな食べ物

好き嫌いはまったくなし。
好き嫌いがない自分が大好きです。同じものを続けて食べたくない主義ですし、食べられないものはないと思っていますから。本当に何でも食べます。ずっと昔、初めて毒キノコやフグの肝臓を食べて死んだ人と、似ているかもしれませんね(笑)。

趣味

哲学です。
いろんなことを分析したり、哲学したり。いつも物事の本質を考えています。トマトを食べたのに、なんで排泄物は黒いのか? なんでだろう? いつでもどこでも、いろんなことを考える。趣味であり、歯ぎしりと同じような癖なのかも知れません。

行ってみたい場所

サントリーニ島です。
ギリシャにあるサントリーニ島に一度行ってみたい。イリア・プリゴジン博士が唱え、ノーベル化学賞を受賞した「散逸構造論」。世の中は散逸しながら存在しているという考え方を、この島自体が実証しているとか。命の調和を体感してみたいのです。

個人的な夢

利己と利他の同一化。
昔はフェラーリや別荘がほしいなど物欲旺盛でしたが、今はほとんどありません。でもまだ人を妬んだり、悪く言ったり、毒素が残っている。一生かけてやり遂げたいのが、利己と利他の同一化の達成です。それができれば、宇宙と自分が一体化できる気がしています。

自力で始めた無認可共済の「どうぶつ健保」。
開始8年で損害保険会社という金融機関に成長!

 日本社会の少子化が進行する中、新しい家族ともいえる犬、猫などのペット数が年々増加。今、その国内飼育頭数は2600万頭を超えている。もの言えぬ動物 たちのための健康保険をつくった男がいる。それがアニコム損害保険株式会社の代表を務める、小森伸昭氏である。現在、同社の保険を契約しているのは、犬、猫、鳥、うさぎ、フェレットのペットオーナーたち約22万人。もちろん、ペット保険を販売している損保会社の中では新規契約数ナンバーワンだ。人間の健保と同じように、保険証に当たる診療記録簿を窓口で提示すれば、診療費の50%を支払うだけでOK。その便利さが受け、現在も契約者数はうなぎのぼりで増加している。「国内の犬猫のペット飼育頭数は2600万頭ですが、保険に加入しているのはわずか1、2%程度。ペット保険先進国であるイギリスのペット飼育頭数が日本の約半分で、ペット保険市場が800億円ですから、日本は少なくとも1000億円くらいまで成長する余地があると考えています」と語ってくれた小森氏。今回は、そんな小森氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<小森伸昭をつくったルーツ1>
自己中心で、カッコつけの肥満児だった。
小学生時代の楽しい思い出はあまりなし

 わがままで、自己中心的で、カッコつけ。当時は、自分の中にあるそんな“毒素”の存在に気づいてはいませんでしたが、今振り返ると、そんな子どもだったと思います。物欲も旺盛でした。Nゲージという電車のおもちゃとか、プラモデルとかが欲しくて、いつも親にねだってた。父は電鉄会社に勤める会社員で、母は専業主婦。ふたつ下に弟がいます。そんな普通の家庭ですから、特別裕福なわけでもなく、誕生日や正月など、特別な時に買ってもらうくらいですよ。そういえば、なぜかロープウェイが好きだったんです。自分の部屋に糸を張り巡らせて、本当に簡単なものですが、ゴンドラを手づくりして動かしていました。あの空中に浮かぶ物体に、なぜあれほどまで魅せられたのか? 今もその理由はよくわかっていません。

 ちなみに小学生の私は、肥満児でした。まるで、おすもうさんみたいな。なのでスポーツはからっきし。だから昆虫採集とか、さっきのロープウェイとかにはまってた。あと、雑な子どもで、落ち着きがなく、集中力もなし。勉強なんてまったくできませんでした。人気者でリーダーに、本当はなってみたいんですが……、なることができない。そんな小学生時代だったなあと、つくづくさみしく思います。「一番楽しかった思い出は?」と聞かれても、ぱっとは思いつかないですからね(苦笑)。でも、中学に上がってから、変わるんですよ。ホルモンのスイッチが、正反対に切り替わったみたいに。そのきっかけをつくってくれたひとつとして、和辻哲郎著『風土 人間学的考察』を読んだことが挙げられます。

 内容を簡単に話すと、人間の性格や特性というものは、生まれ育った場所によって形成される傾向が強い。砂漠の民に対しては神様が厳しいので、なかなか雨を降らせてくれない。でも、日本には四季があって、祈れば普通に雨が降る。だから神頼み。イギリスは曇りの日が多いので、我慢強いジェントルマン気質が醸成されたなどなど。それまでの私は、成長は自分自身でするもの、外部環境など関係ないと思っていました。でも、この本を読んでからというもの、成長するための栄養は自分の外側にある。だったら何でも貪欲に栄養摂取しなければと。そんな思いが生まれて、勉強がいっきに楽しくなったんですよ。参考書をしっかり読み込むと、すぐに成績が上がる。そんなフィードバック効果の好循環を知ってから、すぐに全科目オール5を取れるようになりました。

<小森伸昭をつくったルーツ2>
高校の成績は常にトップのポジションを堅持。
大学ではウィンドサーフィンにのめり込む

 ちなみに、中学ではバスケ部に入部。スポーツに関しては中学デビューでしょう。野球やサッカーだと、すでに差ができていますから、これから始めてレギュラーを目指せる部活を選んだわけです。この頃すでに今くらいの背丈になっていましたので、けっこう活躍していましたよ。高校は、兵庫県立長田高等学校へ進学しています。一応、ハンドボール部に所属していましたが、それよりも友人たちとのバンド活動に注力していましたね。友人の家で生演奏カラオケやって遊んだり、学園祭でライブを演ったり。友人、それに彼女にも恵まれて、非常に楽しいハイスクールライフを満喫することができました。勉強は相変わらずできていまして、常にトップクラスの成績を修めていました。

 将来はコレ、という明確な夢はまだなかったですが、漠然とリーダーになりたいと思っていたんです。どうせなら、ひとかどの人物になろうと。そんなことを考えながらも、やっぱりカッコつけたいですし、ブランド力の強さを求めて、東京大学か京都大学を目指すわけです。当時の私は理系人間で、文系科目に学問的魅力を感じていませんでした。今では、文系の学問にも科学的要素が必要だと強く感じていますけど。で、最終的には生物が好きだったこともあり、京都大学の農学部に進学。初めての京都ひとり暮らし生活は、とても楽しかったですね。授業にはほとんど行きませんでしたから(笑)。ウィンドサーフィンにのめり込んでいくんです。いろんな大学の仲間を集めてチームをつくって、時間ができれば琵琶湖、香枦園浜、甲子園浜に出かけていました。予備校の講師や、単発の家庭教師のバイトで稼いだお金を、すべてウィンドにつぎ込みながら。

 大学3年に上がる前、「俺はこのまま理系の学問を続けていいのだろうか」。そんな疑問がふくらんできました。相対認識への欲求が高まってきたのです。「文系の本質をまったく知らずして、理系の本質を知っているとは言えないのでは」と。それで、3年次から経済学部に転部。授業に出るようになったのか? いいえ、それは相変わらずで、あまり出席しなかったですね。大学の4年間は自分にとってどのような時代だったか? 理系と文系の学問を少しかじりはしましたが、完全なるモラトリアムの期間だったと思っています。野放図に、ほうけながら好きなことをして楽しんでいましたから。

<東京海上から経済企画庁へ>
大組織の歯車として働き、役所に出向。さまざまな異文化経験が起業に向けたエナジーに

  野放図に暮らしながらも、就職活動の時期はやってきます。周りの仲間と同じように会社に資料請求しながら、私も就活をスタート。理系職種も少し考えましたが、そもそもが飽きっぽい性格です。メーカーに行って、ずっと同じものをつくり続ける自信はありません。で、さまざまな業界をひととおり俯瞰してみると、保険業界が面白そうだと。しかし、生命保険は対象が基本的に人ですし、何となく義理人情の泥臭いイメージがあったのに対して、損害保険は自動車や建物、そのほかさまざまな物件が対象となるため、世の中を広く、まんべんなく見ることができそうだ。実質経済をしっかり学ぶなら、損保が面白いのではないかと。そして私は大学卒業後、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)にお世話になるのです。

 配属されたのは、半官半民企業や省庁、役所など大組織のリスク対応を担当する営業部でした。大阪にあるこの部署に丸3年在籍し、泥臭い営業を相当数こなし、泣き、笑いながら充実した日々を送ることができました。ただ、東京海上の営業スタイルは、会社全体のブランドを投入して組織で戦うスタイルで、個人ノルマがありません。個人間の競争がない巨大組織の中で、与えられた職務をたんたんとこなすわけです。そのうちに、法人格というよくわからない人格を持った組織の中で、歯車のひとつとして自分が働くことに、だんだんと違和感を持つようになっていくんですよ。そんな疑問がふくらみ始めた頃、会社からのプレゼントが届きます。経済企画庁(現・内閣府)への出向です。役所という組織で働くことはきっと、将来の自分にとって有意義な体験となることを確信していました。

 国内総生産や国民経済計算など、マクロな視点で日本をとらえながら、経済白書や国民生活指標などを作成する仕事を担当しました。またさまざまな政策が生まれ、国会で決議されるまでの過程を間近で見るなど、国全体が動いていく現状を肌感覚で知ることもできました。そして3年間の出向期間の中、人の健康保険制度の財政破綻危機の可能性など、問題となる原因を分析する機会を得たのです。「保険料の未払いが病院の窓口ですぐにわかるよう、保険証の有効性確認ができるようにすれば良い」「不正請求を防ぐために、カルテを病院の帰属とせず、オープンにすれば良い」。いずれにせよ、不正を誘発するような健康保険制度の構造そのものを改善すれば正常に戻ると考えました。そして、これを提案しましたが、「そうかもしれないが、まだ実際に検証ができていない」という理由で削られてしまった……。当時は忸怩たる思いをしましたけど、今考えれば確かに証拠不十分だったかなと。

<アニコムの始まり>
大企業の安定を捨て、起業へ挑戦!徒手空拳で臨んだ、ペット向け健保事業

 3年間の出向期間を終えた私は、1999年に東京海上に戻りました。東京の職場で保険勧誘の営業を続けながらも、経済企画庁で考えた健保改善のことが頭から離れません。このままでいいのか? 何か違うよなと。話を少し戻しますが、私は1995年の1月、地元の神戸に帰省していました。その時、阪神大震災が起こった。ああ、人間って死ぬ時は本当にあっけなく死んでしまうんだ。大自然の営みの中で、人間の悩みなんてちっぽけなもの。せっかく生き残った自分。本気でやりたいことができたら、挑戦しないともったいない。死生観に直面させられたその時から、そんな思いをずっと抱き続けていたのです。巨大組織の歯車としてではなく、そろそろ自分で事業を起こそう。それから、熱帯魚や観葉植物のリース事業、お茶漬けのチェーン店事業など、いろいろな事業アイデアを模索するようになっていくのです。

 1999年12月、弟が動物病院の開業医として独立。冬休みに帰省した私は、彼の動物病院の仕事を手伝うことにしました。ほぼ20年ぶりに長い時間を弟と一緒に過ごす中で、ひとつの考えが生まれます。昔から実家で柴犬を飼っていた動物好きな自分。損害保険会社で働いてきた自分。動物病院を開業した弟。彼から聞く業界の現状。経済企画庁で知り得た、人の健康保険の問題点。これまで培ってきた経験や情報を組み合わせた結果、ペットの健康保険事業というアイデアがポロリと出てきた。複雑なレセプト処理を電子化し、ネットワークすることで動物病院の負担を軽減する。正確な保険料を設定し、会員となったペットオーナーは動物病院で診察を受けた後、窓口で診療費の半額を支払えば良い。そんな人の健康保険みたいなペット保険があれば、きっとビジネスとして成立する。起業への思いが日に日に強まっていきました。

 構想をほぼ固め、自ら事業計画をつくり、2000年5月に東京海上を退社します。最初に集った仲間は2人。資本金は自己資金を含め、4000万円。当初はペット共済というかたちでスタートすることを決め、7月に、アニコムクラブと、その運営会社を設立しました。そして、電子レセプトシステムの構築、保険料の設定、営業パンフやツールの作成など、11月の募集開始までワクワクしながら準備をスタート。「募集が始まったら、電話が鳴りやまなくなる」なんて妄想しながら、バラ色の日々でしたね。そして11月。ふたを開けてみたら……、電話が1本も鳴りません……。いいものであれば売れると考えていましたが、それは間違いだった。東京海上時代の私は、会社の看板で商売していただけ。保険というかたちのない商品は、ブランドと安心がないと誰も買ってはくれないのです。4000万円の資本金は、すでになくなりかけています。スタッフは10人に増えていましたが、12月の給料が払えそうにありません。それから私はノイローゼに陥り、本気で自殺を考えるまでになってしまった……。

ペット保険を主軸とし、これまでの保険会社の
役割分担と存在意義自体を刷新していきたい!

<自殺願望はどこへやら?>
メンバーからの一言で抜け殻から覚醒!“小森商店”を捨て、人間的組織を目指す

 2001年の1月も、まったく会員は増えません。知り合いが付き合いで2人ほど加入してくれた程度です。「もう終わりか……」。毎日、壁に向かって足を組んで、悩んでいる自分。給料も払えるめどがなくなった。この苦境から、何とか逃げ出したかったのでしょう。ロープを買ってきて、自分の体重に耐えられるかどうか、その強度を試したことを覚えています。でも結局、自殺する勇気はありませんでした。それで、スタッフたちに「この会社、もうアカン。解散する」と宣言したんです。そしたら、「アカン言うてからが始まりやと、教えてくれたのは社長でしょう。ここから盛り返しましょう」とスタッフのひとりに言われたんですよ。ああ、そうだった。あと3日でもいい、頑張ってみよう。そう思い、私は運転資金を獲得するため、金融機関への出資依頼計画書の作成を始めます。

 2月、あるVC(ベンチャーキャピタル)に第三者割当増資の依頼にうかがいました。スイッチがばっちり入ったのか、この時はまさに一世一代の素晴らしいプレゼンができたと思っています。また、VCの代表者の方がその昔、独立系の金融機関をつくろうとした人でした。「事業計画書はほとんど問題ない。昔の自分と同じような夢を持っている君を応援したい」と、ほぼ即決してくれたのです。これでなんとか、厳しい兵糧攻めから逃れることができました。そして、私がノイローゼとなり、金策に走りまわっていた間、スタッフたちがものすごいパワーを発揮して頑張ってくれていたんですね。「社長はもう頼りにならん」と。その成果が表れ始め、提携動物病院と会員が少しずつ増えていきます。そして4月、「新しいペット保険登場!」。そんな見出しの記事が全国紙に掲載されました。その日から今日までの9年間ずっと、加入申し込み、問い合わせの電話が鳴り続けています。

 当時からペット共済はいくつか先行して存在していましたが、そのほとんどが、保険金を事後請求する仕組みを取っていたのです。これがけっこう面倒くさい。一方アニコムクラブは、人の健康保険と同じく、動物病院の窓口で保険証を提示し、診療費の半分を支払えばOK。これが一番喜ばれました。まだアニコムクラブと提携していない動物病院をかかりつけにしている方から、「私が院長を口説いておいたから、すぐに営業に行って」と。会員から営業先を紹介してもらったこともありました。そして7月、ある大手ペットショップさんから、「提携したい」という申し出をいただいたのです。「どうぶつ健保をつけたうえで、うちのペットを販売したい。全チェーンで導入する」と。ここから急激に、会員数が伸び始めることになったのです。

<独立系として世界最小の損保会社誕生!?>
共済からスタートし、損害保険会社へ。
25万頭が契約し、ナンバーワンの座を維持し続ける

 どうぶつ健保事業をスタートさせて、一時期ノイローゼになって、自殺を考えて、それでもスタッフに助けられながら事業を軌道に乗せ、提携動物病院、ペットショップ、そして会員の皆様の協力を得ながら、当社は今日も事業を継続させることができています。起業してすぐ痛い目に遭うまで、私は本当にわがままで、自己中心的な、ただの“人”でした。この頃、あることに気づいたんですよ。それは、“人”と“人間”は別物であるということ。わかりやすく言いますと、人と人の間を取り持つのが人間。起業当初、会社も“小森商店”という感覚で経営していましたが、たくさんの人の協力がないと、事業は継続させることができないわけです。やっと30歳になって、単品の“人”小森が消え失せ、“人間”の小森に生まれ変われた。そんな気づきを得、自分を良き方向に変えることができたことを心から嬉しく思っています。

 2006年4月、保険業法が改正され、私たちのような無認可共済団体は、生命・損害保険会社または少額短期保険業者(売り上げ50億円が上限)への移行、もしくは廃業という3つの選択肢を余儀なくされました。もちろん、当社の選択は「損害保険業免許を取得し、国が認める新しい金融機関をつくる」です。言うは易しですが、足かけ3年の申請業務は難を極めました。免許を取得できるかどうか定かではないけれど、高給の専門家を雇用しなくてはならない。将来起こるかもしれないリスクを想定し、対応策を講じておかねばならない。すべての“unknown”をknown”にするこということです。おそらく、金融庁に提出したすべての資料枚数は数億枚。大型旅客機の設計書ほどの、膨大な資料でした。

 あたかも当社のDNAすべてを書き換えたような申請書は、無事に金融庁に受理され、2007年12月、ペット保険専業としては初めて損害保険業免許を取得。何よりもこの商売が続けられるということが嬉しかったですね。正直ホッとしました。共済時代の加入ペット数は、30万頭強。これまでの共済は自動継続でしたが、新しく損害保険会社となったことにより、アニコム損保のペット保険「どうぶつ健保ふぁみりぃ」への契約切り替えが必要となりました。2008年4月から契約の切り替え、新規契約獲得を推進し、2009年5月末現在、約25万頭が契約中(ひとりの契約者が複数の契約するケースもあり、契約者ペットオーナー数では約22万人)。もちろん、国内のペット保険市場ではナンバーワンの新規契約頭数です。

<未来へ~アニコム損害保険が目指すもの>
保険金を支払うだけでなく、悲しみを減らす組織へ!
これまでの保険会社の存在意義自体を変えていく

 現在、国内ペット保険の市場規模は100億円と言われており、当社はその60~70%のシェアを獲得しています。ちなみに、国内の犬猫の飼育頭数は2600万頭ですが、保険に加入しているのはわずか1、2%程度。ペット保険先進国であるイギリスのペット飼育頭数が日本の約半分で、ペット保険市場が800億円ですから、日本は少なくとも1000億円くらいまで成長する余地があると考えています。今後も少子化が進み、ペットはますます家族の一員化していくことは間違いないですから。世界初の病院窓口精算だけでなく、先天性異常の病気でも契約後に判明した場合は補償しますし、継続時にこの病気は対象外ですとお断りすることもありません。保険本来の役割を果たしながら、まずはペット保険のリーディングカンパニーであり続けることに注力していきます。

 そもそも、保険金をもらってうれしい人なんていないのではないでしょうか。事故や怪我はしないにこしたことはないですし、保険金って付属品みたいなものだと思うのです。たとえばこんなことを考えています。「ゴールデンレトリバー、5歳の男の子は、当社データを見ると、○○○という病気に罹る確率が高いので、早めのチェックをしておきましょう」。病気や怪我をする前に、予防ノウハウをしっかり提案しておく。当社であればそれができると思うのです。アニコム損保の保険に契約すると、病気になりにくい、一番健康でいられる、寿命が長い。言ってみれば、これまでの保険会社の役割分担というか、存在意義自体を変えていきたいと。そして、ペット保険という誰もが難しいと思うビジネスでそれを実証し、将来的には、対象を人や自動車にも広げていきたいのです。

 自動車保険や火災保険に比べて、ペット保険は商い単価が年間2、3万円と低いうえに、加入頭数の約半分が年に1回以上保険を利用しています。火災保険であれば、保険金を受け取るような事故は一生に一度あるかどうか、自動車だってそんなに事故に遭わないでしょう。そういった意味で、オペレーションコストが他種目に比べて莫大にかかかるので、ペット保険は損害保険の中でも一番難しい種目といえます。このペット保険をミスなく効率的に運営することができれば、他の種目を展開することは容易でしょうし、先ほどお話したように保険会社の役割分担を変えることができるのではないかと思っています。私は、法人とは、そこにつどったスタッフたちの子どもであると考えます。法人が自分たちの子どもである以上、すくすくと成長していってほしい。IPO(株式上場)は法人の成人式だと思っています。だから、IPOという成人式を用意してあげるのは当然。成人式を無事終えることができれば、そこからアニコムグループの新しい横展開が始まると思っています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
ないものねだりは自分の中の焦燥感を高めるだけ。
外部から栄養摂取すれば、アイデアは生まれます

 やる気はあるけど、起業のアイデアが浮かばない人が多いと聞いています。でも、そんな状態の中、自分で事業アイデアを紡ぎだすのはかなり難しい。焦燥感が募るだけ。自分の指を食べても成長できないでしょう。やっぱり、じゃがいもを食べて、肉を食べて、古典を食べて、数学を食べて、そうやって外部から栄養をどんどん取り込まないと、新しいアイデアなんて生まれるわけないですよ。私の場合も、起業するまでに経てきたいろんな経験や、体験が積み重なり、構造化され、パッチワークのようになってポロッと出てきた。そんな感じです。特に、自分が好きではないことや、苦手なことを取り込んでいくことをお勧めします。キリスト教が好きなら、敢えて仏教を調べてみる。理系が好きなら、敢えて文系を学んでみる。そんな相対的認識への挑戦は、面白いアイデアを紡ぎだすための訓練になると思います。

 あと、成長を怖がってはいけません。現状を維持しようと考えた瞬間に、成長は止まってしまいます。小さな子どもは語学を1年でマスターしますよね。あの成長スピードはものすごいでしょう。自我が確立されてないから、失敗を恐れず何でも試す、何でも食べる(笑)。でも、少し成長して個性が生まれると、自分が自分じゃなくなるのが怖くなるから、異物には触れようとしなくなる。人間も会社も、成長し続けなければいけないと思っています。だから先ほどお話したように、外部から、どんどん異物=栄養素を取り込んでいくべき。私自身、休日はアトランダムにいろんな展覧会に出かけています。テーマは手袋、ゴム、ベアリングなど、何でもあり。知らない情報の中に自分を置いてみることも大切です。あと、引っ越しするわけではないですが、月に一度は新しい家を見学しています(笑)。

 成長し続けるためには、飽きない、飽きさせない工夫も必要です。当社では毎朝の朝会で、「1.01×1.22×10.89」という掛け声をかけています。毎日1%の改善をし続ければ、20日後に最初の1が1.22になり、12カ月後には10.89になる。お金に換算して考えると、100万円が、1年後に1089万円になっているということです。いきなり20%の改善を実現することは難しいですが、何でもいい、みんなが1日に1%の改善を楽しみながら継続していくことが、後の大きな成長につながっている。そんな社風をつくりたいと思ったからなんです。この取り組みを始めてから、多くのスタッフが「小さな改善を行うことが楽しくなった、誇らしくなった」と感じてくれているようです。起業を目指すみなさんも、ぜひこの「1%改善」を日々の活動指針に取り入れてみてください。継続は力なりです。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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