ハングリーも不幸も糧にして、業界トップの座を獲得 / ピザーラ((株)フォーシーズ)

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

逆境で目覚めた起業家として資質

013父親は、100年を超える歴史を持つ紙器メーカーの社長。その御曹司として、浅野は、当然のことながら後継ぎとしての道が約束されていた。いわゆる”ぼんぼん”育ち。

それが突然暗転したのは、高校2年生の時。父親が倒れたのである。会社の経営権は親族に移り、日々の生活にも困るようになってしまった。

「父 が倒れてなかったら、今でも僕はボーッとしてたでしょうね(笑)。とにかく、それから浅野家が急激に傾き始めた。以来、弱り目にたたり目で、財産の切り売 りで食いつないでいました。若い頃にこういう境遇になると、たいてい社会転覆派になるんだけど、僕は逆で、『この野郎、何としてでも再興を果してやるぞ』 と思ってました」

独立精神が生まれた浅野は、母親が始めた麻雀店を手伝いながら、豊富なアイデアで集客を果たすなど、商売の面白さに目覚める。そして慶応大学在学中、浅野は自分で旅行代理店を始めた。

「必 死にお金を集めて、初めて行った海外旅行先のハワイに魅了されて、それから毎年行きたいなと。どうするか? 旅行代理店をつくってしまえば、添乗員として 行けるわけですよ(笑)。慶応はもちろん早稲田、日大、日本女子大とかいろんな大学に支部をつくった。それでリーダーを決めて、客になる学生を10人集め てこい、そのかわり、集めたヤツの旅費はタダ。で、添乗員として客の面倒も見ろと。話が早くて画期的でしょ?」

多い時は500人、600人と、けっこうな”事業”規模になった。パンフレットやチラシもきちんと制作し、それをメンバーたちが、学校別・時間別に効果的に配付する。

「何のことはない、今、ピザーラでやってることを全部やってたんですよ」

アイデアに富み、生来親分肌な浅野は、この頃から起業家としての片鱗を見せ始めていたのである。

生死の境をさまよう大やけど、事業の失敗……苦難続きの時代

大学を卒業した浅野は、とりあえずは社会勉強だと就職するが、管理的な組織とは全く肌が合わず、わずか3ヶ月で退職。

そして25歳の時、『インフィニティ』というクラブハウスをオープンする。ところが、オープンして間もなく、浅野は全身を大やけどするという事故に見舞われる。

「ふ と気がついたら、揚げ物をしていた鍋から火が出てる。慌てて、何を思ったか新聞紙をかけたもんだから、火がもっと大きくなって燃え上がった。さらに慌てて 鍋を持ち上げたら、油面が揺れて顔にまともに浴びて……それで熱い!!って床に落としたら、今度は下からブワッと火が上がって全身火ダルマですよ」

浅野は、それでも服を脱ぎ捨て、裸になって燃えている火を踏んだ。奇跡的に消火できたが、浅野自身は肺にまで達する大やけどで、生死の境をさまようことになった。命だけは取り留めたものの、植皮手術で、1年半にもおよぶ療養生活を余儀なくされる。

命がけで守った店も、閉じるしかなかった。

再起をかけ、資金も投じ、浅野が次に始めた事業はウーロン茶の輸入販売。まだ、ウーロン茶など誰も知らない頃である。そのぶん、時代の先を行き過ぎていた。商品は全く売れず、事業はあえなく失敗、残ったのは借金だけだった。

その借金を返すため、浅野は見よう見まねでラーメン店を始めるが、これはけっこう繁盛した。

「でも、真夜中に大量のガラを台車に乗せて、ゴミ捨て場に行くたび、これが自分のしたかったことなのか?と疑問がわいてね」

結局、店は人に貸すことにし、以降、浅野は健康食品などを全国行商したり、ビデオ店を始めたりと、商売を転々とする。なりふりかまわず働き続けた、ハングリーな時代だった。

さまざまな経験を生かし、ついに業界の頂点へ

それは直観だった。

「『E.T.』で、少年たちがデリバリーのピザを待つシーンを観て、これだ!!と。どうしてって、よく聞かれるけど、その頃は本当にハングリーでしょ、毎日いろんなビジネスを考えていたからアンテナが立ちまくっていたんでしょうね」

これもまた見よう見まねで、浅野はピザの生地づくりから研究を始める。同業他社はどこもアメリカの味を目指していた頃だ。

「でもアメリカの味って、ほとんど均一なんですよ。日本はラーメンにしても、北海道から九州までいろいろな味があるじゃないですか。味は差別化できるんだから、俺たちは日本人、特に女性の味覚に合うピザをつくろうと決めたんです」

そ して87年に、『ピザーラ』第 1号店が誕生。同年、FCの1号店もオープン。以降、積極的なテレビCMが功を奏したこともあり、軌道に乗るのは早かった。何より、「食べ物屋としての基 本は絶対にはずさない、コスト的に高くても食材には徹底的にこだわる」という強いポリシーが、その成長を支えてきた。

ついに97年、『ピザーラ』は宅配ピザ業界のトップに立つ。

振り返ってみれば、数々の苦難や失敗を通じて、浅野はビジネスの核心をすべて学んできたのである。ラーメン店を貸したことで FCの基本を、ウーロン茶での失敗からは計画の的確な修正と引き時を、そして、行商経験では消費者の地域性や説得力ある販売方法を。

「独立を考えている人に言いたいのは、ひとつの、そして自分のアイデアに溺れず、常に2枚腰、3枚腰で考えて行動してほしいということ。そのうえで、もう打つ手がなければ、撤退する時期を見誤らないことです。だって、敗者復活戦はいくらでもできるんだから」

【浅野 秀則氏 プロフィール】

東京都に生まれる。歴史ある企業の経営者の息子として、裕福な家庭に育つ。
三代目が約束されていたが、父親が倒れたことで生活が一転。
が、これを機に 独立の精神が生まれ、豊富なアイデアで起業家としての片鱗を見せ始める。
78年、クラブハウス『インフィニティ』をオープン。
しかし厨房で起きた油火災で 全身大やけどを負い、療養生活を余儀なくされる。
80年、フォーシーズを設立し、ウーロン茶の輸入販売を始めるが失敗。
借金を背負い、ラーメン店、全国行 商、ビデオ店などさまざまな商売を経験。
それらの経験をもとに87年、『ピザーラ』 1号店をオープン。
わずか十数年で売上高、店舗数ともに日本一へと育て上げる。
現在は、ファストフードから高級料亭まで展開。
全国の半数の世帯 をカバーする宅配ネットワークを生かし、通販関係の事業にも取り組んでいる。

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