身体の一部を失うことは、動作の自由を失うだけでなく、心にも深い喪失感をもたらすといわれる。義手や義足の機能を限りなく追求し、かなりの動作を 回復したとしても、心が受けたダメージを回復することは実は難しい。機能と心の回復。それが義肢装具メーカーの課題でもあった。ところが実際は、義肢装具 の市場をリードする欧米企業も、機能と心の両面にまで目配りする余裕はなかったのだ。
切実なニーズがありながら、その声に応えられない。市場の飢餓感が増すなか、彗星のようにあらわれたのが、義肢装具では後発とされていた日本の、しかも人口650人という小さな町の零細メーカー、中村ブレイスだった。
指 紋や体毛、血管まで再現した義手や義足。シリコン加工技術を駆使して弾力性を与え、ミクロン単位の穴を開けて蒸れない工夫も施す。人工乳房にいたっては本 物同様に、仰向けになると横にたわみ、お風呂に入ればうっすらとピンク色に染まるという、限りなく「自然な状態」を実現した。内外の市場が、中村ブレイス の技術の高さと繊細な心配りに驚嘆し、参入を歓迎したのは言うまでもない。
ところで中村俊郎さんが創業を決意したのは、なんと異国の地の霊安室だった。
「30 年前、義肢装具の研修で米国に留学していたのですが、そこで交通事故に遭い、瀕死の重傷を負ってしまったのです。気がつくと病院の霊安室に寝かされていま した。そりゃ驚きましたよ(笑)。それ以上に、冷え冷えとした霊安室で思ったのは、留学中に受けた多くの人たちの励ましややさしさでした。一度は失いかけ た命です。助かったからには、私が学んだ知識と技術を、これからは世の中の人のために生かしていきたいと心の底から誓いました」
2年後、 中村さんは生まれ故郷の小さな町でたった一人で創業した。自宅の前にあったわずか10坪(33平方メートル)の納屋を改造して、「本社」兼「工場」とし た。このとき中村さんは26歳。最初に買ってくれた顧客の1万2000円が会社の原資に、そしてその顧客が口コミで広めてくれた評判が会社の宣伝広告と なった。以来、地道に顧客を広げ、いまでは年商約10億円、経常利益2億円の超優良企業に成長した。
しかし、すべて手作り、細部にまでこだわる採算度外視のもの作りで利益を出すのは困難を極めた。
「経営者の一番重要な仕事は人を育てることです。人が育って、いい製品ができて、ようやく信頼される会社になる。そうなって初めて利益がでるのではないですか。単品で採算をとろうなんて考えていません。会社の総合力の結果として出てくればいいんです」
社内の至る所に書かれた「Think 」の手書きの文字。常に技術改良を考え、人に喜ばれる製品を作りなさいという、中村さんのメッセージだ。
中 村さんの毎日は寝る暇もないぐらい多忙を極めている。本業のほかに故郷の村おこしも手がけているからだ。かつて大森町にあった有名な石見銀山の遺跡の保全 など、町並み保全のボランティア活動にも精力を注いでいる。その甲斐あって2000年11月には、石見銀山史跡は文化庁より、「世界遺産暫定リスト」に追 加されている。もっとも、事業の成功と精力的なボランティア活動は喜ばれる一方で、嫉妬や反発も買う。当初は悩みもした中村さんだが、いまでは割り切って いる。
「結局、ドンキホーテで終わるのかもしれませんが、それでもいい。私はなにごとも10年スパンで考えています。だから頑固だし、それぐらいの歩幅で世の中を見ないと、とても理想なんて貫けませんよ」
【中村 俊郎氏プロフィール】
な かむら・としろう 1948年、島根県生まれ。京都と米カリフォルニア州で義肢装具製作の研修・留学を経て、74年に郷里の大田市大森町で中村ブレイスを 創業。93年には第 1回中国地域ニュービジネス大賞企業大賞受賞。94年にメディカルアート研究所を設立。従来の義肢製作の視点にアートの概念を取り入れた商品開発に力を入 れている。98年の長野オリンピックでは、「ピースアピール展」(地雷廃絶)に参加。その後も使命感あふれた経営とボランティア活動で数多くの賞を受賞。