第36回 LUNARR,Inc 高須賀 宣

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第36回
LUNARR,Inc President&CEO
高須賀 宣 Toru Takasuka

1966年、愛媛県生まれ。幼稚園の頃に、早くも軽い停学勧告を受けるほど、やんちゃなガキ大将。中学時代はバンドと野球、高校時代はバンドとサッカー、 アウトローな生活にはまる。この頃に付き合い始めた彼女(現在の奥様)の影響で、大学進学を目指すように。広島工業大学卒業後、松下電工へ入社。ネット ワークエンジニアとして、社内評価ナンバーワンのポジションを獲得した。経営基幹システム構築プロジェクトのスタッフに抜擢され大活躍。技術オタクが、経 営に目覚めるきっかけとなった。その後の1996年、社内ベンチャー制度の2号案件として、大手企業向けイントラネットシステムの構築を行う、ヴィ・イン ターネットオペレーションズを設立し、取締役副社長に就任。1997年8月、同僚3人とともに、愛媛県松山市でサイボウズを設立。代表取締役社長兼CEO に就任。企業向けグループウエア「サイボウズOffice」をリリース。2000年8月、東証マザーズに上場。2002年3月、会社設立から4年7カ月の 史上最短記録で東証2部に市場を変更。2005年3月に、同社取締役を退任し、2006年1月、アメリカオレゴン州ポートランドにて、 LUNARR,Incを設立。今秋(予定)、これまでベールに包まれていた画期的な製品をリリースする予定。

ライフスタイル

好きな食べ物

全然、グルメじゃないんです。
カレーライスとメロンですかね。愛媛県出身だから、伊予柑も挙げときましょうか(笑)。そもそも僕は全然グルメじゃないんです。日本に在住していた時は、「吉野家」と「CoCo壱番屋」と「天下一品(ラーメン)」に必ず週1回は通っていました。お酒はいっさい飲みません。

趣味

ギターとドラムです。 
中学時代からずっとはまっています。自分のギターとドラムをアメリカに送ったんですよ。でも、ドラムを叩いていたら、近隣住民から「うるさい!」と。最 近、ドラム叩いてないからちょっとストレスを感じています(笑)。ポートランドは自然がとても豊かですから、本当はフィッシングやハンティングやれば最高 なんでしょうが、今はビジネスにのめりこんでいて気持ちに余裕がないんです(苦笑)。

休日の過ごし方

何となく仕事しちゃうんです(笑)。
土日は基本的にはお休みを取るようにしています。休み中に何をしているかって? これが仕事なんですよ(笑)。ずっとメールチェックしていますね。日本に 来ている時くらいですよ、メールチェックをあまりしなくなるのは。講演や打ち合わせが多くて、出かけていることが多いですから。もしも1週間休みが取れた ら何をしたいか? やっぱり今は仕事したいです(苦笑)。

ファミリー

なかなか家族に会えません。
妻、9歳の女の子、7歳の男の子の4人家族です。今、僕の活動の場はアメリカで、家族は東京で暮らしていますから、なかなか会えないんです。前々回に帰国 した時は、6カ月間ずっとアメリカにいましたからね。まあ、アメリカで一緒に暮らしたとしても、忙しくてなかなか会えないと思うんですが(笑)。当分、こ んな感じなんでしょうね。

創業したサイボウズを史上最短で東証2部へ!
その座を捨てて世界と戦う挑戦を選んだ男

 1997年8月に、愛媛県松山市で産声を上げたサイボウズは、高須賀宣氏が松下電工の仲間3人で立ち上げたベンチャー企業である。ユーザビリティを徹底的に追求したグループウエア「サイボウズOffice」は、狙いとおり国内ホワイトカラー・ビジネスパーソンに受け入れられ、サイボウズも一気に急成長。設立3年後に東証マザーズへ上場。そして2002年3月、会社設立から4年7カ月の史上最短記録で東証2部に市場を変更。誰もがうらやむ、成功したベンチャー企業経営者のひとりとなった高須賀氏はしかし、サイボウズの成長のために日々奔走しながらも、打ち明けづらいひとつの悩みを抱えるようになる。世界のトップを目指したいのだ。しかし、その実現のためには自分を犠牲にする必要がある。そんな時、ひとつの新たなオポチュニティが目の前をとおり過ぎた。このオポチュニティを逃すと、一生後悔することになる……。ノイローゼ寸前になるほど悩みはしたが、高須賀氏は新たな挑戦の道を歩む決断を下す。シリアル・アントレプレナー(何度も起業する経営者)の誕生である。そして今、高須賀氏は戦いのフィールドを最初から世界に定め、アメリカのオレゴン州ポートランドにLUNARR,Incを設立。指揮を振るっている。今回は、そんな高須賀宣氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<高須賀 宣をつくったルーツ.1>
幼稚園時代に軽い停学も経験?やんちゃなガキ大将だった

 父と母はともに、松下電器のグループ会社に勤めていて、社内恋愛で結婚。そんな両親の元、僕は愛媛県の松山市で生まれました。小さな頃から、近所の相撲大会に出ては優勝するなど、性格は、思いっきりガキ大将。それも嫌われがちな、ガキ大将だったみたいです(苦笑)。幼稚園でも、あまりに暴れるものだから、「あんたもう帰んなさい!」って、何度も先生に怒られたことを覚えています。小学校はですね、相変わらずワンパクやってましたが、愛媛県の中で3回転校しているんですよ。親の転勤で。転校で一番つらいのはやっぱり友達との別れですよね。でも、自分なりにうまくリセットして、新しい学校の雰囲気にすぐに溶け込んでいたような。今でもアダプテーション能力というか、環境適応力が高い方だと思うのですが、その力って小学校時代に身についたのかもしれませんね。

 八幡浜市の学校に転校して、はまったのがバルサ材の飛行機づくりです。日本の航空機の父ともいわれている明治時代の航空機研究者、二宮忠八さんが生まれたのが八幡浜市でしてね。今でも行われていると思うのですが、「二宮忠八翁飛行記念大会」という自作飛行機の滞空時間を競うイベントがある。僕は5年生のときに出場して、優勝しているんですよ。このときは本当にうれしかったなあ。勉強はですね、算数が好きでした。でもですね、低学年の頃だったと思うのですが、両親の勧めで、入塾試験があるめちゃくちゃ厳しい進学塾に通うことになったのです。それまでは学校や塾で1番算数ができたのに、その塾は県内中の優秀な小学生が集まっていますから、全く1番が取れなくなった。それでくさっちゃったんでしょうね。何だか勉強がどんどん嫌いになって。その頃から先、一所懸命勉強した記憶ほとんどないです(笑)。

 中学は松山に戻りまして、野球部に入部しました。松山は野球が本当に盛んですからね。でも、僕はなぜか広島野球が好きだったんですよ。せこいというか何というか、1対0で勝つのが一番美しいみたいな。僕のポジションはレフトで、打順は1、2番とか7、8番が多かった。出塁率の高さと、つなぎの役割を求められる打順なわけです。だから大きくは狙わず、せこく、せこく、三振しないように(笑)。得意でしたね(笑)。あと、やっぱり勉強はしなくて、野球以外でいえば音楽に走りましたね。友達とバンドを始めて、僕はギターとドラムを担当していました。

<高須賀 宣をつくったルーツ.2>
アウトローな高校生だったが、彼女の影響で大学を目指すように

 高校は一応、県立の進学高校へ進んだのですが、ますますアウトローな生活にはまっていきます。ちなみに野球はやめて、サッカー部に転向しました。坊主頭になりたくないというのが最大の理由です。バンドを続けていましたから、坊主頭だと支障があるわけですよ。ジャンルでいうと、アイアンメイデンとかラウドネスとか、ハードロックが好きでしたからね。でも、試験をばっくれて喫茶店でタバコ吸ってたら先生に見つかって、すぐに停学。また坊主頭に逆戻り、とか(笑)。そんな感じでこの頃は、ほとんど学校に背を向けていました。短気でしたし、ケンカもよくやった。でも、勝負がついたら後に引きずらないさっぱりタイプでしたよ。学校サボって、麻雀やパチンコにはまって、夜は夜で街を徘徊し、たまには海で泳いだり(笑)。ほら、松山って海が近いですから。

  高校時代にお金を稼ぐ経験をしたかどうかですか? そんなに華々しい話はないですよ。父の実家がガソリンスタンドを経営していましてね。夏休みとかに小遣い稼ぎのためによく手伝っていました。僕の接客対応を見ていた祖母が、「あんた将来は営業の仕事をするといいよ」って言ってくれたんですよね。それは覚えていますね。高校の話に戻しますが、僕の高校は成績の良い順にクラス分けされていましてね。僕は当然、一番下のバカ&停学クラス(苦笑)。そんな僕に彼女ができたんです。彼女は成績上位のクラスで、とても保守的な考えの持ち主。彼女と付き合い始めるようになってから、自分も大学に行こうと考えるようになりました。その彼女が、今の僕の妻なんですけどね。

 数学は好きでしたから、理数系のクラスを選択しました。でも、現役で受けた大学は全滅。それも当然です、ほとんど受験勉強しませんでしたから。で、浪人することになって、今度こそ勉強しなければと思ったのですが、2カ月くらいですかね。一所懸命やれたのは。続けられないんですよ、というか受験勉強というもの自体が耐えられない。結局、できるだけ実家から近くで、学費の安い大学を選んで受験して、合格したところに行こうと。それで合格したのが、広島工業大学の工学部経営工学科なんです。今後ますます、コンピュータが必要とされる世の中になっていくと考えていたので、コンピュータが学べる学科がいいとは思っていました。

<大学卒業後、松下電工へ入社>
コンピュータの世界観に開眼!ネットワークエンジニアとして活躍

  親元を離れ、広島へ。自由の世界に解き放たれた感じですよ。相変わらずバンドは続けていました。この頃はドラムに専念。広島のライブハウスなどで、よくライブをしましたね。あと空いた時間は、パチンコですかね。大学に入っても、3年になるまでは、ほぼ学校に背を向けていたんです。それが変わったのは、専門課程に進んで、ゼミに出るようになってからです。ファジーを研究されている先生のゼミだったのですが、最初にはまったのは、ゲーム(笑)。MS-DOSでプログラムをつくってゲームを動かしていく。命令すれば忠実に動くわけじゃないですか。支配欲というか征服欲が満たされたんですよね。コンピュータの世界観が自分の手のひらにある、自分の中にストンとフィットした。そんな感じだったと思います。

  僕が大学を卒業した1990年は、まだバブル崩壊の少し前でしたから、学生にとって就職環境が良かったんです。研究室には100社を超える企業から、新卒採用の話が届いていましたし。実は僕、給料が高いという理由で金融機関に就職しようと考えてたんですよ。でも、父にこのことを相談したら「研究室に推薦枠があるのなら、松下電工に行くべきだ」と。松下グループということもあったのだと思います。それで結局、僕は金融機関の道は断念し、松下電工への就職を決めたのです。この時の父のアドバイスにはすごく感謝しています。

 松下電工に入社した僕は、インフォメーションシステムセンターという情報システム部門に配属されました。1990年の当時、すでにインターネットを使っていましたから、本当に幸運な部署に配属されたと思います。ここで僕はUNIXやTCP/IPを活用して、松下電工の研究者向けコンピュータなどの開発環境を整える、ネットワークエンジニアの仕事にのめりこんでいきます。めちゃくちゃはまりましたね。1台のコンピュータをネットワークでつなぐことで、壮大な仕掛けをつくっていく。何かものすごいことができそうだ。仕事のスケールが大きくなるにつれて、僕のやる気もどんどんふくらんでいきました。テクノロジーの習得がすごく面白くて、この頃の僕はかなりの技術オタクだったと思います。

<社内評価ナンバーワン!>
取締役専用意思決定支援システム構築プロジェクトに参加。技術オタクからの脱皮を経験する

 松下電工という会社は、大企業ではありますが、とてもフラットな組織運営をしている会社でして。僕のような若手社員が、普通に社長に直接意見することもできましたから。まあ、僕の場合は上席だろうが何だろうがお構いなし。ほかの社員よりも、ガンガンものを言っていました。だから常に「何だあいつは!」の異端児扱い(笑)。上司から嫌われて、社内フリーランスのような状況に置かれたこともありました。でも、仕事はかなりできましたから、コンピュータネットワークに関する相談事は、まず僕のところに回ってくる。「俺の機嫌を損ねたら、コンピュータネットワークは動かないよ」と、そんな感じです。自分でいうのも何なのですが、ネットワークエンジニアとして社内でナンバーワンの評価をいただいていたと思います。それに加えて、3年目には、社外からヘッドハントの話がいくつも舞い込むようになった。すごい天狗になっていたんですよね、この頃の僕は。

 1994年、経営の意思決定スピードと精度を向上させるためのシステム開発を行うプロジェクトが発足。いわゆるイントラネットを活用して、戦略的意思決定の仕組みをつくりましょうというもの。僕もこのプロジェクトに招聘され、「Web ベースのアプリケーションを使えば、安いし使いやすいですよ」という提案をしました。それが採用されて、結果できあがったシステムは大成功。この時に、経営の意思決定のあり方を目の当たりにしたことが、自分にとってとてもいい経験になりました。経営を知ることによって、ただの技術オタクから、ちょっと脱皮できたという意味で(笑)。ある上司から僕の態度に関してこっぴどく怒られて、天狗の鼻も少し短くなりましたしね。

 このプロジェクトでの経験を元に、僕は会社に「イントラネットを活用したシステムの受託開発を行う事業部をつくりましょう」という提案をします。すると、「社内ベンチャー制度ができるから、その仕組みを使ってやればどうか」と。それで、僕が取締役副社長となり、ヴィ・インターネットオペレーションズという会社を1996年に設立。大企業向けに、イントラネット構築コンサルティングを行い、数万人がメールをやり取りするための仕組みづくり、ファイヤウォールの構築などなど、さまざまな受託開発を行いました。でも「1人月×いくら」の受託開発仕事では、事業としての拡大があまり望めないことに気づいてしまった。当時、20人くらいの社員がいたのですが、5、6人のチームをつくって、Webベースのアプリケーションを活用した新規事業企画を検討していたのです。このビジネスを立ち上げるためには、4000万円ほどの資金が必要となります。さて、どうするか。僕は役員会で「GO」の許可を得るため、プレゼンテーションを行いました。

シリアル・アントレプレナーとして再起業。
LUNARR,Incで10年後のポールポジションを目指す!

<松下電工からのスピンアウト>
経営ジャッジの「GO」を受けるも、違和感を覚え、自らの起業を決意!

 僕は役員会に出席し、「この新規事業には可能性があって、4000万円の資金が必要なのです」とプレゼンテーションしました。するとすぐに、「やってもいいんじゃないの」という返事。そもそも、松下電工という会社にとって、4000万円という投資は、僕らの1円、2円のような感覚の金額です。OKをもらえたその瞬間に、何だか僕は不安になりまして。「ああ、この人たちはわかってないな。本気で面白いとは思っていないな」と。事業の面白みを共感できない人たちの中で、事業を進めて行くと、ポイント、ポイントでの説明や、次のステップへの許可取りなどで時間を食ってしまい、スピード経営ができなくなる。だったら、独立してやったほうがいいなと。具体的な商品はまだでき上がっていなかったのですが、Webベースのアプリケーションを、インターネットを活用してダウンロード販売する。ここには大きなオポチュニティがある。これだけは確信していました。

 それで、同僚の青野慶久と畑慎也に声をかけて、3人でスピンアウト。1997年8月に、サイボウズを松山市で設立しました。4000万円が必要なところ、結局2300万円しか資金が集まらなかったのです。そのうち半分を3人が出資し、残りは僕の親族に片っ端からお願いして。もちろん、銀行やベンチャーキャピタルなどの金融機関を数十社回りました。でも、全く相手にされませんでしたね。この年は、拓殖銀行や山一證券が倒産するなど、起業するにも最悪の時期でしたから。当初は大阪で会社を設立する予定でしたが、松山にランニングコストを抑えるために松山に戻ったのです。オフィスは友人が運営していたマンションの一室を超格安で借りて。彼は高校時代、僕のパシリだったんですが(笑)。税理士も、知り合いがほぼ無償で引き受けてくれました。地元パワーを最大限活用したかたちです(笑)。

 肝心の商品は、畑が勝手につくったグループウエアに決定。ロータスやマイクロソフトなど、巨大なライバルが存在したのですが、不必要な機能を省き、誰でも簡単にインストールして使えるこの商品なら勝機はある。パッケージングコストも、流通コストも格段に下げることができますし。最初は反対してたんですが、何だか俄然いける気がしてきた。そして設立後半年で「サイボウズOffice」をリリース。当社のホームページで販売を開始して、最初はどのくらいの人がアクセスしてきて、どのくらいの人が購入していくかを慎重にウオッチ。すると、このくらいの広告を突っ込めば、これくらいは売れるという見込みが把握できてきた。そこからは一気です。売り上げの半分を広告費に投入して、販売を継続しました。

<史上最短で東証2部に上場!>
新たなオポチュニティとの出合い。シリアル・アントレプレナーの道を選択

 初年度年商が5800万円、翌年が3億円、そして3年目が8億円。そして、2000年8月に東証マザーズ上場。2002年3月には、会社設立から4年7カ月の史上最短記録で東証2部に上場。この当時の年商が20億円くらいだったと思うのですが、相変わらず10億円ほどの広告費を投入していました。しかし、「サイボウズOffice」の未来を見据えた時に、ある種の天井が見え始めたのです。国内ではおそらく30億円くらいの市場獲得がマックスなのではないだろうか。現状の商品のままでは海外での展開は厳しい。今後、この分野で世界ナンバーワンのポジションを獲得するためには、M&Aでファイナンスの規模を拡大しながら、最終的にIBMからロータスを買収するしかないんじゃないか。自分の中で、そんな結論に達したのです。

  これまでの自分の仕事を変えて、積極的にM&Aをやっていくことを決意。そして、これが正解なんだと自分に思い込ませながら、M&Aの案件開発を手がけ始めたのです。でも、これって自分が本当にやりたいことなのかな? だんだん義務感で動いているような気がしてきて。そもそも売り上げを足し算で積み重ねるM&A と、時価総額をテコにしたマネーゲームって、僕の性に合ってないんですよ。そんな悶々とした日々を過ごしていた2005年の2月、アメリカ在住の友人と話をしていて、ものすごいオポチュニティを感じてしまった。僕にとってのビジネス成功のイメージは、とてもシンプルな商品が、必要性を認められて世界中に広がっていくことなんです。まさにこれがそうだ!と。

 実は2005年の3月、僕はサイボウズの会長に就任してM&Aにさらに注力していくことが決まっていて、新聞でもそのことを発表してしまっていたのです。しかし、目の前に現れたこのオポチュニティを逃したら一生後悔すると思った。もちろん、サイボウズを去ることに関してはノイローゼになるくらい悩み抜きましたよ。これまでの人生で1位か2位を争うくらい悩んだ。でも、新たなオポチュニティに賭けることは、実は3秒で決めていました(笑)。結果、僕はサイボウズの経営を他の経営陣に任せて、スピンアウトすることになるのです。保有していた株式は1株残らず、会社の都合を優先して売却。仕掛かっていたM&A案件もきれいにまとめました。一番つらかったのは、僕が退職したあと30人くらいがサイボウズを辞めてしまったこと。これは本当に申し訳なかったですね。

<未来へ~LUNARR,Incが目指すもの>
10年後に残された5つ限定の椅子。世界を相手にこのポジション獲得を目指す!

 サイボウズには少なからず迷惑をかけましたから、それに報いるためにはこのオポチュニティをしっかりとかたちにして成功させることしかないですよね。そして2006年1月27日、アメリカのオレゴン州ポートランドでLUNARR,Incを設立。最初から世界一を目指していますから。これまで慎重に準備を続けてきまして、やっと今秋にアメリカから新サービスの正式発表をするのです。それまでは、事業内容の詳細発表はできないんですよ(笑)。データセンター会社など、事業に協力してくれているインサイダーの方々にはさすがに詳細を説明しているのですが、「な~んだ、これだったのか」という反応と、「これはすごい!画期的だ!」という反応が半々ですね(笑)。ですが僕は、これまでの情報共有の概念をガラリと変える、人類にとっての宝物になるくらいの素晴らしいサービスであると思っています。

 少しだけお話しますと、1日にメールのやり取りが5通くらいの人には必要ないですが、30通くらいある人にとってはものすごく便利。同じように、3人くらいまでのコミュニケーションには必要ないですが、5人以上でコミュニケーションするならあり得ないくらい便利。メールとグループウエアのいいトコだけを融合させ、コミュニケーションを非常にユースフルにハンドリングできる新しいツールといった感じです。基本的にはホワイトカラーのビジネスパーソンに向けた製品で、世界を対象として1億人くらいのユーザ獲得を目標にしています。会社としては、5年後に100億円の売り上げを目指していますが、この製品の潜在マーケットは1兆円以上の規模だと思っています。今秋以降のLUNARR,Incに、ぜひ注目していてくださいね。

 世界ではサース(SaaS=Software As a Service:ソフトウェアをパッケージとしてではなく、インターネット経由で必要に応じて機能単位にユーザへ提供する仕組みのこと)をめぐる戦争がすでに始まっています。サンマイクロシステムズのCTOは「10年後、ソフトウエアは世界で5台(5社)のコンピュータからのみ提供されるだろう。」とコメントしています。その5つの椅子には誰が座るのか? IBM、マイクロソフト、アマゾン、グーグル、まだその勝負はわかりません。ですがLUNARRは、10年後にこの5社に残ることを本気で目指しています。そうなった暁には、ビジネス系のアプリケーションを販売したいならLUNARRに相談せざるを得ない。そんなポジションを獲得しているでしょう。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
不確実性が高ければ高いものほど成功のインパクトは大きくなる

 無謀でもいい、やりたいことがあるならやっちゃえとは言いたくないですね。特に、儲けたいという気持ちが先にたつものには注意したほうがいい。当然、挑戦すれば失敗することもあるわけですから。きっとそれだけでは困難を乗り越えることができないと思います。ただ、アイデアが浮かんで、「これだ! 絶対におもろい!」と自分の膝をポンっと叩けるようなオポチュニティを感じてしまったなら、やらないと後悔するでしょうね。僕の場合は、オポチュニティが目の前を過ぎていくことに恐怖を感じる。機会損失こそ一番の悪。やらない後悔よりも、やってからの後悔のほうが絶対に気持ちいいと思っています。

  そういった意味で、やはり信じるべきは自分の意志。特にベンチャー企業というものは、大手企業の新規事業とか、小さくまとまった新しい中小企業とは種類が違うのです。ベンチャー企業の存在意義とは、全く予測ができない状態をつくること。ベンチャーの登場によって、弱者だろうが強者だろうが既存市場は混乱して、ぐちゃぐちゃになる。そうやって自らが市場の不確実性を極大化しておいて、その混沌の中で勝つための新しい何かを考え、実際に生み出していくわけです。そして、その不確実性が高ければ高いほど成功の確度は低くなりますが、逆に成功したときのインパクトは計り知れないものになる。僕たちはそこを目指していますから、人の目なんて気にしていられませんし、絶対的な判断基準は僕個人の感覚でなければいけないのです。

 人生なんて、そんなに長くないのですから。機会損失をしてしまったことで後悔などしたくないじゃないですか。死ぬ時には、一緒に頑張ってくれた社員や、家族にいい人生だったって絶対に言いたいですし。最後に、少しだけアドバイスを。人生を変えるような大切なオポチュニティに出合うためには、自分の意思を信じて、流されているといいと思います。ただ、常に自分の欲求を満足させてはいけません。求めれば現れる。オポチュニティとは、そんなものですから。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康

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