第168回(前編)
NPO法人クロスフィールズ
共同創業者・代表理事
小沼大地 Daichi Konuma
1982年、埼玉県生まれ、横浜育ち。2008年、一橋大学社会学部・同大学院社会学研究科修了。大学院在学中の05年より、青年海外協力隊(中東シリア・環境教育)に参加。もともと教職を志望していたが、赴任期間にシリアで出会った、ドイツ人経営コンサルタントの働きぶりに感銘を受け、ビジネスの力で社会を変える仕事を志す。08年、マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社。同社では人材育成領域を専門とし、国内外の小売・製薬・自動車業界を中心とした現場改善プロジェクトなどに携わる。2011年3月、同社を退社し、共同創業者の松島由佳とともにNPO法人クロスフィールズを設立。企業向けに、社員を新興国のNGOに数カ月間派遣する「留職」プログラムの提供を開始。これまで15社、30人の導入実績がある。会社員時代より、社会貢献活動に関心を持つ社会人向けのコミュニティ「コンパスポイント」(キャッチコピーは「情熱の魔法瓶」)を主宰し、これまでに1000人を超す参加者を集める。世界経済フォーラム(ダボス会議)のGlobal Shapers Community(GSC)2011に選出される。今年(2014年)、第2回「日経ソーシャルイニシアチブ大賞」新人賞を受賞。
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ライフスタイル
趣味
スポーツ全般です。
一度お休みしていましたが、今度またマラソンに挑戦する予定です。スポーツ観戦も好きですね。
行ってみたい場所
シリアです。
青年海外協力隊で派遣されたシリアに行って、現地で暮らす友人たちと話をしたい。今、日本人は入国できないのですが……。現地には、当時の仕事仲間や友人がたくさんいますし、赴任後、最初に暮らしたクネイトラの村がどうなっているのか、とても心配しています。
好きな食べ物
寿司です。
ヘルシーなものを食べるようにしています。寿司が好きですが、なかでも好物はイカ、タコ。子どもの頃は、高い皿のものは「見るだけ」と両親からしつけられたからでしょうか(笑)。お酒は何でも飲めますが、一番好きなのはビールです。
青年海外協力隊、戦略コンサルを経た起業家が、
「留職」プログラムで素晴らしき未来づくりに挑戦
「留職」――日本の大手企業社員が自社の看板を背負い、派遣された新興国のNPOで働きながら社会課題の解決に取り組むことで、枠組みやルールのなかで消えかけていた自分の夢や志を取り戻す――まずは人を変え、組織を変え、そして社会と未来を変えていく、そんなプロジェクトである。この仕組みを運営しているNPOが、2011年に設立されたクロスフィールズだ。同NPO法人の代表・小沼大地氏は、教職を志望していたが、青年海外協力隊、戦略コンサルティング会社を経て、このスキームを発案することになる。「僕たちは、大きな時代の転換期を生きていると思うんですよ。実は先がもうない今の太い道を歩むか、先が見えないけれど自ら新たな道を切り開いて前に進むか。僕は後者のほうが、楽しく明るい人生につながっていると信じています」。今回はそんな小沼氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<小沼大地をつくったルーツ1>
私立中学への入学で、アイデンティティが崩壊?
リーダーシップで人を引っ張る人生を選択する
生まれたのは埼玉県の所沢市で、家族構成は会社員の父、当時は専業主婦だった母、それと2つ下の妹の4人です。ちなみに、母は後に介護の仕事を始め、今では高齢者介護施設の施設長をしています。所沢は西武ライオンズの本拠地だったこともあって、近所の仲間と一緒に野球をやっていました。街を歩いていると、当時の主砲・デストラーデ選手などによく出会いましたよ(笑)。でも、小学3年になる時、父の転勤に伴って、家族で横浜市に転居することになります。その当時、両親から、「横浜の子たちはみんな頭がいい」とおどされて。転校して勉強ができないことがばれたらまずいとおびえた僕は、必死に勉強を始めたんですよ。で、転校してみたら何のことはない普通の公立小学校でしたから、少しは勉強ができる子になっていたと。両親の戦略にはまった感じです(笑)。
それで中学受験もすることになって、鎌倉市にある栄光学園中学校・高等学校に入りました。しかし、それまでトップクラスだった成績が、栄光に入ってすぐ、いきなり下位クラスに転落します。この時、アイデンティティが崩壊したような、ものすごいショックを受けるとともに、僕は勉強ではなく、運動や課外活動で目立つタイプを目指すことを決めました。そして僕は野球部に入部し、ポジションはキャッチャーを選択。昔から人と違うことをやるのが好きですし、キャッチャーって、9つのポジションで1人だけ別の方向を向いているでしょ(笑)。部活ではキャプテンになることを自分に課し、他者に影響を与えられるリーダーシップの在りかを探しながら、一生懸命練習に打ち込みました。ちなみに、栄光学園の教育理念は「Men for others」。他者のために役立つ人間にというもの。また、カソリック系のミッションスクールなので、週に一度、宗教倫理の授業あり、マザー・テレサなど、社会に大きく貢献した信者の話もたくさん聞きました。
中高とも、野球部の活動を続けたのですが、顧問の先生がとても素晴らしかった。もうひとつ、高校の音楽教師を題材にした映画『陽のあたる教室』に感動し、教師こそ、他者に影響を与えられる仕事、それが自分の進むべき道だと考えるようになりました。しかし、高校3年になり、真剣に進路を考え始めるタイミングで、『社会学になにができるか?』という社会学の入門書に偶然出合うのです。すべての文化は世の中に必要なある種の装置であって、万人が正しいと感じる価値観などないのではないか――。そんな内容だったと思うのですが、日本人として生まれ育ち、信じてきたさまざまな慣習、ミッション系の学校で学んできたキリスト教の教えなど、もしかしたら自分はそれ以外の文化を知らずにいただけで、井の中の蛙なのかもしれないという疑問がふくらんでいきました。そこで、その疑問を解決するために社会学を学びたいと考え、国立大学のなかで社会学部がある一橋大学に進学することを決めたのです。
<小沼大地をつくったルーツ2>
教師になる前の社会勉強のために国際協力を志向。
青年海外協力隊に応募し、中東の地へ派遣される
大学では、ラクロス部に所属しました。実は高校3年で部活を終えた時、大きな悔いが残っていたのです。キャプテンを務めていましたが、目立った成績もあげられず、必死に勝とうともしていない自分がレギュラーでいいのか。そんな中途半端な状態で最後の大会に臨んでしまった自分……。あの弱さを克服するために、大学では部活をやりきろうと。ラクロスという競技を選んだのは単純で、100人以上の部員が在籍し、全国制覇が狙えるくらい強い部だったからです。毎朝7時過ぎから11時までが練習で、午後からが勉強の時間(笑)。ポジションは、キャッチャーと同じく守りの要であるゴールキーパーです。いろんな挫折も経験しました。U21の日本代表に選ばれたけど、試合に出られなかったこと。腰を負傷して、心が萎えそうになったこと。大学3年でレギュラー落ちしたこと……。それでも、4年次にはレギュラーに復帰して主将を任され、必死で頑張る姿を見せるキャプテンシーで、チームをしっかり引っ張ることができた。史上初の関東ベスト4進出という結果もついてきて、高校時代に抱えた悔しさともようやく決別できました。
ラクロスのオフシーズンは、毎年12月から1月で、異文化を学ぶため、学部生時代の間は、毎年バックパッカーで海外の国々を旅していました。1年目はタイとカンボジア、2年目はインドとネパールといった具合でアジアを中心に。旅行者である僕に現地の人たちはとても友好的で、とても楽しかったのですが、一方で、生活者としてここで暮したらどんなふうだろうという思いも残りました。そして就活の時期になり、同級生たちは当然みんな会社訪問や面接を始めます。でも、僕はまったく興味がわかず……。社会科教師の免許も取りましたが、たくさん旅をして異文化に触れたことで、実際に途上国で働いてみたいという気持ちがふくらんできたのです。だったら青年海外協力隊だと、説明会に参加してみました。そこで出会った体育教師の元協力隊の方がとてもかっこよかったこともあり、「これしかない!」という気持ちが固まった。そして、環境教育という職種で協力隊を受験して運よく合格し、約2年間、中東シリアに行くことになりました。
いざ、現地に着いてまず驚いたのは、環境教育のプロジェクトがなくなっていたことです。結局、最初の半年間は、人口2500人の村で、ドイツのコンサルティング会社から派遣されていた経営コンサルタントと一緒に、マイクロファイナンスを普及させるNPOの活動支援に従事。そのドイツ人たちからは、スキームをつくり、KPIを見える化し、プロジェクトを完成させていくなど、ビジネスの力を生かしながら、NPOに貢献できることを学びました。さらに、彼らはこの仕事を心から楽しんでいるんですね。“想い”をしっかり持って働くとは、こういうことなのか。それが僕にとって、大きな気づきになりました。しかし半年後、JICAへの活動報告面談で、担当者から「マイクロファイナンス? 君がやるのは環境教育だろ。直ちにそれをやりなさい」と。結果、マイクロファイナンスのNPOを辞めざるを得なくなり、シリアの地で、なんと就活をすることになるんですよ(笑)。
<シリアで就活>
自ら立ち上げた環境教育事業で成果を出し、
帰国後はビジネスを学ぶため戦略コンサルへ
試行錯誤の末、自分で考え、つくった、小中学校向けエコスクール事業の企画書を持って、シリアの民間企業や政府機関を訪ね歩き、プレゼンを繰り返しました。一緒に環境教育に取り組んでくれる組織を見つけないと、自分がシリアにいる意味がなくなるわけですから、必死でしたよ。でも最終的に、首都・ダマスカスの環境局が僕の企画を採用してくれ、やっと環境教育プロジェクトに取り組めることになりました。そして、この活動である程度の成果を残すことができ、自分の任期が終わった後も何代か隊員が派遣されるまで活動が継続したと聞いています。もともとは、人生のネタ、社会に出る前の自分探しくらいに考えていた青年海外協力隊の活動でした。しかし、貧しい国に貢献するつもりで赴任したシリアで出会ったのは、自分たちが母国の未来をつくっていくという気概にあふれた熱い人たち。シリアで生活をするなかで、今の日本人に足りないのは、取り戻さなくてはならないのは、この情熱なのではないかと思い始めたのです。
もうひとつ、ドイツ人の経営コンサルタントたちが、現地の人たちとともに目を輝かせながら課題を解決していく姿を目の当たりにして、「ビジネスと国際協力の世界をうまく融合させれば、大きな化学反応が起こりそうだ」ということがわかってきました。ただ、そうしたやり方で新たな価値を社会に生み出すためには、まずは自分がビジネスのスキルを身につけなければなりません。当時のドイツ人の上司から、「短期間でビジネスを学び、スキルを身につけたいのならコンサルティング会社が一番だ」とアドバイスされたこともあり、帰国後は、マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社することになります。
一方、入社までの期間を使って、アフリカやアメリカへ、さまざまなNPOの活動調査に出かけています。そうして、青年海外協力隊での活動、取材旅行でのリサーチ結果などを論文にまとめ、大学院を修了。ここから僕の会社員生活が始まるのですが、同じ頃、後の起業の後押しをしてくれる、もうひとつの活動を始めることになります。それが「コンパスポイント」という若手社会人を中心としたコミュニティです。会員数は300人強で、これまで40回ほどイベントを開催していて、累計の参加者は1000人を超えています。「コンパスポイント」では、さまざまな分野の第一人者を招き、飲み、熱く語り合うなど、今もなお、仲間と一緒に活動を継続しています。
<青臭い義憤>
大学時代の友人たちとの飲み会で、カチン。
その憤りを忘れないための「情熱の魔法瓶」
シリアから帰国して、すでに就職して働いている学生時代の仲間たちと飲む機会があったんです。現地での話や今後の自分の夢を熱く語ったのですが、彼らから返ってきたのは驚くほど覚めた反応でした。自由の利かない会社のルールと、最適化、細分化された業務にしばられてしまったからか、彼らが入社前に持っていた「でっかいことをしてやろう」「社会に貢献していきたい」といった夢や志が、まったく感じられなくなっている。逆に「小沼、お前も早く大人にならないと……」なんて言われてしまい、カチンときた。確かに、若者特有の青臭さなのかもしれませんが、それを忘れさせてしまう社会ってどうなのかと。いつまでも夢や志を持ちづける自分でいたいという思いを忘れないために、賛同してくれた3人の仲間と「コンパスポイント」を立ち上げたのです。ちなみに、「コンパスポイント」のキャッチコピーは「情熱の魔法瓶」という暑苦しいものです(笑)。
大学院で社会学を学び、もとは教師志望で青年海外協力隊経験者。マッキンゼーでは変わり種のバックグラウンドだったからか、最初に配属されたのは自社のCSRのチームでした。大学生向けにリーダーシップ教育をしていく事業で、いろんな著名人や起業家をさまざまなプログラムにアテンドすることが僕の主なミッションでした。振り返れば、この時に、今もお付き合いさせていただいている素晴らしい方々とのネットワークが構築できました。その後もスポーツチームをクライアントにした案件など、かなり変わったプロジェクトを立て続けに経験させてもらいました。
それからやっと一般的な案件にも携わり、小売・製薬・自動車業界などを担当するように。各社の店舗や営業所を回りながら、支店長に怒鳴られながら、売り上げを高める提案をしていくという、現場改善型プロジェクトが多かったですね。常に、いつかこの経験を社会貢献に結び付けたいという思いを持ちながら仕事を続けていました。その後、約半年間、研修で、アメリカに駐在することに。あるNPOでプロボノをしていたのですが、そこで「AmeriCorps(アメリコー)」の存在を知りました。大学を卒業した若者が2年間、「AmeriCorps 」を介して国内の課題解決型NPOで働き、それから一般企業へ就職していく。しかも、彼らの多くが人気企業にスカウトされている、と。「なるほど!」と思い、その仕組みについてのリサーチを続けました。海外の課題を解決する方向もあるけれど、今の日本は少子高齢化、過疎化が世界のどの国よりも早く進む課題先進国です。大企業や官公庁などでくすぶっている人材リソースを、国内の課題解決型NPOに派遣する「青年“国内”協力隊」はどうだろうか――。これが今取り組んでいる「留職」のモデルにつながる青写真でした。
次週、「人、組織、社会を活性化する“留職”で、日本を課題解決先進国へ!」の後編へ続く→
人、組織、社会を活性化し、世の中を変える。
日本を課題先進国から課題“解決”先進国へ!
<Connecting The Dots>
共同創業者と意気投合し、起業を志す。
東日本大震災当日が勤務先の退職日だった
クロスフィールズは、僕と共同創業者の松島由佳が立ち上げたNPOです。コンパスポイントの仲間でもあり、ボストンコンサルティンググループのコンサルタントだった松島と「ビジネスの力で社会貢献できる仕組みを創ろう」と意気投合したのが、2010年末頃のことでした。それから、プロジェクトに賛同してくれる大手企業を訪問しながら、企画をブラッシュアップし、「留職(りゅうしょく)」というネーミングも決定。当初は国内NPOへの派遣を想定していましたが、企業から「海外で」という要望が強かったこともあり、まずは海外への派遣というかたちでスタートすることを決めました。
仲のよい友人や、メンターの方は、「“留職”プロジェクト、いいんじゃない」「これからの時流をつかんでいる」と言ってくれました。が、妻からは「起業するならクライアントを見つけてから!」とダメだしです(笑)。この時、力になってくれたのが、「コンパスポイント」の仲間たちでした。さまざまな企業に勤務している彼らが、社内の関係部署に僕たちをつなげてくれたんですね。そのおかげもあって、「検討してみたい」という見込みクライアントがいくつか見つかって、やっと妻からの起業OKを勝ち取ることができました。そして、マッキンゼーを退職した日が、2011年の3月11日。辞職のあいさつメールを送信しようとしていたその瞬間、東日本全体が大きな揺れに襲われました。その日から、当然ですが翌週以降のスケジュールは白紙になり、起業準備どころではありません。そこで、今、自分にできることをやらなければと思いたち、すぐに被災地に入り、被災支援のNPOのサポートを始めることに。現地で、まったくのゼロから救援物資の輸送チームをつくり、マネジメントするなど、松島にも手伝ってもらいながら、コンサルタント時代に培った力をフルに活用しました。
約2カ月間、被災者、ボランティアの方々のために死にもの狂いで働き、多少なりとも被災地に貢献できていることを実感できた日々……。おそらく、マッキンゼー時代よりも忙しく働いていたと思います。今思えば、この時の僕の活動も“留職”だった気がしています。僕が好きなスティーブ・ジョブスが残した言葉に、「Connecting The Dots」がありますが、3.11の経験がクロスフィールズの未来にどうつながるのか、今はまだ明確な答えが見つかりません。ただ、「人生におけるすべての点が、やがてつながると信じることで、自分の心に従う自信が生まれる」。このことは間違いないと思っています。あと、少し不謹慎な言い方になるかもしれませんが、ひとつ言えるのは、3.11以降、日本人全員のマインドが少しいい方向に変わりつつあることです。東北地方には「自分たちの力で故郷を復興させる」という熱い想いを持った人たちがたくさんいます。そんな彼らのもとへ、「留職」してもらう。実は、今、そんな計画も動き始めています。
<最初のトライ>
「留職」によって想いを持って働くことの意味を、
しっかり見つけられた好例がたくさん生まれた
被災地から戻った2011年5月に、NPO法人クロスフィールズを創業し、まず松島と行動に移したのが、アメリカでのリサーチでした。実はIBM社が「留職」に近いプログラムを実施していて、受け入れ先となるNPOなどを仲介してくれる組織と提携しているということがわかり、その仕組みを現地にヒアリングしに行ったのです。海外の事例をくわしく話せるようになったことで、営業に弾みをつけることができるようになりました。
第1号の「留職」は、パナソニックの社員の方です。結果、勤続11年目に取得できる1カ月のリフレッシュ休暇を活用して、ある社員の方が「留職」にチャレンジするというかたちで、2012年の1月、実現しました。ちなみに今もそうですが、派遣先となる海外のNPOは、オーダーメードで僕たちがその方に合った先を探してくるやり方です。この時の実績と成果が認められ、「留職」は今、同社の正式なCSRのメニューとなり、すでに7名の方々が「留職」を経験しています。また、クロスフィールズのサービスメニューには「留職」のほかに、新興国のBOP層が抱える社会的課題解決を目指す海外のNGOスタッフを日本に招き、事業アイデアを創出するワークショップがあります。こちらも過去4回にわたって開催していただいているので、これまでに100名近い社員の方々が、クロスフィールズのプロジェクトに参加してくれています。パナソニックは、スタート時から応援いただいている、ある意味創業のパートナーといえるかもしれません。
これまで、15社、30名の方々が「留職」を利用しており、皆さん素晴らしい変化や気づきを持ち帰られています。例えば、日立製作所でパソコンの強度を高める仕事をしていた方は、ラオスでソーラーライトの普及に取り組む社会的企業に派遣されました。ある時、実際にライトを使っている村に行くと、どの家も3段階のツマミが最低に設定されていて薄暗かったそうです。現地の人に聞くと、「ツマミを強にすると壊れるかもしれない。大切なライトだからさ」と。その話を聞いた瞬間、彼は大きなショックを受けたといいます。「自分は会社から言われたことだけをやっていた気がする。これからは利用者の声をもっと聞きながらものづくりをしなければ……。技術者として恥ずかしい」。想いを持って働くことの意味を、しっかり見つけられた好例ですね。僕もこの話を聞いて、すごく感動しました。今、日立製作所は、「社会イノベーション企業になる」というミッションを掲げています。会社にとっても、その方が「留職」で持ち帰られた経験は、未来の大きな実りとなると思います。
<未来へ~クロスフィールズが目指すもの>
世の中に偏在している素晴らしいリソースを、
社会の課題が必要とする場所にシェアし続ける
もうひとつ、NECの中央研究所に勤めている研究者の方の素晴らしい「留職」事例を紹介させてください。彼は、社会的課題解決を事業としているインドの企業に派遣されました。インドのほんとんどの農村部に点在しているキオスクのような小さな販売店。流通網が整備されていないため、店主が大型店で商品を買ってきて、それに利益を乗せて売るということが普通だったそうです。彼が派遣された企業は、それらの販売店をフランチャイズ化して、一括で商品卸を実現する事業に取り組んでいました。実際にそのやり取りを現地で調査し、彼が考案したのが、POSシステムとタブレット端末を活用した、業務円滑化です。NECの得意技ですよね。最終的には、パイロットシステムの実験まで終え、派遣先の企業から非常に高い評価を得たということです。その企業のインド人経営者たちもものすごいリーダーなのですが、ナイーブで世の中を本気で変えたいと子供のような夢を語るんですって。今のNECの社員にそんな人がいるかと考えた時、これからの自分の仕事はNECの中に夢を持って働く人を増やすことだと心が決まったそうです。
このお二人だけでなく、皆さん本当に深い言葉で自分や会社を語れるようになって、戻ってこられるんですよね。「留職」によって人が変わっていくことは実証できましたが、これからは、これをきっかけとした事業をつくっていくことが目標です。日本の大企業と海外のNPOがコラボレーションする事業が花開くことで、もっともっと「留職」の取り組みは力を持つでしょう。そうなって初めて、人が変わり、組織が変わり、社会が変わる好循環が本格的に動き出すのかなと。今、僕たちは2020年の日本を意識しています。そのために、「留職」のプログラムで世の中を変える仕事は面白いと考える人たちを、企業、NPO、そして行政にどんどん増やす活動を続け、この3つのセクターが一緒になって課題を解決するために協力し合えるスキームをつくりたい。課題先進国である日本を、課題“解決”先進国に変えるということです。
このところ企業の方々と話をしていて思うのは、最初はグローバル人材育成を主目的に「留職」を採用してくれた企業が今、社会起点で課題解決を目指すNPOと協働してビジネスをつくることを視野に入れて「留職」を取り入れるようになったということです。マイケル・ポーター教授が提唱している「クリエイティング・シェアード・バリュー(CSV)」は、社会的価値と経済的価値を同一と捉えることが、21世紀の企業戦略にとって大事だという考え方です。パナソニック、日立製作所、NECも、CSVを実現するために「留職」を使いたいとおっしゃっています。僕たちは「デュアル・オブジェクティブ」と呼んでいますが、経験と学びで人が変わり、企業の価値が高まる一方、地域やNPOにも価値を提供できるのが「留職」の素晴らしさだと思っています。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
“一人称”で考えた課題を解決するために、
未来へ向けた一歩を踏み出してみましょう
僕たちは、企業に勤めている方々を応援しているので、彼らに起業しましょうとすすめるのは少し難ありなのですが(笑)。ただ、講演などで必ずお話するのは、挑戦する生き方が、今ほど求められている時代はないということです。挑戦しないことが最大のリスクだと考えて、僕は毎日を過ごしています。ひとつのきっかけは、シリアから帰国した時の飲み会で、「青臭いな」とか「早く大人になれよ」と言われたこと。そこで「あれっ?」と思うか、スルーするか、僕の場合は立ち止まらなかったことが大きな第一歩であり、社会課題解決への挑戦だったのではないかと思っています。それからずっとその社会課題に目をそむけることなく、「コンパスポイント」だったり、クロスフィールズの活動をひたすら続けているわけです。もちろん、スルーするという選択肢もありましたが、そうしたら、いつか絶対に大きな後悔が残ると考えたわけです。
結局のところ、なぜ起業したかと問われれば、後悔したくなかったから、そのリスクを取りたくなかったからといことなんですね。もうひとつ考えたのは、世の中のパラダイムがものすごいスピードで変わっているということ。今、常識だと思っていることは5年後に非常識になっているかもしれないし、今、「お前、なにやってんだ?」と非常識に思われることが逆に当たり前になっているかもしれない。僕たちは、そんな大きな時代の転換期を生きていると思うんですよ。実は先がもうない今の太い道を歩むか、先が見えないけれど自ら新たな道を切り開いて前に進むか。僕は後者のほうが、楽しく明るい人生につながっていると信じています。だから、挑戦する生き方に意味があると。もちろん、独立起業を礼賛したり、それだけが挑戦する生き方だとは思っていません。僕たちは企業に在籍して自分がやりたいことをやる方も応援したいですし、起業独立してやりたいことをやる方も応援していきます。
自分を振り返ってみれば、友人に「早く大人になれ」と言われたことに義憤を感じて、「コンパスポイント」という飲み会を始めたことが最初の発端でした(笑)。しかも社会の課題というよりも、当事者は自分だった。世の中のユーザー調査をして、これをやろうと決めたわけではなく、僕は一人称でそんな世の中は変えないとまずいと思ってしまったわけです。だからまずは、自分が憤ってしまう何か、逆にワクワクする何か、それを注意して見つけることが大事なのかもしれません。今、「起業して楽しいですか?」と問われれば、ものすごく楽しいですよ。自分が楽しんでやっていることには、必ず人が集まってくれると思うんです。僕の場合、実際にそうですし。まずは、一人称で考えた課題を解決するために一歩を踏み出してみる。それができればきっと、あなたが進むべき人生の正しい道が見えてくるのではないでしょうか。
<了>
取材・文:菊池徳行(ハイキックス)
撮影:内海明啓
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