第14回 株式会社スターフライヤー 堀 高明

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第14回
株式会社スターフライヤー 代表取締役社長
堀 高明 Takaaki Hori

1949年、長崎県生まれ。日鉄鉱業社員だった父の仕事の関係で、全国を転々とする。日本大学理工学部に進学。飛行機の運航システムや機体を研究する航空研究会の主将として、80人強の部員を率いた。卒業後の73年、東亜国内航空(現・日本航空ジャパン)に入社。パイロットの技術サポートを行う部署に始まり、空港部では、旧・北九州空港のジェット化も担当した。経営企画部を最後に、92年、退職。親族の会社を手伝った後、東京上空を遊覧飛行するヘリコプターサービス会社の社長に就任。救急医療を行うドクターヘリ・サービスの事業化も果たした。ライト兄弟のフライヤー号初飛行の記念日からちょうど100年目となる2002年12月17日、スターフライヤーを設立。以来、東京に家族を残し、北九州市で社長業をこなす日々を送っている。

ライフスタイル

好きな食べ物

お酒を飲むなら魚。 
お酒を飲むなら魚。北九州は周防灘と玄界灘の新鮮な魚が食べられるんです。皆さんも大好きなフグとか。特に白身がうまいですよ。おまけにびっくりするくら い安い。あと、食事メインなら中華。テーブルにいっぱい皿が並ぶと楽しいでしょ。そして、どんどん食べちゃうから、太るんだよなぁ(苦笑)。

ファミリー

北九州でいわゆるひとり暮らし。 
私は北九州でいわゆるひとり暮らし。家族は横浜に住んでいます。妻は社会人入学した大学の4年生。長女は東京の青山でネイルサロンを経営しています。長男 は、今年大学を卒業して社会人に。小学校から始めた野球を今も続けているんですよ。次女はまだ学生です。家族が恋しくないですかって? 去年は年間で約 60回東京に出張してますからね。まあ、自宅には深夜に着いて、早朝にまた北九州へ帰る。そんな感じでしたから、家族思いとはいえないね(笑)。

趣味

趣味はゴルフと野球観戦。
趣味はゴルフと野球観戦なんだけど、ここ数年はまったく行ってないですね。立ち上げの準備で忙しかったし、今も、スターフライヤーは転がり始めたばかりですから。休み自体がなかなか取れません。まあ、ゴルフボールを飛ばすより、飛行機をどんどん飛ばさないとね(笑)。

もしも一週間休みがとれたら

上海かな。
休日は今年に入ってから2日だけですよ。だから考えづらいけど、上海かな。いつ行っても、次に行ったら雰囲気が変わっている街ですからね。人から「今、上 海はこんな感じだよ」なんて言われると、すぐに行きたくなりますね。あと、携帯電話やメールの届かない国に行きたいかな(笑)。国内だったら、やっぱり東 京です。東京が長かったからというのもありますが、やっぱり面白い街ですよね。

北九州発・地域の皆さまの支援を翼に乗せて、スターフライヤーはどこまでも上昇していきます!

 2006年3月16日、新北九州空港開港。その同じ日に、スターフライヤーの北九州・羽田線が就航した。フラワー・ロボティクスの松井龍哉氏がデザインを 手がけた、機体のメインカラーはブラック。「これでエコノミーなの?」と初めて搭乗した誰もが驚くほど、ゆとりのあるシートも全席ブラックの革張り。ノー ト型パソコン用の電源コンセント、個人用液晶テレビを装備し、機内でサービスされるコーヒーは薫り高いタリーズコーヒー……。しかも運賃は大手航空会社よ りも格安で、フレンドリーな客室乗務員が、最高のおもてなしの心をもってお出迎え。そんな話題性抜群のラグジュアリー・エアプレインが、日本にお目見えし たのだ。そして「北九州市や福岡県の行政や企業、地域の方々のあたたかい支援がなかったら、今、私はここに座っていませんよ」と笑顔で語る男が、同社を 53歳で起業した堀高明氏である。設立から3年をかけて、地域の思いと我が思いを見事に一致させ、ゼロから航空会社を立ち上げた堀氏に、青春時代からこれ までに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<堀高明をつくったルーツ1>
医学部志望から一転、航空力学を学ぶ大学へ進学

 親父が転勤の多い仕事でね。子どもの頃は、全国を転々としてました。中学も3つ変わりましたし。ごく普通の男の子だったと思いますよ。のめりこんだ ものも、あまり思い出せないな~。まあ、音楽でもスポーツでもなんでも手を出してはみましたが、全部中途半端(笑)。野球もやったし、テニスにスキー、な かなか上手くならなかった。だから続かない。息子はリトルリーグから野球を始めて、今年社会人になりましたが、今も野球を続けています。ここは違うんだよ ね、私と息子では。

 ひとつだけ覚えているのは、小学校の終り頃のこと。世界で初めて人工衛星が飛んだんです。このニュースは強い記憶として残ってますね。なんでもこ の人工衛星は、1秒間で8㎞も進むという。子どもでも、8㎞ってなんとなく距離感がわかるじゃないですか。こりゃすごいって、衝撃を受けました。でも、こ こから私が宇宙やロケットにのめりこむという話を期待しているかもしれないけど、そうじゃない(笑)。結局、男の子は車や飛行機など、乗り物が好きでしょ う。それと同じくらいの興味ですよ。

 そのことを証明するように、私は医学部志望ですから。医大の受験勉強も頑張ってはみたのですが、なかなか思いどおりにはいかない。結局、二浪して しまい、このまま続けるのはどうかと。どうしようかと考えた時に、そうだ、飛行機の勉強でもやってみようかと思いついた。それで、日本大学の理工学部に進 学したというわけです。

<堀高明をつくったルーツ2>
航空研究会の部長として人力飛行機の設計にかけた青春

 大学では航空研究会に入って、人力飛行機の設計・制作にのめりこみました。今で言う、鳥人間コンテストみたいなものですよ。でも私が大学に通ってい た頃は、学生紛争の真っ只中。部室を全共闘の連中に占拠されてしまって、活動ができないんです。それで、俺たちの活動をじゃまする奴は出て行けと、なぜか 学生の私らが全共闘の奴らと闘ったり(苦笑)。そんなこともやってましたね。

 航空研究会の活動では、最終的に私が部長となって80人のメンバーを率いてました。で、卒業研究で人力飛行機をつくったのですが、これが突貫工事 でね。通常、1年目にオペレーションリサーチ、2年目に設計、3年目に飛行というプロセスを踏むんです。しかし、ちょうど千葉県習志野の総合試験場ができ たとかで、600mの滑走路が使えることに。それで、教授は「1年間で全部やれ!」と。当時の1年生から全員を総動員して、学校に泊まりこんで人力飛行機 をつくりましたよ。

 試験飛行では34m飛んだのですが、いざ本番を待っている間に竜巻が起こった。それに巻き上げられて、壊れちゃった(笑)。その機体は後輩たちに 引き継がれまして、翌年、当時の日本記録である154mを達成しました。そして、私が大学4年の時に引きずり込んだ1年生たちは、それをどんどん改良して いって、世界記録をつくったんですよ。

<約20年間の航空会社勤務時代>
航空技術サポート、空港デザイン、経営企画と、さまざまな仕事を経験

  さて、就職はどうしようかと考えた時に、まず浮かんだのが商社とかテレビ局とか、なんとなく軟派な世界でした。とりあえず、もう図面を引くのはイヤ だったし、自分には向いていないと思ったんですね。でも、航空研究会の主将が、航空会社に行かないのもなんですよね。それに教授に悪いよな。そんな思いが 首をもたげまして(笑)。結局、航空会社を受けることにしたのです。

 で、知り合いをたどって、面接を受けたのが当時の東亜国内航空。その面接官は日本航空から来た人で、「東亜は大変だから、日航にいったほうがいい ぞ」とおっしゃるわけです。でも私は、大変なことのほうが面白そうだと思う性質でして。その思いを優先し、東亜国内航空に入社することにしました。

 最初の配属は、パイロットの技術サポートをする事業部。乗客が何人で貨物がこれくらいの重さの場合、滑走スピードは……。雪が降った際や、上空に タービュラント(乱気流)がひどい場合はどうする……。など、10年間ほど、パイロットがスムーズに飛行できるための研究職に就きました。一応、理系出身 ですからね(笑)。その後は、空港部という部署で、旧・北九州空港のジェット化における騒音問題を解決したり、新羽田空港の格納庫やスポットのレイアウト を企画したりと、主に空港側の仕事に従事。その後、経営企画に異動して、霞ヶ関の官庁や、各自治体との折衝役を数年間担当します。会社員時代はずっと東京 勤務でしたよ。ここが最後の部署で、まあ理由はいろいろありましたが、約20年間努めた古巣を退職することに。1992年のことでした。

<スターフライヤー社の離陸前>
24時間発着可能な新北九州空港を拠点とし、新航空会社を設立!

 親戚が名古屋で建設業と、運送業をやっていましてね。その会社のオーナーが健康を害しているうえに後継ぎがいないということで、フリーになった私に 白羽の矢が。それで、まったく畑違いの仕事をすることになったのです。仕事を覚えるために朝6時に出社して、半年間ほぼ会社に泊まりこんで、やりました よ。ところが、いい薬が開発されたとかで、オーナーが元気になっちゃって会社経営に復帰(苦笑)。じゃあ船頭が多くてもなんだろうと、身を引くことにしま した。結局、1年で東京に戻ったんで、家族からはブーイングでしたねぇ。

 その後、大学の卒業研究を一緒にやった友人から誘われて。彼の会社で、日本エアシステムや鹿児島の日本エアコミューターの乗務員基礎訓練や、国の 免許を取るための支援業務を手伝うことに。そこがひと段落したあとは、エクセル航空という会社の社長に就任します。東京や横浜のヘリコプター・ナイト・ク ルージングや、ビジネス用のチャータージェット・サービスを展開している会社です。そこでは、救急医療に使用するドクターヘリ・サービスの立ち上げにも携 わりました。

 そうこうしているうちに、神戸空港が新設されるという話と、旧北九州空港がリニューアルするという話が持ち上がり、それぞれの相談に乗るようにな りました。当初はどちらの空港も24時間発着可能という触れ込みでして、それなら早朝深夜便を就航させ便数を増やせるので、新規航空会社をつくれば勝算あ りと計画したのです。当時の企画書を見ると、東京・神戸便、東京・北九州便ともに10便でという計算をしていました。しかし、計画の途中で神戸空港が24 時間の発着を取り止めることとなり、神戸路線は新規航空会社の創業期には向かないと判断。結果、新北九州空港のみを拠点とした事業計画をつくり直します。 ライト兄弟のフライヤー号初飛行の記念日からちょうど100年目となる2002年12月17日、福岡県北九州市を本拠地として、スターフライヤーを設立。 波乱万丈の新規航空会社立ち上げ計画が、本格的にスタートしました。

ほかの航空会社にできることはやらない。それがスターフライヤーのアイデンティティ

<逆風に向かって、立ち上げ準備スタート>
北九州の行政、企業、人々の支援があったからこそできた会社のかたち

 資金集めには苦労しました。そうそう、ドリームゲートさん主催の出資がもらえる事業プランコンテストにも応募しましたよ。落ちましたが(笑)。スカ イマーク、エアドゥ、スカイネットアジアと、当社以前の新規航空会社は3社とも経営破たんしていましたから。世の中の誰もが、新規航空会社が立ち上がるわ けないと思っているわけです。まさに逆風での挑戦だったと思います。しかし、支援者は福岡県、そして北九州市にいました。

 現在、資本金額は準備金も入れて約46億円。が、立ち上げまでに実質100億円ほどかかっています。北九州市から10億円、福岡県から8億円の補 助金。金融機関からの借り入れは、繋ぎ融資も含めると、40億円くらいでしょうか。そのほかは、地元企業と米国や国内のベンチャーキャピタルからの出資で まかなっています。例えば、北九州には東陶機器、日産自動車、安川電機などの大工場が多く、東京への出張が年間で各社1万人を超えています。大手会社が出 資してくれれば、株主優待で出張費の削減ができ、将来、上場すればキャピタルゲインの可能性があるわけです。まずはそんな大手企業群を中心に支援のお願い に走りました。また、無添加石鹸で有名な、シャボン玉石けんの森田社長は「なくなってもいいから出資しよう。頑張れや!」といって応援してくれましたし、 驚いたのは資本金300万円のある印刷会社オーナーから1000万円の出資があったこと。「本当にいいんですか?」って感じでしたよ。地元企業の出資社数 は120社を超えています。

 昭和37年に北九州はすでに100万人都市。当時の福岡市は70万人くらいで、今や140万人の人口を誇る福岡県の拠点となりました。昔を知って いる北九州の人たちは、「なんで俺らがわざわざ福岡空港まで……」という気持ちがあったのでしょうね。いずれにせよ、行政、企業、地元の人々、すべてのあ たたかい応援があったからこそ、スターフライヤーはかたちになったのだと思っています。支援者のみなさんには、いくら感謝しても足りないくらいですよ。

<第一号機が飛んだ>
06年3月16日、午前7:00発。北九州から東京に向けて離陸!

 新規参入する以上、早朝深夜便の就航も含め、ほかの航空会社ができないことを考えながら準備を進めてきました。機体は、エアバス社・A320型機の 新造機を使用しています。航空機搭乗に際するアンケートを実施したら、「座席がきゅうくつである」という回答が突出。そこで、他社の同機が166席のとこ ろ、当社は144席に設定しており、前席との余裕と、シート幅の広さが特徴です。また革張りのシートには、ノートパソコン用のコンセント、フットレスト、 液晶テレビを完備。一般的な旅客機のシートに比べ、3倍以上のコストをかけています。「これでエコノミーなの?」と、みなさん驚かれますよ。

 また、機体や、空港カウンター、ラウンジなど、顧客の目に触れる部分はすべて、日本のロボットデザインの第一人者である、フラワー・ロボティクス の松井龍哉さんにデザインをお願いしています。ブラックの機体カラーが特徴ですが、これは熱を吸収しやすい、先端部分のレーダーがうまく機能しないなどの 理由で、エアバス社ともめました。しかし、ここは細部のデザインですらゆずれないと、塗料を代えるなどしてなんとかクリア。黒い機体の旅客機は、世界でも 初めてだと思います。

 新造機で贅沢な仕様、そして細かなこだわり。いくらリースとはいえ、高い買い物です。エアバス社からも「本当にいいのか?」と、言われました (笑)。しかし、他社にできないことをやるからこそ、新規航空会社の意味がある。1日12往復の就航で、当社の1機当たり年間飛行時間は4000時間。大 手の同型機は2500時間。それで1シート当たりにかかるコストは他社よりも安くなるのです。安全面では、ニューズウィークで世界一安全な航空会社と評さ れた、ルフトハンザに整備を依頼。これも高いですが、ドイツの頑固親父に頼むと安心です(笑)。また大手は、繁忙期に稼いで、閑散期には営業を多数動員し て投げ売りをしますが、当社はそれをしません。営業よりも本質で「スターフライヤーに乗りたい」と思ってくれるファン層を確実に獲得する。そんな、人件費 を最小限に抑える戦略で勝負していくことも差別化のひとつですから。

<未来へ~スターフライヤーが目指すもの>
ほかの航空会社にできないサプライズをどこまでも追求

  年間で約200万人が北九州から東京に出向きます。利用機関の内訳は、福岡空港利用が100万人、新幹線利用が70万人、そして北九州空港利用が 30万人。そんな感じです。24時間営業の新北九州空港になったことで、スターフライヤーは年間70万人の利用客を獲得する計画を立てています。就航月の 3月が搭乗率74%、4月が53%、5月が56%と、まあ予定とおりのスタートといったところでしょうか。

 2009年に羽田空港の滑走路が1本増えますので、それまでにしっかりとした認知およびファンづくりを進め、年間2、3機の新型機を導入しなが ら、過当競争に巻き込まれないように便数を増加させていきます。同時に、設備面での強化も。5号機からは、機内でのインターネットと携帯電話の使用、衛星 テレビの受信も開始する予定です。

 旅客航空事業の仕組みでは、1機飛ばすのも10機飛ばすのも、かかる固定費はそれほど変わらないのです。ですから早く10機体制に持っていきた い。あとは国内他路線への就航です。現在の青写真では、札幌、中部、沖縄ですかね。この路線なら、集客も見込めますし、大手の1シート当たりコストを 20~30%下げられますので、十分戦えると予測しています。海外は逆に人件費が安いので、今のままでは価格競争が難しい。海外路線への挑戦は、もう少し 先だと考えています。

 貨物も現在は扱っていませんが、これは遅くない時期に参入するでしょうね。でも今は、旅客に集中して、ひとりでも多くの方々にスターフライヤーに 搭乗いただき、そして満足していただき、「次もスターフライヤーに乗りたい」そんなリピーターファンをつくることが一番大切であると思っています。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
信念が生まれたら、やり続けること。自己責任・判断の行動を心がけよう!

 2007年問題で、団塊の世代の去就が騒がれていますね。私は少し手前ですが「みんながやめる今頃から、始めるのかよ」って知り合いから、からかわ れています(笑)。でも、私には、北九州で新しいかたちの航空会社を立ち上げ、絶対に軌道に乗せるという信念が生まれましたから。そりゃあ、やり続けるし かないですよね。まあ、年齢など関係なく、自分にしかできない信念が生まれたら、一歩前に踏み出して、やり続けることです。起業するとさまざまなハードルが押 し寄せてきますから、信念がないとぶれてしまいます。

 もしも起業したなら、現状に満足せず、世の中に「面白いじゃないか、楽しいじゃないか」と思ってもらえることを考え続けること。私の場合も、ほか の航空会社にはできないことで、ユーザーが喜んでくれることは何なのか、そればっかり考えています。それがないと、スターフライヤーは潰れちゃいますから ね。

 学生時代に全共闘を部室から追いだそうとした時のことです。言いだしっぺの私は5つのクラブとともに、ほかのクラブにも協力を要請したのですが、 みんな「全共闘と戦う?」とおよび腰。それが10集まり、20集まった辺りから、スムーズに協力クラブは増加し、最終的に40を超えるクラブが参加してく れたのです。何が言いたいかというと、日本人は相手の顔色を見ながら判断する民族ということ。しかし、中国などアジアの新興国の人たちを見ていると、自己 責任で即決し行動する強さがある。このままでは、日本はまずいなと。みんなもっと、自分の力を信じて、挑戦していくべきだと思うのです。交通や通信手段が 便利になった今、このままの人間力ではアジアの新興国にすぐに追いつかれ、追い抜かれてしまいます。ケンカをふっかけられるのを待つのではなく、自分でケ ンカを売るくらいの気概で、起業するのがいいのかもしれません。頑張ってください!

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:壇 康弘

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