第41回 株式会社リヴァンプ 玉塚元一

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第41回
株式会社リヴァンプ 代表パートナー
玉塚元一 Genichi Tamatsuka

1962年、東京都生まれ。慶応義塾大学法学部卒業。中学生からラグビーを始め、大学では3年次からレギュラーの座に。ポジションは一貫してフランカー だった。大学4年次の大学選手権で準優勝している。卒業後は、旭硝子に入社。2年間のシンガポール赴任の後、会社の制度を使ってアメリカに留学。ケース ウェスタンリザーブ大学経営学修士課程、サンダーバード大学国際経営大学院国際経営学修士課程を修了。MBAを取得した。1998年8月、日本IBMに転 職。同年12月、ファーストリテイリングに転職。マーケティング、海外事業などに従事。1999年11月、同社取締役に就任。2000年9月、常務取締 役、2002年6月、取締役副社長、同年11月には取締役社長に抜擢される。ユニクロがイギリスに出店した際の現地法人社長も務めている。ユニクロの急成 長および業績回復に貢献したが、2005年8月、同社社長を辞任し、退職。同年10月、ファーストリテイリングの同僚だった澤田貴司氏とともに、リヴァン プを設立。代表パートナーに就任した。

ライフスタイル

好きな食べ物

肉と野菜をもりもり!
一番は肉ですね。特にステーキ。4泊くらいでアメリカ出張に行くと、毎晩、でっかいTボーンステーキを食べてます。私は毎日でも平気なのですが、同行して いたスタッフは嫌がるんですよね(笑)。あとは、野菜。大きなボウルに生野菜を山盛りにして、がんがん食べます。お酒もけっこう飲みますよ。ワインと焼酎 が好きですね。

趣味

トライアスロンです。 
始めてから4年目になります。週に2回ほどジムに通っていますが、それもトライアスロンのためですね。毎年11月、ロタ島で大会がありまして、青山フラワーマーケット井上英明社長・ワークスアプリケーションズの牧野正幸社長とか、起業家仲間と一緒に参加しています。

休日

休みは子どもと一緒に。
週末に休める日は、家族と過ごす時間にあてるようにしています。うちは、8歳の長女、5歳の次女、0歳の長男と、3人の子どもがいるんです。妻に代わって長男にミルクをあげたり、最近、家事というか子育ても得意になってきましたね(笑)。

行ってみたい場所

アメリカの西海岸と東海岸。
国内も面白い場所はたくさんありますが、やはり定期的にアメリカの西海岸と東海岸に行きたいです。アメリカはリテールビジネスの本場でしょう。最先端のコ ンセプトや、廃れていくものなど、その栄枯盛衰をリアルに把握できますからね。あと、最近注目しているのはブラジルです。時間があれば行ってみたい国ですね。

自社、クライアントともに逃げ場のない状況をつくり、
プロ同士、真剣勝負で企業再生に挑み続ける!

 ロッテとの業務提携による「ロッテリア」の再生。新宿南口で行列の絶えない人気ドーナツショップ「クリスピー・クリーム・ドーナツ」、日本再上陸を果たした「バーガーキング」の立ち上げ。これらのビジネスに、玉塚元一氏率いる「リヴァンプ」が出資を行ったうえで、経営支援策を提案し、実施している。玉塚氏は、旭硝子勤務時代に留学したアメリカで、「将来、日本の経営人材が枯渇する時代が来る」と確信したという。その後、ファーストリテイリングでリテールビジネスと、柳井正氏直伝の経営哲学を学び、独立。会社を芯から元気にするためのプロフェッショナルファーム「リヴァンプ」を立ち上げた。現在、約60人のプロ経営人材が「リヴァンプ」に集い、日夜、さまざまなクライアント企業の業績アップ、社内のモチベーションアップのために走り続けている。10年前、玉塚氏がアメリカで確信した日本の将来リスクを解消するための挑戦=起業といえよう。今回は、そんな玉塚氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<玉塚元一をつくったルーツ.1>
少年時代は消極的な少年だった。ラグビーとの出合いが自分を変えた

 東京で生まれまして、家族構成は、両親と4歳下の妹と私の4人。私の祖祖父は、両替商を立ち上げ、その事業を母体に証券会社をつくった人でした。しかし父の代になって、昭和40年代の証券不況が原因で、その証券会社は他社に吸収合併されてしまいます。なぜ会社を守れなかったのだろう、将来もしも自分が経営者になるなら、絶対にそんな目に遭わないよう強くなりたい。当時、私はまだ小学生でしたが、そんな思いを持ったことを覚えています。

  小学校の頃の私は、消極的な性格で、ケンカも弱いし、足も遅い、全くイケてない子どもだったと思います。剣道だけは続けていたんですが。でも、強くなりたいという、反骨精神というのでしょうか、今の自分を何とかしなくてはという思いはいつも抱いていました。それで、中学に進学してからラグビーを始めるんですね。学内の部活動の中で一番きついスポーツは何かと探したら、それがラグビーだったと。

 大学を卒業するまでラグビーは続けました。相変わらず足はそれほど速くなかったですし、正直、テクニックがあるわけでもなかったと思います。しかし、弱音をはくとか、途中でギブアップするとか、途中で投げ出すことを絶対に自分に許しませんでした。あきらめの悪さとでもいうのでしょうか、それだけは自信がありましたね(笑)。その甲斐あって、大学3年の秋からフランカーとしてレギュラーになり、4年の大学選手権では準優勝することができました。

 大学の夏合宿はものすごいんですよ。夏休み期間中の22日間ずっと、山中湖のグラウンドで練習するんですが、朝は6時起床、9時から11時半まで午前中の練習で、昼は2時から夕方の7時まで。毎日ぶっ続けでやるわけです。部員が130人ほどいたと思いますが、ラグビーのレギュラーは15人でしょう。当時はまだ旧近代的な練習がまかりとおっていて、炎天下の中、水も飲めない、うさぎ跳びもやる。最後まで倒れずに動けたやつがレギュラーに選ばれるんですね。あきらめの悪い僕は、最後まで残ったと(笑)。

<玉塚元一をつくったルーツ.2>
ラグビーに適切なピリオドを打つために、OBの少ない旭硝子への就職を決意

 ラグビーをやってきて良かったと思えることはたくさんあります。実際の試合になると体力的にも精神的にも極限状態に追い込まれるんです。そんな中でハイパントを上げて、自分よりも体が大きな選手を倒すためにタックルで突っ込んでいく。何というか、目標を定めて巨象を倒すような。ラグビー経験者は、みんなそんな強烈な体験をしてきたわけです。また、ラグビーは国際的なスポーツですから、私が仕事でシンガポールやイギリスに赴任していた際も、ラグビー経験者と出会う機会が多かった。そうすると、「お前も膝小僧を擦りむいて、脳震盪起こしながら、楕円のボールを追っかけてたのか。よし、俺の仲間だ」とか、急に親しみを持ってもらえる。ビジネスの場でも打ち解けるのがやはり早いんですよ。

 当時の慶応ラグ ビー部の卒業生は、OBが入社した会社に引っ張られるケースが多かったんです。そして実業団でラグビーを続けていく。しかし私は、社会人になったらテニスやヨットとか、やりたかったんですよ(笑)。半分冗談ですが、要は就職を機に、ラグビーに適切なピリオドを打ちたかった。ある意味、達成感もありましたし。さまざまな先輩に相談してみると、これからのビジネスパーソンは国際派でなければいけない、日本のメーカーは海外拠点で働けるチャンスが多そうだということがわかりました。そして、私はOBがたくさん在籍している商社や金融ではなく、メーカーの旭硝子にお世話になることに。

 入社前から国際性のある仕事をしたいと考えていましたが、最初に配属されたのは、千葉県市原市にある工場。最初は、正直気が進まなかったですね。作業服を着て、安全靴を履いて。でも、すぐに製造現場の優秀さが日本の経済成長を支えてきたということが。2年間の工場勤務で、生産、在庫管理、配送と、複雑な工程とルートをたどって、生産者からユーザーに製品が届けられるものづくりの基本を学ぶことができました。現場のオヤジのような方々にもずいぶんかわいがってもらいましたし。振り返って思えば、新人を最初に工場に配属するのは、人間教育の意味も大きかったんでしょうね。

<自分を成長させたきっかけ>
シンガポール赴任で徒手空拳の挑戦。人に助けられながら業績拡大に成功

  旭硝子勤務時代、もっとも大きな転機となったのが海外駐在でした。ビジネスパーソンとして、英語と財務会計とコンピュータの知識をフル装備したいと思っていましてね。一番難易度の高そうな英語は、昼休みを使って英会話教室に通うんですが、ちっともうまくならない。それもあって、「とにかく海外に行かせてほし い、駐在させてください、どこでもいいですから」と、ずっと言い続けてたんですよ(笑)。そしたら、ある個性的な役員の方が、「じゃあ、行ってこい。シンガポールだ」と。入社4年目にようやく辞令が下りまして、晴れてシンガポールに赴任できることになったのです。

 駐在期間は4年間でしたが、本当に得がたい体験の連続でした。当時のシンガポール支店は年商が8億から10億円くらい。赴任当初は僕がトップで、あとは数人の現地スタッフのみ。1年目は玉砕でした。シンガポール特有の英語がうまく理解できなくて。しかしその後、ちょうど1985年のプラザ合意による円高が始まって、日本の製造業が工場をアジアにシフトし始めます。現地にできた生産工場にプラスティックなどケミカル原料を納入するために、物流拠点をつくり、ジョイントベンチャーを立ち上げ、ビジネスの規模も大きく成長したと思います。

 私の役割は、本社の注目をシンガポールに向けさせ、売り上げを伸ばしていくことでした。その点ではミッションコンプリートです。しかし、私にとってその結果より、いろいろな人に教えてもらいつつ、リーダーとしての経験を積めたことのほうが大きかったですね。国籍の違う方々とさまざまなことを考え、リサーチしながら施策を実施していく。それがとてもエキサイティングでした。赴任当時、私は27歳の若造でしたから、常識にとらわれずに突っ込んでいけたのが良かったのでしょう。

 ただ、足りない部分も見えてきた。投資や融資、キャッシュフローの管理など、財務に関する仕事が苦手で。旭硝子には留学制度がありましてね。上司の許可をもらいチャレンジすることになったんです。シンガポールから帰国して約2年は、仕事をしながら留学のための勉強に没頭しました。学生時代はラグビーばかりでしたから、徹底的に勉強する時期を持ちたいという思いもありました。

<留学したアメリカから見た日本>
経営者としての自分を磨くために、ファーストリテイリングに転職

 そして、アメリカの大学院で専門的に学ぶ機会を得た私は、経営学を貪欲に勉強しました。普通の人が1学期で4科目取るところを、私は5科目あるいは6科目取りましたから。もうひとつ良かったのは、外から客観的に日本の会社を見ることができたことです。経営者が年功序列で選ばれること、企業同士の株式持合いなど、株式会社のシステムが非常に遅れているというか、ゆがんでいる。ステークホルダーを大切にして、企業価値を上げることに純粋に向き合っていないと感じました。このままではいずれ年金であるとか、ファンドであるとか、外国資本がどんどん入ってきて、強烈なプレッシャーをかけられるはずです。そうなった時に、株主の期待にしっかり応えることができる、プロの経営人材が枯渇するだろうと。

 帰国して旭硝子の中で20年かけて経営者を目指す道と、自らを荒波の中に放り込んで、経営者としての資質を鍛えていく道の2つの選択肢を検討しました。この時は本当に悩みました。そして、辞めるという決断をしたタイミングで、私をかわいがってくれていた石津進也さんが、社長に昇進。会社員としてはすごく追い風になると思いましたが、すごく辞めづらくなりました。「俺が社長になった瞬間に辞めるのか」となりかねませんから。しかし、決断した以上、前に進むしかありません。上司を説得し、退職を許可していただきました。

 旭硝子を退職した私は、縁あって、いったん日本IBMに入社します。この会社には、英語と財務会計とコンピュータという経営に必須な3つが揃っていましたから。あと、お世話になった旭硝子に留学費用をお返ししなければなりませんし。日本IBMではコンサルティング業務を担当していましたが、その3社目のクライアントがユニクロの経営母体であるファーストリテイリングでした。そして、柳井正さんと澤田貴司さんにお会いし、私はファーストリテイリングに入社することになるのです。

将来的に108人のプロ経営人材を集めたい。
リヴァンプは企業再生を志す梁山泊となる!

<カリスマ経営者、柳井正氏との7年間>
強烈なリーダーシップの必要性。それを現場に噛み砕いて落とす重要性

 1998年12月に、ファーストリテイリングに入社しましたが、当時は、今ほどは知られていない頃でした。柳井さんにお会いした時に、「君は将来どうなりたい?」と聞かれたので、正直に、「いつか起業するか、企業から必要とされる経営人材になりたい」と答えました。すると柳井さんは、「コンサルティングの論理思考も大事だが、実際に自己責任で意思決定をし、計画を立てて実行を繰り返していかないと、本物の経営者にはなれない」と。口説かれたというよりも、叱られたんですよね(笑)。ファーストリテイリングという会社のことを調べてみると、確かに素晴らしい仕組みなんです。それに、「日本発、世界一のカジュアルウエアカンパニーをつくりたい」という柳井さんの真摯な姿勢と、強烈なリーダーシップ。「ぜひ、この社長と一緒に仕事をしてみたい!」。それが入社を決めた一番の理由ですね

 年収がドンとあがるわけではなく、ポジションも保障されていませんでした。これは本当ですが、店舗研修から始めていますし、丁稚奉公からのスタートですよ。しかし、入社して強い会社の原理原則とは何なのか、それを徹底的に叩き込まれました。今でもファーストリテイリングはものすごい会社だと思っています。すべてはお客様が決める、顧客中心主義の大切さの共有。物事を単純化してできるだけシンプルに考えて、80%の完成度でもとにかく実行。そのあと完成形にもっていけばいいとか。経営者がなすべき意思決定の考え方、方向転換の仕方、スピード感など、本当に柳井さんには大切なことを教えていただきました。そんな一流の経営者の真横で一緒に仕事ができたこと自体が、本当に素晴らしい経験ですよね。イギリスでの店舗展開を任せていただいたことも大きかったですが、特に、私が社長で柳井さんが会長の3年間は、強烈でした。

 私がファーストリテイリングを去った理由としては、会社と自分の間で、いろんな意味で考え方のずれが生じてきたこと。もうひとつは、カリスマ経営者の意思決定と現場の間に生じたギャップを埋められなかったことですね。言ってみれば、私の力不足。やはり、創業経営者はすごいんです。卓越した能力を持っている。それを飲み込んで、素晴らしい部分は敬意を表して、まずは自分で納得して、噛み砕いたうえで現場に落っことしていかなければいけない。労使に対立構造を生んでも全く意味がなく、柳井さんと私のコンビネーションで、どうやっていくのか。それが当時の私にはうまくできなかった。じゃあ今ならできるのか? リヴァンプの仕事も相当に強烈なんです。たくさんの経営者と向き合っていますし。3年くらいのこの仕事を狂ったようにやっていけば、あの時よりはうまくやれるようになっているかもしれないですね。

<リヴァンプを立ち上げた理由>
経営人材としての自己成長のため、会社をもっと元気な存在に変えるため

 やはり、自分で一番の限界を感じたのは、柳井さんはオーナー経営者。私は社長という立場とはいえ、雇われ経営者。そこには歴然とした違いがあります。企業のオーナーシップを持つ立場で経営を行う経験が、経営者として成長するためには絶対に必要であると考えたのです。だったら自分のお金を投入して、企業を立ち上げるしかない。リヴァンプとは「刷新する」「立て直す」という意味。この会社を立ち上げようと思った理由は、企業を元気にする、再生する仕事に純粋な興味があったからです。

 従来の企業再生には大まかに3つの手法がありました。1つ目は、プロ経営者を招聘するという手法。オーナーから乞われて乗り込んでも、古参の社員などとの間に軋轢が生じることが多く、単騎で乗り込むにはリスクが高い。2つ目は、ファンド。これは、現在、リヴァンプの代表パートナーである澤田がキアコンという会社を立ち上げてチャレンジしましたが、基本的には投資家に出来る限り短期間でリターンを出すという考え方が根底にある。これでは会社を中長期的に元気にするという本質からかけ離れてしまう可能性がある。3つ目があるとすればコンサルティングですが、領域が限定されたり、責任の所在が明らかでなかったり、やはり限界がある。我々は、それらすべての限界に挑戦していきたいと考えました。そして、ファンドビジネスの限界を感じていた澤田と一緒に、2005年10月、自分たちのお金を投入してリヴァンプを立ち上げたというわけです。

 取り扱い案件としては3つのケースがあります。1つ目は、現在取りかかっているトークツ・グループのような再生案件。2つ目は、未爆発を爆発させるケースと呼んでいますが、赤字とか債務超過ではないけれども、もうひとつブレイクスルーをしたいという会社の支援。そして3つ目が、インキュベーションです。バーガーキング、クリスピー・クリーム・ドーナツなどの日本展開などもこれに当たります。ビジネスモデルとしては、出資比率はさまざまなのですが私たちもきちんと出資させていただいて、企業価値が今10しかないものを5年後に100とか200にしよう。ただ、取得した株式を売却するわけではなく、責任あるオーナーシップを持ちながら企業価値を永続的に高めていきたいと考えています。

<未来へ~リヴァンプが目指すもの>
まずはリヴァンプ自体を強い会社に!将来はアジアの企業再生も目指す

 リヴァンプのスキームに本気で共感していただけた企業には、当社で3、4人の経営チームを構成して送り込みます。彼らがどんどん社内に突っ込んで行き、従業員に顧客にインタビューを繰り返し、状況を把握し、問題点を見つけ出し、どういう体制で、アプローチで、いつまでに解決するか、そのアクションプランをだいたい6週間かけてつくり上げます。そして、企業が元気になる骨組みを構築する期間は、約1年と見ています。今はとにかく、お手伝いさせていただいている案件を絶対に成功させることに注力しています。リヴァンプならではのトラックレコードを打ち立てるということです。

  ありがたいことに、優秀なスタッフがどんどんリヴァンプに集まってくれていまして、現在、約60人の経営人材が在籍しています。しかもそのうち、17人が社長経験者です。将来的には、108人の経営人材をスタッフィングして、企業再生の梁山泊のような存在にしていきたいですね。そもそも、私はリヴァンプを澤田・玉塚商店にするつもりは全くありません。私たち以上の優秀な人材が集まってきて、リヴァンプを真のプロフェッショナルファームとして育てていきたいんです。さまざまな企業で再建に携わっているスタッフが月1回全員集まって、現状報告や、経験則の披露など、喧々諤々やるミーティングを開催しています。そうやって経験を仲間で分かち合いながら、ナレッジをどんどん深めることによって、企業を強くするノウハウがたまっていくわけです。この継続が、必ずリヴァンプ自体の大きな価値となるでしょう。

 どんな案件でも、優先順位は「業績向上に直結すること」、そして「変化が現場レベルで認識できること」。全社一丸となって、そのことに集中し、できる限り短期間で、結果を出す。それも、明日、来週、来月にというように目標を掲げ、逃げ場なく挑戦していきたい。リヴァンプのスキームで元気になれる企業は、日本中にまだまだたくさんあると思います。また、いつになるかわかりませんが、将来はアジア全体も手がけていきたいんです。シンガポールは僕の第二の故郷でもありますから(笑)。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業とはある意味、究極の働き方。飛び出す前に、足元をしっかり確認

 仕事をするポジションという意味で、起業ってすごく健全な姿であると思います。そもそも起業があらゆる商売の原点ですし、自分でリスクを張って、コミットして、目指すべきかたちにしていく作業ですよね。言い換えれば、心のそこから本当に自分が手がけたいビジネスを行うということですから。一番実力もつくでしょうし、学べるし、逃げ場がないし、きっと何皮も剥けますし、死にそうになるし(笑)、いわば究極の働き方だと思うんです。ただ甘くはないですから、本当に自分ができるかどうか、やり切れるかどうか、いろんな意味での覚悟が必要でしょうね。

 でも、この日本はサラリーマンが多い国ですから、起業家タイプの経営者がもっともっと出てくることは重要だと思っています。そういった意味で、起業したいと思う人が増えることは、とてもいいことですね。もちろん、起業を目指すうえで、夢とか、漠然とした目標を定めておくことはとても大切だと思います。しかし、自分自身のこれまでを振り返ってみると、夢や目標のために頑張ってきたというより、目の前に現れたピンチとかチャンスとか、さまざまな壁を破るとまた新たな壁が現れて、それをまた破って。その繰り返しを続けながら、ここまでたどり着いたような気がしています。

 よく耳にしますよね、起業して成功したいとか、絶対に上場するんだとか。それはそれでいいのですが、実は足元に存在している壁をおろそかにしている人って意外に多いのです。ミッションコンプリートしてないじゃないか、と。それはとても危険ですね。夢や目標を持ちながら、目の前にあることにしっかりエネルギーを注ぐというバランスがとても重要だと思っています。

 最後に、私が考えるリーダーが持つべき要素を3つご紹介しておきます。一つ目は、「正しい心」。うそをつかない、約束を守る、人から信頼されるパッションを持つということです。二つ目は、「卓越した技術」。問題点がどこにあり、解決策を導き出し、結果を残す力を持つということです。三つ目は、「強烈な経験」。逃げ場のない最悪の状況を自分の意思決定で乗り越えるという体験をしておくことです。これら3つの要素を備え持っているような人であれば、リーダー=起業家に向いているのではないでしょうか。そんな人を、リヴァンプも求めていますから(笑)。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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