宅配ピザに特化した情報システムの構築 / ストロベリーコーンズ

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

約5年間のIBM社員時代を経て、地元・仙台にて喫茶店開業

033父方の祖父も、母方の祖父も事業家。そして宮下の父親は、新しい事業を始めては失敗するという“発明家魂”が旺盛な人。そんな環境のもとで育った宮下には、「『失敗は成功のもと』ではなく、『成功は失敗のもと』」という教訓が残った。

事業は失敗するもの、だから地道な会社員のほうがいいと考えていた宮下の夢は、企業に就職してエンジニアとして働くことだった。

「昭 和40年代の話ですけどね。もちろん現在のようなパソコンは存在すらしなかった時代ですけど、必ず、コンピュータの時代が来るという確信はありましたか ら、東京の専門学校に進んだのです。自分にとってIBMという会社は憧れでした。当時のIBMはまさに外資系の雄で、超エリート集団。ダメもとで受けてみ たんですが、これが意外にも合格しまして」

入社してからは猛烈に働いた。朝から深夜まででは足らず、土日も会社に出てほとんど休みなし。その分、給料も破格に高給でやりがいもあった。

ところが5年目のこと。父親が病気で倒れ、経営していた会社が倒産した。毎日かかってくる母親からの電話、その泣き言に「このまま放っておけない」と、宮下は会社整理のために仙台に帰ることを決意、泣く泣く会社を辞める。

「勤 めを辞めたんだから、何か始めないといけないわけですよ(笑)。最初は、キーパンチャーをしていた妻と二人でソフト開発の仕事をしようと考えたんですけ ど、当時の仙台には市場がなかった。結局、喫茶店でもやるか、となって。仙台にはまだほとんどなかったコーヒー専門店をやろうと。私も妻も休まないで働く ことには慣れていたし、二人だけなら人件費もかからない。朝 7時から夜中の3時まで営業してました」

友達のような接客が受け、店は大繁盛。開業翌年の77年には女性をターゲットにしたカフェをオープンし、これも大成功。そしてさらに翌年、勢いのついた宮下は3号店目を構えるのだが……。

膨らんだ借金に死を覚悟。そして運命的な出来事から再起を決意

「あ れほど事業の怖さを知っていたはずなのに、やっぱり血なんでしょうか。借りれるだけのお金を借りて、従業員を雇い、初期投資に7000万円もかけて大規模 な店をオープンしたんです。これが大誤算。開店1ヵ月もすると、毎月150万円の赤字が出るようになって、借入金を返すどころか他店の利益を食いつぶすだ けの存在になってしまいました」

テコ入れのために業態変換もしたが、借金は増える一方。ついには1億3000万円に達し、限界だと判断して 閉店した途端に、キャッシュフローが尽きて一気に資金繰りが悪化した。この時の宮下にとっては、もはや最後の手段しかなかった。「自分が死ねば2億円の生 命保険が入る」と、死を覚悟したという。

「自動車で仙台新港に突っ込もうと家を出たところ、ポケットに手を入れたら500円が残っていた。 これから死ぬ人間がお金を持っててもしょうがないので、使ってしまおうとパチンコ屋に入ったんですよ。そうしたらいきなり大当たり。あっという間に箱が積 み上がって 5万円儲かったんです。何だ、これはと。借金のために人生を捨てた途端に、500円が100倍になって返ってきた。銭儲けばかり考えていた自分を神さまが 皮肉ったような気がして、そう思ったら気分が楽になって、結局、家に戻ったんです」

その 1週間後。閉鎖した店の新しい借り手が見つかり、保証金の3000万円が戻ってきて当面の苦境を脱することができたのである。まるでドラマのような話だ が、まぎれもない事実だ。この一件で宮下は、ある種の運命論者になった。「自分はまだ生かされている、まだやるべきことがある」と。

そして 86年、宮下は再起する。喫茶店を経営していた時から着目していた米国式のフードチェーン・ビジネス。ちょうどその頃、東京では『ホブソンズ』などのアイ スクリームショップがブームになっていたが、宮下らは綿密な市場調査をしていけると判断、仙台に『ストロベリーコーンズ』1号店をオープンさせる。

すべての既存店を整理し、社名も変更。一度リセットして新事業に賭ける第一歩であった。

宅配ピザに特化した情報システムの構築で、一大チェーンに成長

アイスクリームショップの滑り出しは順調で、仙台にもブームを起こした。しかし、ブームはいつか退潮するし、ましてアイスクリームは冬場に落ち込む。すぐに次の手を打つべく着手した事業が、宅配ピザである。

「す でに東京では外資のチェーンが入ってましたしね。仙台でもそろそろいけると踏んで、取り組みました。ところが仙台ではまだ馴染みがないもんだから、立ち上 げ当初は予想以上に苦戦しました。無料の試食会を開いたり、雑誌に読者を装ってハガキを書いて店を紹介してもらったり、あれやこれやとアイデアを絞って、 認知してもらえるようになったんです」

特筆すべきは、この88年当時、同社は同業者に先んじて、すでに顧客管理や経営管理、従業員管理にコ ンピュータを導入していたことである。それも、他の業界でも使っている汎用システムではなく、ストロベリーコーンズ専用のもので、素人でも使いこなせるシ ステムを自ら開発。この情報システムをもとに、FC展開を押し進め、92年には東京の激戦地、白金に乗り込んだ。

「この店は、並みいる強豪 と互角に戦って成功してます。全国展開への自信を持つことができましたね。思えば、FC第1号の宮城県の塩釜店が87年11月開業。そして200店舗目が 01年12月のオープンですから、まる14年かかってる。儲けばかりを気にする方は加盟を断ってきたので歩みは遅かったですが、今ではむしろ、それが私た ちの誇りになっています。地に足をつけた歩みでいい。『成功は失敗のもと』という感覚が染みついてるもんだから、私は、事業が順調な時ほど不安で落ち着か なくなるんですね。逆に業績が悪い時のほうが、生き生きしてくる。社員みんなが暗い顔しているのに、私一人が元気いっぱい。変な社長でしょ(笑)」

この15年間に、同社はレストラン事業にも進出するほか、最近ではサザンネットという情報システム構築を請け負うシステム開発会社を立ち上げた。今年4月には「いちごホールディングス」と商号変更し、会社分割によりますます事業を深く、強くしていく構えだ。

【宮下 雅光氏プロフィール】

北海道に生まれる。日本電子工学院(現・日本工学院)在籍中に日本IBM の採用試験に合格。
しかし、入社 5年目に父親が事業に失敗し、その整理のために退職、当時実家のあった仙台に戻る。
76年にコーヒー専門店『比絵呂』を開業。続いて翌年にはカフェを開 業、いずれも成功させる。
が、78年にオープンさせた3号店目のカフェが大失敗。
借金を抱え、一度は自らの生命保険で清算することを考えたが、
運命的な出 来事から思いとどまり、再起を決意する。
86年、アイスクリームショップ『ストロベリーコーンズ』を新たにオープン。
同年には同店で宅配ピザも始め、87 年よりFC展開化。
以降、着実な店舗拡大を図りながらレストラン事業にも進出するほか、
情報システム構築を請け負うシステム開 発会社を立ち上げる。
03年 4月、「いちごホールディングス」と商号変更。

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