第99回 株式会社ネクスト 井上高志

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

- 目次 -

第99回
株式会社ネクスト 代表取締役社長 
井上高志 Takashi Inoue

1968年、神奈川県生まれ。1987年、青山学院大学経済学部へ進学。大学時代に大きなふたつの転機を経験し、「人生のスイッチ」がONになる。大学卒業後の1991年、リクルートコスモス(現・コスモスイニシア)に入社するも、3カ月で親会社のリクルート社に出向・転籍。新卒・中途採用の企画営業担当となり、常にトップクラスの業績を維持し続けた。「不動産業界を変革したい」「人と住まいのベストマッチングを実現したい」。そんな志を掲げ、1995年 6月、会社を退職し、まずは個人事業主として起業。1997年3月、株式会社ネクストを設立し、代表取締役に就任。住宅・不動産情報ポータルサイト「HOME’S」を立ち上げ、日本最大級の規模に育て上げた。2006年10月、東証マザーズ市場に上場。同時期、地域コミュニティサイト「Lococom」をスタート。現在、「住まい」を主軸とした「暮らし」のインフラ創りを目指し、さらなる“革進”を続けている。著書に『「普通の人」が上場企業をつくる40のヒント』(ダイヤモンド社)がある。

ライフスタイル

好きな食べ物

海苔なしの軍艦ウニ。
最後の晩餐の食事を決めています。昔は、「マクドナルドのフライドポテトかブルガリアヨーグルトを死ぬほど食べる」だったのですが、これはすでにやってしまった(笑)。今は、海苔のない軍艦にウニをたっぷり乗せて塩で食べる。これですね(笑)。ちなみにその際のお酒はおいしい日本酒で。日本酒は世界に誇れる芸術作品だと思っています。

趣味

蕎麦打ちと陶芸です。
蕎麦打ちと陶芸です。両方こねるものですね(笑)。無心になれて黙々と集中できるのがいい。知り合いの経営者に誘われて始めたのですが、奥が深いです。そんなに上手じゃないですが、手打ちの蕎麦を自作の器に盛って家族に振る舞ったりしています。あとは、小学2年生の息子と遊ぶ休日も、リフレッシュできる大切な時間です。

行ってみたい場所

世界の際を訪れたい。
以前、アフリカに行った際、カルチャーショックを受けました。「日本人はどうでもいい小さなことで悩みすぎ。生きるってこういうことだ」という人間の原点を教えられた。仕事で狭まっていた視野がバンッと広がった気がしたんですね。だから、南極点、北極点、サハラ砂漠、マチュピチュとか、世界の際といわれるような場所に行ってみたいです。

最近感動したこと

感動の連鎖に涙。
当社は「日本一働きたい会社」を目指しており、最近、新しい管理職研修を人事グループがつくったんです。ある新任マネジャーが「日々の悩みが解消された。この研修を受けて本当に良かった」と、人事に報告してくれた。担当者は感動の涙、その報告を受けた上司も涙、それを聞いた私も涙してしまいました。本当にいい会社になってきたなと(笑)。

「住まいのポータル」から「暮らしのインフラ」へ。
日本最大級の不動産情報企業が目指す未来のネクスト

 日本全国の「住まい」に関する情報をすべて公開し、業界とエンドユーザーの間に存在する「情報の非対称性」を解消する。1995年、そんな志を胸に起業し たのが、井上高志氏である。資金100万円、ワンルームマンションの1室、個人事業としてスタートした挑戦は、1997年に株式会社のかたちとなり、今、日本最大級の住宅・不動産情報ポータルサイト「HOME’S」の運営会社へと成長を遂げている。「私たちのビジョンは『常に革進することで、より多くの人々が心からの「安心」と「喜び」を得られる社会の仕組みを創る』ことです。本来、国や政治がやるべきイノベーションをいつも敏感に察知し、先に成し遂げるのがネクストです。たくさんの人々から、そんな期待感を持っていいただける会社にしていきたいですね。そのためには、やはり志を同じくする“人財”が必要。だから、日本一働きたい会社を本気でつくろうとしているのです」と語ってくれた井上氏。今回は、そんな井上氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<井上高志をつくったルーツ1>
背が低く、後ろ向きで、引っ込み思案。母からの応援メッセージに救われた少年時代

 私が生まれたのは、横浜市の磯子区洋光台という町です。父は石油会社に勤める会社員で、母は専業主婦。きょうだいは、姉、兄と私の3人。5人家族の典型的な中流家庭だったと思います。小学生時代の私は、学年で1、2位を争うくらい背が低くて、引っ込み思案でした。成績は中くらいでしたでしょうか。ひとつ年上の兄は私に比べて成績優秀、スポーツ万能、学級委員を任されるなど非常に快活なタイプ。そんな兄を頼りにして、いつも彼の後を追いかけていました。兄は少年野球チームに入っていたんです。母に勧められて僕も小3から始めたのですが、日曜日の練習に行くのがイヤでイヤで。2回に1回くらいは仮病をつかってズル休みするくらい(笑)。そんなですから、ずっと補欠でしたね。

 クラスの各種係を決める時も、最初に図書係とか飼育係とか、できるだけ責任の少ない係に最初から立候補していました。もしも学級委員とかに推されたら、責任重大ですし大変じゃないですか(笑)。そんな後ろ向きな子どもだったのですが、兄弟間の比較をいっさいしない家庭だったことで救われた。特に母はいつも、「高志は大器晩成型だから大丈夫」「3日坊主でもいいの。何事も経験だからやってみなさい」と言ってくれていました。だから心は常に自由でしたし、卑屈になることもありませんでしたね。気づいたのは大人になってからですが、その頃の母は、人間が生きていくうえで大切なOS(オペレーティングシステム)を組み込んでくれていたんだと思っています。

 中学ではバスケット部に入部します。なぜか? 野球部は坊主頭がルールでしたから。髪型には昔からこだわりがあったんですよ(笑)。でも、まだ僕の背は低いまま。一所懸命スリーポイントシュートの練習をしたりして、中3までやめずに自分なりに頑張りましたが、レギュラーにはなれませんでした。そうそう身長155センチの小さな私でしたが、中2で初めて彼女ができたんです。バレンタインデーになんと3人の女の子から告白されて、そのうちのひとりと付き合い始めたんです。いや、これは大きな自信になりましたね。きっと、小さくて可愛い男の子というのが理由だと思いますが。ただ、3年になって同級生の男子に、その彼女を奪われてしまうという悲しい結末だったんですけど(笑)。

<井上高志をつくったルーツ2>
1歳上の兄との差が広がり焦りが生じる。ぼんやりと起業のイメージが浮かび始める

 兄は学区で1番の公立高校に進学しましたが、僕はそこまでの成績が残せず、2番手の公立高校へ。高校では部活には入らず、帰宅部です。放課後は、地元の喫茶店のウエイター、スーパーの販売員、警備員など、いろいろなアルバイトをやりました。中でも思い出に残っているのが、学習教材のフルコミッション営業。住宅街の家々を1軒ずつ呼び鈴鳴らして宅訪しながら、「この教材、お宅のお子さんにいかがでしょう」と教えてもらった営業トークをするわけです。私服を着たどう見ても未成年の私が、です(笑)。相手にしてみたら、「はあ? 子どものあなたが何言ってるの?」ですよ。結局、1件も契約が取れず数カ月で辞めてしまいましたけど、こんな大胆な営業が自分にできたことに驚きましたし、良い経験となりました。

 高校2年くらいですかね、僕の性格がだんだん快活に変わっていったのは。友だちに恵まれたんですよ。当時の仲間とは今も親友づきあいを続けています。だんだん自我らしきものも芽生えてきた。僕はバイト三昧の日々、かたや兄はバンド活動を始め、ドラムを叩いたりしてカッコいい。彼が慶応義塾大学にストレートに合格した時には、かなり差をつけられてしまったなと。このままじゃいけない。兄に追いつき追い越すには、もう王道を歩んでいては無理かもしれない。ぼんやりとですが、独立とか起業というイメージが初めて浮かんだのはこの頃です。ただ、大学には行っておかねばと考え、私は青山学院大学経済学部へ進学します。苦手な小論文と数学が受験科目になく、つぶしの効きそうな経済学部はどこだろうと消去法で受験大学を探した結果なんですけどね(笑)。

 受験が終わった解放感も手伝って、大学入学後はシーズンスポーツサークルに入り、夏は海、冬は雪山、夜は飲み会をしながら遊んでばかりいました。でも、2年次の途中くらいからそんな生活に飽きてしまった。それからまたバイトに熱中し始めるんですよ。稼ぎの良さもあって選んだのが、結婚式場の配膳係。毎週末12時間立ちっ放しの過酷な労働でしたが、毎回毎回、新郎新婦やご両親などの嬉し涙が見られるこの仕事が私は大好きでした。そして、あっという間に就職活動の時期がやってきました。当時はまだバブル景気の真っただ中で、学生にとっては超売り手市場の採用環境。ただ、それまでちゃらんぽらんに生きてきた私に、ふたつの大きな転機がほぼ同時期に訪れるんです。

<大学時代に訪れたふたつの転機>
彼女との別れ、腕試しの就職試験失敗で、「人生のスイッチ」がオンに切り替わる

 2年半くらい真剣に付き合っていた彼女から、「私はニューヨークに留学する。アメリカでニュースキャスターになる夢を実現するために。だから、あなたとこれ以上付き合いを続けることはできない」と別れ話を切り出されてしまったんです。それも、かなり切れ味鋭く、反論もできないくらい(笑)。私には彼女を引き留める資格なんてないと思いました。難しい道を自ら選択し、本気で夢をかなえようとしている人が目の前にいる。でも、私には夢なんてひとかけらもないわけです。将来、自分は何をやりたいのか、何をすべきなのか、これまでまったく考えたことがなかったのですから。正直、愕然としました。ただし、これからの人生を考えるための、悲しいですが、大きな転機となったのは事実です。

 その後、就職活動を続ける中で、社員数35人のベンチャー企業の就職試験を受けました。腕試し程度と考えていたのですが、結果は不合格。集団面接で私が話したことといえば「配膳のバイトを頑張りました」程度のこと。一方、一緒に面接に臨んだふたりの学生は、「なぜこの会社に入りたいのか」「将来どうなりたいのか」、私に比べ、目的意識が明確でした。大切な彼女に振られ、軽い気持ちで受けたベンチャー企業に落とされる。21年間生きてきて、何も自慢できることをしてこなかった自分……。ここでやっと「自分の人生のスイッチ」がオンになった。それから数週間もんもんと悩みましたが、ふたつのテーマを自分に課し、本気で挑戦する人生を歩んでいくことを決めました。「5年以内に起業する」「一大事業を成し遂げる」。今の私なら、「じゃあ、すぐ起業すればいい」と言うでしょうが、当時の私は経験もない、やり方もわからない。だからまず、打ち立てたテーマを実現するために就職しようと。

 5年間で自分を徹底的に鍛え上げることができる会社。業界選択からやり直し、都市開発や街づくり、地図に残る大きな実業という点で、私が目指したのは不動産ディベロッパーでした。就職活動の結果、三井不動産さんには、最終面接まで進ませていただき、リクルートコスモス(現コスモスイニシア)からは、内定をいただきました。最終的に私が選んだのはリクルートコスモス。担当者からの口説き文句にグラリときたんですよ(笑)。「三井不動産さんは下積みに5年から10年はかかるかもしれない。かたや、うちなら3年で数十億円規模のプロジェクトリーダーが張れる可能性がある。5年以内に起業したいんだろう? 将来の目標に早く近づきたいなら、断然うちだよ」。三井不動産さんには、最終結果を聞く前に、泣きながら辞退の電話を入れました。そうやって私の社会人生活が始まっていくことになるのですが、入社からわずか3カ月で出向・転籍になるなんて、予想だにできませんでした。

<起業の種を発見!>
不動産業界の「情報の非対称性」を解消する。
インターネットならその思いがかなえられる!

 リクルートコスモスに入社した新人の私の仕事は、マンションの販売です。ある日、若いご夫婦の担当となり、気に入った物件を紹介することができたのですが、残念ながらローンの審査に落ちてしまった。でも、おふたりにとっては一生に一度の大きな買い物。何とかしたいと考え、自社物件だけではなく、他社の物件情報も必死で集めて紹介したのです。結果的に、他社の物件の購入が決まり、そのご夫婦からは素敵な笑顔と、「あなたのおかげで最高の家にめぐり会えました。本当にありがとう」という言葉をいただいた。当然、上司からはこっぴどく怒られましたけど(笑)。当時、条件に合う40件くらいの物件情報を集めるために、不動産業者の私でさえかなりの苦労をしました。これじゃあ、本当にエンドユーザーが最高の家を探すのは至難の業。あんな素敵な笑顔をたくさんつくるために、不動産事業者と不動産購入者の間に存在する情報格差、「情報の非対称性」を解消していくべきではないか。このご夫婦とのやり取りが、起業の原点をつくってくれた仕事となりました。

 入社から3カ月後、バブル崩壊の余波を受けて、不動産業界全体がガタガタになり、私は親会社のリクルート社に出向・転籍となりました。もちろん、落ち込みましたが、5年以内に起業する人間がそんなことで後ろ向きになっていても意味がない。コスモスの部長には「1年以内にトップ営業になったらコスモスに戻してください」と宣言しました。そのうえで、今いる場所ですべてを吸収しようと、リクルート社で新卒採用、中途採用の仕事に専念することにしたのです。私は必死で頑張って、結果的に半年後、トップ営業になりました。残念ながら、コスモスに戻ることはできませんでしたけれど……。私はその後も、クライアントの採用活動の成功を徹底的に考え、仕事に取り組んでいきます。ただ、そうやって毎日忙しく過ごしながらも、起業への思いが色あせることはありませんでした。

 不動産会社とエンドユーザーの間に存在している「情報の非対称性」を解消するためには、世の中の物件情報がすべて網羅されているデータベース、ネットワーク、メディアが必要だと考えていました。ただし、紙メディアでは掲載する情報量に限界がありますから、やはりマルチメディアの類か? NTTのキャプテンシステムやフランスのミニテルなどが思い浮かびましたが、莫大な投資が必要です。そんな時、マッキントッシュおたくの先輩からインターネットの存在を教えてもらった。当時は1994年頃、パソコン通信は知っていましたが、インターネットはカラー写真までが表示されるネットワーク。その先輩に、「インターネットって、どの会社が運営しているのですか?」と聞いて笑われたことを覚えています。でも、「インターネットなら小資本で自分の思い描いたビジネスを立ち上げることができる、今やらないと絶対に後悔する」。必死で慰留してくれた上司を何とか説得し、私は4年3カ月の会社員生活にピリオドを打つのです。

すべての人に、もっと便利、もっと快適を!
利他主義を貫きとおし、世界平和に貢献する

<たったひとりの起業>
昼は不動産会社へ営業、夜はプログラマーに。休日もなく、毎日20時間働きながら夢を追う

 起業に踏み切ったのは1995年7月。最初はワンルームマンションの1室で、たったひとり、個人事業としてのスタートでした。開業資金は100万円。マッキントッシュの購入費などの初期費用でほぼなくなった。当時はまだインターネットの解説書があまり存在せず、大手書店でも2冊だけ。そのうちの簡単なほうを購入して、自分でHP(ホームページ)をつくり始めました。9月にα版の「HOME’S」が完成し、会社員時代にお付き合いのあった不動産会社さん10社程度に協力いただき、1カ月5000円で物件情報の掲載を開始しました。もちろん、それだけでは生活できませんから、各社のHP制作を1社20万円くらいで請け負いながら。昼間は不動産会社に営業に出かけ、夜からはプログラマーになる。休日もなく、毎日20時間働く日々がずっと続いていきました。

 その間、慶應義塾大学SFCの学生に「HOME’S」のブラッシュアップをアルバイトでお願いしたり、高校時代の同級生で、当時、システム会社のエンジニアだった、現在当社の取締役である成田隆志に“サンデープログラマー”としてシステムの強化を手伝ってもらったり。そんな地道な活動を続けていたある日、6000万円くらいの湘南の一戸建が「HOME’S」経由で売れたんですよ。クライアントである不動産会社さんも「問い合わせからわずか1週間くらいで売れた!」と驚いていましたが、これは本当に嬉しかった。そして1997年3月12日、株式会社ネクストを設立し、「HOME’S」の商用サービスを本格稼働させることになるのです。ただ、起業後から約5年間は、ブレイクスルーが訪れませんでした。この当時の売り上げは、会員企業である不動産会社さんからの物件掲載料で、定額制。ちなみに初年度の物件数は200店舗、翌年は400店舗、翌々年は600店舗と、毎年200店舗程度しか物件数を増やすこ とができなかったのです。

 5年目、私は腹をくくりました。当時の物件数は約1000店舗。競合も増えつつあり、ここで物件数をいっきに倍増しないとネクストの未来はないと。「1年で物件数を倍増できなかったら、責任を取って社長を辞める」と宣言したのです。それまで電話帳を片手に片っ端から電話営業をしていた「プッシュ型営業」から、業界紙への広告出稿や当社主催のセミナーを開催し、そこからのお問い合わせに対してサービス提案を行う「プル型営業」に仕組みを一新。同時に営業マニュアルの刷新、目標数値の単純化など社内整備も行い、さらに私は営業部長を兼任することにしました。率先垂範しないと人は動きませんから。そうやって営業担当者と私が競争することで、月の受注件数の過去最高記録が7、8店舗の受注だったところ、月に30店舗を受注する営業担当者も現れた。おかげで物件数倍増の目標も約2300店舗とクリア。私も社長を辞任せずに済みました(笑)。

<失敗からも常に学びを!>
2006年10月、東証マザーズ市場に上場。未来に向けて、今も果敢な挑戦を継続中

 ネクストは理念経営を掲げています。2000年3月、創業時から一緒に当社を支えてくれた幹部との経営感覚やビジョンの溝を埋めることができず、彼が当社を離れていったという手痛い経験がきっかけとなりました。私はこの別れから、ふたつの反省点を学んでいます。ひとつは、何でも言い合えるオープンな社内風土をつくりきれなかったこと。もうひとつは、経営理念を常に共有する努力を怠ったこと。この時の反省を機に、私の経営者としてのスタンスが決まったと思っています。以来、言葉の重要性を痛感し、日々のコミュニケーションを大切にし続けてきました。2004年にはネクストのガイドラインを全従業員と4カ月かけて策定し、2007年にも400人を超える従業員とともにガイドラインを再策定しています。私たちの経営理念は「常に“革進”することで、より多くの人々が心からの“安心”と“喜び”を得られる社会を創る」。そして社是は「利他主義」。これらに反することはいっさいやらないということです。

 さまざまな紆余曲折を経てきましたが、私はネクストというビジネスを通じて、不動産業界を改革し、エンドユーザーの「不便」「不安」「不満」といった、不」の存在を解消したいと常に考えてきました。そもそも「情報の非対称性」を解消する企業になるということは、従来の情報インフラ全体を再整備・再構築するということ。いってみれば、水道や電気、ガスを供給するパブリックカンパニーになるようなものでしょう。なので、創業時から株式公開は念頭に置いてきました。不動産業界という特定の分野に一点集中して取り組み、その結果「HOME’S」は日本最大級の住宅・不動産情報ポータルサイトに成長し、2006年10月、東証マザーズ市場に上場。そしてネクストは、未来に向けて、今も果敢な挑戦を続けています。

<未来へ~ネクストが目指すもの>
ネクストに集う“人財”が日本の世直しを続け、未来の世界平和を紡ぎ出す先達となること

 今後もネクストは「HOME’S」という基幹事業の拡大を継続していきます。国内に住宅は約5700万件(総務省調べ)あるといわれていますが、目指すは、これらすべての情報をデータベース化し、公開することです。それが実現できれば、売り手は嘘やだましができなくなり、買い手は安心して情報を精査しながら住宅を探すことができるでしょう。そして「HOME’S」経由で25%の成約が生まれることが今のところの目標ですね。「住まいのポータル」から「暮らしのインフラ」への挑戦も着々と進めています。2006年にスタートした、日本最大の地域コミュニティサイト「Lococom(ロココム)」が、そのためのプラットフォームづくりの第一歩となります。何も知らない初めての場所に引っ越す場合、誰もがその地域の生の情報を知りたいのは当然ですよね。「Lococom」の会員同士のやり取りで、人々の暮らしに必要不可欠な「医療」「教育」「仕事」「食」など、地域間のさまざまな「情報の非対称性」が解消される。その実現を目指しています。

 ちなみに、「Lococom」で有益な情報を発信した人には、会員からの評価によりポイントが発行されます。このポイントは実際に換金することができるのですが、そのポイントを地域活性化のための寄付に充てている人がけっこういらっしゃる。いつかこれを仕組み化して、有益な情報提供をきっかけにさまざまな「不」の解消に役立つような、そんな地域支援活動に育っていけばいい。そのために、「Lococom」のネットワークをどんどん広げていく必要がある。昨今、アジア経済圏の実現がさけばれていますが、中国からスタートし、韓国、シンガポール、ベトナム、タイ、マレーシアなど、まずはアジアを「Lococom」で席巻していきたい。言葉の壁はきっと技術で解決できますから、できるだけ早く、5年以内にはアジアネットワークを完成させたいと思っています。その先はもちろん、全世界です。

 私たちの最終的な夢は経営ビジョンの実現にあります。本来、国や政治がやるべきイノベーションをいつも敏感に察知し、先に成し遂げるのがネクストである。たくさんの人々から、そんな期待感を持っていいただける会社にしていきたいですね。そのためには、やはり志を同じくする優秀な“人財”が必要です。「利他主義」によって、世の中にたくさんの笑顔をつくり、常にハッピーを届ける会社にであり続けるために、私たちは本気で「日本一働きたい会社」づくりを始めています。また、近い将来、私は財団法人を立ち上げて、教育=人間力の強化に携わる活動にも着手していきたい。そして、ネクストに集う“人財”が、日本の世直しを続け、未来の世界平和を紡ぎ出す先達となる。私が21歳の時に心に誓った「一大事業を成し遂げる」というテーマは、今もどんどんふくらんでいます。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
確実に「ありがとう」が返ってくる事業なら、どんな時代であっても必ず成功します

 世の中を今よりも良くする事業に、強い志を持って取り組んでほしいです。今、世の中には不景気という言葉が蔓延していますが、起業に外部環境なんて関係ないですよ。クライアントやユーザーから確実に「ありがとう」が返ってくる事業なら、どんな時代であっても必ず成功します。外部環境を不振の理由にしていいのは、マーケットシェアの80%を獲得している企業だけだと思います。昨年からよく、100年に一度の経済不況と言われますが、そんなことないですよ。なぜなら戦中や戦後の生活のほうが確実にひどかった。私たちの祖父母、父母のほうがよっぽどつらい思いをしてきたはずです。そんな彼らがこの国をつくってくれたのですから。住む場所や食べ物、働ける職場もある私たちが、マインドをシュリンクさせていても意味がない。本気で挑戦する気持ちが大切なんです。

 ビジネスチャンスを探す時、不安、不満、不便など「不」の解消を考えてみればいい。ただ、ほかの誰かがやっていないという考え方に偏ってしまうと、「もうここしか残っていない」というニッチで小さなビジネスに行き着いてしまいがちです。世の中というアンブレラ(傘)を上から見てほしい。虫の目でミクロな「不」を探すのではなく、鳥の目でマクロな「不」を探してみるのです。そうすると、少子化、高齢化、エネルギーに食糧問題、地方の衰退などなど、さまざまな大きな「不」が存在していることがわかります。それを本気で直そうと考えたら、いくらでもビジネスのアプローチが思い浮かぶのではないでしょうか。あとは人の金に頼るのではなく、事業家としてビジネスを回すために死ぬほどロジカルに考えて、死ぬほど情熱を注いでいくのです。

 事業を成功に導く組織には、ある方程式が存在していることに気づきました。それは、「価値創造=人×情熱×仕組化」という掛け算です。まずは思いに賛同する優秀な同志を集め、しっかり育成する環境を用意する。次に、同志たちのモチベーションがどんどん高まるような、明確なゴールを設定する。そして、そんな情熱を持った同志たちの行動の結果が、2倍、4倍、8倍と倍加していくシステムやプログラム、いわゆる「社内の仕組み」を構築する。もちろん、ひとりで大きなビジネスをつくり上げることのできる人もいるでしょう。でも、考えてみてください。ある「不」の解決に対して、「同感だ!」と答える若い人が100人集まって、同時に同じことをやればすごいことになりそうじゃないですか。ネクストはそんな熱い仲間が集まった組織です。将来の起業を目指して、門を叩く人も多い。まずは当社で起業の疑似体験をしてみる。そんな選択肢もありですよ。私は起業家志向人材が大好きですから(笑)。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

現役社長 経営ゼミナール

Q.自己資金が20万円しかないのですが、独立してネイルサロンをやるにはどうしたらいいでしょうか?ネイル商材等はあるので、物件取得費用と運転資金が必要です。(茨城県 会社員)

A.
まずは近所の方を対象に自宅などでスタートしてみてはどうですか?
その際にも「利他主義」で、いかにお客様に喜んでいただけるかを考え、工夫すれば、評判が評判を呼び、お客様が増え、その内に開業資金もたまるのではない でしょうか。
自宅開業以外にも出張専門サロン等の選択肢もあると思います。

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