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アウトサイダー人生を駆け抜けた青春期
慶應義塾大学に入学したのを機に上京、新生活に足を踏み出した安田だったが、聞けば、わずか最初の1週間で大学には見切りをつけたという。
「こっちはまだ髪の伸びかかった丸坊主頭で、しかもすすけた恰好。なのに、多くの連中はアイビー全盛でしょ。文化が全然合わない。入った大学を間違えました(笑)」
か といって、子供の頃からいつも人と違うことをやってきた安田である。主流の学生に迎合する気は爪の先ほどもなかった。結局、ハマったのは麻雀とパチンコ。 そして生活費を稼ぐために、行き着いたのは沖仲仕の仕事。船荷の積み卸しをする肉体労働だが、夜に働いて短期間で稼ぐことができる。
「年間 100日ぐらいは”ドヤ街”で生活を送ってましたね。いわば、裏社会ですよ。日中は、そういう仕事をしているとはおくびにも出さず学生をやり、一方で、現 場では間違っても大学生なんて言えないですから、プータローに変身する。どちらも『虚』の世界。でも、どちらも『素』だったようにも思えます。振幅の激し いことをやっていると、ある時、振り子が真ん中に戻って、嘘のようにバランスが取れるということを、経験したような気がしますね」
そんな安田に、会社勤めをする気は全くなかった。が、いずれ独立するつもりで、いったんは不動産会社に就職する。後の独立が、一番容易に思えた業界だからだ。
ところが、2年も経たないうちに、その会社はあっけなく倒産。失業の身となった安田は、勢い、先輩と2人で不動産会社を起こすが、これもあっけなく挫折。
「そ れでもサラリーマンに戻る気になれなかった私は、賭け麻雀でメシを食ってました。学生時代に鍛えてましたから (笑) 。でもね、今思えば必然ですが、そのうちに、ものすごく空虚な数カ月が襲ってきた。『俺は何をやってるんだ、皆は着実に人生を歩んでいるのに』 と」
このままでは人生の帳尻が合わなくなると思い始めた安田は、実業の世界で立身することを決意する。それが、29歳の時だった。
ないないづくしの素人商売が、大変な可能性を発掘
安田は、20坪ほどの雑貨系ディスカウント店を個人開業する。その名も『泥棒市場』、ドン・キホーテの前身である。物販業を選んだのは、どちらかといえば苦肉の策だった。
「幸 い、店舗を構えるだけの資金なら都合はついた。店さえあれば、物を売るぐらいはできるだろう、そんな単純発想だったんですよ。でも、もちろん小売りの経験 はないわけで、仕入れノウハウはわからない、人もいなければ情報もない、おまけに店を借りてしまったから元手も心もとない。恐れを知らぬ、ってやつです」
まさに、ないないづくしのスタート。まず仕入れとして、安田は、俗にいう”バッタ品”に目をつけた。あらゆる問屋やメーカーに飛び込んで、ロットが集まらない半端品や処分品を安く現金で仕入れたり、サンプルや廃番品をタダ同然で買い集めた。
苦しくても一国一城の主。情熱があったし、何より20代で裏道を歩いてきた強さが、妙なプライドも打ち消してくれた。商品の陳列や入れ替えは夜中に作業し、一人汗だくになって働く日々だった。
ところが、人生、何が幸いするかわからない。
「夜 中に作業してると、営業中だと勘違いして店に入ってくる人がポツポツいて。こっちは1円でも売りたいから、ニコニコ顔で商売するでしょ。すると、夜中でも やってると口コミで広がって、お客さまが増えてきたんです。まだ、コンビニが夜11時までしか営業してなかった時代ですからね」
加えて、安田一人ゆえ、商品の陳列が追いつかず、店の中は商品が山積み状態。ところが、これが逆に、客に商品を発見する楽しさを提供することになり、深夜の客層に大きな購買衝動を起こさせたのである。20坪の店は、年商2億円を売り上げるまでになった。
こういうパラドックス的な流れの中で、安田は、ナイトマーケットが内包する大変な可能性に気づいたのである。
常識との戦い、試行錯誤を経て一気に加速
大きなビジネスチャンスを手にした安田は、89年にドン・キホーテ第 1号・府中店(東京都)を旗揚げ、本格的に小売業に乗り出す。
「よ り便利に(CV:コンビニエンス)・より安く(D:ディスカウント)・より楽しく(A:アミューズメント)」 がショップコンセプトの柱だ。ほかにも「見にくい、選びにくい、買いにくい」店舗づくりなど、従来のチェーンストア理論からすると常識はずれのキーワード がたくさんある。
が、これらはすべて、安田が『泥棒市場』での原体験を通じて、いけると確信した新しい手法だ。
「流通業界っ て、便利さや安さの追求に明け暮れて、末は同質化の戦いでしょ。買い物本来の楽しみを失っている。私が最大のポイントとして有機的にミックスしてきたのが アミューズメント性。アジアの市場や夜店に感じるような、あの探検気分。だからこそドン・キホーテは、行くたびに新発見のある多品種少ロットの圧縮陳列を 徹底してきたんです」
ところが、立ち上げ期は、これが肝心の社員に理解されない。従来の価値観の逆をいくわけだから、それも無理からぬ話である。
「試行錯誤を繰り返し、赤字続きだった最初の 1、2年は、もどかしくて誰にも理解されない孤独な時期でした。でも、自分が掴んだ新しい手法に将来を確信していたし、どこまで通用するか、どうしても試してみたかった。でなきゃ、新業態はつくりえないでしょ」
安 田が得たひとつの結論は、社員への大幅な権限委譲である。仕入れや値付けの権限を委譲する、いわば社員を一軒の商店主とみなす発想だ。現在、ドン・キホー テは商品の 6割をPOSシステムによって仕入れ、残りの 4割は、各店舗の部門責任者が顧客の購買動向を把握しながら自らの感性を加味する仕入れ制度を採用している。
もとより、顧客ニーズは大きいのである。組織の価値観が共有されてからは強い。ドン・キホーテは一気に加速し、成長してきた。
「でも私は、ただ規模を追求してビッグ・カンパニーになることを望んでいるわけではないんです。エキサイティング・カンパニーにしたい。仕事は、面白くないとね」
【安田 隆夫氏 プロフィール】
岐阜県に生まれる。教師だった親のもと”堅い”家庭環境に育つが、その環境への反発心と、生来のワンパク魂を大いに発揮しつつ少年時代を過ごす。
慶應 義塾大学卒業後、いったん不動産会社に就職。
が、その後は倒産による失業を経験し、自ら起業するも失敗するなど挫折を味わう。
78年、29歳の時に再起業 を決意、ドン・キホーテの前身である「泥棒市場」を個人開業。
業界未経験ゆえの常識破りな発想と情熱が、後の起爆へとつながった。
89年、第 1号店である「ドン・キホーテ」府中店をオープン。
軌道に乗せるまでの苦労はあったが、新業態として認知されてからは人気、売上高ともに急成長。