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第83回
株式会社大潟村あきたこまち生産者協会 代表取締役
涌井 徹 Toru Wakui
1948年、新潟県生まれ。人口密集地としては世界一といわれる豪雪地域、十日町市の米づくり農家の長男として生を受ける。新潟県立十日町高校卒業後、同 県立農業教育センターに専攻生として入学し、1年間で卒業。その後3年間、出稼ぎを続けながら地元での農地拡大を計画するが、1970年、家族とともに秋 田県の大潟村に入植。しかし同年から、生産調整政策、いわゆる減反政策がスタート。1987年、仲間とともに大潟村あきたこまち生産者協会を設立し、その 後、代表取締役に就任。米の個人向け通信販売を続け、無洗米や特定の栄養素を付加した米の栄養機能食品などを多数開発。外食チェーン、公的機関など、業務 用向けの販売にも進出し、大手スーパーなどにも販路が広がっている。現在、生産、加工、流通までを手掛け、日本で初めての「農業発の一流食品メーカー」を 目指し、将来の株式上場も視野に入れている。著書に、『農業は有望ビジネスである!~新たな高付加価値産業になる時代』(東洋経済新報社)がある。
ライフスタイル
好きな食べ物
好き嫌いはないですが。
嫌いな食べ物はないですよ。この体系をご覧いただけるとおわかりのとおり、脂っぽいものが特に好きです。お酒はビール2杯くらい。そのあとは、酎ハイとかウーロン酎とか。でも、そんなに強いほうではないと思います。
趣味
映画です。
毎週の休み、家族4人でシネマコンプレックスに出かけて、封切り作品をはしごで観ます。多い時は4本とか(笑)。「おくりびと」も封切り時に観ましたよ。最近観たのは「釣りキチ三平」です。秋田がロケ地なんですよ。
ほっとする瞬間
目標ができた時。
常に何かに挑戦して追いかけられていますから、なかなかほっとできません(笑)。こじつけっぽいですが、「これが目標だ!」と自分で思えた時が、ほっとする瞬間でしょうか。逆に具体的な目標がないと、不安になりますね。/p>
秋田の自然
山菜採りに魚釣り。
もちろん、今でも田んぼの作業はしていますよ。あと、忙しくてなかなか行けないのですが、山でキノコやタケノコを採ったり、海でキスやイカ、川でフナを釣ったり。秋田には、豊な自然がまだまだ残っていますから。
21歳から始まった強大な農政との闘争劇。
すべての米作農家の自由を勝ち取るために戦い続けた
1970年から始まった生産調整政策。いわゆる減反政策である。これにより、米作農家は自分の田んぼに自由に米をつくる権利をはく奪された。かつて琵琶湖の次に大きな湖だった秋田県の八郎潟を干拓してでき上がった広大な農地、大潟村。減反政策が始まった年に、涌井徹氏は、家族とともにこの地に入植してきた。新潟県の1.3ヘクタールの田んぼと生家を売り払い、10ヘクタールの広大な田んぼで思い切り稲作を行うために、だ。そして、彼の闘争の日々が始まる。国、県、農協、権力を持った組織からの攻撃は半端なものではなかった。しかし、涌井氏は自分の信念、「米をつくる自由」「米を売る自由」という権利を獲得するために、一度たりとも攻撃に屈することはなかった。そして、「ヤミ米派」というレッテルをはがすことに成功し、氏が代表を務める「大潟村あきたこまち生産者協会」は、今では新しい農業経営のモデル」とさえ言われるまでになった。「60歳を超えて、もうひとつ。生きてきた証を残したいと考えていたのですが、大きな夢が見つかりました」と語ってくれた涌井氏。今回は、そんな涌井氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<涌井 徹をつくったルーツ1>
豪雪地域の米づくり農家で生まれ育った長男坊。
将来の夢は自然なかたちで”楽しめる農家”と定まる
私が生まれた新潟県十日町市は、人口密集地としては世界一の豪雪地域といわれています。冬には雪が8メートルも積もるため、雪下ろしどころか雪掘りが必要なくらい。家の2階から出入りできたし、電線もまたぐことができた。そんなところです。父は本家の三男坊で、戦争から帰ってきて、本家から少しわけてもらった田んぼで米をつくっていました。母は理容店を営んでいましたから、経済的には恵まれていたほう。きょうだいは妹と弟がひとりずつの5人家族です。60年前の田舎なんて、テレビもない、車もない。私は物心ついた頃から父の米づくりを手伝い、遊びといえば春と秋は山に入って山菜採り、夏は川で魚釣り。で、冬は雪にまみれて遊ぶと。4月に種まきの手伝いをしていたら、田んぼのわき道にまだ1メートルくらい雪が残っていたことを、今でも覚えています。
子どもの頃の私に課せられたもうひとつの手伝いは、山羊の世話。母の母乳の出が悪く、父が当時2000円くらいでその山羊を買ってきたんです。私、妹、弟もみんな、山羊の乳で育った。そのほかにも鶏、耕運機代わりの牛も飼っていました。私が高校生になるまでずっと。中学では100人中3番くらいと成績は良かったですよ。バスケ部で活躍していたけど、身長165センチの私が一番大きかったから、まったく強くはなかった(笑)。当時は中学生が金の卵といわれていて、8割くらいの生徒が東京などに集団就職していきました。でも、私は農家になろうと決めていたので、地元に残り、ひとまずは進学高校の普通化へ。部活で柔道を始めたんだけど、練習のしすぎで腰を痛めてしまいまして……。その痛みが原因で、成績は急降下。今度は下から数えて3番目になってしまった(笑)。
当時、実家の田んぼは1.3ヘクタール。ここから1年間で約100表の米が取れて、収入は80万円ほど。母の理容店がはやっていたから、父も出稼ぎをやめましたが、周囲のほとんどが兼業農家ですよ。一度、自家用車を買おうという話になって、ディーラーに来てもらったんです。勧められたのがトヨタのカローラ。「大人しそうな車に見えますが、走り出したら狼ですよ」と営業されて(笑)。でも、契約書にハンコを押す段になって、父が「俺の田んぼで稼いだ1年分だぞ」と言い出しましてね。結局、新車を買うのはやめにして、家にやって来たのは20万円の中古のダットサントラックだった(笑)。それでも私は、若者が楽しんでできる農業が絶対にできるはずと思っていました。
<涌井 徹をつくったルーツ2>
少しでも大きな農地で思い切り米をつくりたい。大規模農業に憧れた青年は、大潟村を目指す
中学2年生の頃、社会の教科書で秋田県八郎潟(後の大潟村)の干拓事業を知ったんです。かつて琵琶湖に次ぐ、日本第二の湖だった八郎潟の干拓事業は、「米を増産し、国民全体に行き渡らせる」ための国家的ビッグプロジェクト。いったいどんな農地になるのだろうと、ある種の憧れのような思いをもって注目するようになりました。高校を卒業した私は、1年間の専攻生として農業の専門学校へ。そこを卒業後、実家の農家を手伝いながら、神奈川県や千葉県で3年間出稼ぎをしています。最初は、十日町市の田んぼを増やしたいと考えており、県庁に相談に行くと、「近々、生産調整政策が始まり、新規開田の補助金が出なくなる。田んぼを増やすなら大潟村がよいのでは」と。それから私は真剣に大潟村への入植を考え始めたんです。
19歳で1968年の第二次入植に応募しようとした際は、年齢制限で却下。20歳の翌年は、結婚していないのでダメ。ただし、婚約者がいればいいと言われ、従姉妹に名前だけ貸してくれたと頼んだら「アホか、傷が付く」と断られました笑)。そして第四次入植の時も、結婚もしておらず、婚約者もいないので困っていたら、農政局の担当者が「結婚希望書を出しなさい」と。そのとおり私は、「入植できたら地元女性との結婚を希望する」という内容を記した書類を提出したんです。おそらく日本で唯一の結婚希望書でしょう(笑)。周囲からは「秋田は美人の産地だからいいじゃないか」と茶化されましたよ。そのおかげというわけでもないでしょうが、第四次入植のテストに無事合格。そして1970年、私と、父と母は十日町市の田んぼや家を売り払い、大潟村を目指したのです。
それまで1.3ヘクタールだった田んぼが、7倍以上の10ヘクタールになるわけです。ここで思う存分米をつくろう。憧れの大規模農業、専業農家として十分生活もできそうだ。私たちだけではなく、ほかの入植者たちも期待に胸をふくらませていました。ところが、私たちが入植した年に、生産調整政策、いわゆる減反政策がスタート。第五次入植者の募集も延期となり、1万ヘクタールある大潟村の農地の半分は空いたまま。米の増産のために試験を潜り抜け、訓練を受けた入植者たち460戸全員が「米をつくるな」と言われるわけですから皮肉なものです。会社でいえば、入社した途端に時短になって、給料が激減するのと同じです。国の決め事ですし、また「一時的な措置である」と言われたこともあり、最初のうちはみんな大人しく従っていました。それから生産調整政策が40年以上も続いていくなど、誰一人として考えていなかったでしょう。
<国や県からの執拗ないじめ>
農家が自分の田んぼで米をつくるのは違法か?
実力行使をした結果、権力側から予想以上の圧力が
1974年、延期されていた第五次入植者120戸が大潟村最後の入植者としてやってきました。ただし、生産調整を進めているため、これ以上田んぼの総面積を増やすことができません。どうしたか? 「5ヘクタールの畑作地を追加で提供するから、2.5ヘクタールの水田耕作権を第五次入植者に譲り渡せ」と。結果、580戸の入植者全員が、7.5ヘクタールの田んぼと7.5ヘクタールの畑作地、合計15ヘクタールを得ることに。一見、土地が増えたのだから良いように思えます。ですが、干拓地の地質は畑作にまったく適していません。私も、メロン、ほうれん草、麦、豆類などをつくり始めましたが、ことごとく失敗し、経費が出て行くだけ。さらに、畑作には補助金が出ないのです。7.5ヘクタールの田んぼだけで、15ヘクタール分の借入金を返済するのは無理。夢を持って入植してきた仲間が5人も自殺してしまった……。
このままでは私たちは生活すらできなくなる。大潟村の入植者たちは決起し、減反政策に抗って、自由に稲を植えることにしたのです。ただし、国の政策に違反した場合、農地の「買い戻し」を受けるという条項が契約書に明記されています。国や県は当然のごとく、大潟村の入植者たちを厳しく指導しにやってきました。「少しでも多くつくった農家からは田んぼを取り上げる」と。それで泣く泣く、青刈りをすることになったのですが、みせしめなのでしょう。わずかな面積を残してしまった2戸の農家が「買い戻し」の通知が届いてしまったのです。田植え機で1往復分多かっただけ……。こんな決まり方が法律的に認められるはずはない。そして、1983年に農事調停を起こしたら、2度目の審議で「農家が自分の田んぼに米を植えてはいけない」という法律など存在しないことがわかった。
ダメな理由はないが、国や県としては「ではご自由にどうぞ」と言えるわけがありません。もう実力行使しかないと、徐々に全面積に米を植える農家が増えていきました。1985年には、入植者の過半数を超える約300戸が参加。農協が米の買い取りを拒否したため、独自で販売ルートを開拓して米を売り始めたのです。こうして生まれたのが「自由米」。世間でいうところの「ヤミ米」です。ところが、県は予想外の手を打ってきました。大潟村には7カ所の出口があり、2カ月間かけて24時間体制で「ヤミ米」の摘発を行うと。いちいち車を止めて検問をするのですが、止めるのはタクシーなど関係のない車ばかり。なぜか? 米を積んだ車を止めてしまうと、国は政府米として購入義務が発生するから。意味がないわけです。県内はもちろん、全国の農家に対するみせしめのための検問だったのでしょう。「大潟村と同じようなまねをするな」という。
<これがゴールではない!>
大潟村の農家たちが安心して米を売れる場所。農家が立ち上げた農業経営会社のスタート
さらに、3人の仲間が食糧管理法違反で摘発され、その後、検問を1年間延長するという発表が県議会で決定しました。が、私たちは弁護士を通して検問の法的根拠をただす公開質問状を提出。するとその翌日に、跡形もなく検問所は撤去されました。摘発された3人については、家宅捜索が行われ、私を含む70人ほどの農家も取り調べを受けました。そして、大潟村が米を売っていた40社以上の米穀卸のリストが見つかりましたが、そこに載っているのは、すべて国の資格を持っている一流会社ばかり。こんなものが世に知れたら、大潟村叩きするどころではなく、食糧管理法そのものが崩壊してしまいます。結果、不起訴が決まり、国の農政に対する私たちの闘争は、「米をつくる自由」「米を売る自由」を確保したことで、ある意味勝利というかたちになりました。
県も、12ヘクタールまでは自由に米をつくってよいという譲歩策を提出。大潟村の仲間たちはほぼ目的を達成したのだから、大団円というゴールを迎えたと思ったでしょう。しかし、私は違いました。15ヘクタールつくる権利を勝ち得たのに、12ヘクタールまでといわれても意味がない。みんなにとってはゴールでも、私にとってはここからがスタート。いつまでも国が米価を決める時代は続かない。必ず自由な価格で米を販売できる時代がやってくる。そのためには、農家自体が自主自立できる存在にならなければなりません。坂本竜馬は、「亀山社中」という商社を立ち上げ、経済活動を行うことで新しい時代づくりに貢献しようとしました。私自身、それまで玄米の売却は行っていましたが、これからは白米自体を産直できる力を持つことが必要だと考えたのです。そのために大潟村の農家が、安心して販売を任せられる場所と仕組みをつくろうと。
そして1987年、私は仲間4人とともに、株式会社大潟村あきたこまち生産者協会を設立。個人に向けた米の産直ビジネスをスタートする決意を固めました。暗中模索、まさに手探り状態ではありましたが、私の倉庫に5馬力の精米機、米タンク、手動式の袋詰め機を購入。今ではこの200倍以上の設備規模になっていますが。また、個人に向けた売り方も当然わかりませんから、細々と産直を行っている仲間に聞いてみました。すると、都会に住んでいる親戚やその知り合いに売っていて、口コミを合わせても200~300俵だと。しかし、私の計画は10人の農家で1万5000俵、100人で15万俵。そのくらいの量を販売できるようにならないと自主自立のモデル農業はできない。そして、その実現のためのアイデアを思いついたのです。
米関連の一流食品メーカーを本気で目指しながら、
日本の食糧自給率アップにも貢献していきたい
<営業せずに売るためのアイデア>
真摯なマスコミ対応を繰り返し行うことで、協会の活動を広く消費者へのピーアールに成功
つくった米を県内で販売せず、親戚や知人にも販売せず、営業もしないで全国の消費者に直接買ってもらうにはどうすればよいか、いつも考えていました。この活動は、新聞やテレビ、雑誌社など、マスコミにとって有益なニュースソースになるのではないだろうか。生産調整政策との戦いの間も、私はマスコミと何度も接触し、常に真剣な対応をしていました。社会的に意義がある活動なら、必ず取り上げてくれるはずだと考えているうちに、共同通信の記者が訪れ、取材への対応をしました。すると程なくして、全国から現金書留の封筒がどんどん届くようになったんです。最初は、「これはなんだ?」と疑問に思いましたが、共同通信が配信した記事を読んだ方々からの注文だったんですね。それはまだお盆前で、まだまだ売るための準備もできていない頃。あわてて、「もう少しお待ちください」というお返事を出しました。
同じ頃、日本テレビが半年間張り付きでのドキュメント番組の制作をしてくれて、さらに、販売直前には読売新聞が「食糧管理法違反・覚悟の産直」というタイトルの記事を書いてくれたんです。私は違反だなんて思ってなかったんですけどね(笑)。でも、それらのメディアのおかげで、毎日50~100件くらいの注文が届くようになったんです。最初は、国や農政に反抗する姿を応援したいというお客様でもいい。実際に、私たちのあきたこまちを食べてもらえれば、「産地直送の米ってこんなにうまいものだったのか」と、すべての方々に思ってもらえるはず。そう確信していましたから。また1989年、「内田忠夫のモーニングショー」に出演したことがきっかけとなり、こんな事件も起こっています。
いつものように、私が農家の自主自立の持論を述べた後、ある国会議員A氏が、「農民は朝早くから夜遅くまで働いているから、ビジネスを考える時間がない」と、そんなニュアンスの話をしたんです。そのコメントが世論の反感を買ってしまい、その国会議員は次の選挙で落選。まさに逆恨みなのですが、A氏の地元にある県農協中央会が「涌井の協会の米を運ぶなら、我々はヤマト運輸を使わない」と。ちょうど9月の稲刈り時期で、私は夜の8時頃まで田んぼで作業していました。そこにヤマト運輸の担当スタッフが、その報を伝えてきました。その当時で1万人のお客様が待っているわけです。ヤマト運輸以外の宅配会社を使えばいいという声もありました。でも、それは違うのです。これは私たちとヤマト運輸の戦い。この勝負から逃げて、別の宅配会社にお願いできたとして、同じようなことが起こらないとは限りません。私は、敢えて「米が運べない状況」を容認したのです。
<お客さまのためにできること>
安心でおいしいを届けるための挑戦を続け、価格への満足度までも愚直に問うてみる
翌日、私はすぐに東京に向かい、政府の規制緩和委員会に直訴。また、消費者会員には、「この圧力を広く世間に訴えてほしい」という趣旨の手紙と、各新聞社、放送局の連絡先を同封して発送(笑)。結果、この「宅配便ストップ事件」は大きな問題となり、発送を待つ米袋で満杯の倉庫がニュースで報道されるなどして、私たちの活動が広く世の中に知れ渡ることになりました。そして、10日後、トラックをチャーターしていったん岩手、青森に米を運び、そこからヤマト運輸に全国への宅配を依頼することに。その後、2年ほど、この運送活動は続きましたが、数万人の新規消費者会員の獲得が実現し、私自身、この勝負を経験したことで経営者として大きな成長ができたと思っています。
1992年、初めて広告を打つことに。1億4400万円の資金を投下し、新聞折り込みチラシを週100万枚、月3回、7カ月継続。その結果、約7万人の新規消費者会員獲得に成功。そして翌年、3億円をかけ、10万人の会員獲得を目指したのはいいのですが、記録に残る冷害により、米の価格が暴騰。ある安売り家電店の有名社長が大潟村を訪れ、前年まで1俵2万円だった米を6万円で仕入れると宣言。これには参りました。そこで私は、その宣言になびきそうになった農家の仲間たちに「6万円では買えないが、4年間継続して、3万円で買い続ける」。そんな提案をし、何とか仕入れを維持することができました。その後、さらに安全な米をお客さまに届けるため、化学肥料を減らし米ぬか発酵肥料を使用。残留農薬分析計を導入するなどして、国際環境規格ISO14001を取得。そうやって、お客さまに選ばれるための努力を厭わず、挑戦を続けています。
安全でおいしい米を届けている自信はありましたが、果たして価格はどうなのか?「高すぎると思われている場合、希望価格をお申し付けください」という手紙を全会員に送ることにしたのです。社員や、ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)への留学経験をもつ商社からの研修生からも大反対されましたけど。結果は98%の返答が「現状の価格で満足している」でした。協会設立からちょうど10年目。これまでの取り組みは会員に信頼されているということがわかり、この結果を聞いた時は本当に嬉しかった。ちなみに、この手紙を送った経緯は、HBSの教材でケーススタディとして活用されることになったそうです。
<未来へ~大潟村あきたこまち生産者協会が目指すもの>
自主自立するための新しい農業モデルは確立できた。
60歳を超えてもうひとつ、生きてきた証をつくりたい
その後も、無洗米の開発、業務用向け営業のスタート、精米工場のマイナスイオン環境化、発芽玄米、さまざまな栄養素を加えた機能性米の開発、量販店での売り場開発など、お客さまにとってあったほうがよいと思えることであれば、迷わず取り組んできました。そして現在、大潟村の当社契約農家は170戸まで増え、当社のような米の販売会社は大潟村だけで70社くらいあると思います。私たちのスタンスは最初からフルオープン。売り方も、生産ラインも、何だって公開していますから、いい部分は真似してもらって、どんどん仲間が増えていけばいいんです。農家自体も、親父さんが生産に注力し、息子さんが販売戦略を担当するなど、活性化してきているようですよ。
協会としては、生産、加工、販売を手がける一貫経営ができていますから、目指すは、米機能性食品のオンリーワン企業であり、一流と呼ばれる食品メーカーです。そのためには、志を同じくする同業、異業種との提携も柔軟に考えてきたい。世界的な食糧難は現在も危惧されており、日本が1年間に輸入している小麦500万トンが特に危ない。そのうち250万トンが麺、230万トンがパン、20万トンがケーキなどに使用されています。小麦の輸入がストップすると、これらがつくれなくなってしまう。そこで、減反された100万ヘクタールを使って500万トンの米をつくる。この米で小麦の替わりができないだろうかと。
群馬製粉という会社に話を持ちかけ、米の粉でパスタ麺をつくる開発が進んでいます。実はすでに、米粉の細かさ、混ぜ合わせる配分もでき上がっていて、小麦を使わない米100%のパスタ麺が世に登場しようとしているんです。その米粉を使ったパスタ麺の製造をさまざまな工場に委託し、私たちが販売する。そんなマーケットインの新しい事業も本格的に始まろうとしています。そうすることで、新たな市場が生まれ、雇用も確保できるんじゃないかと。この波を大きくしていくためにも、100万ヘクタールの休耕田をどう活用するか。40年前、ヤミ米派とさげすまれ、たくさんのハードルが確かに待っていましたが、農業の仕組みは私が考えたとおりになりつつある。60歳を超えた私にとって、この休耕田の再生と、食糧難の解決こそ、次なるミッションであると思っています。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
世の中のマイナスを補う仕事を探せばいい。
あとは24時間、成功のために考え続けること
「日本人全員が西を向こうが、我、東を向く」。坂本竜馬が発した名言と言われているそうですが、これは正しい、絶対に成し遂げたいと、いったん自分が信じた夢があるのなら、何があってもその信念を曲げてはいけないということです。ビジネスという世界で自分がなすべき道をどうやって見つけるか、やはりそれは、世の中に存在する矛盾、何かが足りない場所、余っている場所、何かが助けを求めている事柄などなど……、マイナスを感じる場所に隠れているのだと思います。では、そこでどうやって戦えば勝つことができるのか。目を覚ましたら偶然アイデアが浮かんだというような話も聞きますけれど、私に言わせれば、それは24時間ずっと考え続けていたからだと思います。徹底的に自分を追い込んで考えるからこそ、ピンチをチャンスに変えることができるのですから。
日本の農業は高齢化が急速に進んでおり、このまま大胆な改善策がなく時間が経てば、日本の地方には散々たる風景が広がることになるでしょう。私の生まれ故郷である十日町市も昔は機織りの町として有名で、家々からパタパタと音がしていましたが、今ではもう何も聞こえません。先ほども申しましたけど、私はもうひとつ生きてきた証をつくりたいと考えています。100万ヘクタールの減反された田んぼの復興です。100万ヘクタールのうち40万ヘクタールは原野になっているそうですから、すべては無理としても、私が生きているうちに、どこかにモデルとなる場所をつくっておきたい。
国がそれをやってくれればいいのですが、もう待っていられません。誰もやらないことという意味でも私には意義がありますし、崩壊に近づいていく事象には何らかの大きなチャンスが隠れているのです。何とかして、減反の廃止により新たな米を生産し、小麦の代替食品化市場をつくりたい。まずは1000トン分、2000トン分でいい、まずはその流れを完成させたいのです。今回の米粉の製造も群馬製粉に話を持ちかけたのは今からわずか2週間前。少しでも気になったなら自分の目で確かめる行動を起こすこと。そして新しい出会いをどんどんつくることが大切です。自著に『農業は有望ビジネスである!』があります。そのとおり、今の日本の農業はビジネスヒントがたくさん詰まったマーケットです。ぜひとも、これから起業を目指す方々には、農業に目を向けてほしいと思っています。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康