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消費者の健康を第一に考える姿勢、商品への取り組み
実家は、父親が戦後間もなく始めたラムネの製造販売業。大学在学中には教師を目指していた中田だったが、長男ゆえ、卒業後は家業を手伝うことにした。
しかし、その73年当時は、大手の清涼飲料水の登場で家業の経営はすでにジリ貧状態。父親は、冬場の副業にもやし栽培を始めていたが、終戦直後の、半年働けば冬場は遊んで暮らせたという時代は、とっくに終わっていたのである。
「22歳で戻った頃には、両親とパートさん2人、そして私を入れて5人の細々としたものになっていました。その後、父親が脳梗塞で倒れたんです。命は取りとめたものの仕事はできませんから、突然、何の準備もないまま後継ぎになったかっこうです」
中田が卒業した駒沢大学は仏教系の大学で、必須科目に宗教学があった。そこでまず、中田は大学で学んだ仏教の極意を、事業に応用してみることにした。
「そ の極意とは、自分が幸せになるためには、まず周囲の人や自然を幸せにしなければいけない、というもの。で、私が出した答えは、まずラムネはやめようという こと。ラムネというのは1本に砂糖を50gも使う。一番のお客さんである子供たちの歯を、虫歯にしてしまうことに後ろめたさを感じていたんです」
30歳の時に、ラムネ屋はきっぱり廃業。しかし、日銭1万円程度のもやし商売では生きていけない。ならば、お客さまに、よそにはない利益を与えられるようなもやしをつくろう-。
「ひ とつだけ“もやしの真理”とでもいうべきものを考えたら、食べた人の健康に良い影響を与えることだろう、と。実は、その当時のもやしというのは「添加物の 漬物」と呼ばれるほど、漂白剤、保存料、殺菌剤、はては成長抑制ホルモンなんて怖いものまで入っていた。これは、“もやしの真理”を満たしていない。そこ で私は無添加・無漂白のもやし専業でいくことにしたんです」
事業拡大に成功。そしてビジネスの真実に触れた30億円の融資
「で も、無添加・無漂白のもやしは傷みやすいし、色もすぐ黄ばんでしまう。スーパーは見た目の悪さを理由に買ってくれません。ところが、当時、流通の新興勢力 であった生活協同組合だけは大歓迎してくれました。生協のテーマは、ずばり『食品の安全』。おかげて生協の運動商品として力を入れてもらえました」
生協で人気が出てくると、ライバルであるスーパーにも置いてもらえるようになった。商品の差別化ができているから、価格競争に巻き込まれることもなかった。
そして、もやし専業に転じてから9年。年商は11億円を超え、増え続ける注文にとうとう生産が追いつかなくなった。
「社員に新規営業はするな、と言ってたほどでね。新しい工場さえあればと思ったものの、工場をつくるには30億円はいる。すでに借入金が10億円ほどあったので、借金40億円なんて話になりません」
そんなある日、中田はひょんなことから、日本興行銀行の若い銀行員と出会う。89年当時、興銀といえばキング・オブ・バンクとも呼ばれていて、「ウチのような中小企業を相手にするはずがない」と思っていたところ、なんと30億円の融資をするという話に進展したのである。
「いざ融資が可能となると、今度は急に怖くなった。1週間、返事ができなかった。そして決めました。もし仮に倒産しても、自分は首もつらないし、夜逃げもしない。生きている限りは、何がしかでも返済し続けよう。そう決めたら恐怖がなくなったんです」
『中 田さんは、夢が語れてソロバンが立つ。どちらか片方ができる人はいるが、あなたは両方できる。だから融資したんです』-その銀行員の言葉だ。彼は、のちに 若くして病で辞世するのだが、ずっと中田を応援し続けたという。中田にとって、生涯忘れることのない出会いであり、そしてビジネスの真実に触れた出来事と なった。
本社工場の新築によって生産量は大幅に増加し、5年で売上高も3倍に。一挙に事業拡大へとつながっていった。
「O-157」報道の危機を乗り越え、新たなる夢に向かう
96年8月7日。アラスカで休暇を楽しんでいた中田に、日本から大変な知らせが入ってきた。「O-157による食中毒の原因は、かいわれ大根」と報道されたという。かいわれ大根は、すでに主力商品の一つになっていた。
「本 社に戻ると、社員たちが泣きながらかいわれ大根を捨てていた。翌日から、仕事は激減ですよ。私は考えました。この状況なら、人員整理をしても周囲は認めて くれるだろう。しかし、今、ここで自分が取る行動のぜひは、10年後、20年後に問われる。ならば、これまで蓄えた資金を使い果たすまでは一人も解雇せ ず、給料も全額払っていこうと決めた。それで頑張れたんです。赤字は1年限りで、蓄えに手をつけることもありませんでした」
この一件で、同 業者の半分が廃業や休業に追い込まれたが、同社の経営体質は逆に強くなった。商品アイテム数が増え、ブロッコリーやソバのスプラウト(新芽)、発芽大豆な ど、芽モノ野菜の可能性が広がってきた。そして今では、無添加というレベルではなく、薬効と言っていいほど健康を増進する力のある野菜を製造している。
「今年の9月から稼動を始めた新工場は、農業先進国のオランダの技術を導入していますが、衛生面で日本一安全な工場だと自負しています。出荷高も売上高も伸びてますし、全国の拠点を任せられる社員も育ってきた。あの時、踏ん張ったおかげですよ」。
今 後、中田は地域活性化事業に取り組む。この新工場建設のために購入した3万坪もの土地と、旧工場の跡地を利用して、すでに事業プランは具体的に動き始めて いる。旧工場跡地にはファーマーズマーケットをつくり、新工場の周辺には、テーマパーク「栗きんとんの里」を建設するというもの。
「ここ中 津川は栗の産地。その栗の栽培から、菓子職人の育成、和菓子つながりで茶道、華道などが学べる、子供から社会人まで参加可能なテーマパークです。この事業 で、高齢者1,000人の雇用も生み出したい。夢ばかり語っているようですが、ビジネスの物差しはあくまでお金です。商売はカネ、それでいい。しかし、お 金だけにこだわる生きざまは、薄っぺらだなとも思う」
金の威力を超えたところに、真の感動や喜びがある。それを求めて、中田はずっと奔走していくに違いない。
【中田 智洋氏 プロフィール】
岐阜県に生まれる。駒沢大学経済学部卒業後、ラムネともやしの製造販売を営む家業を手伝っていたが、78年、病に倒れた父親に代わって事業を継ぐ。
こ れを機にラムネ製造からは撤退、消費者の健康を第一に考えた、無添加・無漂白のもやし製造販売を専業とする。
生協から評価されたことをきっかけに、スー パー、飲食店などに直販・直送の販路を築く。
生産力不足解消のために、89年、本社工場などを新築、一挙に事業を成長過程に。
96年には「O-157」の 報道によって危機に見舞われるが、商品構成を多様化することで経営体質を逆に強化、もやし業界 800社中、最後発の同社を業界 2位までに押し上げた。
売上高は54億7300万円(03年5月期)。
2000年、岐阜県の食糧自給率向上と、非常時の食糧確保を目的に、地元経済界有志 とともに「(株)ギアリンクス」を設立。さらには地域活性化事業への取り組みなど、積極的に活動する。