子どもたちに手がかからなくなったら、夫婦ふたりで自然に囲まれた暮らしを始めよう。そんな夢を抱く人は多い。
馬場さんもまさに、そんなひとりだった。
実際に移り住んだ土地で、いわば道楽から始めた麦栽培から、馬場さんは本当にやりたい仕事に出会うことになる。
それが、地ビール醸造だ。
しかし、地ビールブームが去った現在、それは思った以上に難しい挑戦でもあった。
麦の加工品として、地ビールを造ろう
馬場さんが埼玉県小川町で地ビールとパンの工房を立ち上げたのは、2004年4月。
それまでの名刺の肩書きは、大学助教授だった。
大学で教鞭をとる一方で
「のんびりと好きな畑仕事をしながら暮らしたい」
とこの町に移り住み、百姓仕事を始めたのはもう11年前になる。
そのころはまだ、このあたりにも麦を栽培 する農家が数件あったという。
しかし、時代の流れか、田畑を放棄する農家が増え、いつの間にか麦や雑穀を栽培するのは馬場さんひとりに。
変わっていく景色 を見ながら、この流れを止めることはできないのかと考えるようになったのだそうだ。
「少ない面積で麦や雑穀を栽培するだけでは、経営が成り立たないのも事実。しかし、付加価値を高めた加工品の状態で販売すればどうだろうかと」。
その加工品として目をつけたのが“地ビール”だった。
「地ビールは、麦の活用がラクなのです。麦をうどんやパンにするには、製粉という高度な技術が必要になりますが、地ビールに使う場合は籾殻がついたまま砕くだけでよく、ふるいの必要もない。
麦の加工品として、地ビールを製造販売する。
これは、麦をつくる百姓のビジネスモデルのひとつとして、トライする価値があると思えました」
大学の研究が一段落していたということもあって、
「本当にやりたいことをやろう」と退職を決意。
58歳にして 地ビール醸造所の立ち上げを目指すことになる。
「このビジネスが軌道に乗れば、麦作からやってみようという人が私の後にも続いてくれるかもしれない。
そうして、里山文化を取り戻したいというのが、私の願いなんです」
初期投資を抑えるために、
ボランティアグループを結成
ビールとほとんど原料が同じパンと地ビールの工房を開くとは決めたものの、そのハードルは思った以上に高かったようだ。
「醸造免許の取得が難しい上に、醸造設備をそろえるためには、初期投資も大きくならざるを得ない。
相談したコンサルタントには軒並み、“地ビールは商売にならない”と反対されました」
しかし、ひとりだけ馬場さんの「里山文化を取り戻したい」というビジョンに共感してくれるコンサルタントがいたのだそうだ。
「その人は地域再生を専門とする人でした。
投下資金を少なくすれば道は開けるかもしれないと、地ビール醸造所立ち上げに興味を持つお互いが助け合うボランティアグループを結成することを提案してくれたんです」。
そこで、馬場さんは「craft-beer」というメーリングリストを立ち上げる。
集まったのは、自らもビールをつくっているよ うな地ビールファン。
今では50人にもなるという、このボランティアグループの力を借りることで、業者に頼る必要はほとんどなくなった。
そして、自らを“ 百姓ブルワー”と呼ぶ馬場さん自身も八面六臂の大活躍。
「百の仕事をするのが百姓ですから。設備設計から内装工事、醸造免許取得の申請に至るまで、何から何まで自分でやりました」
さらに、初期投資を低く抑えるためにした工夫が、醸造関連設備の中古品を調達することだった。
「新品だと 2000万~3000万円というコストになってしまうんです。
そこで、日本よりも10年早く地ビールブームを経験した北米で中古品を探しだし、総額600万円ほどで手に入れました。
店の設備にしても、新品はほとんどありません」
私のビールをおいしいと言ってくれるのが嬉しい
また、ビジネスとして成り立たせるためには、いかにして単価を上げるかということを考える必要があった。
その答えのひとつとして出したのが、工房の片隅にパ ブを設置するというもの。
しかし、そんな気持ちで始めたパブこそが、今となってはやりがいの源になっているという。
「お客さんが、私のビールを飲んでおい しいと
言ってくれるのがいちばん嬉しい瞬間です」。
そして、壁に貼られた写真を見せてくれた。
そこにあったのは、何十人もの笑顔。
遠方からわざわざ来てく れた客たちだという。
中には大阪や名古屋から来た人のものもあった。
馬場さんのビールを置く飲食店も少しずつ増えてきている。
奥さんの焼くパンの評判も上々で、焼き上がりを待って
やってくる客ですぐに売切れてしまうそうだ。
それでも馬場さんはまだまだこれからだという。
「自分で納得できるビールはまだできていないんです。
これこそが世界一だと言ってもらえるようなビールをつくって、
口コミでどんどんお客さんが集まるような工房にしたいですね」
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