第98回 株式会社ビューティガレージ 野村秀輝

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第98回
株式会社ビューティガレージ 代表取締役CEO 
野村秀輝 Hideki Nomura

1967年、石川県生まれ。実家は珠算塾を経営しており、父母からの猛特訓を受け、ソロバンの神童に。中学では卓球部に、高校ではボクシング部に入部。 1990年、青山学院大学経済学部卒業後、広告代理店の中央宣興株式会社に入社。1995年、タイの海外の現地法人CHUO SENKO (THAILAND)CO.,LTDに出向。1997年、PT CHUO SENKO INDONESIAに出向 。2000年に帰国し、 株式会社マッキャンエリクソンに転職。2002年10月に、マーケティングプランナーとして独立した。2002年暮れ、弟の紹介で、現在の経営パートナー供田修一に出会う。2003年4月、株式会社ビューティガレージを設立。本人が代表取締役CEO、供田が代表取締役COOに就任。「サロン開業のコンシェルジュ」を目指し、Webサイト「BEAUTY GARAGE Online Shop」と全国12カ所のショールームを機能させながら、商材販売、不動産、内装、システム、保険、人材、集客、IT支援などのワンストップサービスを提供している。

ライフスタイル

好きな食べ物

金沢のたこ焼き。
たこ焼きとか、お好み焼きとか、粉モノが好きですね。たこ焼きの本場って、大阪といわれていますが、地元・金沢のたこ焼きよりうまいたこ焼きを大阪で食べたことがありません。そのくらい、うまい。お酒は嫌いじゃないけれど、今は車の移動が多いのであまり飲みません。飲む時はワインが中心でしょうか。

趣味

仕事なんです。
休日もずっと仕事のことを考えているほど仕事が好きです。今、どれだけ売り上げが挙がって、どれだけ利益が出ているか。会社の数字の推移を見ているのが楽しいんですよ。昔は車が好きで、よくサーキットとか峠で走っていました。でも今は、家族もいるので愛車はSUVに買い替えていますよ。

行ってみたい場所

タイとインドネシア。
会社員時代に赴任して働いていた、タイとインドネシアに行ってみたい。その2カ国は、私の第二のふるさとであると思っています。仲間もたくさんいますしね。あの頃の街が、どんなふうに変わっているのか。見てみたいんです。今はもう使っていませんが、現地に行けば言葉も自然と出てくる気がしています。

最近感動したこと

全社員パーティで。
6周年記念の全社員パーティを4月に行いました。社員がまるでテレビのドキュメンタリー番組のような映像をつくってくれましてね。当社の成り立ちから今日までを詳細につづった映像を流したんです。しかも最後のオマケとして、私の実家の両親からのメッセージも。柄にもなく、涙しそうになりました。

強気をくじき、弱きを助ける正義の味方が、
理美容サロン経営者のために始めたリサイクル事業

 日本最大級の理美容サロン・エステ商材の専門オンラインショップ「BEAUTY GARAGE」と、全国12カ所のショールームを機能させながら、急成長を続けるベンチャー企業、株式会社ビューティガレージ。設立から7年目を迎え、取扱商品は常時10万アイテム、毎月約2000サロンの新規会員が増え続け、累計会員サロンは6万店を突破。業界の“正義の味方”を自負するのが、同社を立ち上げたアントレプレナー・野村秀輝氏である。「まだまだ既得権益者が根強く踏ん張っていますから、当社は業界の嫌われ者です(笑)。ただ、サロンを経営する側の方々からは好かれている。ここにこそ、私たちの存在意義があると思っています。言ってみれば、強きをくじき弱者を守る正義の味方であると」と語ってくれた野村氏。今回は、そんな野村氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<野村秀輝をつくったルーツ1>
両親から猛特訓を受けたソロバンの神童が、中学からは卓球に打ち込むやんちゃ坊主に

 生まれは石川県で、父は地元で昭和39年から珠算塾を経営しています。今もやっていますから、もう45年も続いているんですね。5歳の頃からソロバンの英才教育を受けましてね。毎日、毎日特訓ですよ。“ソロバンの神童”なんて呼ばれて、実力もついた。暗算や珠算の大会に出たら優勝か準優勝。ちなみに小3で一級を取り、小6で三段、中1で四段を取っています。進級のスピードもずば抜けて早かったですが、四段は今でも実家の珠算塾の最高取得段位だそうです。そして小学校に上がるとソロバン以外にも、いろいろ習い事を始めています。英会話、書道、卓球に百人一首まで(笑)。あとは習い事に通う時間の隙間をぬって、仲間とソフトボールなどをして遊んだり。今考えても、そうとう忙しい小学生でしたね。

 もちろん算数は大の得意科目で、小学時代のテストはほとんど満点だったと記憶しています。でも、算数が数学に変わってからは、まったくダメ。連立方程式とか、訳わかんなくなっちゃって。それ以来、一番の苦手科目ですよ。中学では、卓球部に入部しています。で、のめり込んじゃったんです。小さな頃から何かに集中して取り組むのは好きだし、得意ですから。神童と呼ばれていたソロバンは中1で卒業。一所懸命、卓球部の練習に打ち込んで、地区大会はほぼトップで突破し、県大会でもそれなりの成績を残しました。この頃は本気でプロの卓球選手になりたいと思っていたんですよね。いくつかの高校からスカウトの話も来ました。けど、すべてお断りしています。思春期をすぎて冷静に考えたら、卓球よりもっと面白いことがあることに気づいてしまったから。

 私が中高生の頃はヤンキーブームが世の中を席巻し、学校もけっこう荒れていたんです。当時は「勉強できるのがカッコ悪い」といきがって勘違いして、中学入学当時400人中10番くらいだった成績はガタ落ち。くわしくはお話しできませんが(笑)、ちょっとした悪さをして警察に補導されてしまったことも。派出所に私を引き取りに来てくれた父にその場でぶん殴られたことを覚えています。まあ、卓球に打ち込みつつも、仲間とたくさん遊んで、スリリングな経験もしましたし、けっこう楽しい中学時代だったと思います。それでもおぼろげながら大学には行きたいと思っていて、何とか公立の進学高校に合格することができました。

<野村秀輝をつくったルーツ2>
自由な生き方を求めて東京行きを決意。高校3年の9月から受験勉強をスタート!

 ケンカが強くなりたくて、高校ではボクシング部に入部。2年後に石川県でインターハイが開催されるため、1年の時に県の強化選手合宿にも参加しています。私の高校は進学校でしょう。合宿所で出会った別の学校の選手たちは、みんな本気バリバリのヤンキーですよ。こいつらと勝負するのかと、暗澹たる気持ちになりました。それでも、ウエイトの軽い階級のほうが勝算は高いと考え、170センチで55キロくらいだった体重を47キロまで減量し、ライトフライ級で1年の新人戦に出場。練習後の水分補給はなし、炭水化物をいっさい食べない。この減量はかなりきつかった。でも結果、決勝戦で対戦相手を下し、私は県の新人戦で優勝することができました。ちなみにその年の新人戦、同階級の出場選手は、私と相手のふたりだけだったんですが(笑)。

 ボクシング部に籍は置いていましたが、真面目にやったのは1年の時だけ。あとは、バンド活動に彼女とのお付き合い。遊んでばかりいました。ただ、尾崎豊ではないですが、早く自由になりたかった。そのためにはやはり、親元を離れることが手っ取り早い。そして、東京の大学に進学して思い切り遊ぼうと、遊びモードから受験モードに頭を切り替えたのが、高3の学園祭を終えた9月頃。当然ですが、成績はクラスでも下から数えたほうが早かった。そこから自己流ながら、必死で勉強しましたよ。学校が終わってから彼女と少し遊んで(笑)、後はずっとほぼ朝まで勉強。もう時間がないですから、本当にひたすら勉強して、青山学院大学の経済学部に現役で合格。担任の先生に結果を報告したら、「いったいなぜ!?」って驚いていました(笑)。

 大学時代の4年間も、思い切り遊びました。夜は六本木のディスコでアルバイトをやって、朝帰りでそのまま寝る。軽く大学に行って、夜からはまた六本木。あとはパーティサークルを立ち上げて、ディスコを貸し切ったイベントを仕切ったり、ダンスチームをつくってみんなで練習してイベントで披露したり。ディスコイベントを成功させ、仲間と回転ずしをお金を気にせず食べたいだけ食べた時は感動しました(笑)。そうやって遊んでばかりいましたが、要領がけっこう良いのか、大学の単位はそれほど苦もなくクリアすることができていました。頭の中で、何となく後先のことを考えているんでしょうね。留年もせず、4年でしっかり卒業していますから。ただ、もう一度大学生に戻れるのなら、しっかり勉強をしてみたいです。

<就職活動を経て社会人に>
企画の仕事はきっと面白いはず。それだけの理由で広告代理店一本に絞る

 就職活動の時期になって考えました。ずっとパーティやイベントの企画をやっていましたから、企画の仕事って面白そうだと。ただそれだけの理由で広告 代理店一本に絞って、就職活動を開始。でも、ずっと遊びっぱなしの大学生活でしょう。OBのつながりも、コネもまったくなし。最大手の電通、2位の博報堂と受け始めて、どんどん落とされて、やっと内定を得たのが当時業界11位だった中央宣興でした。ちなみに、卒業旅行は友人とアメリカへ。「俺たちのダンスを見せてやる」なんて、ニューヨークやロスなどのクラブを1カ月くらい回って踊りまくってね(笑)。我ながらアホな旅だったと思います。そして大学を無事卒業し、私の社会人生活が始まっていくのです。

 入社後に配属されたのは、出版営業部。しかも、担当業界がアニメ。まったく興味もないし、つまらない。地味でしたしね。正直、私のイメージしていた華やかな広告業界とのギャップにとまどいました。でも、2年目からは大手企業のアカウントエグゼクティブを任されて、仕事もだんだん派手になり、楽しくなってきた。あるプールのPR企画で、キャンペーンガールにダンスチームを組んでもらって、東京と横浜のディスコのお立ち台を制覇させた。彼女たちが踊りながらおもむろに衣装を脱いだら、そのプールの名前が入ったビキニ姿で、フロア内で団扇を配り始める。この団扇が優待券代わりになっていると。まあ、自分で面白そうな企画を考えて、数打ちゃ当たるでどんどん提案していきました。入社5年目、仕事にも慣れ、そうやって楽しく仕事を続けていた私に、役員から声がかかります。「バンコクの現地法人に出向してくれないか」と。

 中央宣興は、アジアネットワークの強さが有名です。ですが、私はバリバリのドメスティック志向。いったんはお断りましたが、役員は「1週間考えてほしい」と。確かに、このまま楽しいことだけを続けていても成長がない。自分の強みや専門性をつくるキャリアアップの手段として、やはりこの話受けてみようと。そして私は1995年3月に、タイのバンコクにある現地法人に赴任することになります。なぜ自分に白羽の矢が当たったのか? その理由を後になってその役員に聞いたらずっこけましたよ。「入社試験の英語の成績が一番良かったから」ですって(笑)。大学受験で必死に勉強した英語の記憶が残っていただけなんですけどね。その英語で、僕は苦労することになるんです。

<海外勤務で経営力を養う>
アジア通貨危機に見舞われたインドネシア現地法人で
社長に抜擢され、業績のV字回復を成し遂げる

 正直、赴任前は、「東南アジアの人たちに俺は何を教えるんだろう」くらい上目線で考えていました。が、バンコクの街は大都会だし、現地法人にはタイでも選りすぐりの優秀な人材、欧米人スタッフも勢ぞろい。おまけにみんな英語はペラペラで、マーケティング理論にも精通しています。多くのスタッフがMBAホルダーだったんですね。そんな中に放り込まれた私は、「本社から、英語もしゃべれない、仕事もできないお荷物がやってきた」ですよ。すぐに反省し、猛勉強です。毎朝始業前に2時間、先生についてタイ語と英語のレッスン。理論武装のため、マーケティング関連の専門書も読みあさりました。半年を過ぎた頃から徐々に効果が出始め、2年目にはもう“絶好調の本社から来た日本人です”に変身していましたね(笑)。集中力と要領の良さが自慢ですから。その後も、クライアント数をどんどん増やし、業績も伸ばし、すべてがうまく回り始めました。

 タイでの生活が3年目に入った頃、また本社から辞令が。今度は「インドネシア・ジャカルタの現地法人へ出向せよ。No.2が退社したので、その後釜を頼む」と。そしてジャカルタに赴任して2カ月後の1997年7月、アジア通貨危機が発端となり、インドネシアもハイパーインフレに巻き込まれてしまった。急激な食品価格の上昇に対する暴動が勃発し、数千人の死者が出たといわれています。この出来事に不安を覚えた当時の現地法人社長が、「もう俺は辞めて、日本に帰る」と帰国してしまった……。で、結局はまだ30歳の若造である私が、スタッフ数約50人の現地法人社長を任されることになるのです。自己分析ではNo.2向きと思っていました。しかし、やるしかないと開き直り、トップを張る決意を固めます。

 損益計算書や貸借対照表、労務管理の勉強をしたのもこの時が初めて。スタッフからの反発もありましたが、経費を圧縮し、筋肉質の経営体質への改革を推し進めていきました。大手広告代理店を相手とした競合プレゼンもたくさんありましたが、私の記憶によると当時は15連勝で負けなし。その後、インドネシアの現地法人は、すごく儲かる会社に育っていきました。雇われの身とはいえ、異国の地で社長を張って、経営を成功に導いたわけです。「俺は経営者になるために生まれてきたんじゃないか」、本気でそう思いました(笑)。2000年になり、「日本ではIT革命が起きて、すごいことになっている」。それを聞いていてもたってもいられなった私は、会社に頼んで帰国。その後、外資系広告代理店・マッキャンエリクソンに転職し、再び日本で働き始めます。ただ、もう長く会社員を続ける気はありませんでした。起業するためのアイデアを、すでにいくつも温めていたのです。

すべては理美容サロン経営者のために!
開業&運営コシェルジュとして支援を継続

<パートナーとの出会い>
15万円で請け負った事業計画書作成の仕事が、
中古理美容器具リサイクル事業立ち上げにつながる

 現地法人の社長を務めてから、漠然とですが起業を考えるようになったんです。実際に、アジア各国で多店舗展開していたベトナム麺「フォー」のファストフードや、北海道のデリバリーピザのフランチャイズなどの可能性を細かく調べたり。デリバリーピザのほうは、帰国後、社長に直接交渉し、関東の権利を取得する寸前までいきました。が、ふと我に返って思った。「確かに儲かりそうだが、俺は本当にピザ屋がやりたいのか?」。それで契約直前にお断りしたり……。この頃はかなり迷っていましたね。で、2002年の10月にとりあえずマッキャンエリクソンを退社し、マーケティングプランナーとして独立。いわゆる広告代理店の下請けです。本当はやりたくなかったんですが、まずは“独立”という第一歩を踏み出し、何か新しいモデルをつくろうと……。ちょうどその頃、弟から石川県で美容ディーラーをやっていた、現在、当社の代表取締役COOを務めている供田修一を紹介されたんです。

 供田は、高齢者向け美容師派遣事業と中古理美容器具販売・買取事業のふたつのアイデアを温めていて、東京ビッグサイトで開催される「ベンチャーフェア」にブースを出展して出資者を募りたいと。そんな彼から、事業計画書作成の仕事を請け負ったんです。弟の紹介ということで、15万円ポッキリで(笑)。ただ、美容業界は私の知らない世界。まずはマーケットを徹底的に調べることから始めました。そうすると、長い歴史を持つ理美容業界は、大手のメーカーや業界団体がつくり上げた高い参入障壁のある、かなり保守的な業界だということがわかりました。特に理美容器具は、高価な新品を購入するしかほぼ手段がなく、大手メーカー数社の独占状態。実は、私は東京・銀座でバーの立ち上げプロデュースをした際に、中古厨房機器販売のテンポスバスターズさんを利用したんですね。飲食業界では、すでに価格の安い中古機器活用が当然の選択肢。ハードルは高いかもしれないが、理美容業界でリサイクルマーケットを確立できる可能性はある。しかも、まだ競争相手がほとんど存在していないわけです。

 そこで、供田にはさまざまな法的な規制がからむ人材派遣は後回しにして、中古理美容器具事業一本に絞ろうと提案し、ベンチャーフェアに出展しました。興味を持って話を聞きに来たベンチャーキャピタルやディーラーがいるにはいたのですが、3日間の開催期間中に出資を申し込んでくれる人は現れませんでした。ただ、真剣に事業計画書をつくりながら、私はこの事業モデルに大きなポテンシャルを感じていました。このまま潰してしまうのはあまりにもったいない。フェアの最終日の夜、供田に「私が出資するから、一緒にこの事業をスタートさせないか」と申し出たのです。紹介者である私の弟は、「絶対にやめといたほうがいい」と大反対。で、理美容サロンの店舗デザインを仕事にしていた弟も、どうせなら巻き込んでしまえと(笑)。彼にも100万円ほど出資させて、2004年4月、株式会社ビューティガレージを設立。渋谷にあるワンルームマンションの1室から、当社の挑戦が始まるのです。

<目指せ! 先行逃げ切り>
大手資本が来る前に早くアドバンテージを!買取に注力し、取扱商品点数をいっきに増加

 供田は美容ディーラーをやっていましたから、既存の流通ルートを使ったほうが早いと考えていました。が、私は中間の流通経路を経由しない直販、インターネットを活用したネット通販に専念することを提案。閉ざされた業界に風穴を開けるために、自分たちで仕入れ、自分たちで売ることにこだわりたかったのです。そして、当初の資本金の大半をつぎこんで、アマゾンや楽天などのネット通販サイトを参考にしながらWebサイトをつくり込みました。最初の商品は、供田が扱っていた少量の中古機器と、メーカーが抱えていた過剰在庫の200点くらい。あと、ヤフー電話帳などを使って理美容サロンの住所を調べ、「不要な美容器具買い取ります」という内容のダイレクトメールを送付。それまで費用を払って廃棄していたものが、価値を生むわけです。これは予想以上の反響でした。

 私は広告業界出身でしたから、広告展開で一気に認知を高める戦略を検討していたのですが、ほとんどの業界紙から既存クライアントに迷惑がかかると拒否された。仕方がないので、理美容関連サイトにリンクを張りまくることで、検索効果を高める作業に注力することに。そんな地道な活動を続けるうちに買取希望、購入希望の問い合わせがどんどん増え、事業を始めて数カ月でこのビジネスはそうとう大きくなると確信できました。ただし、当社の最大の弱みは、吹けば飛ぶような弱小企業ということ(笑)。大手企業に参入されたらひとたまりもありません。中古ビジネスの勝敗を決めるのは、とにかく商品点数の増加あるのみ。そう考え、最初の2、3年は全国にショールームを設置しながら買取業務に集中しました。

 当社のショールームは、買取拠点、販売拠点、流通拠点を兼ね合わせています。さらに商品はWebサイトにすべて写真付きで掲載、リアルタイムで在庫状況を管理。ショールームとネットをフル活用することで、徹底的なローコスト経営を構築していきました。実は、私が2003年に作成した事業計画書に書いていたことと、方向性はほとんど変わっていないのです。ただ、自分としては予定どおりの進化を遂げてきたつもりですが、売り上げは予想を超えたスピードで急拡大。ちなみに、2006年度の年商実績が約21億円、2007年度が27億円、2008年度が33億円。現在、全国12カ所でショールームが機能しており、理美容器具から始まったマーケットは、エステ、スパ、ネイルとビューティマーケット全般に広がっています。販売商品の内訳は、今では中古が2割、新品が8割。新品のうち約半分は当社のプライベートブランドとなっています。

<未来へ~ビューティガレージが目指すもの>
サロンオーナーのコンシェルジュとして、開業&繁盛支援の力をどんどん伸ばしていく

 設立から7年目を迎えた今、取扱商品点数は常時10万アイテム、毎月約2000サロンの新規会員登録が増え続け、累計会員数はついに6万サロンを突破しました。全国に理美容サロンだけでも約35万店あるといわれていますから、まだまだこのビジネスの拡大余地は大きい。当社が活動を始めてから、雨後の竹の子のように同業者が現れていますし、先月(2009年10月)、国内最大手といわれる理美容器具メーカーがついに中古マーケットに参入してきました。私としては「やっときたか」という印象ですけどね。先行者としての大きなアドバンテージを武器に当社はさらなる進化を続け、今後もナンバーワンのポジションを維持し続けていきます。

 やはり、開業資金を抑えたい独立を目指す方々からのオーダーが多いんです。これも、もともと計画していたことですが、今では物件探し、内装工事、資金調達など、サロン立ち上げに必要となるすべての支援を行うワンストップサービスを提供しています。機材だけでも当社を活用すれば新品ですべてそろえるより3分の1程度、トータルにお任せいただければおそらく半分以下の出費に抑えられるでしょう。また、儲からなくて困っている既存店の支援も並行して行っています。やはり美容師さんってアーティストなんですよね。経営が苦手な方が多い。特に理美容サロンは一所懸命育てたスタッフが独立してしまうと、大きな打撃を被ります。そこで、フランチャイズやのれん分けなど、経営マネジメントの手法を使い、多店舗化やスタッフの夢をかなえるお手伝いも始めています。

 まだまだ既得権益者たちが根強く踏ん張っていますから、当社は業界の嫌われ者です(笑)。ただ、サロンを経営する側の方々からは好かれている。ここにこそ、私たちの存在意義があると思っています。言ってみれば、強きをくじき弱者を守る正義の味方であると。だからこそこれからも、ビューティサロンのコンシェルジュとして、開業からその後の経営までをワンストップで支援するための力を今以上に伸ばしていきたい。そして、これが表側の企業理念とするならば、私にはもうひとつ裏経営理念があります。それは、当社の成長を支えているスタッフたちの平均年収を日本一にすること。やはり一緒に頑張ってくれる仲間には、最高のハッピーを提供したいですからね。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業の前提は継続し、会社を成長させ続けること。
勝ち残る可能性の高いマーケットで勝負しよう!

 起業経験者として自分を振り返って思うのは、起業に挑戦したいという気持ちがいくら強くても、最初の一歩がなかなか踏み出せないということです。すべてが自己責任の世界。怖くないわけがない。私の場合も、起業への思いが生まれてから、実際に一歩を踏み出すまでに5年くらいはかかっています。でも、勇気を持って最初の一歩を踏み出さないと、二歩目、三歩目に続いていきません。まずは一歩目を踏み出してみて、もしも大きな痛みを感じたなら、引っ込めればいい。そうやって失敗してしまったとしても、たとえば中途採用に応募する際の経験としては役に立つと思います。実際に私も、そういう人には興味がありますから。

 ちなみに、妻には起業を猛反対されました。広告代理店に勤務して、ある程度の安定した生活が約束されていましたので。先の話ではないですが、私はある期限を決めたうえで、こう説得しました。「2年やってみてダメだと判断したら広告業界に復帰する。2年後なら、まだ俺に復帰できる力が残っているから」と。一歩を踏み出すためには、最低限、家族を説得する義務があると思っています。あと、起業は継続が大前提です。私がこの事業を始めたのは、超ニッチマーケットだったということが大きな理由のひとつ。しかも業界がセグメントされたBtoBビジネス。一般コンシューマー向けビジネスと比べると、結果が出やすいんですよね。

 どうせ挑戦をするのなら、勝ち残るためにしっかりマーケットを選んでほしいということもお伝えしておきたいです。もしも、誰も手をつけていないニッチマーケットを発見したら、絶対にナンバーワンになるための方法・戦略をとことん煮詰めて考えること。私の場合は、テンポスバスターズさんやアマゾンさんを参考にしましたが、世の中の成功したビジネスモデルを見渡してみると、業界は違えども置き換え可能なものがたくさんあるんです。もうひとつ、厳しい局面を乗り越えるためには、事業にかける気持ちの強さが大切。それは正義感であるとか、反骨心であるとか。自分の挑戦が、誰かのためになる、役に立つことにつながっている。そんな視点の在処を確認しておくといいでしょう。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

現役社長 経営ゼミナール

Q.「こんなのあったら面白いなあ」という のはアイデアは出てくるのですが、実際に実現できるかを検討するために、何からはじめたら良いのでしょうか? (愛知県 会社員)

A.
まずは市場環境を調べましょう。競合や類似企業はあるのかどうか?対象となるマーケットサイズはどのくらい見込めるのかなど。その後に、自分(自社)の SWOT分析、マーケティング戦略や収益シミュレーションを作ってみるのがいいでしょう。

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