藤田憲一氏は、2006年10月12日永眠されました。
取材に応じていただいたことを感謝するとともに、スタッフ一同ご冥福をお祈りいたします。
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第16回
株式会社nci 代表取締役社長
藤田憲一 Kenichi Fujita
1970年、愛媛県生まれ。中央大学法学部卒業。大学時代、司法試験の著作権に関する勉強の過程でインターネットに出合う。卒業後入社した、ダイレクトマーケティング広告会社、大手広告会社で商品開発や広告戦略企画において手掛けた複数の商品がヒットし、業界紙、一般紙に注目される。その後、大手シンクタンクで国内トップクラスになったコミュニティの育成、テキストマイニングなどのプロジェクト立ち上げを行う。その過程で「とくっちドットコム」の CEO(最高経営責任者)に就任。業績を立て直し、女性サイトでは国内トップの投稿数を誇るサイトに育成。2003年には大手電機メーカー系列ポータルサイト運営企業の事業部長に就任。2004年7月、33歳でガンを発病し、手術を受ける。2005年12月、同事業部の分社化により代表取締役に就任。初のオーナー社長となるが、年明けの1月、ガンの再発が見つかり、余命3カ月の宣告を受ける。そのリミットを振り切って、現在も闘病を続けながら命をつないでいる。今年6月に発売された自著『末期ガンになったIT社長からの手紙』(幻冬舎)が話題となり、マスコミ各社からの取材依頼が絶えない。
ライフスタイル
好きな食べ物
アイスクリームを丸々1個食べたい
さすがに食事生活はちょっとさびしいですね。少し前は、高級レストランに行っておいしいものを一切れずつ食べたりしていましたが、マクロビオティックやゲ ルマン菜食を続けていると、あまりそういうものが食べたくなくなるのです。今の望みは、まるで小学生並みなんですが、アイスクリームを丸々1個食べたいと か、コカコーラをがぶがぶ飲みたいとか、そんな感じです。そうそう、先日は友人たちと、餃子の王将に行ってきました。学生時代のいい思い出めぐりができま したよ。
いま一番行きたい場所
やっぱり雪山でスキーしたい
冬の時点でまだ元気であれば、どこでもいいのでやっぱり雪山でスキーしたいですね。そいえば、この冬スキーに行ったときに、スノーボードも持っていってた んですよ。でも、ビンディング部分が壊れていましてね。危険を承知で、ビンディングなしのすべりにチャレンジしました。だから今度はスノーボードもやりた いな~。ビンディング付けて(笑)。
クルマ
プライベート用がメルセデスAMGのSLで、仕事用はマジェスタ
プライベート用がメルセデスAMGのSLで、仕事用はマジェスタ。2台を所有しています。やっぱり最近は体がしんどいので、シート位置の低いスポーツタイプのSLはちょっと疲れちゃいます。なので、マジェスタを使うことが多いかな。
趣味
最近始めたのは、カートレースです
最近始めたのは、カートレースです。あとはスキーが大好きでして、この冬10年ぶりにすべりに行きました。スキーは大学生時代にインストラクターをやっていましたし、長野オリンピックの開幕4年前イベントでは、志賀高原でデモ滑走も経験しました。
居心地のいい時間
人と会っているときが一番楽しいです
人と会っているときが一番楽しいです。結局、あとから疲れちゃうんですけどね。でも、誰かと会話しているときは、痛みとかイヤなこととかが吹っ飛んでるんです。
余命3カ月の宣告期限を振り切って、ただいま、人生の総仕上げに挑戦中です
2006年1月23日。スキルス胃ガンの再発が見つかり、藤田憲一氏は余命3カ月の宣告を受けた。この日は、ライブドアの堀江貴文氏が逮捕された日。「逮 捕されて、すべてを失ったとしても生きられるだけうらやましい」。思わず口に出た言葉……。出口の見えない絶望……。しかし、絶望感にさいなまれる中で、 彼は新たな光を見つけた。「今の医療が治せない病気なら、自分の力で治すための行動をしてみよう」。「例え病気は治せなくて死んでしまったとしても、生き ているうちに意味があるものを残そう」。そして、「藤田憲一という人生の総仕上げ」と題した事業計画を書き上げた。この計画の根底には、彼がずっと胸に抱 いてきた、「個人が情報発信をし、社会に影響を与える世の中をつくりたい」という志がある。さあ、行動開始。自分流の「メディアとネットの融合」を目指し て……。自ら灯したその光が、藤田憲一という人間に1日、1時間、1秒だけでも先の未来を見せようとしているのか、取材日である今日7月10日は、彼が余 命宣告を受けたリミットからすでに2カ月と2週間を経過している。この日、藤田氏は、優しく、ていねいに、そしてゆっくりと私たちのインタビューに答えて くれた。青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<藤田憲一をつくったルーツ1>
ヤンチャな幼稚園児が、目立ちたがりの野球少年に
私は生まれてから6歳までを愛媛県で過ごしました。素行があまりにも悪かった幼稚園児の私を見ながら、両親は「どんな子になってしまうのだろう」と不安に 思っていたそうです(苦笑)。相当バツが悪かったのか、両親は自主的に私を転園させたほど。なんでも、年上の子に命令されるのが相当イヤで、すぐに歯向っ ちゃう子どもだったんですって。それで、本当は私立の小学校に入れたかったらしいのですが、あきらめたんですって。
小学生になると、剣道、サッカー、野球を始めます。この頃は大阪にいましたから、周囲には野球好きが多い。だから、将来は野球選手になろうと思った時期 もあります。私は、当たり前に取れるボールでもジャンピングキャッチしたり、普通に投げればいいのにジャンピングスローとかしちゃうんですよ。なんとな く、上手に見えるじゃないですか(笑)。
でも、さすがは大阪です。街のリトルリーグにもすごい選手がたくさんいるし、全国優勝するようなチームもある。メジャースポーツの世界にはすごい奴がた くさんいる。この中でトップクラスを目指すのは至難の技だと判断し、中学の途中で野球はやめました。その後にはまったのは、音楽ですね。
中学の頃住んでいたのは、大阪の泉州エリア。これは有名な話なのですが、あの清原選手が優等生と言われていた、とってもガラの悪い街でした。また当時は ツッパリブームで、校内暴力が横行している時代。駅前なんて本当に不良の溜まり場で、友人たちは誰も近づかない。でも、私は平気で遊びに行ってました。虚 勢を張ることで、自分を強く見せたかったんでしょうね。同級生にも「勉強とかしてるんじゃねーよ」とか言いながらも、自分は隠れてしこしこ勉強してました (笑)。学科でいうと、数学が昔から得意。公式を覚えるのが嫌いで、公式を使わずにゼロから答えを見つけだすことが好きでしたね。
<藤田憲一をつくったルーツ2>
会社員の家庭に育ち、厳格な父の影響を大いに受ける
ちなみに父は、NTTに勤務する会社員でした。転勤で、小中高を通じて高松、大阪、東京と3回引っ越ししています。父はとても厳しい人で、運動でも 勉強でもいつも一番になれって私に言ってましたね。一番になれるような子じゃないのに(笑)。結果、よくベランダに追い出されるというおしおきを受けまし た。
そんな厳しい父ですが、私は影響を強く受けていると思っています。まず、母がいつも「私はお父さんを尊敬してる」って言っていましたね。そんなこ ともあり私も昔から「尊敬する人は?」という質問に、必ず「父です」って答えてるんですよ。また、大阪時代に住んでいたのは大手企業の社宅が集まる町で、 いわゆるエリート会社員を親にもつ友だちが多かった。彼らの家に遊びに行くと「仕事を通していかに社会に貢献するか」という話を語ってくれる。一方で、親 が社長というお金持ちの友だちも大勢いました。しかし、彼らの親は「自分の権力」「高級車や家中の高級品」「有名人の知人」「海外旅行などの豪遊自慢」と か虚栄心の強さばかりが目立って格好悪く思えた。この頃から私は、そんなお金持ちには憧れることはなく、会社員家庭のおだやかさというか、安定感のほうに 惹かれていました。
こんなエピソードがあります。父は、仕事の成果報酬としてもらった会社の株を持っていました。NTTが上場したとき、私は母に「今売却したらいく らになるね」という話をしたんですが、そのことが父の耳に入り、それはこっぴどく叱られました。父はお金よりも、人の役に立つ仕事をすることのほうが大切 だと考える、いわゆる日本人会社員の象徴のような人なんです。高校に入学して、小遣い稼ぎのためにファストフード店でバイトを始めたときも、父が店まで来 て、すぐに連れ帰されました。お金のためのバイトよりも、今やるべき大切なことがあるだろうということだったのだと思います。
<高校は東京へ、そして大学進学>
バンド生活に明け暮れた高校時代、志望大学決定の意外な裏話
中学時代は虚勢を張り続けて疲れましたので、高校はおとなしめの進学校に入学することに。高校からは東京です。いい子に変身しようと思ったんです が、それはやっぱり無理でした(笑)。中学からはまっていた音楽と、バンド活動に明け暮れましたね。ギターをやっていて、自分では上手いと思っていたので すが、さすが東京、技術的にうまい奴がたくさんいます。ならばと、私はパフォーマンスで勝負することに。これが奏功し、オーディションでは、パフォーマン ス賞とか、ホープ賞を獲得。デビューには至りませんでしたが、レコード出版者などから、育成支援を受けたりしてたんですよ。まあ、結局グランプリは手にで きませんでしたから、自分を冷静に見て、この道もないなと判断しました。
大学への進路決定に際しては、こんな思い出話があります。都内の某図書館が、私たちの溜まり場でした。食堂が併設されていて、勉強につかれたらそ こでおしゃべりしたり。ある日、顔見知りの高校生男子グループが大声で騒いでいました。それを見た私のガールフレンドが、「勉強する気がないなら出て行っ てほしい」と注意したんです。すると、騒いでいたグループのリーダーが「俺たちがエスカレーターで行ける私立大学にも、受からないくせに、うるせーよ」と 反撃。そこで私がキレて、そいつとケンカしちゃたんですよ。当時の私は、そいつがエスカレーターで進むであろう私立大学にも受からない成績です。ですが、 こいつだけには負けたくないと、さらに偏差値の高い東京の国立大学志望に変更。私が国立大学を目指すことになった真相です(苦笑)。
で、浪人生活に突入。一所懸命勉強して、秋には志望国立大学の合格確率は90%に達しました。当時の私の悪いところなんですが、油断しちゃうとい うか、ツメが甘い。貴重な青春時代に、勉強ばかりでいいのかという邪心が芽生えてきたんです。映画に本、バンド活動、クルマであちこちドライブに出かけた り……。いろいろな方面に関心がもてたのはよかったのですが、おかげで、第一志望の国立大学は不合格。結果、中央大学法学部に進学することになりました。
<大学時代に学んだ組織仕事の基本>
モデルプロダクションで、なくてはならない立場を確立
大学に入学した頃は、バブル景気の後期で、何をするにも恵まれていました。早速、父に禁止されてたバイトをやろうと、ファストフードやファミリーレ ストランでバイトを始めたのですが、安い時給で自分の時間を消耗するこの仕事ははどうなんだと。それで、もっと自分にプラスになって、かつ効率のいい仕事 を探してみることにしたんです。思えば昔から私は、常に最短コースを探していましたね。
当時の彼女は、イベントコンパニオン。彼女の紹介で、所属プロダクションの仕事にありつきました。私以外の男子学生バイトは、当然のごとく女の子 とお近づきになることが最大の目的です。ですが、私は彼女の手前もありましたし、とりあえず仕事に集中しようと、何でも一所懸命こなしました。すると、あ いつはほかの奴らとは違うと会社の人から信頼され、より重要な仕事を任せてもらえるようになる。その後の内勤では、誰もやりたがらない女性に仕事を依頼す る電話かけの仕事を任されます。すると今度は女性たちから、「藤田君は童顔のペーペーに見えるけど、彼には仕事を振る権限があるんだ」と思われるようにな る。私の周りには自然と女性が集まり、それを目当てに男性も集まる。藤田は人を上手く使えるという評価が広がり、最後のほうは広告代理店などのクライアン トから直接指名で仕事をお願いされるようになりました。そうするとプロダクションも僕を手放せなくなって、1日で4万円の報酬を手にすることもあったんで すよ。
この経験を通じて、仕事とは、まず信頼されること、そして、人がついてくるような立場をつくることがとても大切なのだということを学びました。社会人になってからの私の組織マネジメントにもこのことは大いに生かされています。
そして、就職活動のシーズン。司法試験の勉強中に、著作権法を調べていた私は、インターネットの存在を知りました。これまでの広告ビジネスの多く がマスマーケティングだったのに対し、インターネットが台頭することにより、ワントゥワンマーケティングの時代に移り変わっていく。それは、消費者である 個人がパワーを持つということです。さらにこの分野をどんどん調べていくと、「個人が情報発信する社会の仕組みづくり」というキーワードが頭に浮かんでき ました。そして私は、このキーワードを実現すべく、ダイレクトマーケティングを得意とする広告代理店への就職を決めました。
個人が情報発信することで、社会に影響を与える世の中をつくりたい
<ITビジネスとの出合い>
広告代理店、シンクタンク、そして雇われ経営者へ
マス広告を扱うメジャーの広告代理店志望者が多い中、私は最短で実力をつけるために、当時はまだマイナーだったダイレクトマーケティング系の広告代 理店を選びました。そして社会人になって最初に手がけた仕事は、ある飲料メーカーのプレゼントキャンペーンのマーケティングです。これは私の前任が企画し たキャンペーンで、応募総数が1000万通を超えるという驚異的な成功を収めたもの。応募のファクスや電話が、かかりっぱなしで止まりません。そこで私 は、CTI技術を使った自動音声対応システムや、ファクスサーバーを導入したペーパーレス化の企画を提案し、上司や先輩を巻き込みながら実現しました。
この成功により、「藤田はITが得意らしい」という評判が生まれ、その後のインターネット応募受付の実施や、『社長失格』で有名になった板倉雄一 郎さん率いるハイパーネットの電話応募システムにいち早く関わることができたのです。その後、転職も経験し、広告戦略のプランナーをしていましたが、私に は就職活動をしていた頃から持ち続けていた、「個人が情報発信をし、社会に影響を与える世の中をつくりたい」という思いがあります。30歳になる前に、個 人発信情報分析の仕組みをつくりたいと、野村総合研究所のプロジェクト「NC-gate」に参加しました。ここでは、カカクコムやアットコスメなど、掲示 板サイトを運営している会社とともに、数値やデータではなく、言葉を分析してマーケティングを行う「テキストマイニング」という技術の研究を行いました。
その後、縁があって、「とくっちドットコム」という女性コミュニティサイトの運営会社のCEOに、また、同時期に大手ポータルサイトを運営する電 機メーカーの子会社の事業部長に就任します。どちらも言ってみれば雇われ経営者です。ですが私は、稟議を通して、予算を取って、事業運営していくこの雇わ れ経営者のマネジメントスタイルが得意でした。
<33歳でガンを発病>
本質的な仕事に集中するため、オーナー社長として起業
そうやって2つの仕事を兼務しながらも、私は不動産投資運用にトライし、そのまた一方では、ベンチャー経営者、コンサルタント、投資家などの友人、 知人の書籍をプロデュースすることにより、そのほとんどをベストセラーにしたりもしていました。本当に仕事ばかりの毎日ですね。そんなですから、長年付き 合っていた恋人とも30歳前に別れ、仲の良かった友人たちともなかなか会えなくなっていました。
いつも起業家の知人に言われていましたよ。「藤田はお金も多少あるし、やりたいことも決まってる。人脈だって多い。雇われ社長なんかじゃなく、起 業したほうが絶対いいのに」って。しかし私は、今のマネジメントスタイルが自分には合っていると思っていましたし、乗りたいクルマに乗れて、住みたい場所 に住める、今の生活で十分満足だったのです。特に口の悪い知人からは、「藤田は頭悪くない奴だと思ってたけど、本当は頭悪かったんだね」とまで言われまし たよ(苦笑)。
2つの雇われ経営者を掛け持ちして、忙しく働いていた2004年7月。胃の調子がずっと悪かった私は、何気なしに会社の病院で検査を受けること に。検査の結果は、胃ガンの発病です。そして再検査で、悪性度の高いスキルス胃ガンであるということがわかりました。これはキャスターの逸見政孝さんが 患った病気といえば思いだす方も多いでしょう。国立がんセンターの資料にはスキルス胃ガンに関してこう書かれています。「約6割が手術で切除できない。切 除しきれたスキルス胃がんの5年生存率は15~20%です」と。しかし8月18日、私の手術は成功し、1カ月後の9月6日には退院することができました。
しかし復帰した後、もしかしたら再発するかもとびくびくし、また、自分の時間は限られているんだと思い怖くなりました。そこで、子どもの頃からや りたいって考えていたことってなんだっけ?と思い返したのです。父から教えられた「人に役立つ仕事をする」ということ、そして社会人になってから考え始め た「世の中に価値ある仕事をしたい」ということ。実は、リタイヤするという道も少し考えはしました。しかし2005年12月、自分がやりたい本質的な仕事 だけにまい進できる環境をつくるため、私は人生で初めて、事業継承というかたちではありましたが、オーナー社長になるという道を選択したのです。
<藤田憲一という人生の総仕上げ>
夜明け前が一番暗い……。朝の来ない夜などない!
自分でオーナー社長の道を意思決定できたのは、久しぶりに会った気の置けない友人たちのおかげでもあります。復帰祝のパーティを開いてくれた彼らに こう言われました。「失敗してもいいじゃん」「頑張んなくてもいいじゃん」「もう十分頑張ったんだから」と。これまで私は責任感という体裁のいい言葉を言 い訳に、何でも完璧にこなそうとしていました。でもこれからは「肩の力を抜いて、本質的なことだけに人生を捧げよう」、彼らの一言が私にそう思わせてくれ たのです。
そうしてオーナー社長になり、業績も好調に滑り出していた2006年1月23日。私は、ガン再発の宣告を受けました。余命は3カ月……。奇しくも この日は、堀江貴文さんが逮捕された日でもあります。この日、私を出口の見えない絶望感が襲いました。「もう自分は死んでしまうのだ」「何をやっても無駄 ではないか?」……。それからは朝起きて、余命3カ月の宣告が夢だったのではないかと知ってほっとする。そんな夢ばかり見るように。現実を知るのが怖く て、不眠症になってしまった……。
しかしそれは、夜明け前でした。夜明け前が一番暗い……。最初にガン告知を受けたときも、同じような感覚を持ちました。しかし、それからの1年半 を振り返ってみると、イヤなことがあまりなく、とても貴重で幸せな日々だったのです。なぜか? 自分にはやるべきことがあったし、その実現のために生きる 希望にあふれていたから。そう考えると、パワーがわき、夜明けは加速度的に進んでいきました。
そして私は、「藤田憲一という人生の総仕上げ」と題した事業計画書を書き上げます。これは昔から私が考えてきた、「個人が情報発信をし、社会に影 響を与える世の中をつくりたい」という志を、「メディアとネットの融合」によってかなえるというもの。ガン治療にかかわる医師や患者の知恵や声をネットで 集め、ガンの特効薬と言われているウィルス治療、遺伝子療法、新薬などの早期実用化を即す活動です。その一環として出版した書籍は発売3週間で実売3万部 のベストセラーになりましたし、現在、アメブロ、ヤプログ、ライブドアブログの大手3大ブログサービスを使って日記を配信しています。
私の人生の総仕上げは、まだ始まったばかり。ですが前に向いて着々と進んでいると思っています。もしかしたら私のガンは治らないかもしれません が、限られた時間の中で、何か社会や世の中に対して意味あるものを残したい。それが私の一番の願いです。ぜひ、応援していてください。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
誰かの役に立ち、価値が提供できる、そんな起業を目指してほしい
最近、マスコミによく登場するようになったからか、多くの応援メールをいただくようになりました。起業相談的な内容のメールもあるんです。やりたい ことがあるので出資してくださいとか(苦笑)。まあ、それ以外でも、ほとんどの悩みは「資金がない」という悩みです。しかし、「資金が無い」から事業がで きないというのはただの言い訳です。例えば、私が今挑戦している、人生の総仕上げですが、これにはお金は1円もかけていません。これに仮に予算をつけたと したら、テレビ番組の時間あたりの提供費が数千万から数億円×5本。全国紙の記事のスペースが広告費換算して1000万円×5本。ブログもユニークユー ザーが3つ合わせて多い日で2万5000人を超えますから、広告費に換算すると大変な金額になります。また、ベストセラーに見合うコンテンツをつくること で、出版社は莫大な広告費や書店への販促費をかけてその本を宣伝してくれます。そのおかげで、それがベストセラーになり、テレビ局や新聞社の方々が「ぜ ひ、取材をしたい」とやってきてくれます。
起業を目指すみなさんに何を伝えたいのかと言いますと「あなたの事業は客観的に見て価値があるか」ということです。その事業は本当に自分本位のも のではなく、誰かに価値を提供できるものですか? ということです。何かがないからできないと考えると絶対に何もできません。いろんな方にあなたの事業へ の思いを伝えたとして、仮に聞いた本人に役立たないことだったとしても、その人の琴線に触れるものがあれば、「あ~、こいつは面白いな」って、きっと誰か を紹介してくれるし、協力してくれるでしょう。仕事って、きっとその積み重ねで広がっていくものです。これまでの私も、ずっと誰かの役に立ちたいと考えな がら活動をしてきました。また常に、それは自分にとって楽しいものでした。予算ありきのビジネスではなく、まずはそのビジネスは誰のために役立つのか、価 値を提供できるのか、そこを突き詰めておくことが大切だと思うのです。
最後に、社会や世の中が今そういう流れだからという理由で、人を犠牲にする可能性があったり、儲かるけどちょっとおかしいぞと思うような起業はし ないでください。人に役立つことをして、価値を提供して、それが自分にとって楽しめる仕事。ぜひ、みなさんにはそんなビジネスを見つけてほしいと思ってい ます。私の周囲の成功している人たちは、みんなそれができている人です。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康
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