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エピソード3「トランジスタラジオの開発」
「5%ならぎりぎり商業ペースに乗る。1個でもつくれたんだから、後は努力すれば良くしていけるじゃないか」 (46歳)
トランジスタラジオを開発した時のエピソード。
1952年、海外事情視察のため井深は初めて渡米する。期間は3カ月。その間に、在米の友人から「ウエスタンエレクトリック(WH)社が『トラン ジスタの特許を公開してもよい』と言っている」というニュースがもたらされた。以前、会社の技術者とトランジスタの可能性について協議し、その段階では 「将来性はない」と判断していた。しかし、届けられたニュースの中味では、性能も向上し実用化の可能性も出ている。一方、東京通信工業はテープレコーダー の次の目標を定める必要があった。
「技術的には未解明の問題がたくさんありそうだが、うちの技術者は新しいことに挑むことが大好きだ。トランジスタの実用化をテーマにしよう」
と井深は決心する。井深はWH社から「補聴器をつくれ」とアドバイスされたが、そんなものをつくる気持ちはなかった。
「広く誰もが買ってくれる大衆商品でなければ意味がない。ラジオが最適」と井深はトランジスタラジオを開発テーマに定める。しかし、それは大変な冒 険であった。ラジオに向く高周波トランジスタ(グローン型)の実用化はまだまだ先といわれていたからである。生産歩留まりの悪さに苦しんでいたWH社も 「ラジオだけはやめておけ」と忠告。井深は百も承知であったが、「よそにないものをつくる」夢への挑戦を決めた。
本格的に開発に着手すると、その大変さがよくわかった。まさに試行錯誤の連続。資本金5000万円になったばかりで1億円ほどを注ぎ込む。井深は 銀行に出向き、3時間に渡ってトランジスタの可能性を説明したことも。
「苦しい時の自分の役割は心得ているつもり。違った角度から攻めたらどうかとか、誰それを呼んでこいとかわぁわぁやっていく」
そして、やっと歩留まりが5%になった時、井深は生産の指令を下す。周囲は無謀さに驚いた。井深は言う。
「5%ならぎりぎり商業ペースに乗る。50%になればコストは10分の1にできる。1個でもつくれたんだから、後は努力すれば良くしていけるじゃな いか」
世界初は逃したものの、“世界一”の品質を自負するトランジスタラジオが完成。「SONY」のブランドをつけて発売、ソニーの飛躍が始まった。
私たちならこうする!
(株)リサイクルワン 代表取締役 木南陽介氏 いくら先達の大企業に「やめておけ」といわれても、信念を貫き通し夢に向かって突き進む様はすごいですね。しかし、歩留まり5%なら商業ベースに乗る、後 はよくしていけばいい、という発想は受けますね。楽観の極地かと(笑)。経営者には、楽観思想って大事だと思います。そうでなければ、こういう状況では突 き進むことができない。中途半端な勝負は、逆に危ないのだと思います。リーダーは、楽な時も、苦しい時も、常に先を示し続けなければなりません。 |
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(株)カフェグルーブ 代表取締役 浜田寿人氏 たった5%の歩留まりで量産に入るのは無謀とすれば、経営者にはそんな「思い込み」も必要ではないかと思いました。セオリーばかりの経営者なんてつまらな い。ましてや、ソニーのような企業ならばなおさらです。MBAを取得して経営がうまくいくなら、誰もがMBAを取るでしょう。でも、逆にMBAホルダーが うまくいっていないケースもたくさんありますから。朝令朝改(造語)も辞さず、いかに臨機応変に判断するかが大事なんだと思います。まさにベンチャーです から。 |
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(株)ワークスアプリケーションズ 代表取締役 CEO 牧野正幸氏 5%の歩留まりで生産にGOをかける。ベンチャースピリッツそのものだと思います。それでこそ、画期的な高機能・低価格の製品が世の中に出せるようになる わけですから。それができたのは、銀行の融資姿勢も大きかったのでしょう。当時の日本は産業界全体がベンチャーで、銀行はまさにベンチャーキャピタルだっ たし、政府も後押しをしていたと思います。しかし、完成した今の日本社会では難しいことと言わざるを得ません。当時のトランジスタラジオのような“破壊技 術”は、高品質であることを尊ぶ日本では抵抗を受け、「95%の不良品」なんて出していたら真っ先に批判されてしまいますから。 |