第32回 東京ヤクルトスワローズ 古田敦也

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第32回
東京ヤクルトスワローズ 選手兼監督
古田敦也 Atsuya Furuta

1965年、兵庫県生まれ。小学校3年で地元の少年野球チーム「加茂ブレーブス」に入部し、野球を始める。このころから現在まで一貫して守備はキャッ チャー。兵庫県立川西明峰高校卒業後、立命館大学経営学部に進学。同大学野球部では、日本代表選手に選ばれるなど活躍。卒業後はトヨタ自動車へ就職し、野 球部に入部する。1988年、ソウルオリンピックに日本代表選手として出場。銀メダルを獲得した。1990年、ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。 野村克也監督から才能を認められ、1年目のルーキーイヤーからレギュラーを獲得し、オールスターゲームにも出場。1991年、落合博満選手とのデッドヒー トの末、3割4分の打率で首位打者に。これまでにリーグ優勝5回、日本一4回を経験。1997年、2001年と日本シリーズのMVPに選ばれている。 1998年、日本プロ野球選手会の第5代会長に就任。プロ野球の未来を見据えながら、さまざまな提案、活動を行なってきた。2005年、社会人出身という ハンディを背負いながら、2000本安打、1000得点を達成。2006年の昨シーズンより、選手兼監督として東京ヤクルトスワローズを率いている。

ライフスタイル

好きな食べ物

伊、中、和の順番です
一にイタリアン、二に中華、三が和食っていう感じですかね。野球選手はすごく量を食べるって思われがちですが、僕の場合はそれほどなことではないと思いま すよ。普通の人よりは多めに食べる程度じゃないですか。お酒も毎日飲むわけでもないです。知り合いと食事に行ったら、ある程度たしなむ。それくらいです。

趣味

ライブものが好きです 
映画も本も読みますが、ライブっていいですよね。去年の4月にU2のライブがあって、行きたかったんだけど、シーズン中だからあきらめてたんですよ。そし たら突然延期になって、11月に日程が変更されたから行ってきました。すごくよかったですね。その翌日はビリー・ジョエル。野球選手には少ないですが、舞台も好きです。「劇団新感線」とか。難しいのは、苦手です(笑)。

好きなブランド

車は一貫して“TOYOTA”です
車はトヨタ自動車勤務時代から一貫してトヨタです。今は、セルシオに乗っています。服はゼニアとかヒューゴボスとかですかね。ビームスにもよく行きます。基本的に自分で買い物に行くのですが、最終的にはいつもショップの方に決めてもらっています。

行ってみたい場所

カンヌとかコートダジュール
場所? なんやろね? 行ったことない場所なら、ヨーロッパとか行ってみたいけど、何か目的があるかと聞かれたらあまりないですし(笑)。あ、カンヌとかコートダジュールとか行ってみたいかな。「世界バリバリバリュー」とか見ていてそう思ったくらいですが(笑)。

日本のプロ野球をこれまで以上に楽しいものに。
僕たちには、できることがまだまだあるんです!

 「現在の日本を代表するプロ野球選手は誰か?」。この質問に、筆者の私なら間違いなく「古田敦也選手」と答える。ちなみに、私は熱狂的なプロ野球ファンで はない。しかし、古田氏が1998年に日本プロ野球選手会会長に就任してから選手の権利を守るために機構側と行ってきたさまざまな交渉、そしてまだ記憶に 新しいセ・パ両リーグ合併問題への抗議運動などなど。ゲームよりも、彼の球場外での活動に注目していた。プロ野球ファンでなくとも、古田氏が大きな権力と 戦う姿に胸を打たれた方も多いのではないだろうか。インタビュー中、古田氏は「地域のために」「ファンのために」「大きく言えば、球界の未来のために」 と、誰かのために行動する自分の話をしてくれた。成功を果たしたベンチャー企業経営者も彼と同じように、「利他の精神」の大切さを説く方が多い。そういっ た意味で、古田氏が一プレイヤーという役割だけではなく、責任の重い選手会長を引き受けたり、昨年のシーズンから選手兼監督に就任した理由もわかる気がし てくる。今回は、経営者感覚を持ったプロ野球選手、古田敦也氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに 語っていただいた。

<古田敦也をつくったルーツ.1>
「太っていたから」が理由で、キャッチャーのポジションに

 1965年に私が産声をあげたのは兵庫県の川西市です。両親と、3人兄弟の5人家族で、僕は兄と妹にはさまれた二男として育ちました。父は自動車会 社に勤めていて、母も事務員として働く共働きの家庭でしたが、残念ながら裕福ではなかったですね。野球を本格的に始めたのは小学校3年のとき。友だちに誘 われるかたちで、地元の野球チーム「加茂ブレーブス」に入部したんです。監督から「誰かキャッチャーやるやつはいないか?」と質問されて、僕の隣にいた友 人が「古田君ができま~す」って言っちゃったんですよ。当時の僕は太ってたんでね。太っている、イコール、キャッチャーって何となくわかりますよね。これが現在まで変わらない、僕のポジション決定の真実です(笑)。当時の野球少年はみんなプロ野球選手に憧れていましたし、僕の将来の夢も当然プロ野球選手でした。「10年後には、プロが1億円出して僕を獲得するくらいの選手になって楽させてあげるか ら」って母に話したりしていましたね。小学校6年になると主将に抜擢されて、4番でキャッチャーです。休みの日に対外試合があると、必ず家族全員で応援に 駆けつけてくれていました。家族の応援がとてもうれしくて頑張れましたね。野球以外にはまったのは、習字と将棋かな。習字は小学校3年くらいに初めて、中 学まで習い続けていましたよ。将棋は父とのコミュニケーションツールでしたね。今でも将棋は大好きで、日本将棋連盟さんから、三段の免状もいただいています。

<古田敦也をつくったルーツ.2>
スポーツセレクションではなく、普通に受験して立命館大学へ進学

 中学でもキャッチャーとしてそれなりに活躍していましたので、野球の強豪高校数校からお誘いをいただきました。でも有名校だと部員がすごく多いか ら、レギュラーになってプレーできるかどうかわからないでしょう。家もそれほど裕福じゃなかったですから、自宅から一番近い川西明峰高校へ進学することに したのです。この学校は僕で6期目という新設の進学校で、スポーツよりも勉強に力を入れるという校風。一応、野球部には入部しましたが、放課後の部活時間 は4時半から始めて夏場は6時まで、冬場は5時半までに練習を終えて下校することがルール。しかも、グランドもほかの部活動との共同利用。朝練もやれない ですから、甲子園なんて夢のまた夢です。

 それでも野球が大好きですから、毎日欠かさず練習には参加 します。高校2年の夏の大会が終わり、3年生が部から去っていくと、僕がキャプテンに選ばれ、キャッチャーで4番を任されました。高校時代の3年間は、県 大会で3回戦に進出したのがベスト記録でしたね。クラスの進学組は、学校が終わるとすぐに塾や予備校に通っていましたけど、僕は3年の夏まで部活を続け て、帰宅したら父や兄と将棋を指す。そんなのんびりした毎日ですよ。

 大学へは野球推薦ではなく、普通に受験して入ろうと。高校3年の夏が終わった8月から本格的に受験勉強を始めました。結果的に立命館大学と関西大 学に合格し、最初は関西大学へ行くつもりだったのです。すると川西明峰野球部監督の前田芳美監督が、「立命館大学野球部の練習に参加してこい」と。そこ で、立命館野球部監督の中尾卓一監督に「ぜひ、ほしい」と、みそめられてしまった。でも、京都だと下宿しなければならないからお金がかかる。両親は、自由 に決めていいと言ってはくれていましたが、これ以上負担をかけたくないですし、やはり自宅から通える関西大学に行こうと立命館までお断りに出向いたので す。そうしたら、お会いするなり中尾監督が勘違いだったのか、狙いだったのか、「ついに決心してくれたか!」と握手までされちゃいまして。そのまま強引に 押し切られるかたちで、僕の進路は立命館大学の経営学部に決定したのです。

<立命館大学で大活躍!>
大学4年、プロへの気持ちは満々。しかし、ドラフトでは声がかからず……

  さすがにこれまでと違って、大学の野球部は厳しかったですね。立命館は名門ですし、同期に甲子園出場経験者が10人くらいいました。でも、中尾監督 は体育会にありがちな軍隊的指導を嫌う人で、伸び伸びとした部の雰囲気や体質は僕にぴったり。それもあって自分の力が発揮しやすかったのでしょう。このこ ろはまだ、本気でプロを目指すつもりもなかったですから、将来の選択肢を広げておくため経営者の本を読み漁るように。やはり関西ですので、最初はナショナ ルの松下幸之助さんとかです。わくわくしながら読みましたよ。松下さんシリーズを読み終えたら、次はソニーの盛田昭夫さんとか。まあ普通、経営者に憧れる ようになるのって大学生くらいからでしょう。それと同じ感覚ですよね。

 3年の関西学生リーグで春秋 連続優勝して、4年ではキャプテンになり、日本代表にも選出されます。本気でプロを目指そうと考え始めたのはこのころですね。日本代表チームには全国の大 学生からトップレベルの野球選手が集るでしょう。僕以外のキャッチャーもいたのですが、「アマチュアのトップレベルはこんな感じか」と思い、これなら自分 もプロでやれるんじゃないか、何となく本気で考えるようになりました。

 いくつかの球団のスカウトが立命館のグランドへ僕を視察するために訪れていましたし、大学側も僕に指名がかかると踏んで、ドラフト当日、会議室に 記者会見用のひな壇を組んでくれたのです。もちろん僕も完全にプロになる気持ちになっていました。結果は……、どこからも声をかけてもらえなかった……。 あれは本当に悔しかったですよ。あとになって聞いたのですが、「メガネをかけたキャッチャーは大成しない」という判断だったとか。結局、いくら自分が行き たいと強く願っても、来てくれって呼ばれない選手になれない限りプロには行けないんですよね。「じゃあ呼ばれるような選手になって、絶対に見返してや る!」と気持ちを切り替えて、2年後のプロ入りを目指し社会人野球の道を探し始めます。その年にはソウルオリンピックも開催されるし、それを目指そうと。 そしてドラフト後から急遽、就職活動を開始。一般学生としてトヨタ自動車の新卒採用に応募し、何とか入社することができたのです。

<トヨタ自動車で働きながらプレー>
ソウルオリンピックへ出場。キューバに敗れるも銀メダル獲得

 トヨタでも、もちろん野球部に入部しましたが、普通の仕事もしっかりしましたよ。配属されたのは、愛知県豊田市にある工場の人事課第三人事係で、事 務スタッフが200人くらいいる所帯です。朝6時に起きて、7時半から12時まで仕事して、昼から野球部の練習に参加。練習が終われば食事をとって帰って 寝る。ほぼその繰り返しの毎日でしたね。人事課第三人事係の仕事は人事というよりも、総務の仕事に近いものでした。工場内から出るいろんな苦情を処理した りね。あと自動車メーカーですから、従業員が自動車事故を起こさないよう、交通安全キャンペーンもよくやりました。それと、工場ってスポーツイベントが盛 んなんですよ。マラソン大会などのお手伝いもしました。6000人いる工場の従業員の方々が、気持ちよく働くための環境づくりが僕に与えられた仕事でし た。

 会社員として働いた2年間で学べたことは多いです。2kmもの長い組み立てラインを流れて、やっと車1台が完成 するのですが、その工程には数え切れないくらい多くの人々が携わっています。しかも車が完成したその先には販売店があって、営業して売れて初めて利益が生 まれる。そう考えると、ネジ1本の大切さが身に染みてわかるんです。また、毎月決まった給料で生活をしますから、普通の社会人の金銭感覚も身に付いたと思 います。将来プロに行けたとしても、もしかしたら5年くらいでクビになるかもしれない。そのとき社会に放り出されても、これらの体験や経験がきっと役立つ だろうと。もちろんプロ野球選手として、さまざまな物事を考えるうえでも、貴重な判断材料となっています。

 さて、野球のほうですが、ソウルオリンピックの日本代表選手に選んでいただきました。すべてのゲームに出場することができ、アメリカに決勝で負けはしま したが、銀メダルを獲得することができたのです。でも代表選手発表の際は、本当に緊張しましたよ。大学4年のドラフトのとき以上に。選考会の時に実力が発 揮できたとは思えませんでしたから、落ちるんじゃないかなと。強化委員の方が僕を選んだ理由は、「古田は元気がいいし、ボールカバーにも一所懸命回ろうと している」というものだったそうです。何度もそういった代表選考を経験していますから、「選ばれるためには、選んでくれる側の好みや視点を知ること」とい うことが重要であることがわかってきたんですよ。もちろん選ぶ側は球界でもトップレベルの方々ですから、彼らの考え方を貪欲に学びたいという思いもありま した。監督との関係も同じです。どんなプレーができるキャッチャーを望んでいるのか、それを知らないと試合に出してもらえませんからね。

今日の正解がいつか弊害に変わることもある。
常に変化を楽しみ、進化の道を選ぶ自分でありたい

<念願のプロ野球選手人生の始まり>
野村克也監督との師弟関係が生まれ、2年目には首位打者のタイトル獲得

 社会人2年目、1990年のドラフトでは、ついにヤクルトスワローズから2位指名をいただきました。プロ野球選手としての人生の始まりです。フロン トの方から「背番号は何番がいい?」と聞かれ、僕は最初「44番でお願いします」と答えました。なぜなら昔、阪神の救世主とよばれたランディ・バース選手 がつけていた番号だったから。めちゃくちゃ打てそうな番号じゃないですか(笑)。でも、「それは空いていない」と。「じゃあ、8番で」と答えたら、今度は 「それは広沢の番号だから無理」と。で、そのときに空いていた27番が、プロ野球選手としての僕の背番号となりました。それなら最初から空いている番号を 提示してくれればいいのにね(笑)。

 そして監督は、現在、東北楽天ゴールデンイーグルスを率いる、あの野村 克也監督です。社会人野球でオリンピック代表に選ばれたときの教訓から、まずは野村監督の好みをとことん知ろうと、彼に関する本は全部読みました。やはり 試合に出してもらわないと意味がないですから。そして、まずは素直に野村監督の指導に身を任せようと決めたのです。「ID野球」(データ重視の戦略)はも ちろん、ミットの構え方から、リードのイロハまで、その教えはまさに目からウロコの連続。毎日、自分が変わっていくのがわかりましたよ。4月11日の中日 戦で初出場の機会をいただき、4月30日の巨人戦で初安打と初打点を記録。このシーズンは年間106試合に出場、ルーキーとしてオールスターゲームにも参 加し、ゴールデングローブ賞も受賞。野村監督との出会いもありましたし、僕にとっては幸先の良いプロ野球人生の幕開けだったと思います。

 2年目には、当時、中日に在籍していた落合博満選手と首位打者争いを演じます。結果は、僕が最終戦で1安打を打って、「3割3分9厘8毛0糸」。 落合選手が、「3割3分9厘5毛7糸」。わずか「2毛3糸」の差で、キャッチャーとしては野村監督以来、26年ぶりの首位打者を獲得することができたので す。この年は、チームも11年ぶりのAクラス入りに成功し、うれしいシーズンとなりました。3年目、大混戦を抜け出した我がスワローズは、実に14年ぶり のリーグ優勝を果たします。4年目のシーズンは、リーグ2連覇。日本シリーズで西武ライオンズを破って、15年ぶりの日本一をヤクルトファンにプレゼント することができました。その後も、1995年、1997年、2001年と、リーグ優勝、日本一のタイトルを獲得しています。

<日本プロ野球選手会5代目会長に>
球界の未来に貢献できるよう、正しい道を模索し続ける

 僕は1998年に、日本プロ野球選手会5代目の会長に就任しています。プロ野球選手って、社会的にも責任が大きいとよく言われるじゃないですか。 「プロ野球選手は子どもたちの夢」という話だって、いつの時代も言われることでしょう。僕を含め、球界で活躍するトッププレイヤーたちのさまざまな権利を 強化していくことが、大きな視点でとらえると球界の明るい未来につながると。プロ野球選手の中にもいろんな人がいますから、そんなことはやりたくないとい う人も中にはいますよ。でも、僕は自分がやるべきだと思った。だから、選手会長をお引き受けすることを決めたのです。

  たとえば、プロ野球選手の肖像権の管理を日本野球機構ではなく選手会が行なうこと、140試合制の導入に対してセ・パ交流試合を取り入れること、また、契 約改定時の代理人交渉制度やFA(フリーエージェント)の期間短縮、ドラフト制度の改革に、プロ・アマ交流の関係改善などなど。昔から、こうしたほうが正 しいと思えることがたくさんありました。ただし、相手側は当然、今のままでいいと考えています。だから、そこを突破するのは正直大変です。交渉事もたくさ んありますし、向こうは必死できますから、こちらはそれ以上に必死で勉強して対抗しなくてはならない。なぜ一所懸命やったかというと、やはり、正しくない ことから逃げたくなかったということですかね。おかしいことは、おかしいと言い。正しいと思ったことは、引き下がることなく、是正していきたかったという ことです。

 当然、うまくいかないこともありますが、うまくいったものもあります。2000年には、代理人制度は認められましたし、その後セ・パ交流試合も始 まりました。また、2004年には、プロ選手がシーズンオフに母校で練習することが認められています。旧来のままでは何かおかしいと思えることが、少しず つ正しくなり始めているのではないでしょうか。2004年のセ・パ合併問題もそう。「たかが選手が」と言われながらも反対を主張し続けたのも、プロ野球 70年の歴史で初めてのストライキをやむなく敢行したのも、選手やファンの皆さんにおよぼす影響を考えた結果、日本プロ野球の行く末が危ういと感じたから です。そういった意味で、東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生し、2リーグ制が維持できたことは本当に喜ばしいことだと思っています。

<未来へ~古田敦也が目指すもの>
地域、ファン、チーム、みんなが喜ぶ世界を創りたい

 2006年のシーズンから、僕は選手兼監督をお引き受けしました。そのうえで、「Fプロジェクト」という取り組みを始めています。いろんなイベント や活動をしてみたのですが、結果はイマイチでしたね(苦笑)。それでも、2005年まで毎年ずっと動員数が減っていたところを、昨年は約1%アップと、 やっと微増に戻せたのでまだまだこれからかなと。伊達眼鏡でもいいので、眼鏡をかけて球場に来てくれたファンに特典をプレゼントする「メガネデー」や、同 じく「浴衣デー」「仮装デー」など、面白いデイリーイベントで話題を撒きましたから、今年あたりはもっと効果が出てくるんじゃないですかね。というか期待 しているんですけど(笑)。

 そもそも東京って、地域密着感が希薄な街って言われるでしょう。でも、 大阪のタイガース、福岡のソフトバンク、千葉のマリーンズ、札幌のファイターズなどは、「自分たちのチームだ」って盛り上がっている地域が実際にあるじゃ ないですか。我々も東京という場所に根ざしたい。昨年からチーム名に東京を入れて「東京ヤクルトスワローズ」としましたし。ここで生まれ育った人や、進学 や就職で東京に来られた方などに、スワローズのファンになっていただき、一緒に盛り上がっていきたいんです。プロのスポーツクラブって、野球に限らずお互 いの地域性を持って戦うことがすごく面白いでしょう。だから、この地域の方々向けのイベント、野球教室、学校訪問などを行なって、まずは我々が地域を活性 化していこうと。それが、東京ヤクルトスワローズの役割であるとも思っていますから。

 もうひとつは、球場自体をエンターテインメントの場所として演出することですかね。野球はプレーに間(ま)があるスポーツですから、もちろん我々 は真剣にプレーして、その間にプレーとは違った楽しみを取り入れていく。たとえば、先ほどのデイリーイベントや打ち上げ花火もそうですし、おいしい食べ物 や、オーロラビジョン、音楽などなど、神宮球場に行ったらゲームも面白かったけど、すごく楽しかったと思ってもらえるような仕掛けをどんどんやっていきた いですね。「今日は何しようか?」と迷っている地域の人たちが、「そうだ神宮に行って応援しよう!」、そう思っていただける場所になれればいいですね。

 今年の目標ですか? 当然、本業ですから「チームを日本一に」っていうのが一番ですよね。それ以外っていうと、やはり地域の活性化でしょうか。そ れと僕もいろんなところにお邪魔してるんですが、いじめなど教育問題が皆さん一番の関心事のようです。「Fプロジェクトの“F”はフレンズのF」でもある ということで、小学生を球場に招待して、野球というスポーツを介して友だちをつくってほしいなと。我々の本拠地である東京23区には約840の小学校があ るそうなので、今年はできるだけたくさんの子どもたちを神宮球場に招待したいと思っているんです。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
常に上のレベルを目指したいなら、変化を楽しみ自分を進化させること

 起業を目指す方へのメッセージですか。業種など目指されているものがいろいろですから、一概には言えないかもしれないですが、「柔軟に対応する」っ てことじゃないでしょうか。僕は初志貫徹って言葉があまり好きではなくて、もちろん高い志を目指すために努力するのはいいことだと思うんですが、最初に決 めたものの軸をぶらしてはいけないという感覚が強すぎるとなかなか先に進めないと思うんですよ。自分が前に行こうとしたり、新しいことに挑戦したいなら、 やはり変化が必要でしょう。特に僕ら野球選手は技術屋なので、これまではこうやって打っていたけど、もうひとつ上のレベルに行きたいと思ったときには、当 然違うやり方にトライしなくてはいけない。ピッチャーの球が速くなってきたとか、こんな変化球を投げるようになってきたとか、僕らはそれにもすぐに対応し なくてはいけないんですから。何が言いたいかというと、あまり今の自分に固執しすぎると、本来の可能性にブレーキをかけることになるかもしれないというこ と。僕自身も、変化を嫌う人はなかなか上のランクに行けないという実感がある。もちろん、ただ変わればいいっていうわけではなくて、変化することでその先 に進化があるという考え方をすることですよね。

 もうひとつは、できることをとことんやる、積み上げていくということでしょうか。これは、プロ野球選手としての僕の感覚ですが。「年間何勝しますか?」ってよく聞かれますが、そんなの全くわかりませんよ (笑)。目の前の試合をただ一所懸命やるしかないんです。もしも「目の前の試合をどうしますか?」って聞かれたら、たとえば1イニング1イニングを大切に するとか、1個のアウトをどうやって取るかを必死で考えるとかですよね。野球はアウトを3つ取ればいいので。もっと言えば、1球1球どうやって集中して、 相手の裏をかいてやっていくか。そうやって突き詰めて、積み重ねてずっとやっていくと、たぶん、試合に勝っているんですよね。そして振り返れば勝ち星も多 くなっていると。

 小さなことかもしれないですが、僕らの世界でいえば、自分にできる目の前にあることに真剣に取り組んで、積み重ねていくことが大きな勝利につな がっている、そんな感覚なんですよね。いろんな考えの方がいらっしゃいますから、もちろん対極の考えもあるのでしょうが、僕はそう思っています。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康

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