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第72回
株式会社アルテサロンホールディングス 代表取締役社長 C.E.O
吉原直樹 Naoki Yoshihara
1956年、神奈川県横浜市生まれ。埼玉大学教育学部卒業後、世界シェアトップの理美容器具メーカー、タカラベルモントに入社。美容機器販売、店舗開発を 行なう関連会社のタカラ・ビューティーメイトに配属され、営業成績は常にトップクラスを堅持。3年後の1981年、美容室のチェーン展開を行なう企業に、 営業部長として転職し、店舗開発に加え、店舗運営も担当するように。31歳で美容師免許を取得し、1986年、横浜市神奈川区に自身の美容室を開業し、独 立。その後多店舗化を開始し、1988年、有限会社アルテを設立。1997年、暖簾分け型フランチャイズ方式の独立支援をスタート。事業を順調に伸ばし、 2004年、ジャスダック市場に上場を果たした。2006年、ホールディングカンパニーに移行し、株式会社アルテサロンホールディングスとなる。旗艦ブラ ンド「Ash」をはじめ、「NYNY」「スタイルデザイナー」「essensuals」「AMG」などをチェーン展開し、ロンドンにも2店舗の「Ash」 を教育サロンとして運営している。
ライフスタイル
日々の食事
基本的に貧食なんですよ。
きるだけ太らないように、貧食を心がけています。なぜスタイルを気にするかというと、スタッフに自信をもって「うちの社長です」と紹介して欲しいから。まあ、仕事柄ということもありますが。通常朝はトースト1枚、お昼はおにぎり1個とお味噌汁、夜は仕事がらみの会食が多いですが、20時以降は食べないようにしています。お酒は飲みますが、カロリーの低い焼酎が中心です。
趣味
家庭菜園をいつか。
本当に仕事ばかりですから、趣味を楽しむ時間がなかなか取れないのが実情です。でも、いつかやりたいなと思っているのは、家庭菜園でしょうか。田舎に畑や田んぼを借りるとか、そんな仰々しいものではなく、あくまでも家庭の小さな庭で、芋や茄子を植えて育て、収穫できたら大切に食べるという。ひとりで静かに作物と向き合う、そんな時間がいつかできるといいですね。
感動していること
誕生日に届く1200人からのメッセージ。
昔は店長クラスのスタッフがみんな合同で時計をプレゼントしてくれてたんです。「もうお金がかかることはやめてくれ」と話したら、スタッフ全員から1月5 日の僕の誕生日にメッセージカードが届くように。これも毎年楽しみにしている感動行事です。ただ、従業員数が1200人を超えましたから、すべて目を通すのは大変。でも、僕にとってはそれ以上に本当に嬉しいプレゼントなんですよ。
最近、感動したこと
サプライズイベントでほろり。
先日、毎年行なっているスタッフの勤続10周年パーティに参加したんです。最初に顔を出した後、別のレセプションが同じホテルであったので、そちらに顔を出して、終了後、再び駆けつけたのですが、看板が「会社創立20周年」に変わっている。そしたら次に看板が「結婚25周年」に。で、妻がステージに登場、という。やれらた~と思った瞬間、ほろりと涙が出てきました。とても嬉しかった!
まだまだ低い美容師の地位向上に貢献しながら、
世界に伍するチェーンづくりに挑戦中です
理美容業界で彼の名を知らない人はいないだろう。教職に就くことを夢見ていた若者が、目の前に訪れるさまざまな縁を取り込みながら、なぜか31歳で自分の 美容室をオープンすることに。美容師免許を取ろうと通信制の専門学校に通い始めたのは28歳。もちろん、超遅咲きのスタートだ。吉原直樹氏が、理美容業界に飛び込んでから、約25年。今では全国に200店舗を超えるヘアサロンを展開する、ホールディングカンパニーの経営者となった。「今、僕が経営者として携わっているのは理美容マーケットですが、ここで昔からの夢だった、教育者と海外ビジネスの両方を実現できているんです」と笑う。吉原氏の教育志向も海外志向も、そのベクトルは美容室の地位向上、そして同社に集ってくれたスタッフたちの成功にブレなく向かっている。今回は、アルテサロンホールディングスの代表である吉原氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<吉原直樹をつくったルーツ.1>
三丁目の夕日のような横浜の下町で、たくさんの刺激を受けながら育つ
僕が生まれたのは横浜市の中心にある下町といわれる西区。祖父が酒販店を営んでいて、その裏側に自宅がありました。父は当時の電電公社(現・NTT)に勤務する半官半民組織のサラリーマンで、母はもと家庭科の教師でしたが、退職してからは専業主婦。6つ下の妹と一緒に、そんな家庭に育ったんです。祖父の酒販店には立ち飲みコーナーがあって、夕方を待たずに、大人たちがイカやアサリの燻製をつまみに、いっぱいひっかけながら盛り上がっている。僕はといえば、配達のお兄さんが酒や醤油を配達に行くバイクや三輪のダットサンに乗っけてもらうのがたまの楽しみ。今からもう40年ほど前ですが、ホント、三丁目の夕日みたいなほのぼのとした世界でした。
元町や中華街もすぐ近くでしたが、下町っ子はそんなところでは遊びません。電車の線路わきにサツキの植え込みがあって、そこいるクモを捕まえて、友だちのクモと戦わせたり、ベーゴマをやったり、港まで行ってカニ捕りしたり。小学校の高学年になるとグループサウンズがはやりだして、僕の周りにはバンドを組む子たちもいましたね。その時、僕は友だちの家に上がりこんで麻雀打ったりしていましたけど(笑)。そうそう思い出したのですが、公団住宅の屋上にある給水タンクの上にさらに登り、ミシン糸を使って凧あげしてたんですよね。あの頃は1000mとかあがっていたはず。今思えばかなり危険な行為、本当に命を落とさなくて良かった(笑)。
ちなみに僕と同い年の有名人ってけっこう多いんです。桑田佳祐さん、野口五郎さん、明石家さんまさん、島田紳助さん、竹中直人さん、掛布雅之さん、田中康夫さんなどなど。人情味あふれるあたたかい世の中から、いろんな刺激をたくさん受けられた時代だったと思っています。その後、中学に進学した僕は剣道部に入部。いとこの兄さんが入っていたので、じゃあ僕もと。そんなノリですから、真剣にやってはいませんでしたけど。ちょうどその頃、新宿騒乱、ベトナム戦争に絡んだ反米運動など、70年安保にからんだ学生運動が激化。エレキがフォークに変わっていくなど、だんだんと世の中に暗い影が差し始めたことを、中学生ながらに感じていました。
<吉原直樹をつくったルーツ.2>
教師になる志を持って大学は教育学部へ。体育会に身を置き、ストイックな生活を送る
高校は地元・西区にある県立横浜平沼高校に進学します。ここは神奈川県で最古の高等女学校として創立された高校で、岸恵子さん、草笛光子さんも卒業生ですね。1950年に男女共学となり、神奈川県立第一女子高校から横浜平沼高校に改称されたんです。で、入学してみたら剣道部がない。ないならつくればいいと、剣道部の立ち上げを学校側に直訴。さらに予算をうまく獲得できるよう、生徒会にも参加し、会計財務の担当をすることに。防具や竹刀など、最初に用具をそろえるためにけっこうな資金が必要ですからね。先生といろんな政治的取引をしながら、うまく剣道部に予算をつけてもらうなど、けっこう頑張りました(笑)。
修学旅行の仕組みも面白くて、数人のグループに分けられて、行き先は自由に決めていいという。僕は関西が好きだったので、細かなスケジュールを立てて京都に行きましたよ。そんな感じで横浜平沼高校はとてもリベラルな校風。楽しい高校生活を送ることができました。大学進学はどうしようと考え始めるタイミングが近づいてきて、両親に相談したら「私立はダメだ」と。本当は京都大学に行きたかったのですが、ちょっと成績がついていかない。じゃあ、地元の横浜国立大学となるんですが、あそこには学生運動で鳴らした高校の先輩がいるので引き込まれたらまずい。そんなこんながあって、自宅から通える国立大学を探し、埼玉大学に的を絞ることにしました。
僕らの時代の教育ドラマといえば、中村雅俊さんの『われら青春!』なんですよ。「あの夕陽に向かって走れ!」みたいな(笑)。あと影響されたのは、高峰秀子さんが主演した映画『二十四の瞳』です。「いつか、あんな素晴らしい先生になりたい」って本気で思っていたんです。だから受験したのは教育学部。小学校教育を専修したため、ピアノもやりましたし、苦手な水泳もやりました。勉強以外の活動として選んだのは、体育会のパワーリフティング部です。三島由紀夫さんに傾倒していて、心身とも鍛えねばと。男くさい世界が好きだったこともありましたし。
<海外勤務を夢見てメーカーに就職>
教育実習の現場で知った教育現場の実情。方向転換し、タカラベルモントの門をたたく
パワーリフティング部では素晴らしい先生にも恵まれ。人生の考え方や精神論など、たくさんの大切なことを教えていただきました。練習にも身を入れ、入学時48kgだった体重も10kgちかく増加。関東大学選手権のフェザー級で準優勝することもできました。酒も煙草もほとんどやらず、食事メニューを細かく計算するストイックな生活を続けましたね。ファッションに興味はなかったか? 着る物だけなら、横浜に住んでいるだけで有利でした。普通のアイビーなんですが、埼玉ではかなりオシャレだったようです。ヘアスタイルですか? スポーツ刈りか角刈りです。床屋愛好者で、試合の前には気合い入れてパンチパーマにしたことも(笑)。美容室に行くなんて、当時は考えたことすらありませんでした。
大学卒業後は教師になろうと、教職免許を取り、埼玉県と東京都の小学校で教育実習もしたんです。1カ月半ほど、実習をしてみて感じたのですが、何となく自分が思い描いていた世界とは違う。中村雅俊さんや高峰秀子さんのような教師にはなれないなあと。そこで急きょ方向転換をし、世界を対象にした仕事に就こうと考えたんですよ。昔から海外への憧れが強かったんです。バックパックを背負った放浪の旅に行きたかったくらい。でも、僕が就職した1978年は大不況が訪れていて、おまけに教育学部の卒の学生を採ってくれる会社なんてないんですよ。そこでいろいろ会社を調べていくと、タカラベルモントという理美容室などに専用椅子などの機器をつくって販売する会社が、世界のいたるところに支社を持っていることがわかった。
聞けば理美容椅子の国内シェアは70%、アメリカの会社を買収して同国のシェアはなんと100%近いという。理美容器具メーカーとしては世界一。これは面白そうだと、採用試験を受けたら採用してもらえたんですよ。当然、最初から海外赴任は無理でしたが、3年目に海外勤務に行ける試験がある。じゃあ、それを目指して頑張ろうと、自分なりに一所懸命働きました。関連会社のタカラ・ビューティーメイトに配属され、青山や銀座などの理美容室に美容機器を販売したり、新店舗の立ち上げのお手伝いをしたり。商品知識なら誰にも負けないくらい勉強していましたが、最初はべたべたの営業に慣れ切れず苦労しました。でも、「飲めないお酒を飲んで、夜のお付き合いをすることもありなんだ」と自分を納得させたんです。それから少しずつ自分の中の価値観が変わってきて、お客さまとの間に仲間意識みたいなものが芽生えて頃から、僕の営業成績は常にトップクラスでした。
<職場も資金も失い茫然自失>
付き合いのあった経営者に拾われ、美容室立ち上げ・運営のマネジャーに
入社3年目となり、海外赴任の試験を大阪に受けに行ったのですが、残念ながら成績トップを競っていた同期にそのポジションを奪われてしまった。海外に行けないならこの会社にいても意味がない。それで会社を退職して自分のお金でニューヨーク大学に留学しようと準備していたんですよ。そしたらある人に貸していた虎の子の200万円が、詐欺に遭って返ってこなくなってしまった……。もう行き場がなくなったと焦っていた時に、声をかけてくれたのがタカラ時代のお客さまです。「今後も美容室を多店舗展開していくから手伝ってほしい」と。当時の僕は26歳。そのお誘いをありがたくお受けし、営業部長としてその美容室チェーンに転職することになるんです。
それまで新規店舗立ち上げまでのお手伝いはしてきましたが、今度はオープン後、店舗を軌道に乗せていくまでの運営も見なくてはなりません。スタッフを集めて、彼・彼女たちをマネジメントしていく仕事はまさにスクールウォーズのような戦いでした。当時、美容師になろうとしている若者たちのなかには、元・暴走族や不良上がりの子たちが多かったんです。ミーティング中や営業中のケンカは日常茶飯事。でも、みんな根性はあるんですよ。やる気を出させるために身銭を切って夕飯をおごったり、前職で知り合った有名美容師に講習してもらったり。少し自信が芽生え始めたら、コンテストへの出場を勧めてみたり。そうやってスタッフの仕事へのモチベーションを上げながら、店舗運営を軌道に乗せていったと。計らずも、ここで昔の夢だった教師のような仕事が実現。更生施設の教師みたいでしたが(苦笑)。
スタッフたちが技術者の免許を取得し、育っていくと、技術者ではない僕を軽くみるようになるんですよ。だったら自分も美容師免許を取ろうじゃないかと一念発起。28歳から通信制の美容学校に通い始め、2年かけて30歳で卒業しました。そんな頃、会社と自分の方向性がいまひとつかみ合わなくなってきた。メーカー、店舗立ち上げ、運営を経験し、技術者としての資格も取った。だんだん自分の店をやってみたいと思うようになっていったんです。そして1986年8月、横浜の大口という場所で最初のお店をオープン。広さは10坪、駄菓子屋さんの2階の店舗。家賃は8万5000円。資金は付き合いのあった美容室専門の内装会社の社長が貸してくれました。この店が現在のビジネスの原点なんです。
スタッフの成長をいつも夢み、本気で喜べること。
これが僕にとって一番大切な起業の原点です
<31歳、遅咲きのスタート>
5店舗目を軌道に乗せた頃、恩師からの忠告。初めての中型店経営に乗り出し成功を収める
それから同じような規模の美容室を3店舗まで増やした頃、妻が病に倒れ、入院してしまった。3歳になる娘もいましたから、朝5時半に起きて、洗濯して、弁当をつくって、保育園に娘を送り届けてから職場へ。夕方まで働いて、娘を保育園に迎えに行き、一緒に妻のお見舞いに。その後に夕食をつくって、お店の会計処理……。この生活を約6カ月続けた結果、60kgほどあった僕の体重は47kgまで激減……。でも、「店長には女性を」と考えていたことが良かった。妻が入院するというピンチの裏側をよく理解してくれましたし、僕のために弁当をつくってきてくれたり。毎日一所懸命働きながらも、本当にたくさん助けてもらいましたから。
その後も1年に1店舗の計画で出店し、5店舗目の経営が軌道に乗ってきた頃、ある美容経営者の集まりに呼ばれたんです。その集まりで、昔から尊敬していた恩師ともいえる経営者から、「小さな店舗ばかりでは、拡大経営は無理だ」と忠告を受けました。多くの美容師はいつか自分の店を持ちたいという夢を持っています。しかし、経営者側からすれば優秀な店長が独立して近隣に店を出されると、人材が欠けるだけではなく、地域の顧客をごっそりもっていかれるというリスクもある。恩師は、「店長が辞めない経営を考えるべきだ」というアドバイスをしてくれたんですね。確かに、僕自身も店長が独立した後の店舗経営の大変さを見てきましたからね。
その恩師から、「学芸大学にある30坪の美容室が売りに出てる。やってみろ」と。「やりたいですが、資金がありません」「じゃあ、明日もう一度来い」。それで翌日伺ったら、「ここに1000万円の小切手がある。お前に貸す。資金があったらやるんだろう」。もう有無など言わせない勢いなんです。それで結局、その店舗経営を引き受けることにしたのですが、店のスタッフはオーナーが変わる話など何も聞いていないという。店長からは「人身売買じゃないか! もう辞める」と。「そこを何とか1週間」「賞与を出すから年末まで」と引き伸ばしながら、少しずつ信頼関係をつくっていったんですよ。3月には「500万円の売り上げを目標にしよう。僕はみんなに賭ける。ダメだったら坊主になる」と宣言。みんな一丸となって頑張ったのですが、残念ながら結果は470万円……。約束どおり僕は翌日坊主になりました(笑)。そして店長もその翌日、頭を丸めたんです。彼は現在、関連会社の役員として頑張ってくれています。
<オリジナルの独立支援モデル誕生>
独立したい美容師、支援する企業に相互メリット。「暖簾分け型フランチャイズ方式」を導入
年商で6000万円クラスの店舗がいくつかできたタイミングで、当社は「暖簾分け型フランチャイズ方式」の導入をスタートしました。これは、店長が辞めないサロン経営のスタイルを試行錯誤しながら考え抜いてたどり着いたビジネスモデル。実力ある店長が当社のサロンブランド「Ash(アッシュ)」の経営者として独立できるようになったタイミングで、その店を本人に譲渡してしまうというものです。独立したい店長にとっては、資金調達や顧客確保の課題を抱えずにオーナーになれ、当社側には一定のロイヤリティが入ります。ただし、オーナーとなる際に必要な1000万円の保証金は当社が都合しますが、オーナー仲間2人に保証人になってもらう必要があります。そういった意味で、当社の「暖簾分け型フランチャイズ方式」は人の信用とつながりによって成り立っている、絆を大切にしたオリジナルの独立支援モデルといえるでしょう。
当社の話ではないですが、ある美容師が経営者から店舗を譲り受け、倒産していくケースも見てきました。店長としては頑張ってきたのでしょうが、彼には経営者としてのノウハウと力が不足していたのです。自分の店になれば確かに給料は大幅にアップします。そこで勘違いして、高級外車を購入する、店に出なくなる。顧客が減り、資金が回らなくなる。やはり技術者と経営者は別物。だからこそ当社では、美容室オーナーとして、経営者として、独立していった仲間たちの教育をし続けるのです。店舗経営に必要なお金のマネジメント、人材採用などの協力もしますし、変化スピードの早い業界の研究も共有していきます。そうやってお互いが一緒になってアルテを継続し、拡大させていく。膨張ではなく、強く成長していくということです。
できれば30歳くらいまでに独立してもらい、年収1000万~1500万円。数店舗で2000万円、10店舗やったら6000万円くらい利益が欲しいですね。ちなみに現在、「Ash」の店舗数は首都圏を中心に86店舗。その内80店舗が暖簾分けFCで、約30人の独立オーナーが活躍してくれています。中には10億円の年間売り上げを挙げているオーナーもいるんですよ。そのほかのブランドとしては関西圏を中心とした、「NYNY」が24店舗。当社以外、外部からの独立、加盟開業を支援する「スタイルデザイナー」が北関東を中心に122店舗。欧米には1社で1万店舗を展開しているチェーンもありますから、まだまだチャレンジの糊代が残っているマーケットといえますね。
<未来へ~アルテサロンホールディングスが目指すもの>
サービスの範囲を拡充し、2022年、1000店舗!スタッフがいつまでも働ける組織をつくっていきたい
2年間、美容学校に行くと、250万~300万円の授業料が必要となります。それだけの資金を捻出するわけですから、親御さんだってお子さんに、しっかりした保障が得られるポジションで働いて欲しいのは当然ですよね。しかし、まだまだ美容業界の就業環境は厳しいものがあり、社会保険に入れない職場もたくさんあるのです。美容師になろうと思う若者を増やすためにも、安心して働ける環境を広げるためにも、アルテを成長させ続ける責任は重大だと思っています。独立を目指せる仕組みを推進していることもそうですが、当社では今年の4月から美容チェーンとしては挑戦ともいえる、毎週火曜日の全店定休日を設けました。やはり、ゆとりをもって働けることも大切ですから。
実は昨年度、ミニエステの新規事業を始めたのですが、1年で事業を売却し撤退しています。エステのサービスが“静”なら、サロンのサービスは“動”。人を美しくするという方向性は同じでも、根本が違うことが始めてみてわかったんです。それを反省材料とし、他業種展開を封印し、ヘアサロン専業の事業計画に修正しています。今後は、縦軸と横軸の 両面でサービスの拡充を目指します。横軸は、価格幅。理美容サービスの平均単価は、10分カットの1000円~1万5000とか、2万円とか。当社の平均価格が、5000円~8000円ですから、その両端の価格帯をとっていく必要があると思っています。また縦軸としては、年齢層です。今、「Ash」のコア年齢は20代、30代。10代と、40~50代がほぼ手つかず。特に若い頃に美容室に行っていたけど、何となく恥ずかしくて美容室に行けなくなった40代以降の男性層の呼び戻しにチャンスがある。有楽町に「AMG」という実験店をオープンしまし、個 室サービスを始めた結果、狙いどおりの客層に受けています。
また、以前は美容師として働いていたけれど家庭に入ってしまった主婦。いわゆる休眠美容師さんが世の中にはけっこういるんですよ。いつか彼女たちにも活躍の場を提供したいと思っています。いずれにせよ、経営目標に掲げている2022年の1000店舗の達成を目指していきます。拡大を焦らずとも、これまでどおりスタッフと共に、スケールメリットを生かしながら一歩、二歩、三歩と着実に目の前の課題をしっかりクリアしていけば、その目標は自然と達成できると信じています。そして、アルテなら60歳になっても70歳になっても働ける。そんな会社にしていくことが夢ですね。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
お金儲けが一番の目的になるとむなしい結果に。誰かに喜んでもらうことを必ず起業の原点に!
起業や独立の優先目的が、お金持ちになりたい、セレブになりたいではダメ。それではきっと長く続きませんし、最後にはむなしくなる。もちろん僕も、成功して人より豊かになりたいという思いはありましたが、それよりも、自分の周りにいる人たちに成長して欲しい、喜んで欲しい、それがそもそも原点にあった。だから一所懸命、お客さまに喜んでいただけるブランドをつくってきましたし、アルテに入社してくれた美容師の卵が働きやすい環境、将来独立できる仕組みを構築してこられたのです。確かに上場したり、成功していると過信したりした時、ちょっと勘違いしてしまったこともあります。でも、そんな時は必ずしっぺ返しを食らうものなのです。経験者が言うのですから、間違いありません(笑)。いつも立ち戻れる原点を、しっかりもっておいて欲しいと思います。
経営者の仕事って、本当に教育に似ています。採用したスタッフが失敗しないように、できるだけ長く働いてくれるように、僕はずっと教育し続けているんですね。当社から独立していったオーナーが、1店も倒産していないことが自慢なんです。業種や業界が何であっても、人の上に立つ立場になるなら教育者としての視点や心構えが必要になると思っています。僕の場合はいろんな縁がからみ合って、美容室経営という道を20年以上歩んできたわけですが、もともとの夢が結果としては叶っている。教師になりたかった夢は、経営の本質は教育であることで実現できたと思っていますし、外国に行きたかったという夢は、ロンドンでの出店が実現したり、ポーランド、スウェーデン、オーストラリアなどに美容室経営者の友人ができたりしたことで実現しました。毎年1回、横浜アリーナを貸し切って1200人ほどの技術者が集結するヘアスタイルコンテストを開催しているのですが、これからも海外からどんどん参加者を募りたいと考えています。
これからはアジアの時代がきっと来ます。世界のヘアスタイリストの技術を比べてみると、日本人が一番だと実感しているんですね。当社のスタッフに必要な技術を継承し、どんどん進化してもらうことで、世界中の人たちから「ヘアはトーキョー、ヨコハマがNo.1」と言われる社会をなんとしてもつくりたい。僕の夢の原点は、教育、海外でした。そこにもうひとつ。生まれ故郷である“ヨコハマ”にもこだわりがある。これからもヨコハマに本社を構える企業として、アジアへ、世界へ打って出るための挑戦を続けていきたいと思っています。皆さんも、お金ではない、自分オリジナルの起業の目的=原点をぜひ探してみてください。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康