第27回 株式会社リサイクルワン 木南陽介

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

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第27回
株式会社リサイクルワン 代表取締役
木南陽介 Yosuke Kiminami

1974年、兵庫県生まれ。1993年3月、県立神戸高校を卒業後、同年4月、京都大学総合人間学部に入学。環境経済学と環境化学を専攻し、生態系などについて研究。幼少の頃から親しんだ神戸の自然環境の移り変わりを目の当たりにしたことと、大学での研究活動で、環境問題に強い関心を持ち始める。大学時代は研究のほかに、バンド活動、中国やパキスタンへのバックパック旅行にもチャレンジ。大学3年次より、アルバイトとしてプロバイダー立ち上げの仕事に参加。その後、大学を1年間休学し、自ら起業。大学の仲間とともに有限会社メディアマックスジャパンを設立、代表取締役に就任。大学卒業後、事業戦略立案ノウハウを学ぶことを目的に、マッキンゼー・アンド・カンパニー・インク・ジャパンに入社。2年間、新規事業と事業再構築に従事し、退社。2000年5月 30日、ごみゼロの日に株式会社リサイクルワンを設立し、同社の代表取締役に就任した。日夜、「環境をもっと新しく」を企業理念に、さまざまな環境問題の解決に力を注いでいる。

ライフスタイル

好きな食べ物

今なら、上海蟹、寒鰤がいい
食べ物の「季節」にはこだわっています。今なら、上海蟹、寒鰤がいいですね。魚が好きで、どちらかというと洋食より和食が好きです。お酒は焼酎をよく飲んでますね、最近は。でも基本的に食事に合えば何でもいいという感じです。

趣味

美術館めぐりと月いちの茶会 
近頃は美術館めぐりですかね。ちょっと時間ができたら、ブリジストン美術館や原美術館に行ってしまいます。あとは月に1日、友人たちと茶会をしてます。日 本の四季、季節感を感じられるイベントが好きなんです。浜離宮や有栖川公園なども、よく散歩しに出かけるポイントです。元々アウトドア派なのに、日常に自 然が不足しているからですかね(笑)

好きなブランド

B&Wのステレオ
あまり身の回りのものには頓着しないですね。特にこだわるブランドとかもないです。むしろ引越しを契機に買ったステレオとかには多少こだわりますね。 B&Wのスピーカーはいいですよ。音の分解能がすごく高い。あとはベッドぐらいかな。テンピュールのベッドなんですが、これがすごく熟睡できます。

1週間休みがとれたら

自然が押し寄せる屋久島へ
休みですか~。12月は1日しかなかったです。その唯一の休日には、スポーツジムに行ってひと泳ぎ。それから「もみの気ハウス」六本木店で150分のアロ ママッサージを受けてました(笑)。あとは自宅で2回洗濯機を回して終了ですね。独身なもんで。夜は買いためてる本を読んでましたね。もしも1週間休めた ら、自然が押し寄せてくるような場所に行きたい。以前1度行った、屋久島にまた行きたいですね。

最新の情報と技術、独自ネットワークの活用で、安心で心地よい地球環境の実現に貢献します!

 21世紀は環境の世紀。国や企業、私たち個人個人も、さまざまな環境保護への取り組みに関心を持たざるを得ない時代が始まっている。2000年4月、国は リサイクル基本法を制定。経済活動を行う多くの企業にとって、使用済み資源のリサイクルが義務付けられるようになった。同年の5月30日に、株式会社リサ イクルワンを立ち上げたのが木南陽介氏である。廃棄物排出企業、処理企業およびリサイクル企業、リサイクル資源ユーザーの3者をネットワークした電子取引 市場の開設を行い、それまでつながりにくかった企業間情報マッチング事業をスタート。そして設立から6年。現在では環境問題のコンサルティングサービス事 業、リサイクルオペレーション事業まで活動範囲を広げ、世界でも稀に見るリサイクル・ワンストップ・ソリューション・カンパニーに成長を遂げている。木南 氏は言う、「環境といえばリサイクルワンと呼ばれる企業に早くしなければ」と。今回はそんな木南氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考 え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<木南 陽介をつくったルーツ.1>
兵庫がくれた自然環境を満喫した少年時代

 私が産声を上げたのは、神戸の垂水区です。その後1歳で引っ越してから高校を卒業するまではずっと、灘区の家で育ちました。六甲山のふもと、住宅街 が山と接するあたりの自然豊かな環境で暮らし、しかも自分が通った小学校・中学校・高校ともすべて長い坂の上にありましたから、通学で足腰はかなり鍛えら れましたよ。小学校のころの思い出は、やはり自然の山を相手に遊んだことでしょうか。夏は早起きしてカブトムシ取りをしたり。また、仲間と自然教室に参加 して、キャンプしながらアケビ、マテバシ、タラの芽などを取って食べたりね。インドア派かアウトドア派かと問われれば、自然の中で遊びまわる完全なアウト ドア派でした。

ちなみに父は国語の教師、母も元英語の教師で、兄に私に妹の5人家族。私は小さなころ から好奇心が旺盛で、特に兄がやってることは気になってたんでしょうね。勉強も真似してやるようになって。成績は常によかったと思います。勉強は嫌いじゃ なかったですよ。水泳も小学生時代に始めて、得意は平泳ぎでした。

中学のころには、旅の楽しさを知り ましたね。母方の祖父母が鹿児島出身で絵描きをしていまして、ひとりでぶらりと鹿児島の個展を訪れたり。また、仲間と一緒に行った高知の足摺岬で素潜りし たときの感動は、今も忘れられません。海で10メートル以上の透明度、驚きました。勉強のほうも相変わらず得意でして、このころが一番できたんじゃないで すかね。自分でも思いますが、当時はすごく優等生でしたね(笑)。

高校は一番家に近い学校へ行こう と、県立神戸高校へ進学。ソニーの井深大さんや村上春樹さんが大先輩です。自分の生きる意味についてまじめに考え始めたのはこのころです。学校への関心は ほとんどなく、山岳部に入って休みになれば山に登っていました。その一番の目的は、人のいないところに行くこと。誰も足を踏み入れていないところを歩くこ と。そして、飲んで歌うこと(笑)。ですが、自然の中に身を置きますから、環境の変化には自ずと敏感になる。何でここにダムや道路が必要なのか? 何でこ の海を埋め立てる必要があったのか? 釣りが好きだったのですが、神戸の海で釣った魚を食べてはいけないと言われたことも。後に問題が起こり得ることを 知っているのに、人間はなぜ自然を過剰に壊してまで開発を進めるのか? この難しい宿題を解決できる道はないものかと、おぼろげとではありますが考えるよ うになりました。

<木南陽介をつくったルーツ.2>
大学時代のバックパック旅行で、人生の有限と自分のちっぽけさを知る

 高校2年になると、みんな大学への進路を気にし始めます。学校も親もある種当然だとは思うのですが、偏差値の高い大学へ進むべきだと言うわけです。 私はなんだかその考え方に納得できなくて。なんとなく覚めていました。でもある日、新聞記事で京都大学に総合人間学部という学部が新設されるという記事を 発見。総合人間学って何だ? どうやら環境問題を学べるらしい。新しいし面白そうだ。私の中にある旺盛な好奇心は、この学部への進学を望むようになりまし た。

そして高校を卒業後、無事、京都大学総合人間学部へ入学。ただし、最初に始めたことはバンドと バックパッカーです。すぐに仲間と3人でロックバンドを結成し、私はギターを担当し、家も3人で借りて共同生活をスタート。1年から2年までは、そんな音 楽に囲まれた生活を送りました。そして3年になってから、私は中国とパキスタンへのバックパック旅行へ出発。50日くらいではありましたが、陸路で 4000キロを移動。8000メートル級の高い山々を眺め、道なき道を進み、道中でサルモネラ菌にやられて入院するなど(苦笑)、本当に得がたい多くの経 験をすることができた。初めて目にする新しい世界に自分の身を置いたことで、人生はそんなに長くない、やりたいことを本気でやろうという気持ちがどんどん 大きくなっていきました。

旅行から帰ってきた1995年の夏ごろから、私はあるインターネットプロバ イダーでアルバイトとして働き始めます。思えばこのころから、いっさいギターを弾かなくなりました。ビジネスにのめりこんでいったんですね。時はインター ネットの黎明期。プロバイダー事業をゼロから立ち上げるという仕事で、翌4月のサービスインまでのさまざまな工程管理や収益シミュレーションづくりなどを 担当させてもらった。当時21歳ですが、約半年後にはなぜか正社員となり、毎日、会社へ出勤するようになっていました。サービス開始当日に、自分がつくっ て配った入会勧誘のチラシを手にした会社員の方が「このIDで入会したいんだけど、大丈夫?」と会社に直接申し込みに来られたときには、すごく感動しまし たね。事業の手応えとはこういうものかと。ビジネスは世の中と普通につながっていました。

1年弱、こ のインターネットプロバイダーで働き、事業の面白さに目覚めた私は、1年間、大学を休学して自分で事業を立ち上げることを決意します。そうして1996年 の7月に私が代表となり、有限会社メディアマックスジャパンを設立。Webに特化したシステム開発事業をスタートさせるのです。

<学生ベンチャーを立ち上げ!>
大学仲間とシステム開発会社を起業。事業のリアルな「手応え感」を得る

  総合人間学部は文系と理系があって、僕は文系だったんですが、理系の仲間が集まる研究室によく顔を出していました。そんな理系人間たちと、ブラウザ を通じてネット通販事業ができないか、とかVRLMを使って三次元のオンラインゲームができないか、とかいろんな妄想をしながら事業化の模索をしていたの です。有限会社メディアマックスジャパンは、そんな理系エンジニアの仲間の力を活用したビジネス。私が営業の尖兵となり、企業に企画を持ち込み、システム 開発、納品、フォロー、また会計や契約と、経営者として小さいなりにも幅の広い仕事にかかわりました。

  当時手がけた仕事は、京都観光連盟の旅館PRサイト、京都発祥の天下一品ラーメンの通販サイト、ある企業から依頼された名刺自動受発注サイトなど。サイト のインターフェイスづくりから、申し込み、データベース解析まで、ワンストップでこなせることが差別化となっていました。私の自宅をオフィス代わりにし て、朝9時からみんなで仕事を始めて、夜寝ていても誰かが二段ベッドの下で作業している……そんな毎日です。初年度の年商は1000万円に満たなかったと 記憶しています。

 勢いで学生ベンチャーを始めてはみたものの、半年くらい経つと、しだいに先を考え始 めます。世の中がデジタル化の方向に進んでいくことは間違いありません。しかし、デジタルの利便性を増やしていくことが私のやるべきことなのか? 確かに 儲かるだろう。しかし20年後、30年後もこの仕事を続けていていいものか? ちょっと違うかもしれない。自分は一体人生を賭けて何をやろうとしているの か? そのときに頭に浮かんできたのが、少年時代に遊んだ自然あふれる神戸の原風景。こういう世界を、もっともっとよくしていきたい。そこには自分の心の 底からの気持ちがある。もともと環境問題という難しい宿題を解き明かすヒントを得るために大学に進んだわけです。私がやるべきは、「環境という自分の自然 なる興味」と自分の「ビジネス欲求・事業欲求」を融合させた、「環境問題を解決するための事業」なのではないかと。

  その後、先に大学を卒業した友人に誘われ、マッキンゼーのインターンシップに参加します。ここで、大きな事業を展開していくためには、さまざまな経営戦略 を学ぶ必要があるということを学びました。そして、環境問題を解決する事業立ち上げの準備として、私はマッキンゼーへ入社することを決意。入社する前に、 3年後に退社して、2年間、オランダの大学院で環境問題について学び、ノウハウを持ち帰って日本で起業するという計画を立てていました。

<さらば、マッキンゼー>
自分が歩むべき道を見つけ、入社1年半後、事業計画を練り始める

 そしてマッキンゼーに入社した私は、官庁や、移動体通信、半導体、レコードなどの大手企業を担当し、新規事業推進、事業再構築などのコンサルティン グに携わります。さまざまなファクトを積み重ね、クライアントにこうすべき、ああすべきという提案をしていくわけです。もちろん面白みもあったのですが、 いつも先が見えないジレンマを感じていました。それはやはり、大学時代に事業の「手応え感」を自分自身がすでに得ていたからだと思います。たとえば半年間 のプロジェクトで盛り上がるのは、中間発表と、最終発表のときで、それでひとつの仕事は終了。しかし私は、半年後のその先にある「手応え」を知りたいので す。

 そんな思いを抱きつつも、仕事を続けていると、ある段階からコンサル業務自体に慣れてきます。それで少し余裕が できてきた1年半後、私は仲間たちとリサイクルワンの事業計画を書き始めることにしました。朝の9時から夜の22時まで会社の仕事をして、その後の3時間 くらいを情報収集と仲間たちとの議論に使って。マッキンゼーの環境イニシアティブの勉強会にもよく参加しましたね。

  事業計画を詰める中で、2000年4月にリサイクル基本法が制定され、日本が循環型社会の実現に向けて本格的に動き出すことはわかっていました。国がルー ルを定めて、みんなで地球環境にやさしい社会をつくる。みんなが少しずつ負担して、資源の有効活用をしていこうということ。廃棄物を排出する企業は、1に リサイクルし、だめなら燃やす・埋め立てるという仕組みになりました。

 リサイクル産業には大きく分けて3つの参入の 仕方がありました。ひとつは、リサイクル事業の運営を行う事業者そのもの。もうひとつは、リサイクルを推進する企業をサービスで支援する、サービス事業 者。そして、排出企業とリサイクル事業者をつなげる情報事業者です。また当時、リサイクル産業には、お金、人材、情報が全く不足していました。そして私た ちは、この3つを供給できるポジションをいち早く確立することによって、リサイクル事業の発展を促進することが可能であると考えたのです。

「環境といえばリサイクルワン」と呼ばれたい!できるだけ早く実現したい企業目標です

<リサイクルワン、産声を上げる>
リサイクル関連企業をネットワークする、電子取引市場を開設し、事業開始!

 2000年5月30日、ごみゼロの日に株式会社リサイクルワンを設立。資本金の1000万円は私を含め、6人の協力者からの出資でまかないました。 先に述べた3つのリサイクル支援事業のうち、最終的には大きなリサイクル事業そのものをやってみたい。ただその実現には数十億円という設備投資が必要で す。そこで立ち上げ当初、まったく資金のない私たちは、情報事業から始めて、サービス事業、リサイクル事業の運営へと展開していく青写真を描いて事業をス タートします。最初のオフィスは、赤坂にあるベンチャー企業のオフィスに間借りというものでした。

 そしてま ずは、製造メーカーなどの排出企業に最適なリサイクル事業者を紹介する、電子取引市場を開設することに。当時は情報がどこにあるかわからず、特に排出企業 は法律の改正にどう対応すべきか、情報不足に困っていたのです。資本金1000万円のうち、400万円は電子取引市場の開発費に消えました。ベータ版をま ずアップして、改善しながら進めるというものです。そして2000年8月に、カットオーバー。そこから登録企業の募集営業を開始。最初は海のものとも山の ものともわからないサービスですから、門前払いも多かった。でも足を使って各地のリサイクル工場を回り、1社ずつ登録してもらうという地道な営業を続けた のです。登録者数が300社を超えるまでは、本当に大変でした。

 スタートから1年半後が一番苦しかったです ね。お金がなくて。事業は徐々に拡大していくとともに、人材が必要となります。しかし、人材を増やしていくと、当然ながらコストも増加するわけです。 2000年ころはまだネットバブルの影響か、当社にも1億円単位の出資話がいくつも舞い込みました。確かに資金がほしいのですが、売り上げもほとんど立た ないうちに投資を受けるのは、何か気持ち悪い(笑)。だからここはひたすら自力で稼いでしのぎました。

 この 難局は、私や取締役の役員報酬を5万円ほどに下げて受注を増やすという力技で何とか乗り切りました。もうひとつ、マッキンゼーの大先輩である大前研一さん から、環境事業立ち上げのコンサルティングを依頼いただいたのです。この仕事もスタートアップ時の苦しい経営を助けてくれました。おそらく、大前さんなり のベンチャー支援だったのだと思います。ありがたかったですね。

<スムーズな成長を支えてきたもの>
油断できない難局好きで、常にアクセルを踏みすぎる自分

 登録が300社を超えたあたりから、口コミで登録企業は増えていくようになりました。一方で、さまざまな業界団体の講演会やセミナーなどへも積極的 に参加。そうやってリサイクルワンの認知度アップを図りながら登録企業を増やし、当社の電子取引市場は現在、廃棄物排出企業、処理・リサイクル企業、リサ イクル資源活用企業合わせて1500社が登録するという国内最大のマーケットに成長しています。

 そ うして電子取引市場でのマッチング事業を推進しながら、第二次フェーズとしてサービス事業にも進出。2002年のゼロエミッションサービスに始まり、環境 デューデリジェンスサービス、土壌汚染対策サービス、リサイクル事業化サービス、アスベスト対策サービス、リサイクルガバナンスサービスなどを展開してい ます。2000年、設立初年度の年商はわずか1500万円。しかし、その後はほぼ倍々で年商は増加し、2006年度は12億5000万円を計上。2007 年度は、20億円を突破できそうです。

 資金計画も順調で、2006年の第4回第三者割当増資によ り、当社の資本金は4億3842万円に。リードインベスターであるグロービスとの共同事業も始まっています。グロービスが30億円規模の環境ビジネス支援 投資事業を行っていますが、その案件審査を当社が担当。もちろん投資先企業への事業化支援も行います。このような提携もあり、設立当初に計画していた顧客 との共同事業もいくつか立ち上がり始めています。この顧客との共同運営事業を、今後もしっかり計画・運営していかなければなりませんね。

  極めて順調に事業は進んでいると思っています。でも、社員からはいつも「木南さんはアクセル踏みすぎですよ」という苦言をもらっています(苦笑)。確かに 成長を止める決断をすれば、もっと安定した経営ができるでしょう。しかし、それではこの事業にトライした意味がない。自分としてはもっともっと前のめりに やっていきたいと。1日にグッドニュースが3つあって、バッドニュースも2つくらいあるような、そんな手応えある今の毎日が楽しくもあり、大きなやりがい も感じています。そういった意味で、油断のできない状況が私は好きなんでしょうね。

<未来へ~リサイクルワンが目指すもの>
安心で心地よい環境の実現へ向け、より高い山を見つけ登り続けます!

 日本だけではなく、中国などの周辺諸国でも環境問題の改善が叫ばれています。たとえば中国の環境汚染は2004年の 1年間だけで7兆円の被害が発生しているという試算があります。しかし、事前に2兆円の投資をしておけば、環境汚染を未然に防ぐことができたのでは、とい う試算もあります。そういった意味で、私たちの力が発揮できるマーケットが海外にもあるとは思うのですが、まず当面は日本の環境問題を解決することに注力 していきます。

 今後も、情報、サービス、オペレーションという3つの側面を有した環境ソリューショ ン専門企業として、常に環境対応レベルのアップと、コストダウンを同時に目指します。目標のひとつとして掲げているのが「環境といえばリサイクルワン」と 呼ばれる存在になること。この山の頂点に立つためには、環境のレベル1=心地よい、を実現せねばなりません。その下には、レベル2=安心、レベル3=安 全、レベル4=危険が広がっていますので、ひとつずつレベルを上げていく必要がある。たとえば現在のレベル4とは、工場汚染やアスベスト汚染が挙げられま す。全国規模で考えると日本だけでもとても高い山ではありますが、登りきりたいですね。

 「心地よ い」の感覚はもちろん人それぞれでしょう。しかし人が住みたい場所として、和風の平屋がいいのか高層マンションがいいのか、暖かい沖縄がいいのか寒い北海 道がいいのか、都会が好きなのか田舎が好きなのかなど、好みは人それぞれです。どこにいても自分にとって最適な「心地よい」環境がすぐに手に入り、誰もが 「心地よい」と思えるような世界をつくりたい。ひとつひとつレベルを上げていくことによって少しでもそういった世界に近づくこと、これが事業を通して実現 したい夢でしょうか。今でも「あのビルのアスベスト問題はリサイクルワンが」「あの土壌汚染の改善はリサイクルワンが」と思えることが喜びです。

  思い返せば、神戸に住んでいたころ、重い荷物を担いで山道を歩くことが好きでした。「あの壁の向こうに何があると思うかイメージしてください」という心理 テストがあるでしょう。多くの人は暖かな南の海などをイメージするそうなのですが、私は頂に真っ白な雪を積もらせた高い山をイメージしてしまうのですよ (笑)。そういった意味で、私は常により高い山を目指して事業を行っているのだと思います。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
社会の進化を担う事業をみつけること。答えは必ずあなた自身の中にある!

 儲けるだけを目的に起業するのは本当に意味がないと思います。それだけではあまりに世の中単純すぎるでしょう。金銭面の個人的な充足だけなら、すぐ に達成してしまいかねない。やはり社会性をもった事業、社会の変革を実感できる事業を手がけることに充実があると思う。自分たちの出現によって明らかにビ フォー/アフターに違いが起こる点、それが何なのかを考えてみてください。それが見つかればきっと協力者は現れますし、継続することもできるでしょう。顧 客に対しても社会に対しても、「今までにない新しいこと」を考えながら事業を続けることができれば、収益はおのずとついてきますよ。その結果として。

  そしてチャレンジすることが見つかったなら、できるだけ高い目標を設定するべき。山登りも高いほうが達成感は大きいし、誰も登れない山を征服することに喜 びがある。それと同じ。小さな事業で純度高く結果を残すのも悪くはない。でも、せっかくベンチャー企業なんだから、すごいスピードで成長して、ずっと大き な価値を残したい。最初から富士山を目標にするのではなく、エベレストを目指すのです。なかなか近づくことのできない目標のほうが絶対にやりがいがありま すから。

 起業したいが何をやるべきかで悩んでいる人が多いと聞きます。しかし、それは自分で考え抜 くしかない。答えは必ずあなたの中にあるのです。最初にお話しましたが、誰かに喜んでもらえる自分自身の価値、バリューとは何なのか、一所懸命考えるこ と。できればそれがまだ誰も手がけてない分野であればいいですね。それを見つけ、世の中に影響を残していくことが人生の意義であると思います。

  そして人生は意外に短い。私の母は59歳のときにガンで他界しました。私も自分の人生をだいたい60年くらいと計算しているのです。だから、あと30年で リサイクルワンを目指すべき頂上に持っていかねばならない。高い山ですし、それが実現できるかどうかわからない。でも何とかして、前人未到のリサイクル事 業を完成させたいですね。それこそが自分の人生の醍醐味だと思っています。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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