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第90回
株式会社JPホールディングス 代表取締役
山口 洋 Hiromi Yamaguchi
1961年、京都府生まれ。京都府立洛北高等学校から、明治学院大学法学部へ進学。大学卒業後、大和証券株式会社に入社。法人営業や企業上場、 M&Aなどを担当し、8年間勤務。1992年、同社を退社。翌年、有限会社ジェイ・プランニング(その後株式会社化)を名古屋にて設立。代表取締役に就任。オフィスコーヒーサービス事業、パチンコ店などアミューズメント施設へのコーヒー・ワゴンサービス事業で急成長を遂げる。1999年より、保育所、学童クラブなどを運営する子育て支援事業をスタート。2002年10月、ジャスダック市場に株式上場。2004年10月、株式会社JPホールディングスに商号を変更。2006年3月、聖徳大学大学院児童学研究科児童学修士を取得。現在、保育所61カ所、学童クラブ26カ所、児童館6館を運営中。 2009年4月、内閣府「ゼロからの少子化対策プロジェクトチーム」のテーマ「保育・幼児教育」の有識者として選出される。厚生労働省少子化対策特別部会の専門委員に選出される。東京都「東京都認証保育所見直し検討会」の委員に選出される。世田谷区「保育施設における質の向上についての勉強会」のメンバーも務めている。
ライフスタイル
好きな食べ物
何でも好きです。
嫌いな食べ物なんてないです。出されたものは何でも、おいしくいただきます。そうそう、最近は会食続きですから、ソーメンやお茶漬けが恋しいです。お酒は何でもたくさん飲める口です。社員と飲むことも多いです。先日も、100人くらいの社員と一緒に飲みました。
趣味
マラソンです。
仕事が一番楽しいですから、趣味=仕事。オンとオフの仕切りも明確にはないです。ただ、健康管理のために3年前からマラソンを始めています。先日の健康診断では、毎年再検査だった肝臓の数値が既定値内に収まったんです。そのほかの項目もすべて健康でした。
行ってみたい場所
モルディブです。
ずいぶん海外旅行に行っていませんので、モルディブとかのビーチリゾートで、ひとりのんびりしてみたいです。灼熱の太陽が照りつけるプールサイドで、ビール片手に好きな小説を読んで。暑さにたえられなくなったら、水の中にドボン! 気持ちいいでしょうね。
最近感動したこと
政府からお声がかかった。
内閣府「ゼロから考える少子化対策プロジェクトチーム」の有識者に選ばれたことでしょうか。民間人で、子育て支援事業に関する経営と法律の両方を熟知知っているのは私をおいてほかにはいまないので当然といえば当然ですが(笑)。まあ、よく調べられたなと。
上場を果たした主力事業を、まったくの異業種へチェンジ!
ニュータイプの社会起業家が手がける子育て支援事業
年中無休で、早朝&深夜の延長保育、一時預かりも可能。仕事を持つ保護者たちが待ち望んでいたサービスを提供してくれる保育施設が、2001年の12月にオープンした。それが、JPホールディングスが手がける「キッズプラザアスク」である。ほか、学童クラブ、児童館の運営委託も行い、現在、全国で95施設を運営中。同社の代表を務める山口洋氏は、コーヒービジネスで会社を上場させた後、本格的にこの子育て支援事業をスタート。保育どころか教育事業も素人だった山口氏が、どのように子育て支援事業に出会い、成長させていったのか……。「既存の保育園は、日曜や祝日に子どもを預かってくれない。夜間の延長保育をしてくれない。休日や夜間に働いている親がたくさんいることがわかっていながら、対応しようとしない。自分たちがその時間に働くのが嫌なのでしょう。サービス業とは思えない、その怠惰さにあきれました……。だったら私がこの業界を変えてやろうと思ったのです」と語ってくれた山口氏。今回は、そんな山口氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<山口 洋をつくったルーツ1>
京都の街でやんちゃしてすごした少年時代。
最悪の中学を脱出し、高校受験の準備開始
父は戦前に丁稚奉公に出た後、タクシーの運転手をしながら資金を貯めて、京都でケーキ屋さんを開業しています。まだケーキ屋が珍しかった頃でしたから、まあ、そこそこはやれていたのでしょう。でも、アパート暮らしで、裕福とはほど遠い生活でした。小学生の頃の私はいたって普通の子、とはいえ、元気にいたずらしていました。近所に評判の悪い歯医者がありましてね。その自宅がごつい豪邸で、「気に入らんから襲撃しようか」と(笑)。40人くらいの仲間に声かけて、みんなで爆竹や煙玉とかの花火を持って、火をつけて投げ込んだ。当然、学校に通報されて、翌日、先生から「首謀者は誰や?」。「はい! 僕です」。ガーンと殴られて、ひどく怒られました。当然ですけど(笑)。
ほかにもいろいろやりましたけど、これ以上は言えません(笑)。そうそう、空手を習っていました。でも、2つの道場で破門になって、もう行ける場所がなくなった。合計で3年くらいは続けたんですけどね。破門された理由? それもちょっと言えないですね(笑)。ちなみに私が通っていた小学校は、とても頭の良い生徒が集まる学校でした。さっきの襲撃話の仲間の中に、現在、慶応大学教授で当社社外取締役の中村伊知哉、Jリーグの大分トリニータ社長の溝畑宏がいます。また、2年後輩には民主党の前原誠司も。地頭が良いというのか、勉強では彼らに太刀打ちできなくて、頭で競い合うのはあきらめていました。で、彼らは国立大学の付属中学などに進学するのですが、私は普通の公立中学に進むんです。
頭が良いやつらがいなくなったから、層が薄まったのでしょう。当時は相対評価ですから。理数系が得意で、成績が上がっていきました。部活は最初、バスケ部に入ったんですが、しんどくてやめて帰宅部に。友だちと麻雀をやったり、あとは機械いじりが大好きでね。ラジオをつくったり、無線にはまったり。ただ、この中学が京都では有数の荒れた学校でして。もうひどいんですよ。私もやんちゃなほうでしたけど、さらに上をいくワルがたくさん。いつ自分がイジメの的になるかわからず、常に緊張の日々をすごしていました。でも、中学3年に上がるタイミングで、訳あって転校することになるんです。それがこれまでとは比べものにならないくらい平和な学校で。間違いなくあの1年間が、私の中学生時代の中で一番平穏な時期でした。
<山口 洋をつくったルーツ2>
生活費と学費をバイトで稼ぐ苦学生時代。
学者の道をあきらめ、就職活動を開始
それから必死で受験勉強をして、どうしても合格したかった京都府立洛北高等学校に進学することができました。理数系と英語には自信があったんです。で、最初の実力テストで、350人中、国語が300番台、数学が200番台、一番得意な英語ですら100番台。こりゃ、ダメだと。勉強は早々にあきらめて、放送部に入部。校内放送を取り仕切ったり、アナウンサーを担当し、スピーチコンテストや朗読コンテストに出場したり。あとはパチンコ。ほんとうにのんべんだらりとした、高校生活でしたね。ただ、当時は70年安保闘争の色がほんの少し残っていて、憲法問題や政治に私も関心を持っていました。だから、大学では法律か社会福祉を学ぼうと思っていたんですね。ただ、勉強していないから、結局、2浪するはめになり、明治学院大学の法学部に進学するんですよ。
特待生で入学できたので、学費は半分免除。でも、実家からの仕送りはいっさいありません。だから、生活費と授業料を稼ぐべく、必死でバイトをしました。紳士服店のビラ配り、ビデオリサーチのアンケート調査やモニターなどです。4年間ずっと続けましたから、かなり単価のいい仕事も回してもらっていました。大学での法律の勉強は妙に肌に合って、面白くて仕方なかった。専門は刑法です。昼間は普通に授業を受けて、夕方から有料の課外講座にも参加。その後、大学の図書館が閉まる22時半までレポート書き。で、朝と深夜にバイト。一所懸命に働いて、そのお金で真剣に授業を受けているわけです。だから、大講義室での授業中、少しでもさわぐ学生がいたら、「先生、失礼します」と断ってから、「ボケー! 出ていけ!」と一喝。そんなでしたから、私はけっこう有名な存在でした(笑)。
当時は本気で法学者になろうと考えていたのです。有名大学の大学院に進んで。でも、お金がない。必死でバイトしても、何日も食事ができなかったり、授業料を滞納してしまって明日中に払わないと除籍になるとか。そんな経験、1度や2度じゃなかった。友だちに頭を下げて借金してしのいだり、下宿近くの商店のおじさんにツケで食べ物買わせてもらったり。ある時なんて、交番に行ってお巡りさんにお金を借りたことも……。大学時代は本当にお金で苦労しました。毎日泣いていました。このまま働きづめで、大学院で勉強なんてできない。そう判断し、大学4年から急きょ就職活動を始めるんです。どうせ行くなら大手企業。しかも給料が高い金融業界を目指そうと。とにかくこれ以上、お金で苦労したくなかった。
<就職活動大作戦>
手紙、電話、夜討ち朝駆けの本社訪問。前代未聞の学長推薦で第一志望の内定獲得
まずは、某中堅証券会社の会社説明会に行ったんです。会場にはスーツ姿の学生が300人くらい集まっていて、その中でTシャツにジーンズ姿は私だけ。おまけにロン毛(笑)。そのまま第一次面接になって、いろいろ話をしていたら、「後日、役員面接に来てほしい。ただし、スーツで来るように」。でも、スーツ持ってないんです。買うお金もありません。その時、ビラ配りのバイトをしていた紳士服店を思い出したんですね。そこで、その社長に相談に行ったら、「出世払いでいい。スーツ1着持っていけ」と。でも、靴、靴下、シャツ、ネクタイがありません。ポケットの中には1000円札が1枚だけ。「よし! 大学に入学してから封印していたパチンコで勝負だ」。そしたら、勝ったんです。なんと2万円ほど。お金で苦労していた私を神様が見ていてくれたのかもしれません。そうやって、人並みに就職活動できる服装を手に入れたというわけです。
ターゲットを第一志望、大和証券、第二志望、山一証券と決めました。でも、一流大学とはいえない明治学院大学の学生にはまったく会おうとしてくれないのです。だから、人事部長に手紙を書きまくり、電話をかけまくり、本社に夜討ち朝駆けで出かけては待ち伏せ。それでも、なかなか直接コンタクトできません。ある日、山一証券の本社ビルの周りをうろうろしていたら、あることに気づいた。裏口から、社員が出入りしていることに(笑)。警備員さんに挨拶したら、そのまま通してくれた。で、エレベータに乗って、人事部のフロアへ。一番奥に席がある人が部長だろうと当たりをつけて、そのデスクの前まで歩いて行き、「部長、私にもチャンスをください!」と大声でお願いしました。「ああ、君がしつこくて有名な明治学院の山口君か。いい根性しているね。じゃあ、面接してあげるから明日おいで」と。正面突破に成功です。翌日は常務取締役の面接でした。「じゃあ、山口君、うちで働くか?」「いえ、まだ第一志望の大和証券が残っていますので。その結果を待って」と私(笑)。
大和証券もいろんな手を使って何とか面接に持ち込んで、いい線までいったのです。でも、「今、明治学院大学の学生が3人残っている。今年はひとり採用するか、もしくはゼロだ」と人事担当者から言われたんですね。何とか勝ち残るために、私はすぐに大学に行き、教授の推薦状を集めることにしました。夏休みでしたが、その日に居合わせた5人の教授から5通の推薦状を手に入れました。法学部では、真面目な優等生でしたからね。さらに秘書室に行ったら、森井学長が来ていることが判明し、直談判させてもらえることに。学長曰く、「君だけに推薦状を書くのはどうかと思うが」。「法の上に眠る者は保護されずという考え方があります。行使できるものを使わない者が悪いのです」。「しかし、私は君を知らない」。「今、学長が見たままの私を評価してください」。「なるほど。君はよく勉強しているようです。わかりました」。そんなやり取りがあって、学長推薦をもらうことができたのです。森井学長の専門はフランス文学でしたけど(笑)。
<バブル崩壊後に起業!>
オフィスコーヒーの営業代理店として独立し、パチンコ店でのワゴンサービスという金脈を発掘
1985年、私は晴れて第一志望の大和証券に入社します。後になって人事担当者に「私のどこを最終的に評価したのか?」と聞いたら、「バランス感覚だ。もうひとつ、学長からの手書きの推薦状を取ってきた学生は初めてだった」と教えてくれました。私が配属されたのは、大阪支社の営業部。この部署はちょっと変わっていて、金融機関営業、一般法人営業、リテール営業など、基本的に数字を挙げれば何をやってもOK。いわば弱肉強食の世界で、自分には合っていたんだと思います。バブル景気華やかしき時代を経験し、上場やM&Aの仕事を担当し、成績は抜群で、常にトップクラスを維持し続けていました。しかし、バブルの崩壊により株価が大暴落。顧客とのトラブルが急増し、部下を守るタイプの上司はパージされ、部下や顧客から逃げるタイプの社員が生き残る。私の嫌いなタイプの人間ばかりが出世していくわけです。もう、ここにはいたくない……。
私は当時の上司に捨て台詞を残し、8年間在籍した大和証券を退職しました。8年間、私のような人間が勤め続けるのができたのも、数字のみで評価される世界だったからだと思います。でも、大企業の論理の中、会社の利益のためだけに働くのはもうゴメンです。適正利益で、お客に喜んでもらえる仕事をしたかった。性格上、会社員はもう無理ということはわかっていました。退職後、電通にいた高校時代の先輩から、「特撮用ヘリコプターの営業代理店をやってみないか。名古屋で」というお話をいただき、3カ月かけてマーケット調査してみました。でも、特撮ヘリの活用ニーズは、名古屋ではまったくと言っていいほどなかったですね(笑)。
ただし、国際空港、新高速道路、万博開催、リニアモーターカー試験などなど、愛知県は日本のビッグプロジェクトが目白押し。10年以上かけて数兆円規模の公共投資が投下されるわけです。名古屋は絶対に景気が悪くならないと踏んで、この地で起業することを決めました。最初に手がけた事業は、オフィスコーヒーの代理店です。コーヒーの原価率の低さに商機があると判断し、証券会社時代に培った法人営業のノウハウも生かせるだろうと。そのヨミは当たり、すぐに100件近い納入先を確保。特に、大和証券グループは徹底的に営業して回りました(笑)。その後、パチンコ店で女性が席までコーヒーをお持ちするワゴンサービスの実施を思いつきます。でも、社員たちは「絶対に無理です。やめるべきです」と言います。私はパチンコファンでしたから、お客の気持ちが良く分かっていたんですね。絶対にイケルと。この新規営業を意地になって続けたことで、当社は大きな金脈を掘り当てることになるんです。
社員用の託児所開設が子育て支援事業参入の契機に。
ユーザー無視の既存保育事業を改革すべく立ち上がる!
<違法ではないが、好ましくない?>
行政裁量の壁を乗り越え、成功への免罪符をゲット!
目標より2年遅れでジャスダック市場に上場を果たす
パチンコ店の決済ルートが良くわからなかったので、何社も飛び込みしながら営業を続けました。断られ続けて20社目くらいだったでしょうか、その会社のオーナーが「面白そうだ。うちでやってみよう」となった。オフィスコーヒーの1社当たり月間平均売り上げが1万5000円でしたから、パチンコ店1店なら30万円くらいいくだろうと踏んでいました。初月の売り上げは、なんと150万円! ちなみに当社の創業時のオフィスには、「年商25億円、経常利益3億円、平成12年に店頭公開達成!」という張り紙が張られていました。「やった! ついに金脈を掘り当てた。このワゴンサービスで上場できる!」。すぐに直感しました。その後、この事業が順調に推移していくと思いきや、想定外の横やりが入ってくるんです。ある取引先のパチンコ店オーナーから、こんな連絡が入りました。「山口君、このワゴンサービス、警察がやったらあかんて言うてる」と。
いろんな角度から法律を精査してみましたが、違法性がないことが確認できました。それで、所轄警察署の担当課にヒアリングに行ってみたら、「違法ではないが、好ましくない」と。その根拠を聞くと、「競合が現れて競争になったとする。相手がワゴンサービスの女性に短いスカートをはかせる。その対抗策としてバニーガールの格好をさせる、とか……」と言うわけです。あり得ないでしょう。いわゆる典型的な裁量行政。ここで認めさせないと、ビジネスを継続して発展させることができません。私はそれから、その担当者に手紙出したり、直接会いに行ったりを、何度も繰り返しました。1年半後、「おまえは、そこまでしてこの仕事をやりたのか?」「はい。どうしてもやりたいです」「よくわかった。じゃあ目をつむったる」。そんな言質を手にし、愛知県内の半分上の所轄警察署を回って、各エリアでの営業許可を取り続けました。
愛知県を皮切りに、その後、関東を含め、35都道府県にワゴンサービスの事業所を展開していくのですが、各エリアの所轄警察署に許可を取りに行くのは時間と手間がかかりすぎてナンセンス。また、どこかのタイミングでパチンコ店へのコーヒー・ワゴンサービスが規制されてしまったら、すべての努力が水泡に帰してしまいます。そこで私は、本丸ともいえる東京の警察庁に足を運ぶのです。「この仕事は違法か、適法か。わからなくて困っている。違法でないならきちんと通達を出してください」と。そうしたらなんと、1カ月後に「この仕事は適法である」という内容の通達が出たんですよ。全国で心おきなく事業展開できる、免罪符を手に入れたも同然。そこから一気に当社のワゴンサービス事業は成長を遂げ、創業時に掲げた目標よりも2年遅れましたが、2002年10月、ジャスダック市場に上場することができたのです。
<43歳で大学院生に>
コーヒー事業から子育て支援事業へシフト。大学院に通いながら最適な経営手法を構築する
ワゴンサービス事業を拡大していく過程の中で、ネックになったのが人材採用でした。女性が中心なのですが、結婚して子どもができると、家庭と仕事の両立が難しくなり、離職していく人が増えていたんですね。そこでスタッフをつなぎとめるために、個人的に昔から関心があった一時預かりも行う保育所を、福利厚生の一環として自社で始めることに。当初は事業として本格的に参入するつもりなどなく、赤字覚悟のトライアルでした。もちろん、社員たちからは猛反対を食らいましたよ。ただ、保育事業に手をつけたこともあり、業界を俯瞰しながら調べてみると、既存の保育事業の欠点ばかりが見え始めてきました。ほとんどの経営母体は、社会福祉法人という名を持った個人経営的な組織です。彼らが本気で、仕事を持つ保護者の苦労を軽減するためのサービスを提供しているようには思えませんでした。
日曜や祝日は子どもを預かってくれない。夜間の延長保育をしてくれない。休日や夜間に働いている親がたくさんいることがわかっていながら、対応しようとしない。彼らは自分たちがその時間に働くのが嫌なのです。サービス業とは思えない、その怠惰さにあきれました……。「日本の保育業界を俺が変えてみせる!」。そんな志が生まれ、すぐに行動を開始。2001年、埼玉県に保育所と託児所2施設を開設し、子育て支援事業の展開をスタート。2000年に児童福祉法の改正により、株式会社の保育事業参入が可能となり、補助金が得られるようになったことも、私の背中を押した要因のひとつです。もちろん、当社の運営する保育所は、年中無休で、早朝から深夜までの延長保育を実施し、一時保育も1時間からOK。保護者ニーズをしっかり組み取った、万全のサービスを提供しています。
子育て支援事業を拡大していく中で一番努力したのは、保育にかかわる保育士との間に生まれたコミュニケーションギャップの是正です。保育士の多くが利益追求は悪と考えるようで、経営的視点のアドバイスがうまく伝わりません。私自身が保育の素人という点も、お互いの溝を深める一因であることにも気付きました。離職率が高いのにもまいりました。そこで、私は児童学を学ぶため、43歳で聖徳大学の大学院に入学。2年間かけて子育て支援事業に必要となる知識を徹底的にたたき込みました。その過程で、今まで自分が考えていた保育事業の正しい部分、間違っている部分が見えてきたんですね。そのうえで、研究成果をもとにスタッフに話をすると、「社長のいうことは筋が通っている。私たちのことをよく考えてくれている。だったらやらねば」となり、保育士の定着率が格段に上がっていったのです。
<未来へ~JPホールディングスが目指すもの>
「子育て支援事業を通じて日本を変える」。
この挑戦自体が何よりも楽しい!
今、潜在待機児童数は国内に100万人といわれています。今後も、保育園が足りない状況は変わりそうもありません。そんな需要の高いマーケットの中、しっかりとした施設と、適切なサービスがあり、保育士が安定してさえいれば、保育園経営はさほど難しいものではないと思っています。当社が子育て支援事業に参入して以来、保育士が働きやすい環境をしっかり整備し、自己成長できる研修機会をたくさん用意することで、保育士の質向上に努めています。保育士は引く手あまたの職業ですから、イヤであれば辞めてもすぐに転職先が見つかります。だからこそ、「ここで働きたい」と思ってもらえる職場であり続ける必要があるのです。そして、「保育士が離職して入れ替わらないこと」。これこそが子どもたちに提供すべき、一番重要なサービスであると考えていますから。
おかげさまで、子育て支援事業は成長を続けており、7年間続いた赤字も3年前には黒字化しています。現在、7つの都道府県で、認可保育園、認証保育園、学童クラブなど95施設を運営中で、今期の当社年商約80億円のうち、61億円が子育て支援事業のシェア。すでに売り上げの約7割を占める主力事業となっています。また、保育・幼児教育マーケットへのバックアップも手厚く、政府は各都道府県に「安心子供基金」を設立し、2009年度、2010年度と集中的に保育所整備に取り組むことを決定しています。さらに、東京都では保育所開設にかかる費用の8分の7を都と国が補助。多くの自治体からのオファーや民間施設のM&A話が届いていますし、やる気になればいくらでも出店できると思うのですが、安全を第一に考えた当社の巡航速度がありますからね。年間で保育所と学童クラブを30カ所ずつ。このくらいのペースで成長させていく計画です。
先ほど話した、待機児童100万人にサービスを提供するためのマーケット規模ですが。子ども100人を預かれる保育所1施設の年間運営費が約1億2000万円。それかける1万軒で、1兆2000万円。これは当社が試算した、新たに生まれる子育て支援事業のマーケット規模です。ですが、政府は昨年2兆5000億円という数字を発表。さらに、公営の保育施設1万2000施設が、これから10年間くらいかけて民営化していきます。ここにも大きなチャンスが潜んでいます。どこまでこの規模がふくらむのかわかりませんが、確実に3兆円を超える巨大なマーケットであることは間違いありません。今後も脇目をふらず、この事業に集中していきたいですね。現在、すでに民間の保育所運営企業としてトップのポジションを築きましたが、売り上げやシェア拡大よりも、「子育て支援事業を通じて日本を変える」という、この挑戦自体が何よりも楽しいんですよ。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
始める前に明確なゴールをイメージしておく。
壁が現れても迷わず前に進めるように
起業は本当に大変な勝負ですから、避けられるなら避けたほうがいいんじゃないですか。厳しい言い方かもしれませんが、本気でそう思っています。私の場合、本当にラッキーがあったから17年間やってこられたんです。最後の最後になって、なぜか風が思いどおりの方向に動いてくれた。そんな感じでしょうか。創業3年目に大きな資金ショートを招いた時。ワゴンサービスという金脈を見つけたけれど、警察にストップをかけられた時。子育て支援事業を始めて、離職率の高さに思い悩んだ時。起業後の苦況を数え上げたらきりがありません。ひとつ言えるのは、ピンチへの打開策を必死で探り、これと決めたら一所懸命にすがりつき、継続してきたこと。もう無理だと、あきらめなかったからこそ、ラッキーに出合うことができたのは間違いありません。
ただし、間違ったほうに向かって必死で歩いて行っても、ラッキーには出会えません。だから私は、何か事を起こす前には、「きっとこうなる」といった明確なゴールのイメージを考え抜くことにしています。考えれば考えるほど、本当にこれでいいのかと悩むようになり、眠れない夜を幾日もすごしましたよ。ここまでキレイにイメージできれば大丈夫と思っても、一歩を踏み出すことは怖いです。時代が変わったらどうしようとか、考えても仕方のない不安がふくらんだりして。でも、一歩を踏み出したなら、ゴールに向かって一直線。我慢しながら、壁を乗り越え続けるだけ。子育て支援事業も、必死で考え、壁を乗り越えてきたことで、ある程度イメージどおりの成長を遂げていると実感しています。内閣府「ゼロから考える少子化対策プロジェクトチーム:保育・幼児教育」の有識者に選出されたり、厚生労働省の少子化対策特別部会の専門委員に選出され、法律をつくる側に携わることまでは、イメージできていませんでしたけど(笑)。
起業はしたいが、何をすればいいかわからない人がいる? そんな人は会社員のままでいたほうが良いと思います。自分のやりたいことがあって初めてゴールをイメージすることができると思うのです。先ほど、明確なゴールのイメージを持って起業してくださいと言いました。やりたいことがない人に、ゴールなんて描けるわけがないですから。本気でやりたいことを見つけたいなら、今の自分をしっかり見つめ直すことです。あなたが行う仕事や行動が、何かしらの道につながって、広がっていきます。そのことを理解したうえで、自分が存在している意味を考えてみる。あとはいろんなものに興味を持って、自分の中の何かとつなげてみる。ちなみに、「同じ通勤ルートを使って会社に通い続けている人は事業家には向かない」という話があります。自分に少し変化を与え、可能性を考え抜くこと。まずはそこから始められてはどうでしょう。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓