第52回 株式会社トレジャー・ファクトリー 野坂英吾

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第52回
株式会社トレジャー・ファクトリー代表取締役社長
野坂英吾 Eigo Nosaka

1972年、神奈川県生まれ。2歳から10歳まではシンガポールで過ごす。優秀な会社員だった父を超えるため、中学2年生から社長になりたいと思うよう に。11歳から始めた野球は、高校卒業まで継続。日本大学在学中、学園祭の実行委員、広告プロデュース会社でのインターンシップ、起業支援組織の立ち上げ など、社長になるための活動に積極的に参加。ある経営者からの助言で、リサイクルビジネスのアイデアを思いつく。大学在学中に、物件探しを開始。事業計画 と熱意を買ってくれた不動産会社から150坪の倉庫を格安で借りることに成功。友人・知人から不用品を、また、閉店するリサイクルショップから商品を譲り 受けるなどして商材を集め、1995年10月、開業資金30万円という驚くべき小資本で第1号店となる「トレジャーファクトリー足立本店」を開業した。 2008年1月現在、総合リサイクルショップ「トレジャーファクトリー」を26店舗(FC2店舗)、服飾専門のリサイクルショップ「トレジャーファクト リースタイル」を2店舗、合計28店舗を運営中。2007年12月26日、東証マザーズに上場を果たした。

ライフスタイル

好きな食べ物

海南鶏飯です。
シンガポール時代によく食べていた、ハイナンチキンライスが大好きです。ケチャップのやつではなくて、煮込んだ鶏肉と、鶏のスープで炊き込んだゴハンがセット。食べると、何だかとても懐かしい気持ちになれる食べ物ですね。

趣味

マラソンです。
事業にゴールはないでしょう。でも、マラソンにはゴールがある。ゴールした時の達成感は本当に最高です。昨年、つくばマラソンに参加して、3時間45分の 記録で完走。なんと、学生時代よりも早い記録なんです。昨年からはトライアスロンも始め、今年の6月には、サロマ湖100kmウルトラマラソンに参加する 予定です。完走できるのか?走ってみないとわかりません(苦笑)。

休日

家族とドライブです。
私自身も男3人兄弟だったのですが、今の家族も妻と男の子3人の5人家族なんです。休みの日は、マラソンの練習をするか、家族5人でドライブ。ドライブと いっても、当社の新規の出店予定地まで視察に行くついでなんですが……。途中のショッピングモールに寄ったり、食事をしたり。本心で楽しんでくれているの かどうかは、微妙ですね(笑)。

行ってみたい場所

シンガポールです。
幼少期に住んでいたシンガポール。9年前、新婚旅行で訪れて以来、行けていないんですよ。街の雰囲気もおそらくかなり変わっていると思いますから、どう なっているかこの目で見てみたい。海外出店第1号はシンガポールか? いいえ、故郷に錦を飾るという考えはしないんです。ビジネスに私情は禁物ですから (笑)。

より豊かな循環型社会の日本にするべく、このリサイクル事業を拡大していきます!

 誰かが必要ないと判断した物を適正価格で買い取り、ほしいという人に適正価格で販売する。いわゆるリサイクルショップのビジネスモデルだが、野坂英吾氏は 言う、「当社は、不用品に新しい命を吹き込んで、世の中に再び送り出していく工場なのです」と。ゆえに、社名は「トレジャーファクトリー=宝物の工場」。 今から13年前、一般的なリサイクルショップの店舗面積が20坪平均だった時代、23歳の野坂氏はなんと、150坪もの超大型リサイクルショップをオープ ンさせた。周囲の誰もが、「失敗する」「止めておけ」と反対を唱えた。しかし、野坂氏は自らが足を使ってリサーチしたことで得た、成功への確固たる自信を 疑わなかった。結果、第1号店は順調に成長し、大きなピンチを潜り抜けながらも、昨年、会社は東証マザーズに上場。「ここまでたどり着けたのは、転がって くるチャンスを着実に自分のものにしてきたからでしょうか」と笑う。今回は、そんな野坂氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そ してプライベートまで大いに語っていただいた。

<野坂英吾をつくったルーツ1>
10歳までシンガポールで育つ。帰国後にさまざまなギャップを抱え込む

  神奈川県で生まれたのですが、2歳から10歳までは商社の会社員である父の仕事の関係でシンガポールで過ごしています。ご存じのとおりシンガポール はとても美しく、きれい好きな国で、1年中暖かいですから、いつも裸足で遊んでいた記憶があります。スポーツはソフトボールと、水泳にいそしんでいまし た。現地の日本人学校に通っていたのですが、外国人の友だちも多くいました。また、週末には父の仕事仲間が家に遊びに来るのですが、父の仕事ぶりを聞かせ てもらうにしたがい、父はものすごくやり手の会社員だなあと。私にとってはあまりに偉大すぎて、父を超えるためにはどうすればいいか、そんなことを考える 子ども時代でした。

 ちなみに私は男3人兄弟の長男なのですが、小さな頃は自分から目立とうとしない、消極的な性格だったと思います。帰国後の小学5年生から日本の学 校に通うことになりまして、いろいろなギャップを感じるようになったんです。同級生から見れば、私は帰国子女ですからどうしても、何だかきっとすごいやつ なのではないかと映るんですよ。確かに英会話はある程度できましたけど、英語の読み書きはいまひとつ。でもみんな自分に何かを期待している。その雰囲気を ひしひしと感じるんです。その期待に応えねばと、できないなりにいろいろ挑戦していたような気がします。もうひとつの大きなギャップは住まいですね。シン ガポールの住居は、とても広い庭があって簡単な野球ができるくらい。帰国後は家族だけで小さなマンション住まい。日本の住環境ならもちろん普通なのです が、大きな環境の変化に戸惑いもありました。

 シンガポールでソフトボールをやっていたこともあって、帰国後はすぐにリトルリーグに参加。その後も中学ではシニアリーグに、高校でも硬式野球部 に所属します。18歳までの青春時代は、ずっと丸刈りの野球少年として過ごしていました。野球というスポーツを通じて得られたものは、体力以外にも本当に たくさんありました。

<野坂英吾をつくったルーツ2>
中学2年生の野球少年が社長を目指し始めた理由。その答えは偉大な父を超えるため

  運動神経は良かった方だったので、中学では学外でシニアリーグの硬式野球を続けながら、学内の水泳部やバレー部から声がかかって、試合の時は助っ人 をやっていました。やっぱり期待されたら、応えたいんですよね。期待といえば中学2年の時、クラスのみんなが生徒会長に立候補してほしいと。自分では人前 で何かをするのも苦手だし、なぜみんなが推薦してくれるかわからなかったんですが、そこまで言ってくれるなら期待に応えねばと。絶対に当選しようと事前準 備をしっかりやって、ある作戦も考えたんです。自分の学年以外、私の知名度は低いですから、演説の最後に「野坂英吾、野坂英吾、野坂英吾をよろしくお願い します」と名前を3回連呼しようと。が、本番では緊張して肝心の名前の連呼ができなかったのです(苦笑)。それだけが原因ではないでしょうが、結果はあえ なく落選……。期待に応えられなかった悔しさを感じると共に、いくら準備をしても実際に実行できないと、その準備の価値はゼロになることを痛感した出来事 でした。

 日本に帰国してから、父の仕事は忙しくなりました。平日は深夜に帰宅し、朝の6時には会社に出かけていく。そんな父の仕事ぶりを目の当たりにし、 ますます会社員として、将来父に追いつき、追い越すことの難しさを感じるように。でも、できることなら父を超える社会人になりたい。そこで私が出した結論 が、自分なりのオリジナルのやり方で、会社員ではなく、社長になるということ。中学2年生でこう考えるようになってから、身の回りに起きることをすべて、 社長になるためにはどうすれば良いかという機軸で考えるようになったのです。そして自分でそう意識するように、日々、努めはじめました。

 高校に進学してからは、学校の野球部に入部。上下関係も練習もとても厳しい環境で、毎朝6時から朝練、昼休みはグランド整備のため午前中の休み時 間で早弁(笑)、放課後は必ず先輩より早くグランドに出て、練習の後は当然後片付けという日々を送りました。どんな些細なことにも意味がある、その場でや れることをとことんまでやり切る。自分にできることなのであれば、どんなに可能性が小さなことでも、ひとつたりともムダにせずやってみる。そう考えながら 部活動を続けました。打者としてボールを前に転がした時、私は必ず1塁ベースにヘッドスライディング。だから、ユニフォームの前面に泥が付かない試合は一 試合たりともありませんでした(笑)。

<高校時代も引き続き野球にどっぷり>
自分が置かれた状況を客観視することで、リーダーに必要とされる条件を見出す

  いろんなシチュエーションの中で、常に自分が置かれた状況を客観的な第三者の目で見る。中学2年生の時、社長になると決めてから、ずっとそんな自己 分析を続けていました。中学時代、自分がなぜ生徒会長への立候補を勧められたのか? 当時はその理由がはっきりわかりませんでした。でも、高校の野球部で キャプテンになってみようと考えた時、おぼろげながらグループのリーダーになるための条件がわかってきたのです。誰もがやりたくないことを進んでやるこ と。問題を目の前にして解決するための行動ができること。そしてリーダーには、トップダウンのカリスマタイプ、意見を吸い上げながら率先垂範するタイプが 存在することも。私の場合は客観的に考えると後者のタイプでしたから、部員と監督の間に立って、その間にあるさまざまな問題点の本質を見出し、解決していくこ とで自分なりにリーダーたるべき行動を続けていったのです。結果、3年生が卒業した後、私は野球部のキャプテンとしてチームを引っ張る立場に就いていまし た。

 思い切り野球漬けの毎日でしたから、勉強のほうはいまひとつ。現役大学受験の第一志望は不合格。1年間浪人して第一志望の大学を目指すという選択 もありましたが、私は合格した日本大学への進学を決めました。どんな大学に行っても大学で学べることには限りがあります。1年間浪人するよりも、社長にな るために自ら考え情報発信していくことのほうが重要だと考えたのです。そうやって大切な何かと出合い、つながっていけばいいじゃないかと。

 ちなみに、大学入学後は学部の陸上部に所属し、バイトにも励みました。周囲にはことあるごとに、「将来、絶対に社長になる」と公言しました。言葉 にして発信すると、プラス、マイナス問わずいろんな意見が返ってくるんです。時には友人たちと「お前には無理だ」「そんなことはない」なんて、激論するこ ともありました(笑)。それ以外の活動としては、学園祭をコンテンツにしたプロデュース会社で1年間の丁稚奉公。今でいうインターンシップですね。ここで は、会社の仕組み、お金の流れ、事業は永続させてこそ意味があるということなどを学びました。また、学園祭の実行委員長も務めました。この活動では、体育 会系と文化系という違ったタイプの仲間を一緒にまとめあげていく大変さを知りました。私はずっと体育会系で過ごしてきましたから、これもとてもいい経験に なりました。

<就職活動から起業準備へ>
自分自身が思う「あったらいいのに」を50個挙げた中から生まれた事業アイデア

  就職活動のシーズンになった頃、「就職せず、起業家を目指したい」と、父に相談してみたのです。父からの返事は、「まず就職して、その後に起業して も遅くない」と。それで大学3年の秋から、一応就職活動を始めてみました。が、平行して他大学の学生と合同の起業研究会、現在はNPO法人となり、実践型 インターンシップなどの起業支援を行っている「エティック」の発起人など、起業に関する活動にも積極的に参加していました。その活動を通して、さまざまな起業 家の方々のお話を聞く機会が増えていったのです。そして、起業家の話を聞けば聞くほど、今、起業することが大切なんじゃないかと。私は再び、社長になるた めにはどうするべきかを考えるようになりました。

 起業したいという思いは先に立っても、何をやればいいのかがわかりません。それである起業家の方に、「何をするのがいいでしょう?」と質問してみ たのです。するとその方は、「何でもいい。君が考える世の中がこうなったらいいな、あったらいいなと思うことをまず50個挙げてみなさい」と。藁にもすが る思いで、一所懸命考えてみました。50個のアイデアを考えていく中で、学園祭のバザーで不用品の売買ニーズがあることを知ったこと、量販店のバイトで閉 店後のゴミ捨てに行く際、まだまだ使える家具や家電などがたくさん捨てられていたことを思い出しました。物を処分したい人がいる一方で、お金を出してでも それを欲しいという人がいる。双方のニーズを上手につなげてあげることで、ビジネスが成り立つのではないかと。

 思いついたが吉日と、すぐに事業計画書づくりをスタート。就職活動は内定をひとついただいたことを区切りとし、終了しました。「リサイクルショッ プを開業したいので、お話を聞かせてください」。そんな感じで、都内のリサイクルショップめぐりを始めたのです。始めてみてわかったのですが、当時はリサ イクルショップの明確なスタンダードが存在せず、経営のやり方はバラバラ。リサーチ開始当初にお伺いした店は、お世辞にも繁盛しているとはいえない店ばか り。オーナーのみなさんは口をそろえるように、「儲からないよ」「大学出てやる商売じゃない」と。間違いなく、最初の3軒くらいでリサーチを止めていた ら、私はこのビジネスを手がけていなかったでしょうね。でも、48軒もの店を訪ね、リサーチしたからこそわかったことがあります。約3割は経営が好調なん ですね。良い店、悪い店の特徴が少しずつ把握できるようになり、私が立ち上げたかったリサイクルショップチェーンの展開イメージが、だんだんと固まってい きました。

徳川幕府を超えて、300年続く会社を目指します!

<トレジャーファクトリー第一号店、誕生>
48軒のリサイクルショップを訪ね、繁盛店と閑散店の違いを発見!

 リサイクルショップのリサーチを続けていく中で、値札がないため価格はオーナーの気分しだい、購入後の故障などの保証もしない、そんなリサイクル ショップが多いことが分かりました。利用者としてこうだったらいいのにというポイントを実現できれば、繁盛店は実現するのだと感じました。また、試行錯誤 を繰り返しながら事業計画書のブラッシュアップをする中で、考えたことがあります。やる以上は、長く続いていく事業にしよう、この事業にかかわる人すべて が喜んでくれる仕組みにしよう、そしていつか必ず上場できる会社をつくろうと。父が東証1部上場企業の役員になっていましたから、父を超えるためのハードルがさらに高くなっていたんですよね(笑)。

 大学4年生の夏、日経新聞である記事を発見したのです。不動産のサブリースをしている会社が、若手起業家支援のために、格安で物件を提供するとい う内容でした。これはチャンスだと、すぐにアポイントを取り、書き溜めていた事業計画書を持参したんです。「新しいかたちのリサイクルショップをやりたい のです」「それは面白そうだ」。そんな話になり、物件探しを開始。スタートアップ時は通常家賃の3分の1から、段階的に家賃を上げていくという制度でし た。ですが、正規料金を払って借りてくれる事業主が優先されますから、なかなか借りられる物件が見つからないのです。結局、店舗が見つかって開業するまで に約1年間かかってしまいました。最後は、「これで物件が見つからなければ野坂がかわいそうだ」と、担当の方が頑張ってくれたんです(苦笑)。

 物件を借りる契約をする際などに、会社組織にしておいたほうがいいだろうと考え、大学を卒業した5月に有限会社を設立しています。社名は「トレジャーファクトリー」。ある人にとって価値がなくなった品物に、もう一度命を吹き込み、宝物にして世の中に送り出していく工場の役割を果たす会社。そんな 思いを込めた社名です。開業までの時間は主にアルバイトで事業資金稼ぎ。また、リサイクルチェーンの視察のためアメリカにも行きました。リサイクルショッ プのワクワク感、エンターテインメント性など、いろんな気づきが得られた視察旅行でしたよ。

 そうやってどんどん前に向かって動いていくと、状況も好転していくんです。第1号店となる足立区の新築の倉庫が見つかった少し前、以前リサーチ活 動でお会いしたリサイクルショップのオーナーが、「家賃を値上げされるし、もう年金で生活できるから廃業する。商品をすべてあげるよ」と。それと同時に友 人知人約200人に声をかけて、不用品を譲ってもらいました。結果、1995年の10月、150坪の第1号店「トレジャーファクトリー 足立本店」は、総 資金30万円という格安で開業することができたのです。

<拡大のためのさまざまなチャレンジ>
年間でいっきに6店舗を出店! 最大のピンチに見舞われる……

 開業年の1995年は、東京都が粗大ゴミ回収を有料化した年でもあります。循環型社会に向けて、世の中が変わっていく。そんな雰囲気が強まっていた 気がします。ほかにもいろいろな追い風がありました。当時、リサイクルショップの多くが売り場面積20坪程度の店舗でしたが、私の店舗は150坪。あり得 ないくらい巨大なわけです。で、その経営者がなんと学生起業家。それらの点が注目されて、本当に多くのマスメディアに取り上げていただきました。それから 来店されるお客さまがどんどん増え、また、業者個人問わず不用品買い取り依頼の問い合わせが次々に入り始めたのです。

 やはり、大学4年生の時、今やると決めたことは間違っていなかった。事業を成功させるためには、時期とタイミングを合わせる必要があります。あの 時だったから、この事業はスムーズに離陸できた。もしも今から何かやろうと考えたら、全く別のスタートを切るでしょうね。運が良かったと言われればそれま でですが、私は、届いた運をひとつたりとも放っておかなかった。その努力をしたからこそ、スタートできたのだと今でも思っています。

 丁寧な接客、来店者を飽きさせない商品陳列、商品には値札、3カ月の動作保証などを徹底したことで、第1号店は順調に売り上げを伸ばし、1年半後 には正規家賃を支払っても黒字となる経営状況になっていました。そして、当初から計画していた多店舗化を実行に移したのは開業の2年後です。学生時代のリ サーチで、2店舗目を出店した後、既存店の売り上げが低迷するリサイクルショップが多いという実態を知っていましたから、第2号店は50坪の小型店舗を出 店することに。両方の店を順調に経営できたことで、成長に向けた新しい取り組みに着手。

 このビジネスは買い取った商品をいかに早く売るか、売れ筋の商品は何かという、在庫管理が肝であることはわかっていました。当初は手作業での値札 管理から始めていましたが、将来の多角化を見据えて、POSシステム(販売時点情報管理)の導入を決断。初期は共同開発でスタートし、それを使いながら改 善していくというやり方で、今では自社開発のPOSシステムを活用しています。さらに4年目に、販売・買取を行えるWebサイトを、その翌年には物流セン ターを開設。これらの取り組みにより、多店舗化のスピードアップと、販売・買取価格の精度が格段に高まり、競合の参入障壁となりました。

 しかし、8店舗まで店舗数を増やしていた今から4年前のこと。事業計画でコミットしていた数値にするためには、その年一気に6店舗を出店しなけれ ばなりませんでした。そして計画ありきで、実際に6店舗を出店。新規店の売り上げのブレは予測していましたが、なんと既存店の売り上げも下がってき た……。さすがにこれには参りました。もちろん6店舗の出店を成功させる自信はありましたが、結局、人が育ちきっていなかったんですね……。

<未来へ~トレジャーファクトリーが目指すもの>
全国に店舗網を広げていきながら、さらにその先には海外への進出も

 そのピンチを経験したからこそ、今のトレジャーファクトリーがあるんですよ。まず、6店舗を一気に出店したことで会社が危機的状態に陥ったことを全 社で共有することに。その現状を伝えた店長会議では、全員が水を打ったように静まり返りました。でも、全員に「自分たちでなんとかしなければ!」そんな当 事者意識が芽生えたことは確かです。そして、それまでは公表していなかった各店舗の売り上げや粗利など、細かな数値をすべて公開し、また、エリアマネ ジャーを設置して各店舗の成功ノウハウを吸い上げどんどん共有していく。全社一丸となって復活を信じ、行動した結果、なんとわずか6カ月で持ち直すことが できたのです。リーダーとしては、メンバー全員の力の生かし方を学んだ得がたい体験となりましたね。そして、この危機を通じて店舗を規模別にパッケージ化 し、収益のブレない店舗モデルの確立もできました。

 そして昨年12月26日、念願だった東証マザーズへの上場を達成。実は2007年の初めに、私が東証の上場記念の鐘を鳴らすシーンをビジュアライ ズした合成写真をつくって手帳に張り、毎日それを眺めながら頑張ってきたんです(笑)。ちなみに、当社にはスタンダードと名づけた社内マニュアルがあるの ですが、上場準備はその基準を大幅に見直す必要がある厳しさでした。現場にも相当な負荷をかけたと思いますが、4年前のピンチをみんなで乗り越えてきたと いう自負がありましたからね。上場により、社内の結束を改めて再確認できました。

 現在、総合リサイクルショップ「トレジャーファクトリー」は福島県のFC店舗2店を含め、28店舗を展開中。あとは、2006年からスタートし た、洋服・服飾雑貨を扱う専門リサイクルショップ「トレジャーファクトリー スタイル」を2店舗。今後は、関東だけでなく全国に店舗網を広げていきながら、さらにその先には海外へも進出していきたいと考えています。

最近、特に歴史に興味があります。やっぱり300年近く続いた徳川幕府は偉大だなぁって。店舗数増だけではなく、新業態への挑戦も続けていきます。これからも多くの人たちから必要とされ、多くの人たちの生活をより良い方向へ変えていける事業をずっと継続していきたい。できれば私がいなくなったあとも未来永劫。少なくとも徳川幕府を超えて、300年続く会社づくりを目指します(笑)。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
これだと思える事業アイデアが浮かんだら、周囲にどんどん公言していくことです

 どんな人にも、今しかできないチャンスがあるんです。でも、そのチャンスに気づいてない人が多いのではないでしょうか。もちろん、すべてのチャンス が成功につながるとは限りません。世の中の時期、自分の時期をしっかり見極めて、それがマッチするものであれば成功する可能性が高くなる。さきほどもお話しま したが、私にも本当に多くのチャンスが巡ってきました。しかし、100チャンスがあったとしても、本当に活かせるチャンスはそのうち1つくらいですよ。マ イナスのチャンスに手を出したら、逆戻り。正直、起業後にそんな手痛い失敗をしたこともあります。しかし、二度と同じ失敗を繰り返さず、活かせるチャンス だけを見極める眼を鍛えればいい。そこで必要となるのが、事業に対するこだわりだったり、理念だったりします。

 私は起業前に50個の事業アイデアをひねり出し、その中からリサイクルビジネスを選択しました。そして、とことんまでリサーチを積み重ね、リサイ クルショップの現状を変えたい、という強い想いをもちました。また、ただ儲かる店をつくるということではなく、世の中から必要とされる事業として大きく育 て、継続していくことを起業前に決めていました。そんな志がしっかり固まっていれば、マイナスのチャンスに手を出す確率が格段に下がるのです。ですから、 私と同じように起業したいが何をすればいいかがわからないという人は、流行を追いかけるのではなく、身の回りにあったらいいな、を50個以上挙げてみると いいですね。その際に、頭の中で考えるだけではなく、紙に書き出してみてください。問題意識には、必ず世の中から必要とされるビジネスのヒントが隠されて います。

 もしも、世の中への貢献ができて、永続できそうなアイデアが浮かんだら、どんどん周囲に公言していくことです。それが、自分を前に進めるいい意味 でのプレッシャーになりますから。そして大きなステップを踏み出せるよう、大きな目標を掲げること。大きな目標を立てたら、確実に実現できる中くらいの目 標をいくつか挟み込んでください。そしてどんどんゴールに近づけていって、大きな目標を達成する少し前に、再びさらに大きな目標を掲げる。これを繰り返し 継続していけば、あとは世の中がその事業をどんどん後押ししてくれるようになるのではないでしょうか。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:神田正人

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