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第26回
シナジーマーケティング株式会社 代表取締役社長
谷井 等 Hitoshi Tanii
1972年、大阪府生まれ。大学時代に阪神大震災に遭遇し、ひとりの親友を失う。その後、ボランティア活動、学生ベンチャーの立ち上げなど、時間を惜しんで毎日を過ごすように。神戸大学経営学部卒業後、NTTに就職。が、巨大な組織の中では自分が生かしきれないと判断し、入社9カ月目に、自主退職。家業の洋品店の再建を任され、軌道に乗せることに成功。並行して、自分の事業立ち上げを模索し、1997年9月、NTT時代の同期とともに無料メーリングリストサービスを展開する合資会社DNSを設立。2000年、インフォキャスト株式会社に改組。MLサービスの会員数が90万人、株式公開直前のタイミングで、株式会社楽天に企業を売却。内外の驚きを誘う。売却後の2000年9月、メールマーケティングシステムの開発・提供を事業とするインデックスデジタル株式会社を設立。いくつかの自社商品をリリースしながら、CRMソリューションサービスのワンストップカンパニーとしての地位を固める。2006年7月、シナジーマーケティング株式会社に商号を変更した。株式会社に商号を変更した。
ライフスタイル
好きな食べ物
菜っ葉類をそのままパリパリ
好き嫌いはほとんどありません。好きな食べ物といえば、菜っ葉類です(笑)。胃があんまり丈夫じゃないので、キャベツにレタスにほうれんそうなど、ドレッ シングなしでパリパリ食べちゃいます。お酒はほぼ毎日飲みます。ビールと焼酎が多いですね。ちなみにワインはちょっと苦手です。
趣味
四国八十八カ所巡礼
月1のゴルフと、月1の四国八十八カ所巡礼です(笑)。八十八カ所巡礼はもう5年も続けていまして、今は2周目。毎月第4土曜日に仲間6人で四国に渡り、 自転車で回るのです。必死で自転車を漕いでいると、頭が真っ白になって、日常から切り離されたような感覚になる。すると脳みそっていつもと違う考え方を始 めるんですよ。ストレスも解消されますし、新しいアイデアもわいてきます。
ファミリー
妻には本当に感謝しています
25歳で結婚してまして、妻と、上から8歳の女の子、6歳と3歳の男の子の5人家族です。週末は月1ゴルフと、月1四国八十八カ所巡礼に、フットサルチー ムももっていてこれも月1でやってますから、家族サービスがしっかりできるのも月1くらい……。妻には本当に迷惑かけてるな、といつも感謝してます。ごめ んな~。
将来の夢
いつかヴェニスへ
新婚旅行で訪れたイタリアのヴェニス。石畳の迷路のような道が張り巡らされ、車も入って来れない。移動手段といえば歩きか水路を使った船。家々もたぶん 400~500年前に建てられたものでしょう。そして僕は、ヴェニスの夜の怪しさにやられちゃいました。街のあちこちで、仮面舞踏会用のマスクが売られた りして。1年だけでいいから、ヴェニスの街で暮らしてみたいんですよ。
「101点のサービス」を継続していきながら、CRMのリーディングカンパニーを目指す!
1997年9月、合資会社DNS(デジタルネットワークサービス)設立。2000年1月、インフォキャスト株式会社に改組。2000年9月、インデックス デジタル株式会社設立。2005年、四次元グループ株式会社設立。2006年7月、シナジーマーケティング株式会社に商号変更。25歳でインターネットビ ジネスを起業した谷井等氏が、約10年間で、代表を務めてきた社名の変遷である。世の中のニーズを常に敏感に察知しながら、あたかも出世魚のように会社の 名前とそのあり方を変化させ続けてきた。これからも経済環境はものすごいスピードで変化していく。きっと変革し続けられる企業にしか、チャンスは巡ってこ ないのだと思う。そしてシナジーマーケティングは今、顧客の声に耳を澄ましながら、CRMのリーディングカンパニーを目指して活動を続けている。しかし、 満たすことができていないのりしろを埋め尽くしたときに、次はどのようなビジネス分野に打って出るのか。彼の動向には、業界内外の関係者が常に注目してい る。今回はそんな谷井氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<谷井 等をつくったルーツ.1>
洋品店を経営する家に生まれ、小学校時代の成績は抜群
僕が生まれ育ったのは、大阪西区の九条。工場もあり商店街もあり、昔でいうところの遊郭なんかもあったりする、とても活気のある下町です。東京で言 えば、何となく月島辺りに雰囲気が似ているでしょうか。その商店街で父は洋品店を経営していました。祖父が始めた商売を、父は家業として継いだんですね。 そんな下町で元気良く過ごした小学校の頃の僕といえば、スカートめくりとかして遊んでいるような男の子で、それはもうよく叱られていましたね~。
勉強はですね、あまり一所懸命やらなくてもすごくできたんですよ、小学校の頃は(笑)。正直なところ、学年でいつも1番でしたから。でも、習い事は、そろ ばんに習字、スイミングに少年野球と、いろいろやってはみたんですが全部すぐにやめちゃうんですよ。すぐに上達したからかって? いいえ全く。ただ単に飽 きっぽいだけ。なぜ続けられないんだろうって自分でも悩んでました。これが僕の少年時代のトラウマです。
小学6年生になって、私立の中学校に進学するために塾に通い始めます。結果、大阪府下第2位の進学校として知られる私立清風南海中学校に合格して しまいました。ここで僕は硬式テニス部に入部。本当にテニスばかりの中学校生活でしたよ。大阪府大会では、シングルスでベスト8にもなってます。おかげで 成績はがた落ちもいいとこ。学年135人中、僕の成績順位は135番。これはかなりへこみました。そんな僕ではありましたが、中学2年になった頃、この学 校に交換留学生の制度があることを知りまして。調べてみると年間で数人の成績優秀者が選ばれるらしい。これはどうしても僕が行かなければと。それから約1 年間の職員室詣でが始まります。もちろん留学担当の先生に「行かせて~」としつこく嘆願するためです。
毎日同じ生徒が職員室に通うもんですから目立ちますよね。それを学園長のご子息の副理事が見つけて、「あの生徒はそんなに悪いやつなのか?」って 先生に聞いたんだそうです。「いいえ、成績が悪いのに留学したいとわがまま言ってるんです」と。そしたら副理事が「面白いじゃないか。それほどの熱意があ るなら彼を行かせよう」となった。そうして僕は中学3年の1カ月、イギリスのウェルバーハンプトンへ留学することができたんです。女の子もみんなとても可 愛くてね。最高の経験でしたよ。英語もけっこうできるようになりました。
<谷井 等をつくったルーツ.2>
1995年、神戸の大学生だったころ人生を変える出来事に出遭う
高校はエスカレーター式でしたから、そのまま上へ。テニスは高校2年でやめました。その理由は今考えてもしょうもないことなんですが、部室に僕らみ んな教科書を置いたままにしてまして。それが先生にばれちゃった。すごく怒られて、「お前らみんな退部しろ!」と。そんなしょうもない理由で本当にやめさ せられることもないだろうし、みんなも僕に着いてきてくれると思ったので、「じゃあやめます」と思わず言ってしまった……。が、誰も着いてきてくれません (笑)。それで結局ひとり退部したんですが、一応どこかの部に所属しておこうと。高2からは陸上部員になりました。
中学の頃から、父はよく僕に「将来は商売人になれ」と言ってたんです。「親父、日本で一番大きな会社ってどこや?」「そうやな、松下はんかな?」「松下っ てなんぼくらいの売り上げ?」「3兆円くらいとちがうか?」「じゃあ、僕が30歳になるまでに3兆円の会社つくるわ」なんて会話もしながら。そういう土壌 もあって、大学に行くなら経営学部だと自然に決めてたんです。調べてみると国立大学で経営学部があるのは、横浜国立大学と神戸大学。神戸なら土地勘もある し、横国大よりも難易度が高いという理由で、神戸大学を受験することを決定。でも、成績は悪かったでしょ。だから1年目の受験は、見事に、それも気持ちよ くふられました。友人たちからも「記念受験だろ?」って言われてましたし(笑)。というわけで僕は1年の浪人生活を経て、神戸大学の経営学部へ進学したん です。
大学では体育会ゴルフ部に所属し、ハッピーな学生生活を送っていました。思えば、テニスに陸上にゴルフと、いつも僕は個人プレーの競技ばかりやっ てるんですよね。そんなハッピーな毎日にある意味終止符を打ったのは、僕が大学3年生だった1995年1月17日の夜明け前。そうです、あの阪神大震災で す。神戸の大学生だった僕にとって、地震自体もちろん衝撃の出来事なのですが、仲の良かったひとりの友人を震災が原因で亡くしてしまった……。彼はその前 夜、まさか明け方に自分が死んでしまうとは思わなかったでしょう。でもそれは現実のものとなってしまった……。この出来事を機に、僕の人生は変わったのだ と思ってます。命には限りがある、今できることは先延ばしにせず、すぐにやろう。いつ死んでも悔いがないように一所懸命に生きようと。それ以来僕はずっ と、残された時間は限りあるものと考えながら、毎日を過ごすようになりました。
<学生起業家の誕生>
事業を立ち上げるも断念し、就職活動をレイトスタート
震災の直後から僕は、認定避難所に入れなかった震災者の方々に救援物資を届けるというボランティア活動を始めます。大学生を集めて、そのための活動 に派遣していくというやり方です。混乱が治まるまでの2カ月間でしたが、140人くらいの学生たちがこの活動に参加してくれました。早く何かしなければと いう焦燥感のようなものもあったんでしょう。昼間はそのボランティア活動をしながら、夜は夜で5人の友人たちとビジネスのアイデアを出し合ったりして。ボ ランティア活動が落ち着いた3月の終り頃には、中古教科書販売の事業をスタートさせていました。
ま ず大学生にチラシを撒いて、売ってもいい教科書の登録だけしてもらい、買い手がついたときに仕入れて売るという仕組みです。1冊当たり500円の利益を乗 せました。4月の履修前には売れたんです。が、それも一瞬……。当然ですが、履修後にはみんな教科書いらないですよね。僕らも後になって「あ、そうやっ た!」って気づいたくらいイマイチなビジネスでした(笑)。でも、お金儲けってこんな感じ、という原体験はこのときに得たものだと思っています。
その後も僕らは、家庭教師の派遣や学生イベントなどの仕事を続けていました。そんなある日、知り合いの社長からこんなことを言われました。「君ら はこのビジネスを本当に一生やっていく気なんか?」と。その一言に、僕はハッとさせられました。確かに、本気でやらないといつか誰かに迷惑をかけてしま う……。それまでは就職する気なんてなかったのですが、この気づきがあって僕は学生ビジネスの継続をあきらめ、就職活動を始めます。もう4年生の5月。同 級生たちはすでに内定が出始めています。ああ、もう今年は手遅れか……と思っていたら、ラッキーなことにNTTの先輩が僕を拾い上げてくれまして。1日で 3回もの面接をしてもらうなどして、なんとか内定をいただくことができたのです。
さあ大学を無事卒業し、晴れてNTTに就職した僕は、仮配属された支店で回線営業を始めます。その後の本配属は東京本社。某大手日用品メーカーの 情報システム担当に抜擢されたんです。1996年の頃ですが、PHSとデジカメとノートパソコンを使って、効率的なセールスラウンディングシステムを構築 するという、画期的な仕事もありました。本社から僕を含めて6名、支社からは140名の人員が関わるという大プロジェクトです。この大仕事を前に、もちろ ん僕も燃えました……最初は(苦笑)。
<1年目で退職。ちょっと“ひきこもり”の日々>
誰もがうらやむ大手企業を自主退職。家業の洋品店の再建を任される
でも、あまりに大きすぎるんです。プロジェクトの大枠は把握できるのですが、案件は先方とこちらの上層部同士で決まります。その決定の経緯すらよく 見えない。それでいて、僕が担当する仕事といえば、全国に散らばる某大手日用品メーカーの営業所に張り巡らされた数千本のアナログ回線をデジタル回線に置 き換えていくというもの。これではただの歯車だな~と感じて、いつになったら決定権がもてるようになるのか上司に聞いてみたんです。「早くても30歳だろ うな」と……。人生を生き急いでいる僕にとって、20代の8年間はとてつもなく貴重なわけです。そして僕はわずか入社9カ月目にして、NTTを退社する道 を選択しました。
大阪の実家に帰りましたが、家族や友人たちから「せっかく就職できたのに、何してんだ」と総スカン を喰らいます。半月くらいはボーっとして暮らしました。今で言う“ひきこもり”状態です。でも、これじゃいけないと奮起して何をしたかというと。父に「ご めん、働かせて」と頭を下げたんです(笑)。父は、九条にある自宅兼店舗のほかにもう1軒、梅田で洋品店を経営していました。しかしこれがあまり採算のい いものではなかったんです。「じゃあ、あの店を任せるから黒字化してみろ」というミッションを父から授けられた僕は、1997年の1月から嬉々として店の 再建に乗り出したのです。
僕は駅前の地下街にある店前の交通量調査を実施し、メインターゲットは20~30歳代のサラリーマン層であることを把握します。が、店に置いてあ る商品は40代以上をターゲットにしたちょっと派手でやんちゃな(笑)服ばかり。これじゃあ売れないのも当然です。そこで父に、スーツをメイン商材にする こと、内装を変えることを提案し、すぐにその仕事に取り掛かりました。結果は想像以上です。リニューアルオープン日には、62本ものスーツが売れた。この 店の日商記録を塗り替えまして、その後も経営は順調に推移します。
生き急ぐ僕は、その店舗再建の仕事をしながらも、NTTの同僚たちと夜な夜な集まって、インターネットビジネスの可能性を模索し続けていました。 やはり自分で商売を、という夢が捨て切れなかったんですね。そこでイケると踏んだのが、当時ちまたで使われ始めていたメーリングリスト(ML)サービス。 独自のMLサービスを立ち上げ、無料化により利用者を一気に拡大。これをメール広告メディアとして販売するというビジネスモデルです。そしてNTT時代の 同期2人と、このビジネスを展開するために合資会社DNS(デジタルネットワークサービス)を立ち上げます。1997年9月、洋品店の経営とDNSの経営 という二足のわらじ生活の始まりです。
私たちはCRMトータルソリューションのプロフェッショナル集団であり続けたい!
<二足のわらじ生活からの脱却>
MLサービスの会員数を順調に増やし、店頭公開直前に企業売却を決断!
DNSが提供する無料メーリングリスト(ML)サービスは、丁寧なサービスが評判となり、それがマスコミに数多く取り上げられたこともあって、多く のユーザーの人気を博します。ちなみにその頃の僕はというと、朝10時から21時までは洋品店の仕事をして、その後は、DNSの事務所で23時頃から朝5 時まで仕事。毎日の睡眠時間は2、3時間しかありませんでした。このような二足のわらじ生活を続けているうちに、MLサービスの会員数はどんどん増加。そ してベンチャーキャピタルや証券会社が、このビジネスに可能性を感じて、インタビューのため来社するようになりました。
1999年の8月くらいでしょうか、このインターネットビジネスを一生続けていきたいと考えるようになった僕は、父に「このビジネスに専念したい」という 相談をもちかけました。当然、父は「お前、谷井の家を捨てるんか!」と激昂しましたが、そこは何とか了承してもらって(笑)、1999年の10月に店舗経 営を離れ、DNSの経営に専念することに。ちなみに父は今でも「等、いつ帰ってくるんや」と言ってくれてますが(笑)。事業を始めるに当たって、1回だけ 120点を提供しても平均点が80点では意味がない。僕たちは1点のプラスアルファを継続するために「101点のサービスを!」というモットーを合言葉に 掲げました。常にユーザーサイドに立った提案を継続していくという決意表明でもあります。
無料ネットサービスの会員数が数万人ですごいと言われていた当時、DNSのMLサービス利用ユーザー数はなんと27万人を突破します。2000年 1月、さらなる積極的な事業展開をしていくためDNSの業務を引き継ぐかたちで株式会社インフォキャストを設立。その後もマーケティング活動に注力し、 ユーザー数がその3倍になったタイミングで、僕はある重大な決断をしました。それは株式公開目前に、株式会社楽天へ企業売却するというもの。その決断の原 因は、米国ヤフーによるeグループ社の買収にありました。ここは会社のオーナーシップにこだわるよりも、競合に負けないしっかりしたサービスを継続して提 供できる道を選択することが、事業を司るCEOとしては正しい選択であると考えた結果です。
企業を売却するにあたり、僕は楽天さんに3つの条件を提示しました。1つ目は、投資家保護のために高い株価で買ってもらうこと。2つ目は、サポー トは継続しますが、役員と従業員は全員がやめますということ。3つ目は、すぐに新会社を設立しますということ。すべての条件を呑んでいただき、私たちは 2000年9月、新会社インデックスデジタル株式会社を設立。そして優良顧客の獲得を実現するための、データベース連動型メール配信システム「POEM」 のASP提供を開始します。
<常に顧客の声に耳を澄ましながら……>
新規顧客の獲得支援ビジネスから既存顧客の活性化支援ビジネスへ!
常に「101点のサービスを!」というモットーを守りながら事業活動を続けていくためには、顧客の声をしっかり聞くことが大切です。これまでMLを メディアとした広告営業を展開してきましたが、たくさんの顧客とたくさんのコミュニケーションを重ねる中で、私たちも顧客もそろそろその効果に対する限界 を感じていました。そこで私たちが考えたのは、新規顧客を獲得するのではなく、既存顧客に購買活動を継続してもらえるような仕組みの必要性。そして、当社 の優れたメール配信技術を駆使した、新商品をASPとして提供するというビジネスモデルを発想したのです。
インデックスデジタルを設立した2000年9月、データベース連動型メール配信システム「POEM」のVer1.0をリリース。翌年の3月には Ver2.0、その1年後にはVer3.0、現在はVer3.1にバージョンアップしています。ちなみに「POEM」Ver1.0の月間使用料は6000 円~でしたが、現在のVer3.1は2万5000円~。バージョンアップと共に、どんどん値上げしているわけです。しかし、顧客が本当に求めているものは 高機能の製品やサービスなどではなくて、単に売り上げをアップさせること、もしくはコストをダウンさせることにほかなりません。そのことを常に中心に考え たゆえの価格設定を貫いていたらこうなっただけ。私たちが考えるプライスリーダーシップ戦略とは、価格を抑えることで顧客に選んでもらうものではないんで すよ。
だから、私たちは顧客が有している問題意識を共有するために、ASPとはいえ常に提案型のコンサルティング営業を心がけています。しっかりヒアリ ングをして、売り上げのアップ、かかっていたコストのダウンという結果を出すために最適な提案をするのです。もちろん「101点のサービスを!」を守りな がら。現在、「POEM」をご利用いただいている顧客数は大手企業を中心に700社を超えています。メールマーケティング分野のASPを提供している先発 企業が2社存在していましたが、シェアではすでに抜き去っていると思います。そして、事業活動を通じて顧客ニーズの広がりを察知し、2004年頃から、統 合顧客管理システム「Synergy!」のグランドデザイン設計に取り掛かりました。
<未来へ~シナジーマーケティングが目指すもの>
CRMに関するソリューションならワンストップで当社にお任せ!
2005年6月、インデックスデジタルの開発力のさらなる向上を目指し、Webとeメールシステムに特化したシステムインテグレーターである株式会 社四次元データと経営を統合。2社を統括する純粋持ち株会社として株式会社四次元グループを設立します。四次元データは京都大学の院生がつくった会社で、 とても優秀なエンジニアをたくさん抱えていました。いってみればこの経営統合は、エンジニアの大量採用とも言えますね。そして、統合顧客管理システム 「Synergy!」をリリースし、事業ドメインをメールマーケティングからCRMのフィールドに拡大していくのです。で、ちょっとややこしい話なんです が、2006年7月に、インデックスデジタルを吸収するかたちで、四次元グループの商号を変更し、現在のシナジーマーケティング株式会社が生まれました。 ホント、ややこしくてすみません(笑)。
今後の日本は、少子化問題を抱え人口が減少していきますか ら、経済成長も低空飛行が続いていくでしょう。ものが売れにくくなっていくマーケットの中で、企業同士が新規顧客の奪い合いをするのはナンセンス。これか らは、一度獲得した顧客を大切に継続して守っていくことが重要なのです。現在、国内マス広告の市場規模が8兆円と言われていますが、CRMシステムや ASPの市場規模は約4000億円だそう。しかし、この市場が拡大していかざるを得ないことは間違いありません。現在、当社には、キャンペーン事務代行、 メール配信代行など、システムを使ったCRMソリューションだけではなく、その周辺にあるさまざまな販促活動の仕事が舞い込んでいます。そして、 「Synergy!」の顧客数はすでに300社を超えました。
また、今年の1月には株式会社オプトとの合弁で、ハウスリストマーケティング事業を推進するグローブコミュニケーション株式会社を設立していま す。ハウスリストマーケティングとは、主に大手企業が有している会員組織や顧客リストを新たな広告媒体と見立て、ターゲットを絞り込んだ広告を投下してい くというビジネスモデル。新たな価値を創出していくという意味においても、やりがいのある事業ですね。
これからもシナジーマーケティングはCRMのワンストップソリューションベンダーとして、「101点のサービスを!」をモットーに、しっかりと顧 客の声を聞きながら、コンサルティング営業を続けていきます。効率的な販促活動や顧客管理に悩まれたときは、ぜひシナジーマーケティングにお声かけください!
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
成功は自分よりも誰かのおかげ、失敗は誰かではなく自分の未熟
これから可能性のありそうなマーケットですか? 日本は高齢化がどんどん進んでいきますから、やはり介護・福祉系のビジネスは求められていくでしょ う。また、学校教育も大きな転換期を迎えていますから、学校ビジネスもやりがいがありそうです。杉並区の和田中学校で校長をされている、リクルート出身の 藤原和博さんの試みも面白いですよね。あと、僕の周りの経営者たちがよく言っているのが農業。生産性を高めるためにさまざまな方法を開発しなければならないで しょうし、株式会社化も認められましたし。いずれにせよ、今後10年くらいで変わっていかざる得ないマーケットって世の中を見渡せばたくさんあります。規 制もどんどん緩和・撤廃されていくでしょうから、そういう目でビジネスチャンスを探っていくといいのではないでしょうか。
僕が仕事をするうえで大事にしているのは、人を大切にすることですね。日本の総人口は1億3000万人ですが、一生かけてもきっと1万人くらいの人としか 出会うことができない。であるならば、縁あって出会えた人たちとは一生付き合っていきたいじゃないですか。ちなみに、当社から独立していった社員はこれま でに3人。もちろん、その後もずっと付き合いは続いています。彼らが持っていたのは、常に前向きな思考回路と、仕事に対するしつこさと、強い自己責任。こ の3つがないなら、僕は社員の独立を絶対に阻止するでしょう。1000個でも1万個でも理由をつけて、引き止めますよ。せっかく出会えた大切な仲間に失敗 してほしくないじゃないですか。どんなビジネスであれ、それを動かすのも人、受け取るのも人、基本にあるのはすべて人なんですから。
最後に、僕が思う経営者にとって大切にすべき考え方を紹介しておきます。何かいいことがあったら、自分が頑張ったからと思うのではなく、誰に助け てもらったかを考えること。逆に何かに失敗してしまったら、誰かのせいだと思うのではなく、自分の至らなさを考えること。そうすることできっと、感謝の気 持ちが大きくなり、自分への成長期待も膨らんでいきます。みなさんが、幸せな起業に踏み出せることを心から祈っています。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:刑部友康