- 目次 -
第47回
株式会社フォトクリエイト代表取締役
白砂 晃 Akira Shiramasa
1974年、広島県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。中学から私立桐朋学園に進学し、ラグビーと出合う。中学時代は負け知らず、高校ではキャプテンを 務め、東京都大会ベスト16の成績を残す。一浪後、早稲田大学へ。ラグビー部へは入部せず、モラトリアムの生活に突入する。ある会社員からのアドバイス で、手に職をつけようと文化服装学院とのダブルスクールを開始するも、わかったことは「俺はデザイナーに向いていない」。卒業後、分割直前のNTTに就 職。インターネットの世界を知る。入社年度の2月で退職し、サイバーエージェントに転職。メディアバイイングなどで力を発揮し、同社の業績向上に貢献。そ の後、子会社であるCAモバイルへ出向。アメリカから帰国した友人から、現在の事業モデルのヒントを得る。会社から引き止められるも「チャンスを目の前に 引き下がれない」と、起業を決意。2002年1月、フォトクリエイトを設立した。
ライフスタイル
好きな食べ物
激辛なものですかね。
辛いものが好きですね。陳麻婆豆腐とか、社員がびっくりするくらい山椒を振って、ピリピリにして食べますから。お酒はですね、種類も量も際限なくいけちゃうほうです。中でも日本酒が好きです。最近は、おいしくお酒を飲むために、酒量を控えています(笑)。
趣味
たくさんありすぎて。
3歳からピアノを習い始め、バッハの30番までいきました。ラガーマンがピアノを弾ける。そのギャップがかっこいいじゃないですか。最近またジャズピアノ に挑戦しています。あとは、マラソンでしょう、ビーチフット、お神輿担ぎ、バイク(愛車はハーレーダビッドソン)、海釣りと多趣味ですね。
休日
子どもに教育しています
子どもに教育しています。 創業時よりは休めるようになりました。6歳の息子がやっと人間らしくなったので、お金に関する話をしたり、物事を教えることが楽しいですね。「お金ってな んだ?」「なんでコインより紙幣のほうが買える物が多いのか?」とかやってます。ちなみに、娘は4歳。ふたりとも、ありえないくらい可愛いです。
行ってみたい場所
なんとなくスピリチャルな場所。
その昔、精神世界に詳しい方と仲良くさせてもらってたんです。それもあって、スピリチャルな場所に行ってみたい。屋久島とかインドとか。あと、それとは関係ないですが、上海。やっぱり一度は行って、ビジネスシーンや街の活気に触れてみたいですね。
「感動をカタチにしてすべての人へ」。人生のドラマを切り取ってお届けしています
各種スポーツ、社交ダンス、お祭りなど、さまざまなイベント主催者と提携し、参加者の「最高の笑顔」「人生における大切な一瞬」をプロのフォトグラファーが撮 影。「感動をカタチにしてすべての人へ」という企業理念のもと、私たちがこれまで手にできなかった貴重な写真を届けてくれる会社がある。2002年1月に 設立され、当該サービスを開始したフォトクリエイト。今では年間5000件を超えるイベントにプロのフォトグラファーを派遣し、提供する写真も2000万 カットを超えている。この会社を起業した男が、白砂晃氏。もちろんここまでの道のりは、平坦なものではなかった。人と出会い、失敗を学び、果敢に挑戦しな がら、成長を遂げてきた。事業モデルはもちろん、白砂氏の挑戦の軌跡は世の中から注目され、優れた起業家を表彰する「第1回 DREAM GATE AWARD 2007」を受賞、「EOY JAPAN 2007」のセミファイナリストにも選出された。今回は、そんな白砂氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートま で大いに語っていただいた。
<白砂 晃をつくったルーツ1>
ワルっぽくて、かっこいい!ラグビーを始めたきっかけ!
産声を上げてから、3歳までは広島県で育ちました。家族構成は、海外仕事の多いプラント関連企業に勤務する父と母。一人っ子なんですよ。広島にいた 頃の思い出といえば、階段から転げ落ちて前歯を4本折ったことくらいですね(笑)。その後、埼玉県に引っ越して、小学校3年からはずっと東京です。小学校 時代は普通の腕白少年だったんじゃないですか。友だちとつるんで、川原で秘密基地つくったり、あとは、地区の野球チームに入って野球に熱中したり。なぜか リーダーに祭り上げられるタイプだったと思います。
小学生の頃って、友だちが公文やソロバンを習ってると、自分もその輪に入りたくなりますよね。それで小学5年生の時、両親に「自分も通いたい」と 頼んだら、なぜかいつもと違って快諾。「申し込んできたから」って言われて行ってみたら、そこは中学受験のための進学塾だった。まあ、だまされたんですよ (笑)。でも、勉強、知らないことを学ぶことは好きだったので、楽しく通いました。その甲斐あって、中学からは東京・国立市にある私立桐朋学園に進学した んです。ちなみに、ここは男子校ですね。
中学では部活を一所懸命やりたいと思いまして、いろいろなクラブを見学しました。ラグビー部の練習を見ていたら、グラウンドで円陣を組 んでいて、その真ん中に座っている人が、なんとタバコを吸ってるんですよ。「なんだこれは! ワルっぽくてかっこいい」と。それで、ラグビー部に入部する ことを決めたんですが、なんのことはない、タバコを吸ってた本人は大人のコーチだったんですよね(笑)。まあ、きっかけはそんな感じですが、高校3年まで 私はラグビーを続けることになるんです。
練習も必死でやりました。ラグビーは役割分担が明確なスポーツです。私は主に3列目のフォワードだったのですが、走力と持久力を高めようと、自主 朝練では常に自分でメニューを考えて走りまくっていました。試合後半になっても100%の力が維持できるように。おかげで、恒例の山中湖合宿のランニング 競走も、1年生の時から誰にも負けませんでした。3年が卒業した後にはレギュラーポジションを獲得し、自分が3年生の時は負け知らず。最後の関東大会は、 同スコア引き分けで、抽選(じゃんけん)で負けたんですけど。
<白砂 晃をつくったルーツ2>
高校時代もラグビー漬けの日々。プレイングマネジャーとして活躍
高校時代も、ラグビー漬けの生活です。私はラガーマンなので、夏の授業はラグビーのトランクス一丁、上半身裸で受けてましたよ。で、教室に掛かって いるカーテンは私のタオル代わり。だから、クラスメートは窓際の席を嫌っていましたね。そりゃあそうです。メチャクチャ汗臭いですから(笑)。先生からは 「白砂、お前は服を持っていないのか?」と指摘されて、「先生、この服は頭の悪い人には見えないんですよ」と返したり。とても開けた校風の学校だったんで す。
高校のラグビー部は、監督もコーチもいなくて、選手たちの自主運営なんです。最後のシーズン、私はキャプテンを務めましたから、練習メニューを調整した り、日本代表選手を招待してコーチしてもらったり、スペースのつくりかたなど戦術を考えたり、プレイングマネジャーの役割も担いました。当時は、シンキン グラグビーがはやり始めた頃で、自分で本を読むなどしてラグビーについていろいろ勉強しましたよね。ちなみに最後の大会は、東京都のベスト16でした。
中学から高校までラグビーを続けると、成績はドベクラスになるって言われていましたが、私は中学では常に上位、高校でも350人中50番以内には入っていました。さっきも言いましたが、勉強は好きなんですよね。知らないことを減らすことができますから。
あと、中高の6年間、私は皆勤賞です。1日も休まなかった。高校の近くにある一橋大学で、ボクシングの具志堅用高さんと、スケートの伊藤 みどりさんの講演があって、授業を抜け出して聞きに行ったんですよ。1時限だけですが授業をサボったので本当は皆勤賞ではないんですが、当時の先生が「白 砂はあの時授業受けてたよ」となぜだか言ってくれて?? それで皆勤賞。ありがたい話です。なぜその講演会を聞きに行きたかったというと、伊藤みどりさん と一緒に写真を撮りたかっただけなんですけどね(笑)。
<早稲田大学政治経済学部へ入学>
手に職をつけるため、文化服装学院へ。ダブルスクールから学んだこととは?
大学でも日本一を目指してラグビーを続けるつもりでした。だから現役では、早慶の2学部づつしか受験しなかったんです。落ちましたね、あっさり。そ れで予備校に通いながら浪人することに。世界史の授業で、ある先生がこんな話をしてくれたんです。「歴史があるから今がある。世界はすべてつながってい る」と。それまで暗記は勉強じゃないと思っていたのですが、そういう考え方もあるのかと。歴史を学ぶことが楽しくなりました。あと、小論文の先生からは 「本を読むことは、自己解体の連続である」と教えられ、いろいろ自分のことを考えるようになりました。
高校時代、日本代表選手を数人擁しているラグビーの強豪校があって、対戦した時に、その高校のキャプテンとぶつかったら、巨大な鉄柱のような感覚 でした。彼らは花園には出場しましたが、優勝には至らなかった。上には上がいるわけです。そう考えると、果たして俺はラグビーで日本一になれるのかと。そ んな疑問が浮かんできた。根拠のない自信はありましたが、ラグビーだけの人生でいいのだろうかと。そうして、大学で自分の別の可能性を試すのも悪くないと 思えるようになったのです。そして、私は早稲田大学政治経済学部に進学します。結局、ラグビー部へは入部しませんでした。2年生までは、母校の高校ラグ ビー部の指導を受け持つ程度にラグビーとはふれあってはいましたが。あとは、バイトと遊びの繰り返し。20歳になった後は、麻雀、スロット、競売にもはま りました。かなり日本の経済活動に貢献していたと思いますよ。
そんなモラトリアムな生活の中で、大手企業に勤める大人と仲良くなった。その方は、結局、社内の派閥争いに破れて閑職に追いやられ、奥 さんがやっていたビジネスを手伝うために会社を定年前に退職するんです。その方から、「白砂君、これからは手に職の時代が来る」と言われ、感化されやすい 私はデザイナーも悪くないと、文化服装学院に通うことを決意。それからはいわゆるダブルスクールです。でも、この学校に通って分かったのは、あくまでも主 観的な考えではありますが、ファッションはすべて先人の物まねであるということ。それと、服飾デザインも私には向かない世界だということでした(笑)。
<分割直前のNTTへ就職>
営業成績は常にトップ、が、満たされず。友人からの紹介で藤田晋社長と出会う
それで急遽、就職活動を開始。ある総合商社で、アラブの王様を乗せた飛行機が離陸する寸前、その前に社員が立ちはだかって離陸を阻止して、商談をま とめるというストーリーのビデオを見せられたのです。「総合商社の仕事は熱い!」と。最初は商社狙いだったんですよ。しかし、最終面接で結局落とされた。 それからは、知ってる会社ならもうどこでもいいと、あいうえお順に就職エントリーはがきの前からめくっていったんですよ。で、知っている会社数社にエント リーした中で、NTTが最初に内定を出してくれた。それで私はNTTに就職することになるんです。先輩から、「大手企業からベンチャー企業には行けるけ ど、ベンチャーから大手にはいけないぞ」なんてアドバイスもありましたし。今はそんなことないんでしょうけど。
入社当時、NTTでは社員ひとりに1台のパソコンを持たせるようになっていまして、ここで初めてインターネットに触れました。青森に配属された同 期と、チャットをすると、「雪が降ってきた!」とかリアルタイムで教えてくれるわけです。ネットってすごいなと感動したことを覚えています。しかし正直 言って、NTTでの仕事は私には物足りなかった。普通にやれば営業成績トップになれましたし。遅くとも18時には会社を退出していましたから、いろんな新 しいネットビジネスのアイデアを考えて、サイバーエージェントに勤務していた中高時代の友人に相談してたんです。そうこうしているうちに、彼が「だったら サイバーエージェントに来ないか?」と。それで藤田晋社長とお会いすることになったんですよ。
藤田社長は、ネットの将来可能性を分かりやすく説明してくれ、「確かにそれは正しい」と納得。で、その面接時に「藤田さん、明日から御社に出社さ せてもらいます」とお返事したんですよ。「でも、白砂さん、明日からは来られないと思うよ」と(笑)。そりゃそうですよね、退職手続きとかありますから。 いずれにせよ、その場でサイバーエージェントへの転職を決意したわけです。その結果、NTTは入社年度の2月に退職することになりました。
写真の背景にある一人ひとりの感動と物語。
お客さまを増やすことでハッピーは広がる!
<サイバーエージェントへ>
ネットビジネスの中にどっぷりつかり、将来の起業を模索する日々
サイバーエージェント入社後は、メディアバイイングと広告の進行を主に担当しました。十数社との取引を在任期間中に60数社まで増やし、15%程度 だった粗利率をメディアとの直接取引を推進することで28%まで高めるなど、かなりの貢献ができたと思っています。が、部下の育成をないがしろにする当時 の上司と衝突しまして、「あなたとはもうやってられない」と啖呵を切って転職活動を始めたんですよ。
そしたら、サイバーエージェント子会社のCAモバイルの社長から、「一緒にやってみないか」とお誘いいただいた。モバイルマーケットの伸びしろの 大きさはわかっていましたし、CAモバイル自体、まだまだ立ち上がったばかり。これはやりがいがありそうだと、その誘いをお受けし、CAモバイルに出向す ることに。営業、メディアバイイング、新メディアの企画推進など、私にできることはなんでもやりました。出向した2001年2月にはほとんど売り上げが 立っていませんでしたが、私が在籍していた最後の月は、月次売り上げ1億円を超えていたと思います。
入社以来、サイバーエージェントの仲間たちと、新規事業のディスカッションをよくやっていましてね。私自身もネットビジネスに限らず、フランチャ イズの仕組みなども研究していました。そんな時、アメリカから帰ってきた高校時代の同級生で、現在、弊社の取締役である田中大祐が、「プロが撮影した写真 をネットで販売するビジネスがはやっていた」と教えてくれた。「それはまだ日本にないビジネスモデルだし、やれる!」と直感したんですよ。それが2001 年の年末くらいの話。
田中からエンジェルの方も紹介され、話をすると「じゃあ100万円でやれるだけやってみれば」と。「お~、こんな世界もあるんだ!」と。その打ち 合わせをしていたのは、サイバーエージェントの会議室だったんですけど(笑)。そして、2002年1月24日に、株式会社フォトクリエイトを設立。CAモ バイルの社長からは、「軌道に乗るまで、平行しながらやればいい」と言っていただいたのですが、私はチャンスを目の前にして不完全燃焼できないタイプ。最 終的には、私の後任を社外から引っ張ってくることで、円満退社することができました。そして2002年4月より、フォトクリエイトの仕事に専念することに なるのです。
<2004年、第二創業>
食うためのビジネスを捨て去り、 フォトクリエイトの本業に専念
初年度は、現在弊社取締役の田中と小松もシステム開発の部分で協力してはくれましたが、会社員と兼任状態。イベントの写真をフォトグラファーが撮影 して、販売するというシンプルなビジネスモデルですから、簡単に立ち上がるものだと思っていたのです。が、なかなかうまく進みません。で、食っていくため に私はネット広告のコンサル仕事を始めるんですね。ノウハウがかなりたまっていましたから、いろいろお声をかけていただき、初年度はそれだけで6600万 円の売り上げが立ちました。
しかし、このままでは起業した意味がありません。結婚式にチャンスがありそうだとホテルや式場に営業をかけたり、結婚情報誌に広告を掲載したりし てみたのですが、このマーケットは既存フォトグラファーとのつながりが堅固で参入できず。そこから、さまざまな分野に営業をかけるわけですが、最初の突破口は 社交ダンスのイベントでした。それから、マラソンなど幅広いスポーツイベントからOKをいただくことが多くなり、それに伴って、登録フォトグラファーも徐 々に増えていきました。
弊社サービスの仕組みは、協賛させていただいた各種イベント開催場所で、参加者にアクセスナンバーが記入された写真販売サービスのチラシを配布。 参加者は、後日、弊社Webサイトにアクセスして、自分のほしい写真を購入できるというものです。皇居マラソンに初めて協賛させていただいた時、300枚 しかチラシを刷っていなかったんです。そしたら当日、現場に向かった田中から連絡があり「白砂、どうしよう!参加者は1000人いるよ!」と(苦笑)。そ れからは、しっかり情報収集してから準備するようにしています。
3期目を迎えるに当たって、社内で今後の方向性を考えるミーティングを持ったんです。まず、ネット広告のコンサル仕事やシステムの受託開発はいっ さい辞めて、フォトクリエイトの本業に専念することを決断。そして、「感動をカタチにしてすべての人へ」という企業理念を定めました。ここから、私たちは システムの継続的バージョンアップと、撮影機会となる提携イベントの開拓をスタート。だから、本格的に社業に集中し始めたのは2004年。いわば、第二創 業期ですね。
<未来へフォトクリエイトが目指すもの>
「フォトライフ構想」を掲げ、ひとりでも多くの方々に感動を
おかげさまで当社のサービスはさまざまなお客さまからお声かけいただけるようになり、その範囲は、社交ダンス、各種スポーツ、お祭り、スクールイベン ト、ほかさまざまなイベントへと広がっています。現在、扱っている写真点数は2000万カット超。社員数43名、契約フォトグラファー380名で、今期は約 5000件のイベントの撮影を手がけ、来期は7600件が目標。と、フォトクリエイトの事業はどんどん拡大していきますから、スタッフ、登録フォトグラ ファーの確保が急務といえます。
世のため人のためのビジネスは儲からないとよく言われます。あれは本当ですね(笑)。シンプルなビジネスモデルのように見えますが、2000万枚 の中からひとり1枚の写真を購入できる仕組みはなかなか真似できません。すぐにシステムをブラッシュアップできるよう、外部に委託せず、自社内に開発ス タッフを抱えていることも当社の強み。これは変化の激しいネットビジネスで勝ち続けるための鉄則ともいえるでしょう。だからこの事業の参入後障壁はものす ごく高いんですよ。
今年の10月、社内にマーケティング本部を設けました。今、世の中には悲しいニュースが多いでしょう。でも、それ以上にハッピーな出来事がいくら だってある。ある日気づいたんです、弊社の写真がその証拠じゃないかと。何万人ものイベント参加者の人生の一瞬を切り取った写真は、すべて将来の自分への メッセージ。その一枚一枚にドラマがあって、頑張ってきた思い、感動の物語が隠されています。写真を購入いただいたお客さまにアンケートをお願いしてい て、その中にとてもいいお話がある。マーケティング本部ではそんなお客さまに電話取材を行い、記事としてメルマガとブログで配信しています。主にインター ンの学生にこの仕事をお願いしていますが、弊社の仕事を深く理解してもらえるというメリットもあるんですよ。
私たちは「フォトライフ構想」を掲げています。「感動をカタチにしてすべての人へ」、その一人ひとりと一生お付き合いさせていただきたい。その実 現のために、人生の節目節目となるシーンをプロのフォトグラファーが撮影して、Webアルバムとして当社が管理していくというものです。それもあって今、 教育マーケットの開拓に力を注いでいます。一生のお付き合いですから、当社を長く確実に継続させていかないと。これからも頑張って、ひとりでも多くの方々 に感動を届けていきます。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
迷っているくらいなら、まず行動。そうすれば足りないことが見えてくる
やるかやらないか迷っているくらいなら、まずやってみてから考えればいいと思います。失敗を怖がる人もいるのでしょうが、失敗もある意味勉強です。 チャレンジして学び続ければ、必ずその失敗を超えることができるんですよ。私は今、グロービスという教育機関に入学し、ベンチャービジネスの競争戦略を学 んでいます。学び続けることで、新たに実践できる場が見つかって、さらなるチャレンジができるわけです。企業経営は、人よりも組織、組織よりも会社の成長 が早いと言われています。また、企業は経営者以上の存在にはなりえないとも。だから、経営者である自分自身が学び続ける必要があるのです。
趣味のひとつとしてジョギングがあるのですが、私は走っている時でも学んでいますからね(笑)。今はまっているのは、P.F.ドラッカーの論文で す。この音声データをMP3プレーヤーで聴くんですよ。ちなみに倍速で聴くことをお勧めします。繰り返し聴くことも重要で、どんどん気づくポイントが変 わっていくんです。それを自分への壁に例えれば、それは超えるべき問題です。学び続ければ、どんどん成長していけるのです。あと、毎月4冊のビジネス書を 厳選して、その要約音声データを届けてくれる、『月刊トークス』も利用しています。
起業の相談をたまに受けますが、「何か始めたの?」「いえ、まだです」という人が多い。やはり、何も行動していない人にはアドバイスのしようがな いですね。まず初めに事業モデルがあり、次に市場の獲得とオペレーション、そしてマネジメント、企業文化の創出と、会社が成長していくセオリー自体は変わ らないと思います。せめてどの段階で不安や悩みがあるかくらいは自分自身で理解しておくべきです。最初にもいいましたが、頭でっかちにならず、まずはがむ しゃらになって突っ込んでみる。例え失敗したとしても、それを勉強機会ととらえ、挑戦し続ければいい。負けたと思わなければ、いつか必ず成功にたどり着く ことができますから。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓