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第93回
株式会社パーク・コーポレーション 代表取締役
井上英明 Hideaki Inoue
1963年、佐賀県生まれ。小中高時代はサッカー少年。サッカーの強豪校からスカウトを受けるが、足の怪我により断念。県立鹿島高校から、早稲田大学政治経済学部へ進学。卒業後は、ニューヨークへ渡り、ピート・マーウィック会計事務所(現・KPMG)に現地採用された。仕事がまったく合わず、1年で退職。帰国後の1988年12月、25歳で株式会社パーク・コーポレーションを設立し、代表取締役に就任。イベント事業からスタートしたが、市場から直接仕入れる、花の予約制販売が人気となり、徐々にフラワービジネスに特化していく。同時期に、フリーランス職人を束ねた生け込み部隊を組織化。企業イベントや商業施設への出張生け込み事業も開始。1993年、良質な花や緑をより多くの方々に届けたいという思いから、「青山フラワーマーケット」第1号店を南青山にオープン。以来、多店舗化を進め、2009年9月現在、全国に66店舗を展開している。2003年には、フラワースクール「hana-Kichi」もスタート。2008年12月に20周年を迎え、「ブランド・ブリーディング・カンパニー」を標榜。グリーンの専門店「Jungle COLLECTION」、トライアスロンの専門店「ATHLONIA」などの新規事業にも挑戦中。
ライフスタイル
好きな食べ物
おふくろの味ですかね。
好きなものは美味しいもの、嫌いなものはまずいもの(笑)。冗談はおいておいて、最近は、素朴な田舎料理が無性に食べたくなりますね。佐賀の郷土料理に、新鮮な海老をふんだんに使った「海老ごはん」という炊き込みご飯があるんです。これがうまいんですよ。年に4、5回は帰省していますが、必ず食べる一品ですね。
趣味
トライアスロンです。
40歳になって始めましたから、もう6年くらい続けています。最初から比べて、30分はタイムを縮められています。時間も取られますし、ハードルの高い競技でしょう。でも、この競技に参加する人間には共通のチャレンジ精神がありますね。だから、一緒にいて気持ちがいい。スイム、バイク、ランと3種目あるから、楽しみも多いです。
行ってみたい場所
とある日本料理店。
あのエルブジのオーナーが、世界最高の日本料理店と絶賛した、知る人ぞ知るお店があります。その店の親父さんは、「これから使ったことのない食材にいっさい挑戦しない。その代わり、調理方法を変えて、新しい味に挑戦する」のだとか。素材の詳細をすべて知るまでには、相当な年月がかかります。もうお年なのか、時間をかけない自分なりの挑戦をするということなのでしょう。ぜひとも、その親父さんの話を聞いてみたいんです。
最近感動したこと
リッツのサービス。
リッツ・カールトンに宿泊し、モーニングコールを頼みました。僕の希望は、正確な時間に起こしてくれること、機械音ではなく人の声であること。翌朝、ふたつの希望は叶えられました。さらに、その女性は「ドアの前にコーヒーと、新聞をご用意しています」と。かなり感動したのですが、次に宿泊した時、同じサービスをされても、この時ほどの感動は得られないでしょう。人に感動を与えるサービスとは、本当に難しいものですね。
直線で囲まれた都会生活者の心に美しい曲線を。
花や緑に囲まれたナチュラルな時間を届けたい
“Living with flowers everyday”。直線で囲まれた都会で暮らす人々を、花や緑のある生活を届け癒したい。そんな思いで始まったビジネスのスタート地点は無店舗販売、その後に生まれた第1号店はビル地下1階の踊り場だった。そして現在、「青山フラワーマーケット」は全国で66店舗強のネットワークに拡大している。この事業をかたちにしたのが、株式会社パーク・コーポレーションの代表を務める、井上英明氏である。「都会に住むストレスフルな人々も、生活の中に花や緑があることで癒される。花を売る商売を続けていこう。100本の花を1人に売るよりも、1本の花を100人に届けよう。そう心に決めて、お客様の気持ちに寄り添いながら、僕は今日まで経営を続けているのです」と語ってくれた井上氏。今回は、そんな井上氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<井上英明をつくったルーツ1>
家業の商売に肌感覚で触れながら育った少年時代。
負けず嫌いの根性で、サッカーにのめり込む
生まれは佐賀県の鹿島市です。実家は、親戚と一緒にお酒の卸業を営む合資会社を経営していました。大手ビール会社の特約店で、周囲には温泉街が多く点在していて、ホテルや旅館、飲食店などに商品を卸すわけです。お中元やお歳暮の繁忙期は、ふたつ上の兄と一緒に、実家の仕事をよく手伝っていました。夏はビール瓶を拭いて、箱詰めして、それが正月前には日本酒に変わって。のしに宛名を書いて箱に張り、配達についていく。ビジネスというより、商売、商いって感じですよね。毎日、配達のトラックがやってきて、ビールケースや日本酒の木箱をどんどん積み卸していく。人が集まってわさわさ仕事をする、あの商売の活気が小さな頃から好きでしたね、僕は。
小学校2年の時、友だちに誘われ、サッカークラブの練習に参加してみたんですよ。意外に面白くて、家に帰って父に「サッカーをやろうかと思っている」と話したら、「そりゃあいい。ぜひ、やりなさい」と。その日の夕方に近所のスポーツ用品店に連れて行かれ、ボールにスパイク、ユニフォームまで、すべてそろえてもらった。そこまでされたら、もうやらざるを得ないでしょう(笑)。その後も、やめるにやめられなくなって、それからずっとサッカー漬けの毎日ですよ。3年のある日、学校のグランドが使えなくなり、全部員で数キロ先にある別のグランドまで走っていくことに。着いてみたら、上級生を差し置いて、僕が1番。「自分には人に負けない持久力が備わっている」ということがわかった出来事です。
僕のポジションは、攻めも守りも積極的に参加する、今でいうボランチなのかな。けっこう強いチームで、常に九州大会に出場し、6年の時はキャプテンを務めました。勉強の成績もね、だいたいオール5。サッカーで忙しく、家に帰ったら眠くて勉強できない。だから、授業をしっかり聞いて、宿題や予習復習は学校の休み時間にやっていましたね。何でスポーツも勉強もできたのか? 親からも何かを「やんなさい」って言われたことないなあ。単なる負けず嫌いだったんでしょう。小さな頃の相撲大会では兄の同級生のガキ大将を負かしたくてしょうがなかったし、友人がサッカーのリフティング100回できたと聞いたら、120回できるまでやり続けたし。勉強も同じで、自分よりできるやつがいたら悔しかった。そういった意味では、自分を頑張らせるための、心のコントロールが昔からうまかったんだと思います。
<井上英明をつくったルーツ2>
将来は、パイロット、建築家、商社マン?
高校3年でいきなり理数系から文系へ転向
ちなみに、僕の幼稚園の卒園アルバムには、「将来の夢は羽田空港の社長になること」と書いてあります。パイロットではなく、当時、国際線が飛んでいた空港の社長(笑)。遺伝なんでしょうか。ご先祖様は、江戸時代に国費留学でアメリカに行ったらしいですし、親戚に「アメリカのおじさん」というあだ名のおじさんがいました。また、兄が世界の名作童話を読み漁っていた頃、僕は松下幸之助さんや、本田宗一郎さんの偉人伝を読んでいました。あとは、別のおじさんが電鉄会社のお偉いさんで、国賓級の顧客と一緒に映っている写真がありましてね。僕は本棚の上に、その写真を画鋲で張って、良く眺めていた。遺伝なのか何なのか、いずれにせよ僕は、幼い頃から海外ビジネス思考の持ち主だったようです。
中学に上がっても、サッカーは続けました。この頃はまだ、硬派でしたね。1年の夏休み前、別の小学校から来た、とてもかわいい女の子から、付き合ってほしいと告白されたんです。本当は大好きだったのに、恥ずかしくて断った。そしたら夏休み明けに、その娘が別の同級生と付き合ってたんですよ。いや、ショックでしたね(笑)。サッカーは相変わらず強くてね、だいたい県大会でも優勝か準優勝。最後の年は主将として活躍し、佐賀商業など、県内の強豪校からスカウト話をいただいていました。ただ、ひざに大きな故障を抱えていまして、そのお誘いをすべてお断りしたんです。当時はJリーグもなく、プロになるという夢も持てませんでしたし、昔から考えていた事業家思考が勝ったんですね。それで、進学校の県立鹿島高校に進学することにしたんです。
高校でのスポーツ活動としては、友人を誘って、硬式テニス部を創部。それほど真剣にやりませんでしたから、戦績は自慢できるものではないですね。あと、サッカー部の顧問から、「試合の時だけでいいから協力してほしい」と依頼され、試合は出させてもらっていました。当時の僕は、数学や物理が得意な理数系人間でして、高校入学当時はパイロットになりたいと思っていたんです。羽田空港の社長ではなく(笑)。高1の担任の先生に相談したら、「なってしまったら、毎日、同じことの繰り返し。お前の性格には向かない」と。それもそうかと、建築家になりたいと思い始め、いろんな写真集を買ってきて眺めてたんです。すると父が、「お前が事務所の図面台に向かって、じっと作業できるわけがない」と。確かにそうだと(笑)。だったら海外を飛び回り、大きなビジネスをものにする、商社マンになろうと思い直し、高校3年で文科系にいきなり転向するんです。ただし、国語も社会もまったく勉強していなかった僕は、現役の大学受験に失敗。で、その後、一浪して早稲田大学の政治経済学部に進学しています。
<最高に楽しかった大学時代>
青山を根城に仲間たちと遊びまくった4年間。卒業後の進路は商社マンから会計士にチェンジ
大学時代はですね、ひたすら遊びました。テニスサークルをつくって活動したり、ガールフレンドもつくりましたしね(笑)。彼女がミッション系女子大の学生で、青山に住んでいたんです。だから、僕らの遊び場も青山が中心になる。彼女とは外苑前のスポーツクラブでデート、その後、青山一丁目の交差点にできたばかりのハーゲンダッツでアイスを食べて、家にみんなで集まって大盛り上がりのパーティ。いや、申し訳ないですが本当に楽しかった(笑)。あと、思い出といえば、アメリカ人のジョンという男性と一緒に暮らしたこと。彼は、早稲田の国際学部に留学していたんだけど、もう1年残って勉強したいと。寮を出なくてはならないのでシェアメイトを探していたんですね。そのおかげで、カタコトですが、英語がしゃべれるようになったんですよ。今でもたまに彼とは連絡を取ります。数百人クラスの従業員を束ねる、企業幹部として活躍しているそうです。
卒業したら商社へという思いも、大学在学中に変わっていきました。商社マンを父に持つ友だちに聞いたら、「本人は頑張っているし、楽しそうでいいけど、家庭はほったらかしだよね」とか、アメリカ旅行で出会った母娘からは「商社マンのお嫁さんになるんじゃなかった」「私も商社マンとは結婚したくない」とか、けっこうマイナスの情報が入ってくるんです。なるほどな~と。そんなことを思っていた大学3年のある日、リクルート社から百科事典のような新卒向け就職情報セットが送られてきたんです。何げなしにページをめくっていたら、僕の友だちにそっくりな人が写真で紹介されていた。結局、まったくの別人だったのですが(笑)。それで気になって、その人の職業を調べたら、会計士とある。資格を取れば将来は独立もできる。また、当時は世界のビッグ4と呼ばれる大手会計監査法人が存在していて、自分の海外志向も満たしてくれるかもしれない。と、そんな条件だけに憧れて、会計士資格取得の専門学校に通い始めるんですよ。
やはり動き出せば、思いがつながるものなのでしょうか。高校時代の先輩が、「ニューヨークで大手会計監査法人に勤務している知り合いが人を探している。井上、どうだ? 話を聞いてみる気はないか」という採用情報を紹介してくれたんです。世界中からエリート・ビジネスパーソンが集まるニューヨーク、しかも条件がぴったりの外資系会計事務所からのオーダーです。まさに渡りに船、で、すぐに承諾しました。そして大学を卒業した年の9月、その監査法人で働くために、自分の自転車を担いで渡米。もちろん、セントラル・パークが大好きなので、公園内のサイクリングを楽しむために(笑)。英語はですね、カタコトのままでしたね。まあ、そんな流れで、僕の社会人としてのニューヨークライフが始まっていったのです。
<25歳で起業>
自分の時間は未来の自分のために使いたい。会計士の仕事が肌に合わず、1年で帰国する
ニューヨークでの生活は最高に楽しかった。毎週のように、日本から友だちが遊びに来るんですよ。エンパイアステートビルなんて、何回登ったかわからないほどです。あとは日本で調べてきたらしく、あのレストランに連れてけ、あのバーに連れてけって。そんな店、名前すら聞いたことないけど、まあ、土地勘はあるんで連れて行って。そんな感じで、よく遊びましたねえ(笑)。もちろん、仕事をしながらですよ。でも、仕事はですね、ほら条件ばかりに目がくらんで入社したようなものですから。まったく面白くない。特に下っ端の仕事は、去年の会計資料チェック。ひたすら電卓をたたいて、金額が合わないとその原因がわかるまで帰れない。「俺が1ドル出すから、もう帰ろうよ」って、本気で言いたかったですよ。
結局、1年後に監査法人を退職して、日本に戻ってくるんです。誰かがまとめた過去の金勘定の確認のために、自分の今や未来の時間を使われるのがもったいなくて仕方なかった。僕は時間って本当に大切なものだと思っていますから。で、1988年の帰国後、すぐに友人と一緒に会社を設立するんです。もう、雇われて働くのは嫌でしたし、自分で何かビジネスを立ち上げるしかないと。で、何をやろうか考えてみたんですね。やっぱり僕は、テニスをやったり、パーティを開いたり、仲間と一緒に遊んでいる時が一番楽しい。社会人になると、「テニスやろうぜ!」「いいけど、誰がコートを押さえるんだよ」とか、自由な時間が学生時代に比べて少ないからか、面倒くさいことをしたがらなくなる。それで「プライベート・セクレタリー」というコンセプトで、みんなの遊びやパーティを企画・コーディネートする事業をスタートさせたんです。
当時の僕は25歳、社名はパーク・コーポレーション。ニューヨークのセントラル・パークが僕は大好きだったし、いつかセントラル・パークの近くに事務所をつくろうという思いをこめて、この名前をつけたんですね。そして、この大人のサークル活動サポート事業は、有料会員がけっこう集まって、そこそこうまく回り始めます。会社を始めて1年が過ぎた頃、小佐野賢治さんの著書を読みました。会社経営は「日銭商売」があると非常に強いと書かれています。今でいうキャッシュフロー経営の重要性をわかりやすく解説した内容に、「なるほどな」と感心し、自分にできる日銭商売って何だろうと考えてみた。日経新聞のスクラップを読み返していると、花博(国際花と緑の博覧会:1990年に大阪で開催)の記事があり、「これからは花の時代」と書かれてあります。「これはいいかもしれない」。この発想が、僕の人生を今につなげていくんですね。
ブランド・ブリーディング・カンパニーとして、
素晴らしき感性をゼロから育てる事業に挑戦!
<無店舗&完全予約制販売>
すべて受注後仕入れで、ロス率はゼロ。花市場への仕入れは、電車かタクシーで
知り合いにフラワーショップを経営している人がいましてね。「花の市場を見学してみたい」とお願いしたんです。で、一緒に花市場を訪れる機会を得ました。花市場にはたくさんの業者が集い、大声でセリが行われ、子どもの頃経験した家業の酒販店のような活気を感じましたね。これぞ商売――。この場の雰囲気が何だか肌にぴったりときて、自分の居場所はここだ!と直感したくらい。昔よく遊びに行った「アメリカのおじさん」の家には古伊万里の骨董があって、花が飾ってあったり、実家では母が生け花をしていたりと、もともと僕は花とか、きれいなものが好きなんですね。
当時、普通にショップで買うバラ1本の値段が800円くらい。市場では150円程度で売られています。びっくりしまたした。仕入れ値の倍の値段で売っても300円ですよ。市価の半額以下じゃないですか。これは絶対に売れると確信しました。2万円分くらいだったかな、その場でバラの花束をがばっと購入して、昔からお世話になっている代議士の先生の事務所に持っていったんです。「1本、300円でどうですか?」「おまえ、商社マンも会計士もあきらめて、イベント会社やっているって聞いてたが、今度はモノ売りになるのか? 大丈夫か?」と、まずは僕の身を心配されましたが、「まあいい。置いていけ」って、全部買ってくれたのです。帰り際に、「おい、このバラのつぼみの部分は開くのか?」「僕にはわかんないっすよ」と。花の仕事をしたのは、この日が生まれて初めてなんですから(笑)。
1週間後、「おい、この花、いいじゃないか。また持ってきてくれ」と、件の代議士から電話がかかってきました。それから、週に1度定期的にお届けするようになり、また、ほかの代議士を紹介してもらったり、大学時代の知り合いのつてをたどって、大手企業の役員室の需要を開拓したりしながら販路を広げていきました。すべて受注後仕入れですから、ロス率はゼロ。花市場への仕入れ行く時は、電車、もしくはタクシーを利用。さらに無店舗ですから、経費が抑えられ、利益率も非常に高い。そんな無店舗事前予約の商売を続けていくうちに、広告代理店や雑誌社などからも声がかかるように。CMやブライダル雑誌の撮影、マンションのショールーム用の装花など、思わぬ場所から思わぬオーダーが発生していくんです。
<第1号店の誕生>
100本の花を1人に売るよりも、1本の花を100人に。
お客様の気持ちに寄り添いながら、事業を継続していく
その後、フリーのフラワーアーティストを束ねてウエディング会場などの生け込み部隊を稼働させたり、フラワースクールを立ち上げたりしながら、パーク・コーポレーションの事業内容はイベント関連業から、フラワービジネスに集約していきます。また、無店舗で花を販売する事業も好調に推移していきましたが、ロス率がないというメリットは、機会ロスというデメリットも生み出しているわけです。注文後仕入れは安全なビジネスですが、急なオーダーには対応できないということ。「今日、あの花をこのくらい届けられないか?」。そんな問い合わせが増えていたこともあり、在庫も確保できる店舗を出すことを決めました。場所は、昔からの遊び場だった青山がいい。店名はストレートに、青山フラワーマーケット。ただし、時は1993年。バブルが崩壊に向かっていたとはいえ、青山の店舗賃料は安くない。そこで僕は、アイデア勝負することにしたんです。
表参道の交差点近くに、青山ラミアビルという商業ビルがあるんです。そこの地下1階の踊り場には、観葉植物が飾られています。僕は、ここに目をつけ、ビルオーナーに交渉してみました。「あの観葉植物、もしも僕らが花屋をやれば、常に花があるわけですから必要なくなって、観葉植物のレンタル料金が浮きますよね。さらに、僕らは家賃も払いますし、お客さんが来るのでビル全体が活性できると思うのです」と。そうしたらビルオーナーが「ちょうど地下のあたりがさびしいと考えていたところなんだよ。来週あたりからやってみていいぞ」と言ってくれたんですよ(笑)。1998年の設立から21年、今では全国に60店舗を超える店舗網を有していますが、青山フラワーマーケットの第1号店は、こうした経緯を経て、産声を上げたのです。
店舗展開を続けていく中で、ある経営者たちと「誰が一番大きな会社をつくれるか」議論をしたことがありました。そこで、僕はこのまま花の仕事を続けていくことが本当に自分の使命なのか、疑問を感じてしまった……。そんな思いが生まれた後、バリのアマンリゾートを訪れたんです。豊な自然を満喫して帰国し、すべてが直線でカタチづくられている東京の街並みを目にした瞬間、強烈な違和感を覚えました。なぜなら、自然の中にある木々や花々は、すべて美しい曲線で構成されています。都会に住むストレスフルな人々も、生活の中に花や緑があることで癒される。やはり花を売る商売を続けていこう。100本の花を1人に売るよりも、1本の花を100人に届けよう。そう心に決めて、お客様の気持ちに寄り添いながら、僕は今日まで経営を続けているのです。
<未来へ~パーク・コーポレーションが目指すもの>
ブランド・ブリーディング・カンパニーとして、
右脳が生んだ事業アイデアをゼロから成功に導きたい
お客様が来店されて、スタッフと会話して、花を購入され、パッケージされた花を家まで持ち帰り、パッケージを解いて花瓶に生け、花が枯れるまで楽しむ。この一連のプロセスすべてが、私たちが考える顧客サービスです。花を売るというよりも、花を楽しむ時間を売っているというような。すべてのプロセスにおいて、お客様がどうされたほうが満足するのか、ひとりひとりのスタッフが日々改善を探しながら、昨日よりも今日、良い店になっていることを考え続ける。失敗したっていいんです。このことを懲りずに飽きずに、ひとつずつ、ひとつずつ積み重ねていく。この愚直ともいえる考えと行動が、当社の成長の礎になっていることは間違いありません。
たとえば、花のラッピング素材。シャカシャカ音がするものを使っていましたが、お客様が使いづらそうなので変えました。花を入れる袋。お客様が持ち歩く際、ロゴマークが隠れてしまうのでデザインを変えました。花を送る時の箱。強度を強め、夏は通気が良い工夫をし、出しやすくなる機能性を持たせました。数年前、僕の母の葬儀があり、全店舗からお花を送ってくれたのです。気持ちはとても嬉しかったのですが、花を取り出そうとしたら、これがすごく出しにくいものになっている。スタッフが入れやすくても、お客様が出しにくくては意味がない。これもすぐに改善しています。このように、どんどん改善されますから、当社のオリジナルスケジュール帳は毎年改定され、全スタッフに配布。知識のキャッチアップも忘れません。これらの継続がしっかりできれば、国内200店舗展開、海外へのチャレンジ、パークアベニューでの事務所設置は、確実に達成できるでしょう。
2008年12月24日に、パーク・コーポレーションは20歳になりました。リテール・ブランドとして、これまで青山フラワーマーケットを育ててきましたが、ここから得た右脳と左脳を融合させたマネジメント手法を使って、「ブランド・ブリーディング・カンパニー」を目指すという挑戦を始めています。売れているものを真似してやるのではなく、これをやりたいという個人の思いをゼロから成功に導くという新しい経営スタイルです。すでに、“Jungle COLLECTION”というグリーンの専門店が立ち上がり、僕の趣味でもあるトライアスロンの専門店“ATHLONIA”ではトップアスリートである白戸太朗氏を代表に迎えスタートしています。僕自身の目で見て、「これいいよな」とか「お客様が喜ぶな」というビジネスを、自分感覚で素晴らしいブランドに育て上げたい。何事も出会いがすべて。ですから、才能ある人間の右脳が生み出したアイデアに、たくさん出会いたいと思っています。もうひとつ、僕が楽しいと思えることしかやりたくない(笑)。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業は、成長を求める人にとって最高の砥石。時には厳しく、時には楽しく磨いてくれるでしょう
ひとりひとりの人間にとって、何が一番価値あるものかというと、絶対に時間だと思うんですよ。僕は40歳を過ぎましたが、人生を80年と考えたらすでに折り返ししてしまっているわけです。たとえ話ですが、僕が79歳と11カ月生きたとします。人生の残りは後1カ月。自己資産を1000億持っている。そこに、1年間生きられる権利を売ってくれる人が現れた。僕は確実に999億円なら買います。残りの人生を遊べるための1億円を残して。そういった意味で、お金と時間、どちらに価値があるか考えたら、僕は間違いなく時間だと思います。人生って何? 生まれた瞬間から、死ぬ瞬間までの時間でしょう。だったら、その限られた大切な時間をどうすごすのかが一番大事。まずはこのことを、しっかり理解しておくことです。
中村天風氏の本の中で出合った「エレベーション」という言葉が好きです。自己研鑽という意味で使われていますが、限られた人生の中で、自己をどこまで高めていけるのか。そこにこの世に生を受けた面白みがある。そう考えると、楽している時間って成長につながんないんですよね。僕自身、過去を振り返っても、立ち上げたブランドを潰して痛い目に遭ったとか、楽なんてできない時に成長していると思うんです。だから、何10億円かけて失敗した人の話を聞くとうらやましい。僕には経験したくてもできない話ですから。もちろん、そうなりたくはないですけどね(笑)。でも、起業という行為は、成長を求める人にとって最高の砥石、自分を磨いてくれるものとなるはずです。
尊敬できる経営者と話している時、それまでは「へえ~、そうなんですか」だったのが、自分を磨いていくうちに「よくわかります」に変わっている。そんなタイミングに、自分の成長を感じますね。あとは、本もそうです。昔読んだ経営者の本を読み返すと、「へ~?」が「そうだよな」に変わっている。座右の書を持っておくといいと思いますね。僕の場合は『ビジョナリーカンパニー』ですけど、毎年決めている9月の休み中に何度も読み返すんです。過去にいろんな箇所に線を引いていますけど、10個「こうなりたい」と思っていた項目が前の年にはひとつできて、今年はふたつできている、とか。自己成長の尺度というか、鏡になってくれるわけです。ぜひとも、起業という最高の砥石で、あなたの人生を豊かなものにしてほしいと思います。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓
●株式会社パーク・コーポレーション 井上氏に質問
Q.習慣づくりをするために、どのような方法が適切ですか?
A.
仕組み化する、ということでしょうね。僕も毎朝6時に起きてプールで練習する習慣をつくろうと思っていたのですが、最近はたまに、になっちゃってます(笑)。だから、仕組み化できていないんですよね。たとえばね、スタッフに「このファイルを10冊を、いつも順番に並べる習慣をつけましょう」と言うじゃないですか。2、3日はできる。でも、その人が休んだり、移動になったりすると、ファイルの順番はいつの間にかぐちゃぐちゃ。で、頭にくると(笑)。この話をある経営者にしたら、「そんなもんは簡単だ。10冊のファイルを並べて、その背表紙に赤い斜めの線を引けばいい。そうすれば、外国人でも小学生でも線の合う場所にファイルを戻すようになるんだよ」と。なるほど!と思いましたね。確かに、ほうきの柄に赤いテープを巻いて、戻すフックにも赤いテープを巻いておけば、みんなそこに戻すようになった。チリトリも同じでした。できないからと、怒ってもムダ。本気で習慣化したいなら、結局は仕組化が必要になるということ。僕は毎年しっかり経営面の見直しをするために、毎年9月の1カ月は会社に出てきません。で、『ビジョナリーカンパニー』を何度も読み直し、1年間取り続けてきたメモを読み返して、自分の身になっているかを確認し、それらをすべて予定に組み込んで仕組化しているのです。トライアスロンでいえば、レースの日程を決めてエントリーを済ませる。これで、仕組み化は完了です。費用もかかりますし、良い成績を残すために、自然とトレーニングを始めるようになる。習慣化したいなら、自分にとってわかりやすい仕組みをつくることだと思います。