第38回 株式会社jig.jp 福野泰介

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第38回
株式会社jig.jp 代表取締役社長 CEO
福野泰介 Taisuke Fukuno

1978年、石川県生まれ。損害保険会社に勤めていた父親の仕事の関係で、石川県七尾市、名古屋市名東区、三重県津市、そして福井県鯖江市と、中学卒業までに4県での生活を経験する。小学校3年でファミコンに出合い、その後、プログラミングの世界にはまる。高校は、普通高校へは行かず、国立福井高専電子情報工学科へ進学。1995年、高専2年次に「全国高等専門学校プログラミングコンテスト」準優勝の実績を持つ。2000年5月、高専時代の先輩たちから誘われ、(有)シャフトのCTOに就任。2001年1月、自ら(有)UNI研究所を設立し、代表取締役社長に就任。2003年5月、(株)jig.jpを設立、代表取締役社長CEOに就任。2003年9月、同社の最初のサービスである「jigアプリ」をリリース。翌年10月、携帯電話向け高機能フルブラウザ「jigブラウザ」をリリース。発表直後から大きな反響を呼び、「jigブラウザ」はダウンロード累計約90万回という大ヒット商品となった。本社を東京、開発拠点を鯖江市に置く。現在、福野氏は開発センターのある福井県鯖江市で主に生活している。鯖江市を日本のシリコンバレーにするべく、日夜、現地でスタッフたちとともに、開発を続けている。2007年4月、福野氏は「第1回 DREAM GATE AWARD 2007」を受賞。また2007年5月、同社の新サービス「jigムービー」 が「Global Mobile Content Awards 2007」にて「Best Mobile TV & Video」を受賞した。

ライフスタイル

好きな食べ物

カレーライス。
ずばり、カレーライスです。僕は1カ月間、毎日3食ずっとカレーでも全然OK(笑)。鯖江では、お昼休みにカレーをつくってスタッフにふるまうこともあり ます。12時から13時までがお昼休みですから、12時すぐに材料の買出しに出かけて、12時40分には完成。で、20分かけてみんなで食べる。意外にお いしいと好評ですよ。

好きなお酒

鯖江の地酒で、『梵』。 
お酒は好きですね。けっこう飲めるほうだと思います。鯖江の地酒で、「梵」という完全無添加の純米酒があるんです。このお酒が一番好きなんです。おいしいですよ。

休日

楽器づくりとか。
「wii」のリモコンを振ると音が鳴る楽器とか、パソコンを使った楽器づくりにはまっています。ゆるく振ると柔らかな音、激しく振るとトゲトゲした音が出 るんですよ。あとは、鮎の友釣り。この間も行ってきまして、9匹くらい釣れました。まあ、食べる分くらいですね。土曜日は会社のスタッフとバドミントンを よくやります(笑)。

行ってみたい場所

秋吉台とシリコンバレー。
山口県の秋吉台に鍾乳洞を見に行ってみたいんです。中学で修学旅行に行けなかったからですかね(笑)。あとはやはり、シリコンバレー。サンフランシスコまでは行ったことがあるのですが、まだシリコンバレー現地に行ったことがないので。

「jigブラウザ」がPCと携帯のギャップを埋める。
いつか、世界のユーザーのプラットフォームに!

 高専時代からプログラミングのバイトを開始。卒業後、先輩のベンチャー立ち上げに参画し、取締役CTOに就任。これが最初の起業。その後、自分の会社を立 ち上げ、受託開発を続けるうちに、自らの力で新しい技術を開発したいという思いが強まる。2003年5月、「人と人・人と情報を結ぶインターフェイスとなる、便利で軽快な携帯電話向けアプリケーションを開発し、余剰時間の創出に貢献する」ことを企業理念とし、jig.jpを起業。28歳にして3社の起業に関わった、シリアルアントレプレナーである。福野氏曰く、「自分が本当にやりたいことを求めてきた結果、理想的な会社になりつつあります」と語る。個人的な夢は福井県鯖江市を日本のシリコンバレーとして育てること。そして、会社としての目標は、グーグルの技術力、アップルのデザイン力、そして、マイクロソフトのシェアを抜き去ること。今回は、そんな福野泰介氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<福野泰介をつくったルーツ.1>
小学校3年の少年とMSX機の出合い。プログラミングにはまったきっかけ

 jig.jpを起業したのは福井県の鯖江市ですが、僕は生粋の福井っ子ではないんですよ。生まれたのは石川県の七尾市。父は損害保険会社の会社員だったので、転勤が多かったのです。ちなみに、3歳下と10歳下の妹がいます。5歳までは七尾にいまして、保育園ではけっこうなやんちゃぶりを発揮。昼寝の時間になっても、寝るのを拒否して走り回るので、先生によく怒られていましたね。そして保育園の年長に上がる前に、今度は名古屋に引っ越すことに。小学校3年までは名古屋です。小学校の友だちの家で、ファミコンと出合うんですよ。当然、僕もほしくなって、親にねだって買ってもらいました。そうそう、クリスマスの日、サンタクロースに当時全盛だったスーパーマリオブラザーズがほしいと頼んだのですが、売り切れ店続出で、入手するのが大変だったらしいです(笑)。

 隣のマンションに住んでいた友だちが、「ファミリーベーシック」を持ってたんです。これは、ファミコンに専用のカートリッジを差し込んで、コントローラ端子にキーボードをつなげることでプログラミングができるというものでした。僕もそれがほしくて、親に再びねだったのです。でも、なぜだか親は電気店に勧められてMSX機「CANON V-10」を買ってきた。ちょっと古い機種でしたから安かったのでしょう(笑)。テレビにつなげて電源を入れてみた。すると真っ青な画面に「OK」の文字。「何なんだろ、これ?」と。しかし当時は幸い、MSX機の子ども向けノウハウ本が大量に出回っていましたので、図書館に行ってはそれらの本を借りてきて、独学でプログラミングを覚えていきました。

 最初はBASICからですね。1から10までが順番に表示されるプログラム、足し算ができるプログラム、簡単なゲームをつくるプログラム、ノウハウ本を教科書として、プログラミングの基礎をどんどん覚えていきました。書いたものがテレビの画面上で指示どおりに動く。プログラム完成までのプロセスがすごく面白かった。今思えば、結果的に親が間違えてMSX機を買ってきてくれたのは正解だったと思っています。MSX機でのプログラミングが、僕をコンピュータの世界に誘ってくれたのですから。そして、小学校4年で今度は三重県の津市に引っ越すのです。転勤の多い家庭は、大変ですよね。

<福野泰介をつくったルーツ.2>
修学旅行に行けなかった代わりに、MSXターボR機をねだるちゃっかり者

 津は、中学2年まで過ごすんです。ここで初めて、クラスは違うのですが、MSX機を持っている友だちができました。うれしかったですね。ちなみに僕が使っていたMSX機は、データの保存ができなかったのです。つくりかけのプログラムでも、電源を落としてしまうと再びゼロからつくらなければならないわけです。今では考えられませんが(笑)。それで、フロッピーディスクが使える上位機種のMSX2+機を親にねだるのですが、今回はこれまでのようにすんなりと買ってくれませんでした。「ファミコンを売るなら買ってあげてもいい」と。僕は即座にその条件を呑み、MSX2+機を入手。さすがに上位機種です。画面は綺麗ですし、容量も多い。この頃から、ノウハウ本どおりではなく、オリジナルのゲームもつくるようになりましたね。

  小学校の頃から絵画教室に通ったり、図画工作とか美術が好きだったんです。ちなみに中学時代は軟式テニス部に所属していました。プログラミング以外ではまった遊びに、「ミニ四駆」があります。小さな車のおもちゃを改造してレースをするんです。で、軽量化のためにパーツを削ったり、車高を調整したり、ハンダゴテとか使って改造するわけです。しかし、どうしてもイメージどおりのものがつくれない。でも、プログラミングは材料費もかかりませんし、トライ&エラーを何度も繰り返しながら、イメージどおり完璧なものをつくることができる。そんな気づきもあって、僕はますますプログラミングの世界にはまっていきました。

 中学3年で、福井県の鯖江市にたどり着きます。僕は修学旅行をすごく楽しみにしていたんですよ。でも、母と鯖江の中学校に転入の挨拶に行った時、先生から「うちは中2で修学旅行に行くんですよ」と。がっかりしました(笑)。それで、「修学旅行に行けなかったのだから、新しいマシンを買ってほしい」と(笑)。この時はすんなり交渉が成立しまして、MSXターボR機というさらに性能の良いマシンをまんまと入手。この頃、マシンの性能を100%引き出すための言語、アセンブラも覚え始めました。コンピュータのアーキテクチャを理解するには最適な言語ですからね。

<国立福井高等専門学校へ進学>
プログラムの新しい価値に気づき、将来の自分像を思い描き始める

  勉強では、数学や理科が得意でしたね。数学はプログラミングと同じようなものですから。中学の先生に、プログラミングが好きなことなども話をし、進路の相談をしたのです。すると、高専(高等専門学校)というものがあると。「夏休みにオープンキャンパスがあるから行ってみるといい」。そう言われ出かけて行きました。高専に展示されているソフトウェアなどを見たんですが、正直、大したことない。自分でもつくれるくらいのものだと感じました。でも、普通高校に行って、コンピュータ以外の勉強をするのはもっと苦痛だと結論。同級生から「どこの高校を受けるの?」と聞かれて、「僕は高専に行く」と答える。すると、「やった!ライバルが1人減った!」と、みんなから喜ばれました(笑)。そして僕は推薦枠を使って、国立福井高等専門学校・電子情報工学科へ進学したのです。

 高専には教授や助教授が自らの研究の手伝いを求める研究会があります。大学の研究室のようなものです。僕は友だちに誘われて、地球物理学研究室に入りました。高専は5年間ですから、時間もたっぷりありましたしね。ここは地震予知を研究する研究室です。だから、地球物理学研究室は通称「ナマズ」(笑)。で、その友だちが言うには、その研究室には「ぷよぷよ」という人気ゲームのプログラムがあると。最初は、そのプログラム目当てに入る決心をしたんですよ(笑)。実際にあったんですけどね。「ぷよぷよ」のプログラムのクローンみたいなものが。

 この研究室で2つ上のある先輩に出会うんです。かっこいい人で、今でも師匠だと思っています。その先輩から、「これからはC言語を使うといいよ」というアドバイスを受けました。そして、過去の地震データを解析して、何かの予兆と地震の関係をシミュレーションするプログラムをつくったのです。自宅でもプログラミングができるよう、組み立て式のDOS/Vパソコンも購入して。実はオリジナルのゲームをつくっていた中学時代、これを仕事にできそうだと思っていました。でも、世の中で売れているゲームと、僕がつくりたいゲームって何だか違う。それで少し自信を失くしていたのです。でも、研究室で作成した解析プログラムは先生の役に立ちましたし、1つの成果として認められた。世の中から求められるプログラムの新しい価値に気づいて、僕の情熱は再び高まっていきました。

<プログラマーのバイトを開始>
画像処理ソフトをつくって3万円。プログラミングで初めて報酬を得る

 プログラムに関わる仕事ができそうだと感じたもうひとつのきっかけが、アルバイトです。その前に、ネットカフェの店長さんとの出会いもありましたね。1996年だったと思うのですが、その店長さんが「これからはJava言語が面白い」と教えられまして。その方からJava言語の本を1冊お借りして、Javaで動くアナログ時計を個人的につくったことを覚えています。その後、先輩に誘われてプログラマーのアルバイトをするようになり、ある会社から依頼された画像処理ソフトをつくって3万円いただいたのが、最初の仕事だったと記憶しています。

 その後、また別の会社にアルバイトとして入り浸るようになり、地球物理学研究室には全く行かなくなりました。この会社の社長が、「地図表示ソフトをつくろう」と。「じゃあ、つくりましょう」と僕。そして、Javaアプレットを使って、サーバーに置いた地図データをユーザーが自由に取り出せ、また自由に動かせるというソフトをつくったのです。これを幕張のイベントに出展したのですが、けっこうな引き合いがありまして。「じゃあ、各社の仕様にカスタマイズして販売しよう」と。それを誰がやるのか? 当然、開発者である僕なわけです。当時はテレホーダイという夜の11時から朝の8時まで従量課金ではない電話料金定額サービスがありました。というわけで、その時間帯を使って自宅でチャットとかしながら開発して、朝起きたら一応高専に行きますが、ただ寝るために行くようなもの(笑)。 そんな生活を2年ほど続けたでしょうか。

 クライアントとの打ち合わせのため、東京や大阪に出張してSEのような仕事もしていました。今思えば、学校を休んで行っていたのでしょうね。高専は3分の1以上休まなければ単位が取れましたから。卒業後はこのまま契約社員としてプログラマーをやって、そのうち起業すればいいかと。学生しながら月に20万円以上は稼いでしましたし。でも、高専の先生が専攻科に進学してほしいと。その先生の顔を立てるために、一応進学したのですが、すぐに辞めてしまいました。ですが、この先生とは今もしっかりつながっています。優秀な後輩を当社に紹介してくれるのです。そのお返しに、僕もビジネスで頑張って有名になって、福井高専の名前を広めると(笑)。話が少し横にそれましたが、専攻科を辞めた僕は、ある経営者からのアドバイスがきっけとなり、携帯電話マーケットで起業することになるのです。

目標は、グーグルの技術力、アップルのデザイン力、
そして、マイクロソフトのシェアを抜き去ること!

<高専の先輩と共に1度目の起業>
受託開発の呪縛から脱却するため、シリアルアントレプレナーの道を選択

 契約社員として仕事を続けていましたが、だんだんと知的刺激の少ないカスタマイズの仕事よりも、新しい技術を生み出す仕事をしたいと思うように。当時は1999年。渋谷エリアを中心としたビットバレーが誕生し、ITベンチャー花盛り。僕もビットバレーのイベントなどに参加して、起業を目指す同世代の若者たちと交流していました。そんな頃、ある高専の先輩から、一緒に起業しようと誘われたのです。また、その先輩が働いていたサーフボードという会社の田島社長さんから、「ぜひ携帯マーケットで挑戦しろ」とアドバイスを受けました。そして、もう1人高専の先輩を加えた3人で、2000年5月に有限会社シャフトを設立。これが最初の起業ですね。

 僕はCTO(技術担当取締役)を任されました。この時の僕は、経営も会計もチンプンカンプン。まあ、プログラミングの仕事ができるならいいかと。そうそう先日、件の田島社長と対談をする機会があったのです。「そういえば、なぜあの時、携帯領域を狙えと助言してくれたのですか?」という僕の質問に田島社長は、「うちがPC領域だったから、競合をつくりたくなかった」と(笑)。それを聞いて笑っちゃいましたが、今となっては本当にありがたいアドバイスだったんですよね。

 シャフトでは、サイト構築の仕様が携帯キャリア各社間でバラバラだったことから、Webコンテンツをそれぞれのキャリア向けに変換できるシステムを開発しました。それにより仕事の依頼が来るのですが、いざ受注する段になると、結局、受託開発になる。毎日毎日、カスタマイズの仕事です。これでは契約社員の時と変わりません。おまけに、寝る間を惜しんで仕事をしていましたから、当時の僕の給料を時給換算したら200円とかですよ(苦笑)。どんどんこの仕事に不満を感じるようになっていきました。

 そんな頃、NTTドコモさんがJavaをベースとしたiアプリを発表。その開発環境が近日発表されると聞き、これは面白そうだと。すぐにその開発に取り組み、自作のエミュレータをつくったのです。そして、この情報を『日経Biz』Javaプレスにリリースしたところ、ものすごい数の反響が。特に海外からのアクセスがすごかったですね。Javaの大きな可能性を感じて、事業につなげたいと考えたのですが、シャフトの幅広い端末を狙うという方針とそぐわない。そこで、シャフトの経営陣から勧められたこともあり、独立を決意。そして2001年1月に、有限会社UNI研究所を立ち上げました。これが2社目の起業。シリアルアントレプレナーとしてのスタートです。

<3社目となるjig.jpを起業>
携帯電話向け高機能フルブラウザアプリ「jigブラウザ」が大ブレイク!

 社名に研究所をつけたのも、受託開発ではなく、新しい技術を開発し続けるという意思表明です。そして、当時ユーザーにとって高額だった通信費を抑えるために、パケットを圧縮するブラウザを開発。「半パケ」という商品名で発表し、地元のソフト販売会社ユニコシステムに営業を依頼。開発会社としての体制ができあがったと思っていたのです。いくつかの有名プロバイダ企業からオーダーが入り始めます。ところが、「半パケ」をプロバイダ各社に導入するために、どうしても細かなカスタマイズ仕事が発生するのです。仕事は入ってきますから、会社の布陣を増やし、案件をどんどん獲得していきました。しかしこのままでは、1社目と同じく受託開発の繰り返し……。BtoB=企業にではなく、BtoC=ユーザーに使ってもらえる製品開発をしたい……。そう考え始めた時、現在もJig.jpのパートナーであるベンチャーキャピタリストから1本の連絡が入るのです。

 その方にお会いして、BtoCに向けた開発事業の話を進めるうちに、1人1台、常に身近にある携帯はビジネスツールとして最適であること、ユーザー課金でサービスを提供したいこと、そのためのリーチとしてやはりアプリが近道であること、などなど、お互いの意見がことごとく合致して意気投合。その日に「ぜひ、一緒にやりましょう!」と。あと、その方が持っていたパソコンと携帯電話が、僕の使っているものと全く同じだったんですよ。そんな偶然も背中を押しました(笑)。そして、UNI研究所の引継ぎをしっかり調整して、2003年5月、3社目となる株式会社jig.jpを設立。純粋に新しい技術開発に専念できる企業を目指して。

 最初にリリースしたのが、一般ユーザーにダウンロードして使ってもらう、パケット通信費削減アプリ「jigアプリ」です。NTTドコモさんのハードル超えは難しかったのですが、auさんの公式サイトの審査を通過。公式課金による販売によって、ある程度の売り上げにつなげることができました。しかし、携帯専用コンテンツがすごく少なく、このアプリを十分に便利に使えないことが課題でした。そんな中、ご存じのとおり2004年頃からパケット通信費削減という一番の売りがなくなってしまう、携帯キャリア各社がパケット定額制の展開を開始します。僕はこれをチャンスと捉えました。定額制によって、できるだけ使わないように控えるものだった携帯電話が、できる限り使わないともったいないものに180度変わることになると。そこで、まだまだ少ない携帯専用コンテンツではなく、大量にコンテンツがあるPC向けのサイトを安く、早く、快適に閲覧できる技術を開発しし、2004年10月にリリースしたサービスが、携帯電話業界初の高機能フルブラウザJavaアプリ「jigブラウザ」です。携帯ユーザーから予想を超える反響をいただき、リリース直後はサーバーがパンクするほどでした。

<未来へ~jig.jpが目指すもの>
「jigブラウザ」をプラットフォームに、目指すはもちろん世界のマーケット

 ユーザーの方々から熱い意見をたくさんいただき、「jigブラウザ」はほぼ毎週のようにバージョンアップ。進化を継続中です。今、起業前からずっと夢に描いていた、開発に専念できる仕事環境を獲得できたことがすごくうれしいですし、毎日がとてもエキサイティング。今日も鯖江にある開発拠点で、当社のエンジニアたちが開発仕事にいそしんでいます。ありがたいことに、「jigブラウザ」はリリースから今年の6月までに、累計約90万回のダウンロードをいただきました。豊富な表示モードと縦横斜め自由自在の高速スクロールが非常に使いやすいと喜ばれていますね。スマートフォンやフルブラウザ携帯なども登場しましたが、競合よりも「安く、早く、快適に」を常に実現させながら、1人でも多くのユーザーに選んでいただけるようこれからも「jigブラウザ」の開発を続けていきます。

 また、「jigブラウザ」上で動作するプラグイン、「jiglet」をダウンロード・告知するためのポータルサイトもオープンしています。「jiglet」とは、「jigブラウザ」をより便利にお使いいただくための無料アプリケーションの総称です。携帯でポッドキャストを楽しめる「jigポッドキャスト」、パソコンからのスケジュール入力が可能な「jigスケジューラ」、パソコンに届いたメールを携帯電話で送受信できる「jigメーラー」などなど、「jigブラウザ」をプラットフォームとして、そのユーザビリティをどんどん高めています。

 これまで尺(長さ)に制限のあった動画を、快適に視聴するためのプラットフォーム「jigムービー」もリリース。すでに10社以上の携帯向け動画コンテンツ配信企業に採用いただいています。これはユーザーが各サイトから「jigムービー」をダウンロードすることで、携帯電話でさまざまな動画コンテンツが楽しめるというアプリです。このように動画が自由に操れるようになれば、携帯電話はテレビ以上の強力なメディアになっていくでしょう。1人1台、常に一番身近にあるツールなわけですから。

 そして、目指すはもちろん世界のマーケット。その第一歩として、今年6月12日、海外の3G端末に対応した「jig browser」無償プレビューバージョンの提供を開始しました。現在のところ基本言語は英語のみですが、順次、対応端末および言語を増やし、世界中の携帯電話ユーザーに「jig browser」を利用していただける体制を構築していきます。これからのjig.jpにぜひ注目していてください。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
自分が本当に好きな分野を選び、最初に定めた夢、志をぶらさないこと

 やはり起業する以上、続かなければ意味がないですから、自分が本当に好きな分野を選ぶことが最低条件だと思います。そして、起業する際に定めた夢や志を絶対にぶらさないことですよね。そもそも僕が起業した理由は、ある基本システムの受託開発ではなく、次々に新しい技術を開発し続けたいという思いでした。1社目、2社目と、それはうまく実現できませんでしたが、常にその思いを強く持ち続けたことで、3社目にしてやっとjig.jpの設立に行き着くことができたのです。自分自身、毎日を楽しく感じられなければ意味がないじゃないですか。きっと起業すれば、いろいろおいしそうな寄り道への誘いがありますが、それをいかにして断ち切るか。本当に自分が好きなことがわかっていれば、甘い誘いを断ち切ることは簡単だと思っています。

  グーグルの技術力を抜き去ること、アップルのデザイン力を超えること、マイクロソフトのシェアを凌駕すること。僕たちは本気でこの3つの目標に向かって日々走り続けています。実はもうグーグルの技術力には追いついている気がしているんですよ(笑)。あ、もちろんお互いの得意分野は違いますから、比べること自体が難しいのですが。jig.jpにしかできない技術開発、展開力という意味においてです。常にうちにしかできないことを突き詰めていく。それが最大かつ圧倒的な差別化になると信じています。それをここに集ってくれた仲間がしっかり理解して頑張ってくれれば、どんどんjig.jpは成長していくでしょう。そうそう、僕は鯖江を日本のシリコンバレーにしたいと本気で考えています。まだ現地に行ったことはないんですけどね(笑)。

 最近、任天堂の「wii」はすごいな~と感心しています。リモコンも優れものですし、ブラウザ機能もついていますし、そのうち「wii」が今のパソコンのポジションを食ってしまうのではないかと。もしもそうなったら、その先にいろいろな新しい技術が必要とされるでしょうね。そうやって新しいものをしっかりウォッチして、実際に触れてみることで、新しいビジネスの可能性が想像できます。ぜひ、みなさんが好きな分野にある新しい可能性を見渡してみてください。そんな癖を身につけておけば、起業アイデアが生まれやすくなると思いますよ。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康

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