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アントレプレナーシップに目覚めた大学時代
役者になりたいという夢を抱き入学した大阪芸術大学。
しかし、いざキャンパスに足を踏み入れてみると、すでにテレビで活躍しているタレントや、個性あふれる人たちがたくさんいるではないか。
野田が役者を目指すことに自信を失いかけた頃、自動車メーカー・マツダの外部研究員としてバイトをしないかと声をかけられる。学生の企画チームをつくって、車の販売戦略やショールームのコンセプト立案をせよ、というものだ。
「60ほどあったチームの中から僕らが選ばれたんですよ。マツダの重役陣を前にプレゼンしたんですが、これがもう……一生しゃべってようかと思うくらい気持ち良かった (笑) 」
ちょうどその時期、経済学者である父親が多摩大学を創立したこともあり、それが縁で、野田自身も、そうそうたる経営者たちが集まる場に参加する機会を得た。
「カッコいいな、と。世の中を動かしてる感じがするでしょ。マツダの重役たちに会ってたこともあるし、『オレも経営者になりたい』と思い始めるようになってました」
そんな気持ちに呼応するかのように、野田は在学中に新たなビジネスチャンスに出合う。発端は、偶然理髪店で隣り合わせた人から革製品の輸入販売を手伝わないか、と誘われたことだった。
「ソウルで革ジャン 100着を買い付けたところ、日本で1週間で完売。
それで革製品の商売って儲かるなぁと思って、友人と一緒に東京に会社を構え、2年ほど商売しました。
一番稼いだときで月 120万円ぐらいかな。ある意味、起業を経験したわけですよ。
役者への志からは外れてしまったけど、充実した学生生活でした」
やりたいこと、言いたいことが通らないジレンマを経て
学生でビジネスを成功させた野田を、周囲の大人たちは「スゴい」と認めるようになっていた。
が、そんな野田にガツンと厳しい一言を浴びせた経営者がいた。
「お前がやってきたことは”虚業”だよ。実業をやらないと」
将来、何をするにせよ、一度は立派な経営者の話を聞いておくといいと、
父親に紹介されたオーディオメーカー・ボーズの社長、佐倉住嘉氏の言葉である。
「今のままではちょっとアイデアのあるお兄ちゃんレベルで終わるな、と。
でも、実業というものがわかったら、君はすごく大きくなるとも言ってくれたんで、
ならボーズに入社しようと思ったんです」
が、組織の中での野田は”浮く存在”だった。
疑問に感じたこと、正論と思えば、何でもストレートに口にしてきたからである。
「入社してすぐの飲み会で、上司たちが会社のグチをこぼすのを耳にして腹が立ってね。
新入社員がいっぱいいるのに。
『それなら辞表を書いて辞めればいいじゃないですか。
僕は、まだ何もわからないから残りますけど』、
とやったら、シ~ンですよ」
この調子でやっていると、営業マンとしていい成績を挙げていても、生意気な存在と目される。
結果、直営の電器店に”左遷”。
暇な時は、1日に乾電池が1個しか売れないような店である。
それでも野田は、持ち前のガッツでその赤字店を黒字にしたが、本社に戻れる兆しもない。
その後、野田が選んだ道は、小さなイベ ント会社への転職だった。
「ここでもねぇ……。収益の半分くらいは僕が挙げていたのに、月給は一向に上がらないわけ。
で、不満を抱え始めた ちょうどその頃、友人の結婚式に呼ばれましてね。
それまでホテルは素晴らしい場だと思ってたのに、段取りは悪いわ、曲のセレクトにもセンスがない。
これをもし、僕らの会社が企画・進行したら……と思ったんですよ」
さっそく社長に、ブライダル部門をつくりましょうと提案するも、即答で却下。
年俸交渉で折り合いがつかなかったこともあり、93年、野田は25歳でプラン・ドゥー・シーを旗揚げした。
ウエディングの次はレストラン。次の舞台は世界へ
既成にはない「オリジナルのウエディング」。
設立当初は、このアイデアがなかなか受け入れられず、ずいぶん苦労を強いられた。
が、その活動が後の”ジミ婚” ブームを起こし、野田らが手掛ける
”手づくり感のある結婚式”が、若いカップルたちに大人気となる。
そして、数々のメディアにも取り上げられるようになっ た。
「お決まりの料理とお決まりの進行。高い費用がかかるのに、披露宴に対する満足度は低い。
僕と同じような疑問を、同じ世代は持っていたんですよ。少し時間はかかりましたが、当たりましたね」
野田は、ウエディングのみならず、レストランプロデュースでも手腕を発揮。
京都の老舗料亭旅館「鮒鶴」を改装した「ザ・リバー・オリエンタル」、
満州鉄道の 総裁一家の邸宅であった「ザ・ハネザワ・ガーデン」など、
伝統ある”ハコ”が持つ文化をそのままに、新しい息を吹き込み、蘇らせるのが野田のやり方だ。
「今 は順調で、あちこちから委託運営のお話をいただきますけど、
これまでには、ハワイに進出したものの1年で撤退したり、
マーケットを読み違えて、ずいぶん店に資金を注ぎ込んで倒産の危機を迎えたり、
いろんなことがありましたよ。
社会である程度認知されると、競合会社からの叩きもあったし。
でも、最近では ステージが変わってきたというか、業界への影響力も出てきて、
僕らは世界を目指してるのかなって思い始めています。
いずれは、ニューヨークやパリへも進出 したいですね」
航空会社や学校経営にも興味があると語る野田。
次はどんなターゲットに新しい風を吹き込むのだろうか。
【野田 豊 プロフィール】
東京都に生まれる。大阪芸術大学卒業後、オーディオメーカー・BOSEに入社。
93年、25歳でオリジナルウエディングの企画・運営会社プラン・ ドゥー・シーを設立。
翌年、多目的スペース「代官山プレイス」をオープン。
01年にオープンした神戸の「ザ・ハウス・オブ・パシフィック」では
年間 1500組以上のウエディングプロデュースを手がけ、業界の風雲児と呼ばれるように。
東京・広尾の「ザ・ハネザワ・ガーデン」などレストランプロデュース でも有名。
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