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第48回
株式会社ガリバーインターナショナル代表取締役社長
羽鳥 兼市 Ken-ichi Hatori
1940年、福島県生まれ。実家は江戸時代から続いた理髪店を営んでおり、商売人の両親のもとで育つ。小学2年で納豆売りのビジネスを開始。高校では、中 古車転売で得た利益を元手に、遊覧船サービス事業を手がけるという、高校生起業家だった。福島県立須賀川高校卒業後、父が転身して立ち上げた羽鳥自動車工 業に入社。持ち前のアイデアと実行力を発揮し、事業の急成長に貢献するも、1975年に思わぬ事件に巻き込まれ、羽鳥一族は巨額の借金を背負う。同年10 月、自ら不退転の決意で立ち上げた東京マイカー販売で見事復活。その波に乗り、1994年10月、ガリバーインターナショナルを設立。旧態依然とした中古 車市場を誰からも信頼される業界に改革を目指し、買い取り、販売につきものだった不透明なイメージを払拭し、「いつどの店舗でも公正な価格を表示してくれ る」という安心感をつくり出すことに成功。2003年8月、東証1部市場に上場。社員数約2000人、連結売上高約1800億円の一大企業を築き上げた。
ライフスタイル
好きな食べ物
好き嫌いはほとんどなし。
中華料理、イタリアン、焼肉、好きな食べ物を挙げればキリがないくらい。何でも好きですね。お酒も嫌いではないですが、たしなむ程度。ワインなら、グラスで2杯くらいでしょうか。ちなみにタバコはいっさいやりませんね。
趣味
マラソンです。
1年前、箱根の芦ノ湖から東京・丸の内までの100kmマラソンにチャレンジしています。サポートスタッフ が運転していたワゴン車で仮眠をとったら、スタッフが気を使って起こしてくれなかったんですよ(笑)。それで、25時間もかかってしまった。でも、自分の この足でどこまでいけるのか試させてくれる、マラソンは素晴らしいと思います。
休日
なんとなく会社に来たり。
1週間に1日は休むようにしているのですが、お昼を過ぎて14時くらいになると、会社に行きたくなるので す。そうすると休日出社している社員がいますから、仕事を切り上げて、一緒に皇居周りを走りに行ったり(笑)。ちなみに、毎週決まった日の夜には、社内の 数人で皇居を2~3周走っています。走ることが本当に好きなのです。
行ってみたい場所
やっぱり日本が好きですね。
外国語が苦手ということもあって、やっぱり旅行に行くなら国内がいいですね。行ってみたい場所はいろいろありますが、例えば、温泉とかでしょうか。あと、好きな場所は自分の会社ですかね。会社が一番落ち着けますし、ほっとできる場所なんですよ(笑)。
消費者が売りたい時も、買いたい時も安心。中古車流通市場に革命を起こしたかった!
安く買い叩かれているのでは? 高く売りつけられているのでは? 一昔前までの、中古車販売業者はうさんくさいというイメージが付きまとっていた。この部 分にメスを入れ、業界のイメージアップに貢献し、一般消費者が安心して中古車の売買ができる世の中をつくった男がいる。それがガリバーインターナショナル の代表取締役社長・羽鳥兼市氏だ。買取専門店のパイオニアとして誕生した同社は、買い取った車の展示販売はいっさい行わず、オークション会場に売却すると いう独自のビジネスモデルを確立させ、また、インターネットを利用した車販売システム「ドルフィネット」を武器として、急成長を遂げる。そんな羽鳥氏の 54歳からの挑戦は、市場から大きな支持を得て、10年を待たずして東証1部市場に上場を果たした。ガリバーインターナショナル創業以前、羽鳥氏は詐欺に よる事業倒産を経験している。どん底から反撃の狼煙を上げたのだ。今回は、そんな羽鳥氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そし てプライベートまで大いに語っていただいた。
<羽鳥兼市をつくったルーツ1>
優れた商売人夫婦の間に生まれ、小学2年生からビジネスを開始
母の実家は福島県で江戸時代から続く理髪店。父の実家は海産物問屋だったのですが、この理髪店に髪を切りに来たことで母と知り合いになり、結婚。父 も理容師の資格を取得して、一緒に理髪店を経営し始めたんですよ。今ではCS(カスタマーサティスファクション=顧客満足)の必要性が叫ばれていますが、 当時から父はそれを実践していました。50年ほど前ですからね。コーヒーなんて誰も飲んだことがない時代に、コーヒー出して接客したり、テレビを街で一番 早く導入したりで、毎日、待ち合いスペースは超満員。また、せっかく髪を切ってさっぱりしたのに、雨が降ってきたらお客さまがかわいそうだと、車を購入。 無償で送って差し上げるわけです。市内にまだ車が数台しかなかった頃ですから、車に乗りたくて理髪店に来る人も多かったそうですよ。
家族構成は両親に、僕とあとは姉と妹が6人。男の子は私ひとりきりだったので、とても大事に育てられました。夕食の魚は一番大きいのが私で、次が 父、そのほかが姉や妹に回される。おかげで、我が家の姉妹からはすごく恨まれていたみたいですよ(笑)。商売人夫婦の子どもとして生まれたからか、ビジネ スとの出合いも早かった。小学2年の時、学校の授業で市場を見学に行ったら、大好きな納豆が市価の半額で卸売りされている。これを買って自分で売れば儲か るんじゃないかと、市場で交渉したんです。
1本の納豆を5円、20本単位で卸してくれると聞いて小遣いで購入し、翌朝、町内で売ってみたら全部売れた。次は売れた全額で40本購入して、ま た売る。市場のおじさんもうまかったな。「君は商売がじょうずだね」なんて持ち上げられて。扱い量がどんどん倍になっていくのがすごくうれしいわけです。 朝売れない分は、夜も売り歩くのですが、売れなくてべそをかいたことも。でも、子どもながらわかってるんですよ。キップがいい大人がいる場所を。「坊や、 全部置いていきな。買ってあげるから」って。当時の私にとっては、夢中になれる楽しいゲームだったんですね。
父は、理髪店の経営を退いて、再生タイヤ工場の経営を始めたのです。東京にタイヤの仕入れに行くのですが、中学生の私を連れて一緒に行くんです よ。どうしても私のことを商売人にしたかったんでしょうね。学校の先生には正直に話しました。「3日間、父の仕事を手伝って東京に行くので学校休みます」 と。最初は「何考えてんだ」なんて言われていましたが、最後のほうは「羽鳥、頑張ってこいよ」って(笑)。まあ、学校の勉強よりも、父と一緒に行った東京 の社会見学のほうが、社会に出てからはるかに役立っていると思っています。
<羽鳥兼市をつくったルーツ2>
アイデアと果敢な投資で高校生起業家に。ボート3艇を所有し、ビジネスを拡大
高校へ行くつもりはなかったのですが、姉が「高校くらいは行ってもらわないと恥ずかしくて困る」と。もう受け付けの締め切りを過ぎていたので、自分 で願書を書いて、中学卒業の2カ月前から必死で受験勉強を開始。それで福島県立須賀川高校に進学しました。高校でもビジネスは続けていましたね。今もそう なのですが、私は物欲というものがあまりないのです。なので、小さな頃から稼いだお金や小遣いがたまっている。それを資金として、3万円で外車のルノーを 購入。タイヤ再生工場から始まった父の会社は、板金塗装、整備と事業を拡大していたので、そこに頼んで、真っ赤に塗装してもらった。原価は6万~7万円か かりましたが、27万円でそのルノーは売れました。当時の会社員の初任給が7000円くらいだったはずなので、高校生にしてみれば大金です。
今度はその資金を元手にモーターボートを購入。猪苗代湖でボートの遊覧サービスをしている業者があったのですが、商売があまりうまくない。8人集 まれば1回4000円。それじゃあだめだと、私はひとり500円で8人までOKですと、宣伝文句を変えたわけです。スタート当初から大人気ですよ。平日は 業者にボートを貸し出して、売り上げの半分を渡し、休日は自分でサービス。高校3年の時には、3艇のボートを所有するまでになっていました。この頃が一番 裕福だったんじゃないでしょうか(笑)。
高校に行くとやっぱり大学に行きたくなりまして、東京の大学を受験しました。合格して、生活道具をすべて送ったタイミングで、父に泣かれまして ね。東京に息子を取られてしまうと思ったんでしょう。好きな車を買ってやるから、残って一緒に商売しようと。結局、シボレーエンペラーというド派手な車を 買ってもらって、家業の羽鳥自動車工業へ入社することになるのです。でも、1年と半年、必ず帰ってくるという約束で、父の知り合いの東京・三田にあったエ ンパイヤ自動車という自動車工場に修行に行かせてもらいました。ここでも、同僚にシボレーエンペラーを1日数千円でレンタルして、ちょっとした小遣い稼ぎ をしていましたよ(笑)。
<光と影の両方を経験した時代>
アイデアと実行力で家業は大成長。しかし一転、一文無しのどん底へ……
修行先の東京から福島に帰り、父の会社の手伝いを始めました。事業は概ね順調でしたが、ディーラーの下請けという構造では、真っ黒になって夜遅くま で働いてもなかなか収益が上がらず、また先も見えないわけです。これは直接ユーザーから仕事を獲得するしかないと考え、7t(トン)のクレーン車を購入し ました。朝5時起きでジープに乗って、道路をパトロール。そうすると、田んぼや谷底に事故で落ちてしまった自動車があるんですよ。すぐにオーナーを突き止 めて、「放置したままだと、タイヤやラジオが盗まれます。うちで引き上げて修理しますよ。保険会社との交渉もお任せを」と営業するのです。このサービスが 大当たり。
その後、事故車発見の効率を高めるために、タクシー会社と提携。事故車を見つけて無線で連絡してくれれば、売り上げの10%をマージンとして渡しますと。
すると、受け切れないくらいの仕事が殺到して、事業規模も拡大したのです。その後、自動車修理だけではなく重機で土木工事建設関係も請け負う羽鳥 総業を、義理の兄と立ち上げたのです。スタッフ約50名、クレーンも35t級を含め、40台を超えるほどに成長。クレーンの利用は、深夜から朝方が多いで すから、昼間は建築関連会社にレンタルしていました。当時、東北で最大級の重機会社になることができました。
しかし、1975年の7月、とんでもない事件に巻き込まれるのです。買収した同業会社が、手形を持ったまま夜逃げしてしまった。引き受けるはず だったクレーン車など営業資源はほかに転売され、残ったのは多額の債務のみ。羽鳥総業の保証人は父。会社の倒産は仕方ないとして、実家からも店舗からも金 目のものは債権回収会社にすべて持っていかれてしまった……。おまけに義理の兄は海外へ逃亡……。残された姉に子どもたち、私にも妻と子どもがいましたか ら、両親を含め一族11人がいきなり貧乏生活に突入です。
負債総額は当時の額で3億円以上。もう気が遠くなるような金額です。母親の生命保険を解約したお金でなんとか食いつなぎながら、私は不退転の決意 で、その年の10月に中古車販売会社を立ち上げます。東北最大級の会社を経営していたという安っぽいプライドがじゃまをして、なかなか頭を下げられない自 分。しかし、あるきっかけから私の遺伝子がオンになり、このビジネスは上向いていくのです。
<どん底から反撃の狼煙>
神様からの一言で遺伝子がオン! 毎月50台の中古車を売りまくる
羽鳥という名前はもう使えませんから、東京への憧れもあり、社名は東京マイカー販売としました。姉や妹などから、数千円ずつのカンパを受けて、1台 1万円というボロボロの中古車を購入。これが商材です。看板は出世払いで業者にお願いしてビジネスをスタート。しかし、どうしても知人や以前の取引先に営 業に行けない。安っぽいプライドがじゃまをして。そんな時、あるチンピラ風のお客が店舗にやってきて、こう言った。「羽鳥って、夜逃げしやがったんだよ な」。こんなやつに羽鳥家の悪口を言われるという屈辱。私はまがりなりにも、羽鳥家の長男坊。全身に鳥肌が立ったのを今でも覚えています。そこからです ね、もうプライドは捨てた、絶対に復活してやると。今思えば、あのチンピラ風のお客が、私の遺伝子をオンにしてくれた神様だったのかもしれないですね。
車も自転車もないですから、背中に手書きの社名を書いたツナギを着て、歩いて知人や過去の取引先を回りました。「車を買ってほしい」「車はあるか ら要らないよ」「いや、それはわかっている。お願いにしに来てるんだよ」と、もうめちゃくちゃな理屈(苦笑)。さらに粘りに粘って「真っ赤のぴかぴかにし て納車するから」「いや、田舎町だし赤はいやだ」「じゃあ、黄色はどうだ?」「派手だよ」「じゃあ、シックなシルバーにしよう。あとは任せとけ」という具 合(笑)。必要、不要はどうでもよくて、何色ならという話に持っていって、納得させるという戦略です。
仕入れ、販売、納車、クレーム対応、顧客の銀行融資の取りまとめまで、最初の1年間はすべて私ひとりでこなしました。もちろん、協力してくれる業 者などのパートナーはたくさんいましたけど。通常、自動車ディーラーの営業は月に3~5台売ればいいほうです。車業界に詳しい人ほど信じてくれないのです が、私は月間平均で50台販売していたんですよ。単純計算で、年間約600台。毎日深夜2時までは確実に仕事、1日3時間寝られれば問題なしという毎日で したね。毎月1500万円ほどの利益を上げ続け、3年間で3億円以上あった債務はすべて完済。おまけにビッグ自販という大型中古車展示場を、3店舗まで広 げることができたのです。
中古車市場の不透明性を解消するために、再び遺伝子をオンに。54歳からの挑戦!
<ガリバーインターナショナル創業>
中古車市場への不満、そして生まれた志。買取専門店を立ち上げた理由
中古車販売事業を始めてみてわかったことがあります。それは、中古車販売業界のイメージの悪さ。同じ車を売っている新車ディーラーは良くて、中古車 販売業者はうさんくさいと思われている。確かに、中古車販売事業者の多くが、展示場に車を並べて販売します。例えば200台の車を展示して、1月で60台 売れれば御の字。そうすると、残りの140台の価値は時が経つにつれ目減りしていく。そういった意味では、車を購入いただいたお客さま方や中古車を売りた いお客さまが、残った車の目減り分を負担せざるを得ないという構図になってしまう。
販売業者にとっても、仕方がないといえば仕方がないのかもしれない。しかし、私はユーザーから不透明と思われている、中古車販売業界を何とかした かった。1985年に、福島県で買取専門店を立ち上げました。お客さまから直接買い取って、オークション会場でセリにかけてみたのですが、なかなか売れな い。このタイミングでは時期尚早と、いったん休眠させましたが、私は必ず一般消費者にとって公正かつ透明な中古車流通の仕組みをつくることをあきらめませ んでした。
その後、全国のオークション会場に直接出向き傾向とデータを調べ、分析を続けました。その間にも、中古車流通市場はどんどん伸び続けていきます。そして1994年4月、それまで積み上げた独自のノウハウをもって、再度、買取専門店を福島県の郡山市に立ち上げたのです。
<命を賭した、挑戦の幕開け>
一般消費者であるカーユーザーが安心して中古車売買ができる世界をつくるために
事業が順調に立ち上がり始めた頃、青森県・弘前市のリンゴ園オーナーから、買取専門事業を始めたいという相談を受けました。自分が買った中古車と同 じレベルの商品が、当社では40万円も安かったのが発端とのこと。福島から600kmも離れた弘前で事業を成功させることができれば、後々の全国展開もス ムーズになると決断。初の加盟店さんとなる弘前の買取専門店を軌道に乗せ、1994年10月に、ガリバーインターナショナルを設立。当時の拠点、富田店 は、私とスタッフひとり。商談ルームの壁を目立つようにと派手な黄色で塗って、裏手にあるオフィスの壁には、「1999年12月31日までに全国500店 舗達成」「グループ年商2500億円達成」と書かれた張り紙を張って、毎朝ふたりで唱和し続けましたよ(笑)。命を賭けてもやり遂げる。そんな覚悟がみな ぎっていました。
そして1995年8月、私たちは東京への進出を始めるのです。ここからが、私の流通革命の始まりです。北は北海道、南は沖縄まで、500店舗の拠点をつくることを目標とし、私の遺伝子は再びオンに入りました。
ガリバーのビジネスモデルは、本部で集中管理したシステムで正確に評価するため、中古車販売店オーナーの主観的評価はいっさいなく、査定価格にぶ れがないことが最大の強み。そんな私たちのビジネスモデルが、船井総研さんやベンチャーリンクさんなどから高く評価いただき、店舗数はどんどん増えていく ことになります。
1998年12月、ガリバーインターナショナルは店頭公開。そして、通信衛星を活用した画像による車販売システム「ドルフィネット」の運用を開 始。店舗で買い取った中古車は、オークションに出品するまでの数日間、実質的な在庫となります。これらの在庫をデータベースに登録し、ネットワーク化する ことで仮想販売展示場をつくり出すというわけです。そうすれば、全国どこからでも一般消費者が欲しい車を検索し、購入できますから。開始当初は、そんなも のうまくいくわけがないと言われました。しかし、今では無店舗で年間約4万台を販売しているのです。そして現在、「ドルフィネット」端末は、全国約2万カ 所に設置されています。
私たちの展示場は、例えば東名高速だと言えますね(笑)。買い取った中古車を基本的にはオークション会場まで陸送しますが、その間に「ドルフィ ネット」をご覧になった業者や一般消費者の方からオーダーが入れば、本部から輸送車に連絡を入れ、そのままオーダーされた方の元へお届けするという仕組み です。店舗数を増やすことも、「ドルフィネット」をスタートさせたのも、すべては一般消費者であるカーユーザーが安心して中古車の売買ができる世界をつく りたかったから。その一点において努力をし続けたからこそ、今があるのだと思っています。
<未来へガリバーインターナショナルが目指すもの>
事業の継続的拡大、そして海外への挑戦。2011年までに社員平均給与1000万円に
ガリバーインターナショナル創業当初に打ち立てた、5年後に500店舗の目標を1999年にクリアし、現在は店舗数の増加よりも、小さめの店舗の事 業拡大に注力しています。そして、会社として2000年12月に東証2部市場に上場、2003年8月には東証1部市場に上場。そして、現在の当社取り扱い 台数は約28万台ですが、2011年までに50万台、最終的には100万台を取り扱うことが当面の目標ですね。また、買取事業だけにとどまらず、販売事 業、オークション事業に加え、輸送事業や金融事業などの子会社も設立し、「クルマのこと」に関する幅広い取り組みに挑戦し続けています。
日本国内には約7900万台の車が走っていますが、アメリカは2億台といわれています。当然、目指すは世界市場ですから、その先鞭として、 2004年11月からアメリカへの進出を始めました。ロスアンジェルス、サンフランシスコはすでに日本並みの業績を上げており、今年度内にニューヨーク拠 点も立ち上げる計画です。そして、フランチャイズシステムを活用しながら、1000店舗への挑戦を始めます。その後は、中国、インドなどの新興国への進出 も計画していますが、まだまだ規制が多いですから。アメリカでの目標が達成した頃には、その規制も緩和され、一気に攻めることができると予想しています。
これらは事業としての目標。あともうひとつは、社員の生活を豊かにすることです。2006年の2月、東京本社を丸の内の東京ビルディングに移転し ました。2フロアを借りたのですが、中央にどうしても大理石の階段をつくりたかったんです。もう設計は終わっていましたが、ビルオーナーがその願いを聞き 届けてくれまして、実現。社員たちにかっこよく仕事してもらいたかったんですよ。颯爽とね(笑)。あとはその昔、池田隼人首相が「所得倍増計画」を発表 し、7年間で達成にこぎつけました。当社はたかが社員数2000人の会社です。できないわけはないですよ。だから2011年までに、社員の平均年収を 1000万円にもっていこうとみんなにはっぱをかけています。給料はもらうものではなくて、自ら勝ち取るものだと(笑)。それが実現できる日が、今から待 ち遠しいですね。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
強い夢を持って、命がけでその夢を育てること。そこに感謝の念があるなら、夢は必ず叶います
夢やゴール、起業は継続が大前提ですから通過点でもいいのですが、明確なイメージは持っていますか。起業とは命を賭した、自分との戦いの連続です。 あなたが思い描くそのイメージを実現するために、命をかける覚悟がないなら、起業するべきではありません。私は、この事業をかたちにするために、一瞬一瞬 を大切に、そして命がけで挑戦し続けていますから。もうひとつ、強い夢は必ず実現するということもお伝えしておきたいです。
私は現在67歳ですが、2年前、ロサンジェルスからニューヨークのセントラルパークまでの4300kmを119日間かけて走破するという挑戦を成 し遂げました。過去、3000人以上がトライして、28名しか成功していいないという、いわば荒行ですね(笑)。私の成功が最高齢だと聞いています。毎日 毎日43km走り続けるわけですから、本当に大変です。ロッキー山脈は標高3600m。サポートスタッフのスクーターも点火できず走れなくなる中を黙々と 走り続ける。カンザスを過ぎ、1500kmを超えた辺りから、もう、頑張るという感覚ではなくなるんですよ。その後は、すべて感謝。砂利道でも、この道を つくってくれた人に感謝。雨が降っても、暑い日でも、自分が走らせてもらうことに感謝。感謝の気持ちだけが、自分を前に進めてくれたのです。
仕事も全く同じこと。周囲への感謝の念なくしては、続けられるわけがありません。そして、命を賭けて成し遂げるという思い。やけどするくらいなら 止めておこうなんて考えでは、何事もうまくいかないのです。もうひとつは強いイメージ。ゴールするニューヨークのレストランで真っ白のタキシードを着て、 お祝いの食事会をすることを決めていました(笑)。
繰り返しになりますが、強い夢を持って、命がけでその夢を育てること。そして日々、感謝の念を忘れなければ、夢は必ず叶います。応援者が必ず現れ ますから。今の私個人的な夢ですか? 1年半かけて1万9000km、ロンドンからユーラシア大陸を経由して、東京までを走破することです。70歳でもま だまだ元気に生きられることを実証したい。そもそも私は最低でも120歳まで生きるつもりですから(笑)。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康