斬新性と創造性に富んだ飲食店を提案し続ける / ちゃんと

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

プロ野球への道を断たれ、ケンカに明け暮れた高校時代

015プロ野球選手になる ― それが、岡田の夢だった。

「話は簡単。テレビとかで選手が契約する年俸何千万円っていう数字を見て、すごいなぁ、これだけあれば家族全員幸せにできると。不動産業をしていた父親の仕事 がうまくいっていなかったみたいで、家が貧しかったんですよ。だから単純に、好きなものを好きなだけ食べたいという思いが常にありましたね」

中学の頃からプロ選手の素質充分として活躍していた岡田は、順当に甲子園出場を目指し、野球の名門、鳥取県の倉吉北高校に特待生として入学する。が、不運なことに、1年生の時に他の野球部員が暴力事件を起こし、甲子園への夢はあっさり閉ざされることになってしまう。

その後、大阪の高校に再入学するが、岡田の持て余されたエネルギーの矛先はケンカにむかった。

「あ の頃は、体の中に生まれてくるエネルギーが最高潮に達してた。暴れて、何回も停学になったりしましたが、それでも『このまま俺、チンピラで終わりたくな い』という思いが、どっかにあったんですよ。0.05%くらい。先が見えないなりに、ギリギリのバランス感覚があったんでしょう」

”通算4年間”の高校生活を終えた岡田は、在学中からアルバイトをしていた創作韓国料理の店に、そのまま就職する。「この時から料理人を目指して」 というわけではない。これも動機は単純。「飲食店で働けば、賄いつき、たくさんご飯が食べられる」からだ。

ところがわからないもので、岡田は結局、ここで11年間働き続けることになる。

店が育つ醍醐味と、仲間と盛り上がる喜びを体感

途中で、仕事を辞めようと思ったことは何回もあった。しかし、「どうせ先が見えていないんだから、とにかく自分が満足できる状況にまではもっていこう」と、ひたすら働いた。

店の先輩料理人による食材の横流しやピンハネといった悪習慣と闘い、店を経営危機から救った岡田は、就職間もなくして店を任される。当時、月商300万円ほどだった店を1200万円にまで育てた話は、有名なエピソードだ。

「別に正義感から、っていうわけじゃないんです。まっとうに生きたかっただけ。そんな卑屈な精神で仕事してたら、絶対に成功しないでしょ。お客さんが何を求めているのかといえば、やっぱりおいしいものだし、いいサービスだし、その単純な真実を追求してきただけなんです」

やればやるほど客は来る、それが数字に反映される。自分が手腕を発揮することで店が育つ醍醐味や、仲間と盛り上がる喜びを知った岡田は、自然に、店をもっと発展させたいと思うようになる。折しも、30歳間近というタイミング。いい意味での欲も出てきた。

「もう一歩先に行きたいという気持ちが自分の中に出てきた。だからもっと都会に出て、違う店もやりましょうよ、ってオーナーに話をしたんですが、うまく折り合わなくて」

結局、店を辞めることにした。だが、岡田は、そのことを別の意味で深く後悔するようになる。

「そ の後、残ったメンバーと何回か会っているうちに『しまった』と思ったんですよ。一緒にやっていたときは、店や料理をどうしていこうと熱く語っていたのに、 彼らの目に輝きがなくなってしまっていた。こんな気の抜けた連中はもう仲間じゃないと思ったけど、一方で『これは俺の責任』と感じた。それで、もう一度彼 らと一緒にひとつの目標のもとで命を燃やしたい、その場が欲しい、と」

この思いが、岡田に飲食店を開く決心をさせたのである。

借金を背負ってのマイナススタートから快進撃へ

店を出す決心はしたものの、若い岡田に開業資金の準備はない。加えて、経営経験も担保もない若造に銀行が融資するはずもない。岡田たちは、友人・知人、当たれる先をすべて駆けずり回って資金を調達。全額借金の、マイナススタートだった。

「僕が仲間によく言ってたのは、もしこれが失敗してもお前たちには絶対に迷惑をかけない、俺がマグロ漁船に乗って、何としてでもお金返すからついて来いと。マグロ漁船が、どんなものなのかもわかってなかったんだけど(笑)。」

こうして93年、大阪・心斎橋に「ちゃんと。」 1号店が誕生する。岡田が28歳の時だった。

「2年半は1日も休みませんでした。開店景気の後、客足が途絶えると、街頭に出て呼び込みセールスを毎日やって、チラシも配って、知り合いの携帯電話に頼み込み営業もやって。まぁ誰でもやるぐらいのことですけど、ただ、命を捨てるぐらいの覚悟はあったから」

岡田たちの不眠不休の働き、そしてオリジナリティあふれる斬新なメニューが支持され、結果的に、店はわずか 3カ月ほどで月商900万円を挙げる繁盛店となった。借金も、この段階で全額返済。

そして、以降の快進撃についてはレストラン通なら周知のとおり。既存の料理法にはまったく捉われない斬新性と、ふたつと同じ店をつくらない創造性が受けて、強固なファン層を形成している。

「最 近、わかったんですよ。貧乏してきたこと、甲子園に出場停止になったこと、やんちゃしてきたこと…これ全部、経験しなきゃいけないプロセスだったってこと が。それまで、その時々を挫折と思っていたから、怒りを持ち続けて走ってきた。そうしないと乗り越えられなかったら。でも、最近、そういう自分はいない なぁ、と。今の僕を形成するために、全部必要な経験だったんでしょうね。次の僕の使命は、”伝えていくこと”。金儲けより、世間的に評価される成功より、 継承することの意義を感じ始めています」

【岡田 賢一郎氏 プロフィール】

大阪府に生まれる。野球の名門・鳥取県立倉吉北高校に特待生として入学。
甲子園出場を目指すも、部員の暴力事件によりそのチャンスを失う。
野球をあきらめ、大阪府立の高校に再入学。
高校生の頃からアルバイトをしていた創作韓国料理の店にそのまま就職、通算11年間勤務。
ここでの経験が、現在の大きな礎 となっている。
93年、大阪・心斎橋で「ちゃんと。」 1号店をオープン。
97年に関東進出、00年には本拠地を大阪から東京に移転。
翌年には、香港に初の海外出店を果たす。
現在、「ちゃんと。」を中核に「熱 烈食堂」「橙家」「ケンズダイニング」「醍醐味 」など、創造性にあふれた人気レストランを展開中。

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