第79回 ライフネット生命保険株式会社 岩瀬大輔

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執筆者: ドリームゲート事務局

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第79回
ライフネット生命保険株式会社 代表取締役副社長 
岩瀬大輔 Daisuke Iwase

1976年、埼玉県生まれ。小学校時代はイギリスで過ごし、ロンドン郊外の名門、エルタムカレッジの小学校に通う。中学の時に帰国し千葉県へ。高校は私立開成高校、その後、東京大学法学部へと進学。大学4年次、前年に最終口述試験で落ちた司法試験に合格する。法曹の道、実業の道どちらへ進むか迷うが、検討の結果、ボストン・コンサルティング・グループへ入社。その後、米系投資会社インターネット・キャピタル・グループ、リップルウッド・ジャパン勤務を経て、2004年、ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)に留学。一時帰国時に、ライフネット生命保険の出資者となる谷家衛氏に出会う。数カ月後、現在、同社の社長を務める、出口治明氏の事業プレゼンを聞き、賛同。2006年7月、ベイカー・スカラー(成績上位5%の優秀生)を取得し、HBSを卒業。同年11月、生命保険準備会社、ネットライフ企画株式会社を設立し、副社長に就任。2008年3月、資本金を132億20万円に増資し、ライフネット株式会社に商号を変更。翌月、生命保険業免許を取得し、5月18日より営業をスタートさせた。

ライフスタイル

好きな食べ物

カレーライスとか。
海老フライとか、オムライスとか、子どもっぽい食べ物が好きなんです。あとは、カレーライスでしょうか。東京・神田の神保町に2、3軒お気に入りのカレー屋さんがあって、よく通っています。お酒は、日本酒にワイン、焼酎など、料理に合わせながら何でも飲みますね。

趣味

文楽鑑賞です。
僕は文楽が大好きなんです。近松門左衛門などのストーリーをモチーフに、三味線に合わせ浄瑠璃の美しいテキストを語る太夫の声、そして3人で操られる、人形の繊細でち密な動き。人形という無色中立なものの中に、生きた魂が入りこむような。文楽は、日本の舞台芸術の粋を集めた素晴らしき結晶だと思っています。

最近感動したこと

友人がステージに。
大学時代、ジャズ研究会に入っていたんです。その時のメンバーが、ジャズドラマーとしてプロになりました。先日、東京・南青山の「ボディ&ソウル」というジャズクラブで、有名アーチストとセッションするステージを聴きに行ったのですが、この時は感動したというか、とても嬉しかったですね。

休日の過ごし方

子どもたちと遊んでます。
男の子が2人、女の子が1人います。休日は、ほぼ公園に行って一緒にどろんこ遊びです。この間、3歳の息子と新宿の裏道にある焼鳥屋に行ったんですよ。好きな女の子の話とか、ゴレンジャーの話とか、熱く語ってくれたんですよね。楽しかったなあ。もちろん、お酒を飲むのは僕だけですよ(笑)。

消費者視点で、生命保険の原点に立ち返ったらこうなった。
私たちは、日本初、インターネット専門の生命保険会社です

 開成高校、東大法学部、在学中に司法試験合格。そして、ハーバード・ビジネス・スクールを成績上位5%の優秀生(日本では4人目)として卒業。帰国後、そ んな輝かしい学歴、合格歴を持つ岩瀬大輔氏が選んだ挑戦が、「ふつうの消費者の視点に立った、まったく新しい生命保険会社」の立ち上げである。35年間、大手生命保険会社に勤務し、起業を決意した出口治明氏の想いに岩瀬氏はすべてのアントレプレナーシップを注ぎ込む決意をした。そしてふたりが掲げた理念のもとに集った仲間たちと、数えきれないほどのハードルを潜り抜け、2008年5月、独立系としては74年ぶり、国内44番目の生命保険会社として営業を開始した。「アントレプレナーシップは、ひとりゼロから起業する時だけに必要な力ではなく、自分が熱くなれるのであれば、どんな規模、タイミングのビジネスでも発揮できるものなんです」と、語る。今回は、巨大な45兆円の生命保険市場に挑戦する岩瀬氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

<岩瀬大輔をつくったルーツ.1>
小学時代は英国で、中学からは日本で過ごす。差異性があっていいことをおぼろげながら認識

 生まれは埼玉県ですが、幼稚園の時、千葉県に移っています。その後、総合商社に勤める父が海外に赴任することになり、小学2年から両親と姉、弟、僕の5人家族はイギリスへ。ロンドンから車で20分ほど、ケント州・ブロムレーという郊外の町での生活が始まりました。まず、家庭教師をつけて英語を勉強しながら現地の学校に通い、1年後にジェントルマン教育で有名なエルタムカレッジの小学校を受験し合格。制服にネクタイ、先生への返事は「イエッサー、ノーサー」。とても厳格な校風なわけです。その学校に日本人は僕ひとりでしたし、英語もうまくなかったですから、軽い差別も受けました。たとえば、遠足におにぎりを持って行ったら、海苔を見た同級生が「その黒い気持ち悪いものはなんだ? そんなものを食べるのか?」と。その後は母に頼んでサンドイッチに変えてもらいました(笑)。でも、人種は違えども同じ子どもです。ケンカしてぶつかりながら少しずつ馴染んでいきましたよ。

 渡英した当初、みんなと同じじゃなきゃイヤだと思う自分がいました。英語ができない、肌の色が違う。みんなが持っている画板と自分のものが違うだけで大泣きしたことも覚えています。でも、異文化の中に身を置いて生活していると、自然と自分オリジナルでいいんだという考え方ができるようになるんですね。それは良かったかもしれません。スポーツにも熱中しました。サッカー、ラグビー、クリケット。レギュラーとして試合に出て活躍していましたよ。あと、4年でフランス語、5年でラテン語を学ぶなど、イギリスらしい教養教育もあったなあ。もうすっかり忘れてしまいましたが(笑)。

 中学からは日本に戻って、幼なじみがいる千葉の公立中学に通うんです。今度は一転帰国子女でしょう。いじめもありましたが、黙って泣いていては何も変わりません。そこはやっぱりケンカしながら改善していくわけです。特に、英語の先生とは大ゲンカ。こっちはクイーンズイングリッシュ、先生はジャパニーズイングリッシュ。何をしゃべっているのかまったくわからないんです。残念ながら英語の先生との対立は、3年間ずっと続きました。部活動はイギリスで続けていたサッカーを選択。ここでもレギュラーになって、県大会止まりのレベルではありましたが、けっこう楽しくプレーしていましたね。

<岩瀬大輔をつくったルーツ.2>
「エンタテインメント・ローヤーに向いている」。同じ時期に、仲良しふたりから勧められた職業

 高校は開成高校に進学しました。数学がもともと得意で、英語は勉強しなくてもできましたので、効率の良い受験対策をしっかり練って。入学後は部活に所属せず、高校1年の時は遊んでばかり。進学校は勉強、勉強と思われがちですが、中高一貫の私立学生ってみんなけっこう遊び上手なんですよ。僕の場合、両親が再び海外赴任でニューヨークへ行ってしまったため、目白にあった寮に入寮。さらに遊びやすい環境を手に入れてしまった。選択授業で取った音楽の先生が、昔ジャズピアノを演っていたことがきっかけで、僕もジャズにはまっていくんです。クラシックは譜面に従いながら完璧な演奏を目指しますが、ジャズは大まかな流れの中で生まれる即興のアドリブがある。その自由さと瞬間のコントロール感、メンバー同士の信頼感が僕にとってはとても心地良かったんですね。

 ロンドン時代に習っていたピアノを再び始め、今はもう時効だと思うので言いますが、当時担任だった先生と、ライブハウスで知り合ったジャズボーカリストのお姉さんと一緒にジャズクラブへ夜な夜な通うように。あれは高校3年の時だったと記憶しています。そのふたりから、ほぼ同じタイミングで「岩瀬は英語もできるし、国際的なエンタテインメント・ローヤーを目指しては? きっと向いている」、そんな話をされまして。仲良しだったふたりに言われたでしょう。それまでは外交官か商社マンになって海外を舞台に仕事したいと考えていたのですが、「弁護士なのかも」と思い立ってしまったんですよ。で、開成の場合、多くの学生が東京大学を目指しますから、僕は法学部を受けようと。英語の偏差値が80、数学70、国語50、社会30と、それぞれの教科の強さに極端なバラつきはありましたが、総合点で合格することができたんです。今も強み弱みが極端なんですけど笑)。

 東大入学後もやっぱりジャズ好きは変わらず、教養の駒場時代も、本郷にあるジャズ研の部室に入り浸っていました。最初はうだうだと暮らしていたんですが、同級生の多くは入学後すぐに司法試験の勉強を始めるんですよ。さすがに僕も1年の秋になって、「そろそろやらねば」と通信教育のテープを聴き始め、司法試験スクール「伊藤塾」で講師のバイトを開始。ちなみに、このバイトは僕にとって非常に有意義でした。仕事ももちろん面白かったですが、3年の春休みに塾のスタッフとして日弁連主催のアメリカツアーに参加させてもらい、現地の刑事司法制度を学ぶためハーバードロースクールを訪れたんです。それがとても刺激的で、卒業前に今度は自分で法律事務所、裁判所を巡る視察ツアーを企画して、仲間と共に再びワシントン、ボストン、ニューヨークへ。言ってみれば卒業旅行のようなものでしたが、この時に「もう一度、海外で生活してみたい」と強く思ったことを覚えています。

<なぜかコンサルティング会社へ>
750分の1よりも、3分の1のほうが自分らしい。
「誰と働くか」、この基準も職業選択の判断材料

  弁護士を目指していた僕は、大学4年で司法試験に合格しますが、3年の春休みに、ボストン・コンサルティング・グループ(以下BCG)のインターンシップを受けています。BCGで働くスタッフは、スマートでウィットに富んでいて、頭が切れ、イキイキした魅力を感じさせてくれる人ばかり。こんな人たちにこれまで自分は会ったことがないと驚きました。それで、卒業後の方向性をじっくり考えたんです。まず、自分には目指すべき弁護士のロールモデルがまだ見つかっていない。でも、BCGの人たちは非常に魅力的。さらに、早く社会でチャレンジしてみたいが、弁護士になるためには2年間の司法修習の期間が待っている。また、BCGの新卒採用は当時で3人、司法試験合格者の人数がその年750人。750分の1になるよりも、3分の1のほうが自分には合っていそうだ。法曹界にはいつかまた帰ってこれるじゃないかと考え、僕は大学卒業後、BCGで働く道を選ぶんですよ。

 実際に、非常に充実した日々が待っていました。社会人のプロとしてのトレーニングにみっちり取り組み、ビジネスパーソンとして物事の考え方、仕事の進め方、その基本をここで身につけることができました。また、ひとつわかったことがあります。同僚は食品メーカーの新商品企画、次世代モバイル構想のプロジェクトなど、華やかそうに見えるコンサルティングを手がけていましたが、僕が担当したのは産業用手袋メーカー、セメントメーカーの業務改革など、地味な業界のコンサルティング仕事だったのです。でも、実際に取り組んでみると地味でベタな仕事にこそ大きな面白みが隠れている。この考え方も、BCGの仕事から学んだ大切なポイントだったと思っています。

 BCGのある先輩と、「いつか一緒にベンチャーを」なんて、よく話をしてたんです。2年目が終わりかけた2000年頃、その先輩が「アメリカのネットビジネス専門ベンチャーキャピタルが日本に進出してくるので、一緒にその立ち上げに参加しないか」と。よくよく話を聞くと、それはかなり面白そうだと快諾。実はちょうど僕の彼女がニューヨークへの留学を決めたタイミングでして。その会社なら仕事で彼女に会いに行けるという、そんな不純な理由もあったのですが(笑)。仕事内容としては、国内ネットビジネスへの投資、ベンチャーと大企業とのジョイントベンチャー構築、アメリカのネットビジネス国内スタートアップなどなど、さまざまなプロジェクトに参加することができました。が、ITバブルが崩壊し、その会社は1年で日本市場から撤退。僕も次の道を探さざるを得なくなった。

<ハーバード・ビジネス・スクールへ>
もう一段上に成長した自分をつくるため留学を決意。
彼女からの一言も、背中を押した大きな理由

 その当時、日経ビジネスが「ハゲタカか救世主か?」という外資系ファンドの特集を組んでいました。僕にスカウトの声をかけてくれた会社が、まさにその特集の主役ともいえるリップルウッド・ジャパン。面接担当は関西弁バリバリの面白いおじさんでした(笑)。よくよく話を聞くと、リスクマネーを供給することで会社の資産、人材を守り、日本経済を支えるビジネス。そんな実態が見えてきました。実は最初、悪いイメージを持っていたのですが、リップルウッドの経営陣・スタッフがとてもチャーミングで。ここなら面白い仕事ができそうだと、お世話になることを決めたんです。仕事内容は当然ですが、僕の場合、誰と一緒にそのビジネスをやるか。これも大切な決断材料なんですね。

 リップルウッドには3年弱在籍し、静岡県にある自動車部品メーカーの買収、業務改善プロジェクト、最終的に破談になりましたが、群馬県にある金型メーカーの買収交渉など、主に中小企業再生のコンサルティングに取り組んでいました。苦労も多かったですが、やっぱりベタで地味な業界は面白かったです(笑)。また、東証1部上場企業の社外取締役を任されるなど、20代半ばを過ぎたばかりの自分にとって、ポジションも収入もいうことなし、と感じる反面、この仕事は別の人でもできるんじゃないか、自分にはもっとやるべきことがあるんじゃないか。そんなことを考えるように。そこで、1年前にハーバード・ビジネス・スクール(以下HBS)に留学したリップルウッドの先輩に相談してみたのです。

 2年間ビジネスの現場から離れるわけだから、短期的なロスは大きい。でも、人生は長いマラソンだ。長期的に見れば、絶対に価値の高い経験となる。 そんな話をしてくれたんだと思います。もう一度海外で生活したい、もうひとつ上の段に自分を高めたい。そんな思いがどんどんふくらんで、僕はHBSへの自費留学を決意するんですよ。またまた彼女の話で恐縮ですが、その当時、彼女はニューヨークで働いていまして、「こっちに来ないのならもう別れる」と。それはまずいと(笑)。HBSへの留学を決めた僕は、すぐに彼女にプロポーズして入籍し、過酷でエキサイティングな日々が待ち受けるボストンに向かったんです。

100年早いと笑われようがかまわない。
10年後、アジアで一番輝いている生命保険会社になる!

<谷家衛氏との出会い>
HBS留学記をつづったブログをきっかけに、出会った日本のエンジェルに一目ぼれ

 アメリカ流の最先端市場経済を学ぶため、HBSには世界中からビジネスエリートを本気で目指す人たちが集まってきます。ちなみに僕が入学した年度の同期は約900人。著名な投資家、ウォーレン・バフェットや当時の財務庁長官など錚々たる顔ぶれのスピーカーが教壇に立ち、1日2コマの授業を受け、前日にそれぞれの授業の予習を最低3時間はしていかないとついていけなくなる。確かに最初は大変だと感じましたが、だんだん慣れていきました。僕の場合は自腹の自費留学でしたから、常にもったいない意識が働いていたのも良かったのでしょう。疲れて少し仮眠をとっただけで、「ああ、5万円損した」って後悔するくらいでしたから(笑)。

 あと、5人組のスタディグループがあって、毎朝、一緒に勉強したり、時にはお酒を飲んだり。みんな20代後半くらいの年齢で、国籍は、スロバキア、ブラジル、アメリカ、アルゼンチン。彼らと過ごすことで、世界から日本やアジアがどう見られているか、自分の人生はどうすれば悔いなく進んでいけるのか。いろんなことを考えることができました。まるで、青春時代をもう一度体験しているような。駒場寮で飲み会しているような(笑)。もちろん二度目の青春と勉強に没頭しながらも、再びビジネスの現場に復帰したら何をしようかと常にイメージしているわけです。アントレプレナーになることが一番尊いとよく言われるのですが、自分で「これだ!」と思えるビジネスが浮かばない。MBA取得後は、まずアメリカのメジャー投資銀行で働いて、人脈をつくってから始めようか。そんなことを考えていました。

 日本に一時帰国した留学2年目の冬休み、知人を介して、あすかアセットマネジメントの谷家衛さんを紹介され、お会いしました。谷家さんは僕が留学体験をつづったブログを読まれていて、すでにある程度のレファレンス(調査)も済まされていたようです。ブログって毎日書きますから、性格や特徴がよく表れるんですね。で、谷家さんから「投資銀行に行くなんてもったいない。ビジネスアイデアはいくらでもある。僕がすべて応援するから君がやりなさい」と、かなり高い評価をいただいた。その日の帰り道は、ぽ~っとしてました。一目ぼれしたんですよ、谷家さんに。でも、自分がほれっぽい性格ということは十分すぎるほどわかっていましたから、4月まで考えて結論を出そうと決めた。そして、谷家さんのことをもっと知るために、マネックス証券の創業者、松本大さんにお会いしに行くと、「彼にそこまで言わせて、飛び込まないのはかなりもったいない選択だと思う」と言われたんです。

<出口治明氏との出会い>
ホワイトボードを使った出口氏のプレゼンに、新しい生命保険ビジネスの成功を確信する

 その2月、今度はボストンまで谷家さんがわざわざ会いに来てくれました。ああ、この人となら何をやっても素晴らしい世界が見られるだろう。この時に、僕の意思はほぼ固まっていたと思います。そして谷家さんは、「保険が面白いと思う」と、一言。確かに保険は商品自体が複雑で、さらに市場が大規模で、非効率な部分がたくさんありそうだ。古くて地味な業界というところも、僕の好みに合っている。そして、「4月に一度打ち合わせを」ということになり、僕は損害保険と再保険のビジネスプランを携えて、再び帰国。100ページくらいの企画書を持参し、プレゼンテーションさせてもらったんです。そして僕のプレゼンが終わり、会議室に座っていたひとりのおじさんが、「では、次に私が」と、ホワイトボードを使って説明を始めた。これが、一緒にライフネット生命を立ち上げることになる、出口治明との初対面でした。

 出口は、国内生保最大手の日本生命出身。35年間、生保業界の中核で働き、理想と現実の間でもがき続けてきた人物です。そんな彼が、理想と現実の間に存在するギャップを埋めるため、新しい生命保険事業のビジネスプランを説明してくれました。20分か30分くらいだったでしょうか。そのプレゼンを聞き、正直、しびれましたね。直感で、このビジネスは絶対に成功すると思いました。ミーティングを終え、谷家さんと、出口、私は河口湖に1泊2日の旅行に出かけ、再びこの生命保険ビジネスについてじっくり話し合いを持ちました。その日のうちに、「出口と僕が一緒にやれば、成功しないわけがない」、そんな確信が生まれたんです。そして僕は、入学当初に掲げた目標どおりベイカー・スカラー(成績上位5%以内の優秀生)を獲得し、HBSを卒業。2006年7月に帰国し、出口と私のたったふたりで、消費者の視点に立った、まったく新しい生命保険会社立ち上げをスタートさせるのです。

 まず、あすかとマネックスから1億円の出資を得、生命保険準備会社を設立。それから金融庁にふたりで出向き、生命保険会社設立の免許申請へ。通常のビジネスは、人・モノ・金で成り立ちますが、生命保険会社は免許制のビジネス。さらに、免許取得には多額の資本金が必要となります。何度も金融庁に足を運びながら、一方で、資金調達のためのプレゼンを継続する日々が続きました。まさに、鶏か先か卵が先かの世界なのです。ちなみに、株主に既存の生命保険会社を迎えると免許が取りやすくなります。でも、出口は生命保険会社を株主にしないと決めていました。私たちがつくりたいのは、まったく新しい生命保険会社。既存色を払しょくし、自由度高くビジネスを進めていくために、あえて厳しい道を選択したのです。

<未来へ~ライフネット生命保険が目指すもの>
まだ、新しい生命保険会社の船出は始まったばかり。
未来永劫、お客さまの声を聞きながら成長し続けたい

 

 2008年3月、多くの事業会社からこのビジネスへの賛同と出資協力をいただき、132億20万円に資本金を増資。ライフネット生命保険株式会社に商号を変更。そして4月、内閣総理大臣より生命保険業免許を取得し、5月18日、ついに営業をスタートさせることができました。多くの方が持っている生命保険に対するわかりづらいイメージを変えたいので、現在の商品は、定期死亡保険の「かぞくへの保険」、終身医療保険の「じぶんへの保険」というシンプルなふたつのみ。また、最大限のコスト削減を実現するため、ネットのみでの販売としました。1月末現在で、保有契約件数は3435件。大手と比べるとまだまだですが、ある程度順調に推移しているといえるでしょう。そもそも、生命保険ビジネスは20年、30年と続いていくもの。まだ、始まったばかりですからね。

 僕は、誰とこの仕事をやるのか。ここをとても大切にしています。一生一緒にやっていく志の高い人を選ぶわけですから、そうとう数の方々を採用面接でお断りしてきました。ただし、妥協せず採用活動を行った結果、本当に素晴らしい方々が集まってくれています。スターバックスコーヒー出身のマーケッター、ヤフー出身のWebスタッフ、さらに当社の理念に共感してくれた保険会社のプロフェッショナルたち。まったく新しい生命保険会社をつくるため、全員がお客さまのほうを向いて、日々、サービスの向上に励んでいます。グループインタビューなど、実際にお客さまの声を直接お聞きする機会もつくり、ご意見やご要望を吸収。その声をもとに、当社のWebサイトは立ち上げからこれまで、数百カ所の機能追加、変更を繰り返し、今も進化し続けているのです。

 大手が同じようなサービスを開始したら? よく聞かれる質問ですが、野村証券がネット専門のジョインベスト証券を始めるまで10年かかっています。アマゾンだって最初は大手書店から、「ネットで本を売る? 普通だね」と、言われていましたが、今ではどうでしょう。やはり先に本気で始めたものが強いんですよね。ただ、マジックなんてありませんから、コツコツと愚直に、お客さまのほうを向いて、しっかりとしたブランディングを継続していく。そうやって、大手が来る前に、私たちはどんどんアドバンテージを広げているでしょう。もちろん海外にも目を向けています。特に成長が著しいアジア。100年早いと笑われるかもしれませんが、10年後には、アジアで一番輝いている生命保険会社になっていたい。まったくのゼロから会社の風土をつくり、大きな理想を追求できるこのビジネスに出会えて、僕は本当に幸せなんです。

<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
アントレプレナーシップを生かすのは起業だけじゃない。
まずは、自分が熱くなれる仕事、場所を探してみよう

 HBSで、アントレプレナーシップにはいろんなかたちがあることを学びました。まったくのゼロからガレージで起業する、停滞している大手企業を活性化する、どちらにかかわるにせよ、目標を達成するためには絶対にアントレプレナーシップが必要なのです。僕の場合は、出口という人間と、彼が温めてきたビジネスモデルに出合ってなければ、ライフネット生命保険なんてつくれっこなかったと思っています。そういう意味では、自分の持っていたリソースを、与えられたオポチュニティに合わせたかたちのアントレプレナーシップといえるでしょう。でも、なぜ自分の心が動いたのか。そこに、世の中から必要とされる新しい社会価値の存在が確信できたから。起業することが目的になっている人がいますが、起業とは手段です。自分が熱くなれる目的が見つかれば、かたちはどうあれ、アントレプレナーシップを発揮することができるのです。

 だから、「それほどやりたくないけど、何となくかっこいいし、儲かりそう」、そんな起業は絶対にしてほしくない。ちなみに僕の同級生が、とあるファンドから排出権取引を行う事業会社に出向しています。確かに、今話題の新しいビジネスですし、面白そうだと思うのですが、彼からいろんな話を聞いてもそのビジネスにかける情熱を感じることができないんです。これは僕の勝手な想像ですが、きっと彼はこのビジネスではアントレプレナーシップを発揮できていないのでしょう。僕の場合は、社会的に意義があると自分が信じられることしかしたくないですし、一緒に働いてくれている今のメンバーと何をやるか、それが一番大切なこと。繰り返しになりますが、熱くなれることを見つけること。これが起業の原点にあるべきだと思うのです。

 あと、リスクをしっかり考えておく必要はあります。でも、リスクを突き詰めて考えてみると、その多くは自分がかっこ悪くなるのを恐れているだけじゃないですか。失敗したら他人からの評価が下がってしまうとか。たとえばまだ結婚していなくて、一度起業に失敗しても再就職できる年齢であれば、挑戦すればいいと思います。ただし、家族がいる、大きなローンが残っている、その場合は計画が頓挫した時、生活のリスクが発生しますから注意が必要ですね。しかし、当社の社長である出口は35年間大手企業に勤務した後に起業し、今も全力で突っ走っています。そう考えるとやはり、本気で熱くなれるアントレプレナーシップは、継続してきたものの中に隠れていることが多いのかもしれません。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:内海明啓

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