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第73回
株式会社アイケイコーポレーション 代表取締役社長
加藤義博 Yoshihiro Kato
1971年、東京都生まれ。 高校卒業後、インテリア卸会社、不動産会社などの勤務を経て、1991年、株式会社ナショナルオートにアルバイトとして入社する。同社の先輩であり、現・ アイケイコーポレーション取締役会長の石川秋彦氏と意気投合し、オートバイ買い取り専門業のパイオニアとなる新店舗立ち上げに奔走。同時に同社の社員とな る。1994年、23歳で同店舗の営業権譲渡を受け、石川氏と共にメジャーオート有限会社を設立。その後、いくつかのブランドとグループ会社数社を設立。 1998年、株式会社アイケイコーポレーションを設立した。主力ブランドである「バイク王」を全国展開し、透明性の高いビジネスモデルでオートバイマー ケットの活性化に貢献し続けている。2005年、ジャスダック市場に上場。翌年の2006年には、東証2部に上場。現在では、オートバイの小売販売、オー トバイのパーキング事業などの新規ビジネスもスタート。「オートバイライフの総合プランナー」を目指し、果敢な挑戦を続けている。ルーキーオブザイヤー 2003受賞(ダイヤモンド社/ダイヤモンド経営者倶楽部協議会)。
ライフスタイル
好きな食べ物
焼きとうもろこし。
私は昔からお祭りが大好きで、焼きともろこし、焼きそば、モツ焼きに焼き鳥、おでん、そんなお祭りの夜店の定番ともいえる、屋台料理が好きなんですよ。屋台料理の乾いた味を感じると、楽しかったお祭りの情景が目に浮かんできますしね。お酒も大好きですよ。何でも飲みますが、基本的には料理に合わせてお酒の種類をチョイスしてます。
趣味
ビッグスクーターとダイビング。
最近またオートバイに乗り始めたんです。ビッグスクーターですけどね。あとは知り合いの経営者に勧められて、昨年、ダイビングのライセンスを家族4人で取得したんです。これにすっかりはまっていまして、今では2カ月に1度のペースで潜ってます。先日のシンガポール出張の際、休みを利用してバリまで行って潜ってきました。
最近の悩み
生みの苦しみ?
今、気分的にはダウンなんですよ。というか、わざと気持ちを内側に入れているというか。ビジネスが比較的順調に推移していて、自分の得意が生かせる新しいチャレンジを考えてはいますが、まだ迷いがある。そもそも私は、あるものを積み上げるより、ゼロから1をつくることが大好きな起業家。きっと、生みの苦しみを経験している最中なんでしょうね。
ほっとする場所
海の中。
無になれるというか、リラックスできるというか、海に潜っている時、最高の心地良さを感じることがます。ブルーの海水に包まれているだけで、神秘的な感覚になれますしね。知り合いの経営者にものすごい勢いで乗せられたからなんですが、ライセンスを取得して本当に良かったですよ。
バイク買い取り事業を核に、小売販売、駐車場事業も開始!
オートバイライフの総合プランナー企業を目指します
「バイクを売るなら、GO~、バイク王~♪」。中山エミリさん、藤井フミヤさん・藤井尚之さん兄弟、そして現在は雨上がり決死隊が出演するテレビCMを見 たことがある人は多いだろう。あのオートバイ買い取り専門店「バイク王」を主軸とし、「オートバイライフの総合プランナー」を目指す株式会社アイケイコーポレーション。同社をパートナーの石川秋彦氏と一緒に立ち上げたのが、加藤義博氏である。1994年に起業して以来、オートバイユーザーの利便性を第一に考え、全国無料出張買い取り、申し込み受け付け24時間365日体制の整備を始め、さまざまなサービスの拡充を行ってきた。加藤氏は言う。「“BIKE”という文字の中心に、“IK(アイケイ)”があります。『オートバイのことなら、何でもアイケイコーポレーションに聞けばいい』。世界のオートバイマーケットの中でそんな存在になることが夢ですね」。今回は、そんな加藤氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<加藤義博をつくったルーツ.1>
下町生まれのお祭り好き少年が体得した、下町流・商売感覚とサバイバル精神
群馬出身で溶接技術者として働く父、栃木出身で蕎麦屋のパートをしていた母。そして私と4つ下の妹。東京の下町・亀戸の団地で、私たち4人家族は暮らしていました。幼稚園時代の私は、なぜか女の子とままごと遊びするのが好きで、それをからかってくるやつとケンカして。それ以外にも母が何度も謝りに行ってたようですから、まあケンカっぱやい子どもだったようです。小学生になってすぐの頃は、なんとなく一匹狼。でも2年生くらいから、みんなとつるむようになって、いつも輪の中心にいたような。団地の空き地で野球やったり、メンコやったり、駄菓子屋の前にあるゲーム機に熱中したり。で、夏休みはずっと母方の田舎がある栃木で、カブトムシやクワガタを捕って遊んでいました。
そうやって遊んでばかりでしたから、勉強をした記憶があまりない(苦笑)。ただ、計算が面白くて、自主的に予習もしていましたから、算数だけは成 績が良かったんです。話を変えますが、初めてオートバイに乗ったのは小学生の低学年の頃。もちろん免許の必要のないポケットバイクですが。うちは裕福じゃなかったら買えないけど、友人が持っていましてね。荒川の土手とかに乗りに行く時についていって、乗っけてもらっていました。でも、一番ワクワクしたのは何よりもお祭りですね。団地の前に天神様の神社があって、山車を引いたり、太鼓叩いたり。なぜか屋台の大将にかわいがられていて、小学4年生から中学1年生まで、お祭りのたびにガラス細工の店の番を任されていました。子どもが店番をしているとけっこう売れるんですよ。それでバイト料というか小遣いをもらって。当時で1日3000円くらいだったかな。繁盛した日にはプラスで5000円くれたり。今でも私はお祭りが大好きで、焼きとうもろこしとか焼きそばとか、屋台でつくるあの乾いた味がたまらなく好きなんですよね。
中学ではバスケをやろうと思っていたのですが、誰かが「バスケは短足になるぞ」と。なるほど、それは嫌だなと、バレー部に入部(笑)。1年くらい先輩にいじめられながらも続けましたが、その後は自然と幽霊部員に。それからは放課後、当然のごとく友だちとつるんで遊んでばかりの毎日です。そうそう、下町は上下のつながりがとても大事なんですよ。わかるでしょう。でも、僕は要領が良かったので、けっこう先輩たちに気に入られていました。そのうえ地元でかなり有名な先輩に目をかけてもらっていたので、痛い思いをした経験は、ラッキーなことになかったですね(笑)。
<加藤義博をつくったルーツ.2>
親友と結成したライダーチームの副リーダーに。まとめ役としての適性が自分にあることを知る
普通科の高校に行くには成績が足りず、商業科、情報処理科、工業科の中から選ばざるを得ませんでした。数学が好きだったでしょう。また、これからはコンピュータの時代がくるんじゃないかと。私立高校の情報処理科へ進学することにしたんです。高校に入ってからも遊びとバイトに明け暮れていましたね。相変わらず友だちと町に出て遊びまわってました。で、バイトは、喫茶店でしょう、八百屋の手伝い、中華料理屋の出前、サウナの受け付け、引越しの作業員などなど、本当にいろいろやりましたねえ。
その当時のオートバイは、NSR、ガンマ、VFRとか、カウルのついたレーサーレプリカが流行っていました。親友のひとりに125ccの草レースに出て優勝するようなやつがいまして。彼をリーダーとして、ライダーチームを結成。そろいのトレーナーをつくって、みんなで峠に行ったり、埋立地に行ったり。そのうちに他校のやつらもチームに加わって、人数が増えてきた頃、まとめるのがうまいという理由で私が副リーダーに。確かに、仲間といろんな話をしたり、まとめ役をすることは楽しかったし、得意でした。でも実は、オートバイにはそれほど興味がなくて、ある意味スピードを競うみんなを冷めた目で見ていたような気がします。
そうこうしているうちに、卒業が近づいてくる。そもそも大学に進む気なんていっさいなかったですし、高校出たら働くつもりでした。小さな頃は、歌手とかボクサーになりたいとか、夢がありましたよ。今からそれを目指すなんてナンセンスだし、ずっと中途半端に過ごしてきたから、明るい未来なんてまったく見えない。もう不安しかないわけです。でも、人としゃべるのは好きですし、まとめ役が得意。みんなから相談されることも多かった。これを長所と捉えると、営業が向いているんじゃないかと。両親からもサラリーマンになってほしいと言われていましたしね。だから何となくですが、高校2年生が終わる頃には、「トップセールスマンになろう」と、考えていたんです。
<セールスマン時代>
生き馬の目を抜くような厳しい職場で頭角を現し、月給は100万円を超える
就職先を探していたら、インテリア卸会社を発見。私が高校を卒業した頃は、トレンディードラマが大流行していまして。「インテリアってカッコいいかも」と、そんな安易な理由で就職を決めたんですよ(笑)。実際に勤務し始めたら、倉庫でドアノブとかセメントとかの管理をして、外に出てもルートセールス。私がイメージしていたインテリアのセールスとは違って、めちゃくちゃ地味なんですね。この会社は半年くらいでギブアップしました。時は1989年、まだバブル華やかな頃です。求人広告を見ると、「18歳で月給100万円も可能!」とか書かれている、不動産やゴルフ会員権の販売会社がたくさんあった。「これだ! ここでトップセールスを目指そう」と。
入社後は、ゴルフ会員権を販売する部署に配属されました。リストをポンと渡されて、営業トークをさらりと教えられただけで、1日最低300本、会社の社長あてに電話営業するんです。もちろん、最初はまったくダメでしたが、徐々に売れるようになっていくんですね。なぜか? できる先輩社員にくっついて、気に入られ、仕事を盗んでいったから。この会社の営業はまさに生き馬の目を抜くような競争で、成績が悪ければ課長が翌日平社員に降格されていた、みたいな。そんなサバイバル状態ですから、普通は先輩たちも自分のテクニックを教えたがらないわけです。でも、下町で生活していた時代の、要領の良さが活きました。求人広告を出している会社は儲かっている。それをリストにするなど、効率的な営業方法を教えてもらい、忠実に実践したおかげで成績アップ。私の給料は100万円を超えることもあり、成績優秀者の海外旅行にも連れて行ってもらっていました。
1年半ほどその営業を続けた頃、今度は不動産も手がけてみたいと考えるように。それには宅建資格があったほうがいい。で、いったんその会社を退職して、学費稼ぎのバイトをしながら専門学校に通い始めるんです。バイトは何でも良かったのですが、亀戸を中心に居酒屋数軒、バイクショップ数軒を経営している30歳すぎの経営者がいましてね。白いツードアのベンツを颯爽と乗りこなす、地元では有名な若手社長だったんです。若造にもいろいろ仕事を任せてくれるという評判も聞いていて、それは面白そうだと。で、彼が経営しているバイクショップを友人に紹介してもらい、そこでバイトすることになったんですよ。
<こんな楽な営業なんてない!>
兄貴タイプのパートナーと二人三脚で新規の買い取り専門店立ち上げに奔走
このバイクショップは買い取りにも力を入れてやっていて、私の最初の仕事は買い取ったバイクを磨くこと。ショップで働いていると、オートバイを売りに来るライダーが1日に、2人くらい来店するんです。そのやり取りを見ていると、10人のうち3人くらいしか売ってくれない。数百万円もするゴルフ会員権を必死で売っていた私から見たら、あり得ない機会損失ですし、ものすごくもったいない。なぜなら、向こうからわざわざオートバイを持ってきてくれて、こっちがお金を払って引き取るという営業なわけでしょう。顧客がここで売りたくなる営業トークを構築して、スタッフ管理をしっかりすれば、成約率はいくらでも上げられるのに……と。ある日、社長から夕食に誘われたので、そのことを話してみたんですよ。するとその提案が気に入られ、「仕入れ担当の石川と一緒にやってみろ」となった。
石川秋彦は現在、当社の取締役会長です。彼は5つ上の兄貴タイプ。お互いすぐに意気投合して、一緒に業務を開始しました。そうこうしているうち に、会社が買い取り専門店を新たに出店することになり、このタイミングで社長から正社員になれと。不動産ビジネスのように高給は取れませんが、何よりも、店舗の立ち上げを石川と私に任せてくれることに魅力を感じたのです。この経験は必ず自分の大きな力になる、石川と一緒というのも面白そうだと。そして1991年、亀戸との商圏バッティングを避けるため、杉並区の荻窪・環状8号線沿いに、20坪のバイク買い取り専門店をオープンしたんですよ。
ビジネスの基本的なスキームは、今とそれほど変わっていません。バイク専門誌に広告を出し、問い合わせの電話が鳴るのを待つ。問い合わせがあったら、オートバイを持って来てもらうか、こちらから見に行く。で、査定をして価格交渉が成立すれば、買い取って、リペアして、オークションに出品するか、亀戸のショップで販売する。買い取り価格と販売価格の差額が粗利となりますが、当時は1台10万円が粗利の目標。問い合わせの電話は1本たりとも逃したくないですから、会社の電話を自宅に転送して、真夜中でも電話に出ていました。自動車の買い取りビジネスはすでに存在していたので、うまくやっている会社の広告を参考にしたり、雑誌の個人売買情報をネタにしたり、ビラをつくって放置バイクに張りに行ったり。いろんな方法を試しながら、買い取り件数を増やしていったのです。スタート時の目標台数は月60台。これは3カ月目にはクリアしています。自分たちが考えたアイデアで売り上げがどんどん上がっていく。深夜まで仕事して、休日もなかったですが、もう本当に毎日が楽しくて楽しくて仕方なかった。不動産業界でトップセールスになる夢は、いつの間にか消え去っていました。
オートバイ業界をより素晴らしい産業にしていくためにも、
マイナスイメージの改善、さまざまな社会貢献に寄与し続けたい
<ライバルはバイクショップ?>
このビジネスはあくまでもサービス業。顧客志向のサービスを徹底すれば勝てるはず!
亀戸本店の買い取り台数を抜き去り、次の目標はオークション会社の出品落札ランキングに食い込むことだと。毎月黒字経営を継続し、オークション会社のランキングも2年目には常にトップクラスに。やればやるほど成約率が高まり、最盛期には月160台くらい買い取りをしていました。しかしバブル景気は徐々に崩壊し始め、スタートしてから3年目、親会社の経営が悪化。この店舗も閉めざるを得ない状況に……。店自体の経営は絶好調でしたし、自動車の買い取りビジネスの伸びを見れば、オートバイもまだまだいける。また、町を歩けば放置バイクが何台も転がっています。私たちにとってこれは宝物ですし、放置バイクを減らしたいという思いもありました。それで社長に店舗を残してもらえるよう直談判。結局、私と石川で数百万円ずつの資金をかき集め、店舗の経営権を買い取るカタチで、自分たちの会社を起業することになるんですよ。この時私はまだ23歳でした。
当初からバイク買い取りビジネスは関東中心でしたが、関西や九州など地方からも徐々に問い合せ電話が増え始めていきました。行きは静岡、京都、大阪。帰りは滋賀、岐阜とか。2トンのワイドトラックをレンタルし、1泊2日で1000キロくらい走って7、8件査定にうかがえるようアポイントを設定。私が行けば、ほぼ100%成約していましたよ。ちなみに、これまでオートバイを売りたい人の多くは、バイクショップに行っていたんです。でも、バイクショップは職人気質の人が多いので、「もっとキレイに乗れなかったのか」って叱られたり、かなり待たされたうえに「3万円なら引き取るから置いてっていいぞ」って言われたり。
そんなクレームをバイク仲間から聞いていたんです。だったらバイクショップにできないことを、私たちがやればいいんだと。さらにこのビジネスを続けていく中でわかったのは、パンクやバッテリー切れなどで、オートバイを売りたくてもバイクショップに持って行けない人が多いということ。だから、24時間365日問い合わせ受け付け、全国無料でこちらから出向いて査定、ITを駆使した明瞭な査定金額の算出、スタッフには名刺を持たせワイシャツ・ネクタイ着用を義務付けるなど、お客さまが望んでいるサービスをどんどん考案し、実施していったのです。創業時から石川がずっと言っていました。「うちはサービス業なんだ」と。そうやって積み重ねていった顧客志向のサービスの数々が、相乗効果を生み、お客さまに喜ばれ、そしてクチコミで広がっていったのです。
<「バイク王」成長のポイント>
顧客志向のサービス、ホスピタリティある人材、それを知らしめる独自の広告マーケティング
オートバイを買う時ってワクワクしますし、オートバイに限らず買い物という行為は確かに楽しいので、皆さん積極的に行動されます。でも逆にオートバイを売る時って非常に面倒な作業と感じるようになり、できれば全部誰かに任せたいと考えるんですね。そんな顧客心理もしっかり汲み取っているからこそ、うちはご自宅まで引き取りにうかがい、その場で査定して、身分確認が取れればその場で現金をお支払いし、名義変更もすべて代行します。それが電話1本ですぐに実現するわけです。このビジネスの肝は、いかに「バイク王」の認知を広げ、いかに1本でも多くの問い合わせ電話を鳴らすのか、ということになります。なので、広告マーケティングには創業当時から、かなり力を入れてきました。
当社には、雑誌、インターネット、ラジオ、テレビなど、それぞれの広告媒体おける費用対効果を細かく測定して構築した、広告費用対効果測定システムがあります。このシステムは機密上、あまりくわしくは説明できませんが、さわりだけお話するとこんなことがわかるというものです。たとえばAという雑誌に100万円投下すれば、100本電話が鳴るので、電話1本当たり1万円。別のBという雑誌は200本鳴る。でも、集まるオートバイは原付ばかり。一方、A誌は大型オートバイの比率が高い。だから、当社にとっての費用対効果はA誌のほうが高い。もちろんテレビCMも、広告費用対効果測定システムを駆使して投下していますよ。
ちなみに「バイク王」として初めてテレビCMを打った時のキャラクターは、格闘家のボブ・サップさんでした。確かに強烈なインパクトはあったのですが、そもそも商材となるのがオートバイだし、調査してみると「怖い人が査定に来るんじゃないか」というイメージを持たれる方が多かったんですよ(笑)。それもあって、皆さんが安心できるイメージを醸成せねばと。そうして生まれたのが、「バイクを売るなら、GO~、バイク王~♪」のメロディー。キャラクターも方向性を180度変えて、中山エミリさんを起用しました。顧客志向のサービスを拡充し、ホスピタリティ精神を持った人材を育て、費用対効果の高い広告戦略を構築していく。この3つが「バイク王」の成長を支えてきたポイントといえますね。
<未来へ~アイケイコーポレーションが目指すもの>
“BIKE”という文字の中心には“IK(アイケイ)”がある。世界中のオートバイマーケットから頼られる存在に
国内のオートバイ保有台数は約1300万台といわれています。また、毎年新車が約70万台流通していますから、中古のオートバイ台数も年々増えていくといえるでしょう。そして中古バイクのマーケット規模は推定200万から250万台くらい。うち、当社の年間取り扱い台数は約15万件で断とつトップです。ちなみに当社の成約率は現在、88%を超えています。この数値も年々高まってきていますので、人材の拡充と、ビジネスモデルをさらに深耕していけば、自然とシェアは伸びていくと思っています。また、今でも自動車中古流通業界に比べ、オートバイは10年くらい遅れていますから、真似できる先行事例がまだまだたくさんある。追い付け追い越せのハングリー精神で、目指すは“オートバイライフの総合プランナー”。最終的には、オートバイにかかわるすべての業務を手がけたいのです。
買い取らせていただいたオートバイの多くを、オークションで販売しています。しかし、買い取り活動を継続していくと、スタッフとお客さまとのやり取りの中にたくさんの物語が生まれるわけです。そうするとやはり販売という出口業務も自分たちでやりたくなる。そこで、「バイク王ダイレクトSHOP」という中古オートバイ販売店、「バイク王パーツ」という中古パーツ販売店の展開をスタート。さらに、道路交通法の改正により、オートバイの違法駐車取り締まりが強化されています。ライダーたちもオートバイの駐車場がないことに不満を持っていました。そこで、2006年から「パーク王」というブランドを立ち上げ、オートバイ駐車場事業も開始しています。
またここ数年、海外視察に出かけることが多いのですが、日本のオートバイは海外でも大人気です。日本の中古市場で5万円で販売されているホンダのスーパーカブが、ベトナムでは会社員の年収に匹敵するほどの金額で取引されています。もちろんベトナムだけではなく、カンボジア、ロシアなどなど。そういった意味で、海外市場のチャンスも無限に広がっているといえるでしょう。そのために「moto-ik」という海外取引ブランドを立ち上げて、マーケットリサーチに本腰を入れ始めています。“BIKE”という文字の中心に、“IK(アイケイ)”があります。「オートバイのことなら、何でもアイケイコーポレーションに聞けばいい」。世界のオートバイマーケットの中でそんな存在になることが、今の夢なんです。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
できるできないで考えるのではなく、やるかやらないかという考え方で!
やりたいと思ったことがあるなら、まずは最初の一歩を踏み出すこと。これが一番大切です。必要な本を買って読む、情報を持っている人に話を聞きに行く。そんな簡単なことからでもいい。まだ早いかもとか躊躇なんてしないで、行動に移しましょう。もちろん起業にリスクはつきものですから、誰にだってできない理由はいくらでも出てきます。できるできないで考えるのではなく、やるかやらないかという考え方をしないといけない。これは起業に限った話ではなく、何か事を起こして夢を実現したいなら、誰にでも言えることですよ。
最初の一歩を踏み出して、始めることは簡単です。でも、その後のほうが大事。ビジネスは人を巻き込んでいくものですから、継続することが大前提となります。ゴルフ会員権の販売をしていた時、周りの社員が言い訳を残してどんどん辞めていきました。しかし私は自分の成長を信じ、先輩に助けてもらいながら、必死で営業を続けたわけです。結局、その会社を退社してはいますが、先輩から「ここで培った根性と営業ノウハウがあれば、売るものがどんな商材になってもやっていける」、そんな言葉をかけてもらったのです。中古バイクの流通事業というビジネスとの出会いはある意味偶然でしたけど、必死で学んだ営業活動の継続があったからこそ、スムーズに事業を軌道に乗せることができたのだと思っています。
また、当社のようなサービス業は人材が命。そして人材に求めるのはIQよりもEQ、心が大事。今では上場も果たし、テレビCMを流せるような企業になりましたが、昔はまったく人が来てくれなかったのです。来てくれた人を育てるしかなかった。なので人材育成に思い切り注力しましたし、いろんなチャレンジをしてきました。ボンボンを育てる気はさらさらないので、富士山のふもとで行われる、地獄の社員研修に新人を放り込んだこともありましたね(笑)。
人は仕事を任されると嬉しいし、結果を出すためにやる気になる。このことを私自身の起業体験から学んでいました。たとえばスタッフのすべてが新入社員の店舗を、若手の店長に任せてみたり。そうやって任された仕事のやりがい、達成感を得ることができれば、人はどんどん成長していくのです。いずれにせよ、環境や仕組みで人は変わります。起業してビジネスを継続して発展させていくためには、やはり一緒に働いてくれる仲間が必要です。やらされ感が生じない環境、常に自己成長というチャンスを取りに行ける仕組み。仲間と一緒に会社を継続発展させるためにも、この2つを用意することです。うまく人材を育てている他社の真似から始めたっていいのですから。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓