子供を取り巻くすべての環境に夢を与え続ける / 三起商行(ミキハウス)

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

中学時代から冴えていた「ニーズをとらえる嗅覚」

婦人服製造販売会社を経営していた父親 のもと、裕福な環境で育った木村だが、彼の幼・少年期は、病気との長い闘いだった。小児マヒを患ったことで、3歳の頃から右足が動かなくなったのである。 運動するにも何をするにも、ハンデがつきまとい、周囲の子供とは、全く違う生活を余儀なくされた。

「こういう苦労をすると、どこかで心が歪みますね。何かに傷つけば、親に対して『産まんとかったらええのに』と恨むわけです。さぁ遠足となれば、雨が降ったらいいのに…とか。子供心に人の不幸を喜ぶ、人格形成においては決して良くない話ですよ」

ところが、小学生の時に、ある友人との出会いを通じて、自分の心に「甘え」が宿っていると気づいた木村は、一念発起して猛烈なリハビリに取り組むようになる。

そのリハビリとは、新聞配達。小学校を卒業するまでには、自分の右足で体重を支えられるようになる、中学生のうちには走れるようになる、と目標を決めて。覚悟を決めた強い”ファイト”は、どんどん木村の右足を回復させていった。もちろん、目標達成である。

加えて、この新聞配達を通じて、木村は早くも、商売の才覚に恵まれていることを知る。当時、配達員には雑誌を売るというノルマが与えられていたそうだが、このノルマをさっさと片づけて、完売し続けていたのは木村だった。

「普 通の人はね、一軒ずつピンポン押して売りに行くんですけど、そんなの、なかなか買ってもらえないでしょ。僕はどこに売りに行ったかというと、病院。入院患 者狙いです。患者さんの中にはボスみたいな存在っているから、その人物を見極めて、2時間ぐらい話相手になるわけ。それで親しくなれば、販売ノルマの冊数 分ぐらい、全部まいてくれる (笑) 。いわゆる、ニーズというものを敏感にとらえる嗅覚はあったんでしょうね」

徹底的なリサーチから、時代を読み取る

一度は証券会社に就職したが、後継ぎとして道が定められていた木村は、社会に出て4年半後、父親の会社に入社する。

ま ず最初に、木村がしたこと。それは、綿密な業界調査、マーケティング調査である。アパレル業界を知っていたわけではないし、父親の会社の実態も知らない。 いずれ継ぐにしても責任は大きいからと、木村は業界の内側を調べたり、自社の商品・客層・流通の仕組みなど、工場や売り場に出向いてはヒアリングし、徹底 的に勉強した。ところが、こんな動きが職人肌の父親にはピンとこない。

「親父にしてみれば『ぐずぐずやってんと、はよ現場仕事せい』ってな 話ですよ。そういう時間を僕に3カ月間くれ、と約束してたんですけど、途中で反故にされて。そんなボタンのかけ違いで始まると、一事が万事で、うまくいか ないようになる。親子ゲンカが続くのも見苦しいですし、僕は会社を出ることにしたんです」

そして、自分で事業を始めたいとぼんやり考えていた木村が思い至った先は、子供服。アパレルに目が向いていたこともある。

ここでも、木村は徹底的なリサーチから始める。当時、トップクラスだった子供服ブランドの商品群と、それがなぜ売れるのかを調べ上げた。そこから、時代が求めているものを見い出したという。

そのひとつの答えが、「ワンルックトータル」。

「頭の先から足先まで、トータルにきっちりデザインする。この頃、シャツはシャツ、ズボンはズボンというように、アイテム選びがバラバラだったから、僕らの発想は新しかったんです」

この70年前後は、折しもファッション誌が次々と創刊された頃で、一般の人たちの間でオシャレ熱が高まりつつある時代でもあった。木村は、商品がヒットするという確信を持って事業をスタート。26歳になって間もなくのことだった。

ただの一度も妥協しない姿勢を貫く

デザインや素材、クオリティには、十分すぎるほどこだわってつくった商品サンプル。自信はある。

次 は、それをどこに売るか、である。最初の売り先として木村が出向いた土地は、意外にも鹿児島だった。リサーチで問屋街をまわっていた時、九州・四国などか ら大阪に買い付けに来る販売店が多いことを知った木村は、新規参入するのだから、自分から直接売りに行こう、と考えたのである。

「ほとんど 全財産だった17万円と、サンプル5着を持って飛行機に乗りました。この時、僕が絶対と決めていたのは、行った土地の一番手の販売店に営業すること。当 然、いいブランドをそろえているし、そういう高級店にしか合わない商品づくりをしてましたから。そのコンセプトがブレたら、ものづくりが崩壊する。妥協し たら、おしまいでしょ」

が、まったくの飛び込みである。当然のことながら甘い話はなく、行く先々、片っ端から門前払いされる。それでも妥協はしたくない。さすがに参り始めた頃、木村は自分の顔を鏡で見て驚いた。

「押し売りの顔をしてたんですよ。買って欲しい一心の悲壮な形相。これじゃ、売れるはずがないと気づいたわけです」

営業スタイルを変えた。まずは、販売店が現状扱っている商品の不満点やニーズをていねいに聞き、そして「僕に役に立てることはありませんか」と話を運ぶ。そうなれば、相手の対応も変わる。サンプルがあるのなら見せろ、ということになれば、そこからは商品力がモノをいう。

それからは早かった。紹介が紹介を呼び、面白いように注文が取れた。つくっては売れ、つくっては売れ、生産が追いつかないほどに…。

今 日のように、国内外ともに「子供服ならミキハウス」と認知させるに至った根底には、執念を感じるほどに木村たちがこだわってきた”一流のクオリティ”精神 がある。そして、ブランド構築を果たした自信と貫かれてきた信念は、子供たちを取り巻くあらゆる新しい事業領域で生きている。

【木村 皓一 プロフィール】

滋賀県に生まれる。
父親が婦人服の製造販売会社を営んでいたため、後継者として一度は入社するが、職人気質の父親とそりが合わず、会社を辞す。
71年 に、子供服の製造卸し業を立ち上げる。
6畳2間のアパートが出発点だった。
その後、最高のクオリティを堅持し続けた商品群は次々にヒット、世界に通用する ブランドにまで成長。
現在では、一メーカーという枠を超え、出版事業や幼児教室運営など、さまざまな領域で事業展開中。
「総合子供文化産業」の担い手とし て市場をリードしている。

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