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第23回
株式会社アドウェイズ 代表取締役社長 CEO
岡村陽久 Haruhisa Okamura
1980年、埼玉県生まれ。兄と妹にはさまれた3人兄弟の次男。小学4年から東京・台東区に家族と共に移り住む。中学卒業後、16歳で訪問販売会社に就職。営業として働き始める。1年半在籍し、トップセールスの座を勝ち取った。その後、さらなる営業力の強化を目的に単身大阪へ。前職よりも規模の大きな会社に転職し、2年半在籍。ここでは西日本地区のトップセールスと、全国2位の成績を収める。2000年8月、インターネットの将来市場性に着目し、メールメディアを媒体としたクリック保証型広告事業を行う、アドウェイズエージェンシーを個人事業として起業。2001年2月に、株式会社アドウエィズを設立。その後、いち早く成果報酬型のアフィリエイト広告に事業を転換し、モバイル市場でも同サービスをスタートさせるなど、競争優位性を発揮しながら急成長を遂げる。2006年6月20日、これまでの最年少記録を塗り替えて、東証マザーズに上場を果たした。
ライフスタイル
好きな食べ物
なぜか梅干
梅干が好きなんですよ。どれくらい好きかというと、昔、大阪の駐車場で「スッパイマン」の袋が落ちてたんです。僕はあれが大好きなんですよ。見ると空いた 袋の中に、2粒残ってた。悩みましたが、拾って食べました(笑)。あと、梅干が目の前に置かれたら、置いてあるだけ食べちゃいますね。多分。
趣味
インターネット関連のサービスを試すこと
平日はネットサーフィンもできないくらい忙しいので、休みになったらずっとインターネットで遊んでます。ミクシィやったり、自分でブログをつくったり、 ポッドキャスティングを試したり……。インターネットの世界はどんどん新しいサービスが生まれるでしょう。新しい仕組みに触れたり、その仕組みを考えたり するのが好きですね。
休日の過ごし方
同じ本を繰り返し読む
これまでいろいろなビジネス書の新刊を読んでいたのですが、今は『ビジョナリー・カンパニー』の1と2にはまっています。1冊を読み捨てるのではなく、同じ本を繰り返し何度も読んでみようと思い立って。もう10回以上読んでいると思います。
1週間休みがとれたら
会社のスタッフたちとアドベンチャー
僕はアドベンチャー好きなんですよ。埋蔵金探しとかにも、心ひかれますね(笑)。ま、現実問題として1週間休みが取れたら、会社のスタッフたちとアウトド アキャンプとか行きたいですね。あとは、昔取った車の免許が失効しちゃってるので、合宿免許に行って一発免許にチャレンジするのもいいですね。
100万円の開業資金、3人で始めた事業が、6年弱で東証マザーズに上場しました!
28歳の若き経営者、岡村陽久氏が率いる株式会社アドウェイズは、2006年6月20日に東証マザーズに上場した。16歳から社会人となった岡村氏は、訪 問販売という生き馬の目を抜く競争の世界で、まずは頭角を現した。営業力とは、どのような事業にも必要となる大切な経営要素であろう。最初は100人の組 織中でトップを勝ち取り、その後、さらに上を目指し、500人の組織の中で2番目の成績を収めている。それもまだ20歳前の若者がである。その後、この営 業の達人は起業という道を選択する。その舞台は、1000年に1度のビジネスチャンスと言われる、インターネット市場だ。そして、クリック保証型広告事業 に始まり、成果報酬型アフィリエイト広告事業へとビジネスモデルを変化させながら、アドウエィズは急成長を遂げた。偉大な名将を称える言葉に「機を見るに 敏」というものがあるが、岡村氏はまさにそれ。また、売れなければ収入がない完全歩合制の訪問販売と、成果報酬型のアフィリエイトビジネスは、意外に似て いたのかもしれない。今回はそんな岡村氏に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。
<岡村陽久をつくったルーツ.1>
かけっこの速い転校生は、すぐに仲間のリーダーに
生まれたのは埼玉ですが、小学4年で東京へ引っ越しました。台東区の谷中の辺りですね。転校した当初は、東京もんには負けられないと気負っていたん ですが、すぐにみんなと仲良くなった。小学生くらいのときって、スポーツできる奴が注目されたり、周りから一目置かれたりしますよね。僕はすごく走るのが 速かったんですよ。これが幸いしたんでしょう。でも特定のスポーツにはまったということはなかったです。あ、習字は3年間習いました。8級から7級にあ がったところでやめちゃったんですけどね(苦笑)。
勉強はあまり一所懸命やらなかったですね。僕が 通っていた小学校の生徒の半分は私立中学受験で、半分は公立。私立組は塾に行ったりするのですが、僕は元から公立に行くと決めてましたから。だから毎日、 子どもらしく友だちと遊びまくってました。みんなで秘密基地をつくったり、2000円くらいで買えるBB弾のモデルガン持ってサバイバルゲームをしたり。 谷中墓地とかですね、台東区には広い遊び場がたくさんありました。
ちなみに、小学校の卒業文集に書 いた将来の夢は「社長になる」。じゃあ、この頃からすでに起業を目指していたかというと全くそうではなくて。テレビ番組のドラマとかに登場する社長を見 て、カッコイイなと思った程度ですよ。社長って何だか楽しそうな生き方だな、と。現実に今、社長やってて楽しいか?というと、大変なことも多いですが、も ちろん楽しいですよ(笑)。
中学時代は、小学時代よりも充実してました。中学って、周囲の小学校か ら、いろんな奴が集まってくるじゃないですか。勉強するやつは勉強、スポーツするやつはスポーツ、遊ぶやつは遊ぶって、カテゴリーがわかりやすいですよ ね。僕も最初はバスケ部に入ってみたのですが、すぐにやめて、やっぱり遊ぶほうに走っちゃいました。昼間はマック前、夕方はマルイ前とかで集まってね。東 大も近かったので、夜は東大近辺で遊んだり(笑)。気の合う面白い仲間がたくさんできて、本当に楽しい3年間でした。
<岡村陽久をつくったルーツ.2>
16歳で社会人デビュー。訪問販売の世界でもまれる
高校に進学したものの、中学とあまり変わらない毎日。おまけに、中学時代に仲が良かった仲間とはバラバラに。このまま居続けても何となく時間の無駄 だと思ってしまって、2カ月でやめました。このままではいけない、早く社会に出ようと。思い立ってすぐに、コンビニでアルバイト情報誌を購入して、自分に できそうな仕事を探しました。中卒で16歳の自分ができる仕事って何だろう。そう思いながら、高収入インデックスの上からページをめくっていったんです。
そこで見つけたのが、「工事の仕事。月給24万8000円以上。やればやっただけ稼げる」。そんな内容の求人広告でした。若かったですし、これは50万円 くらい稼げるんじゃないかと考えて、すぐに電話して面接のアポイントを取ったのです。で、気合入れて面接に臨んだのですが、面接担当者が「工事部の人員は いっぱいになったので、営業をやらないか?」と。僕は営業なんて16歳の小僧にできる仕事じゃないと思っていたので、「僕でもいいんですか?」と聞き返し ました。そしたら「17歳でやっている人もいる。明日からお願いします」。そんなやり取りがあって、僕の社会人デビューが決まったのです。
そして翌日出社してみますと、会社のジャンパーを渡されて「車に乗ってください」。「どこへ行くのですか?」と聞いたら、「着いてからのお楽しみ」と。計 4人が乗った車は、高速道路を経由して、茨城県のとある住宅街へ到着。車を降りて住宅地図で担当範囲を指示され、「3時間後に集合」で営業開始。住宅を1 件1件、営業して回るわけです。後になってわかったのですが、先輩たちはパチンコに行ったり、公園で寝てたり、サボってたんですね。でも僕は単純に仕事と はまじめにやるのだと思い込んでいましたから、3時間ですべてを回りきるために、すべての家の呼び鈴を押しながら、走りながら営業し続けました。くる日も くる日も、です。
実は当時売っていた商品は、ホームセンターでも扱っているものでしたから、普通の 人は訪問販売で買ったりしないのです。しかし、毎日毎日、訪問販売営業を続けていると、買ってくれそうだ、絶対に買ってくれないという人の見分けができる ようになってくる。その判断をするためには、まず呼び鈴を押してお客様と話さないといけない。だから、営業の回数が増える。すると押し引きの判断精度が高 まり、時間も効率的に使えるようになる。1週間に1件だった契約が3件に増えてと、だんだん売れるようになってくる。売れるから、どんどん収入も上がって いく。最終的に、僕の月の収入は100万円くらいになった。その当時、僕はまだ17歳でした。
<大阪へ~営業力強化の時代>
さらなる頂上を目指して転職。そしてインターネットとの出合い
訪問販売の営業をしていると、他社の営業マンと街で知り合う機会が多い。話をすると「俺は今年収2000万円だよ」とかいうツワモノもいる。最初の 会社の従業員数は100名くらい。ここで僕はトップセールスになったのですが、日に日にもっと上を目指したいという気持ちが強くなっていきました。営業ノ ウハウに関する本も読み漁り、自分のレベルはまだまだだと思ってましたし。もっと大きな会社で自分を試したいと思い、1年半お世話になった会社を退職。誰 も知り合いのいない大阪で、ひとり勝負することを決めたのです。
扱う商材は何でもよかった。新大阪 駅に着いたと同時に求人情報誌を購入。すぐに難波にある会社の面接を受けに行ったのです。普通、完全歩合給制の営業会社で、面接に落ちることってなかなか ないのですが、なぜか最初の会社は不合格。それから私鉄で南に下りながら、連続して4社の面接を受けたのですが、ことごとくダメ。6社目に受けた我孫子に ある会社が、やっと入社を許可してくれたのです。本当に、長い1日でしたね。
ちなみにこの会社は、西日本に250人、東日本に250人の営業スタッフを抱えていました。2年半在籍して、成績は、関西ではトップが取れたのですが、全国での総合成績は2位でした。この時、僕は20歳。月々の収入は200万円を越えることもありました。
結局、4年ほど対個人営業を続けたのですが、次は法人営業の世界を経験してみたいと考えるように。ちょうどその頃、20代の社長が経営するITベンチャー 企業が上場して話題になっていました。もちろん僕もいつかは社長になろうと思っていましたが、それは30歳とか40歳になってからだろうなと。しかしそれ が20代社長で、それも上場までしてるわけです。「なんだ、若くても社長になれるんだ!」。目からウロコですよ。そして何よりインターネットビジネスに可 能性を感じて、「これは1000年に一度のビジネスチャンスだ」と直感。「このITベンチャー企業で5年くらい修行して、それから起業しよう!」と勝手に 決めて(笑)、すぐに行動に移しました。
<起業! 個人事業からスタート>
意中のネット企業の転職に失敗。それをきっかけに、起業を決意
その転職活動のために、パソコンを買ってインターネットの回線を引いて、このITベンチャー企業のホームページにアクセス。そしてネット経由で中途 採用のエントリーシートを書いて応募したのです。返信されてきた結果は、不採用でした。そもそも僕は中卒で、インターネット業界の経験も皆無ですから、こ の結果は織り込み済み。今度は、その不採用メールに書かれていた担当者宛に、さらに熱いメッセージをしたためたメールを直接送りました。これなら一回くら いは会ってくれるだろうと思ったのですが、再び不合格の返事が。「よし、こうなったら、直接社長に会って直談判だ!」というわけで、東京に行って、その会 社が入居しているビルの前で社長を待ち伏せすることにしたのです。
2日間待ったのですが、結局、社長には会えなかっ た。そのビルは3つエントランスがあるんですよね(笑)。ならば最後の手段ということで、土曜日、その会社のフロアに忍び込み、目立つ場所に履歴書と自己 PRをしたためた封筒を置いて、即逃げました(笑)。ちなみに自己PRには、「僕が入社する4つの条件」を書いています。①給料はいらない、②経費も自分 が持つ、③ナンバーワンの営業成績を残す、④いつクビにしてもらってもいい、というものです。これなら会社側にはまったくリスクがないですし、面白いから 一回くらい会ってやろうかという展開を期待していました。もしも会えることになったら、机にしがみついて採用してくれるまで絶対に帰らないぞ、と。
その後、丁寧な手紙が届きました。やっぱり、採用はできないという内容です。訪問販売で培った勘で、これ以上は時間の無駄だと判断。このときにもしも採用 されていたらどうだなっていたかわかりません。今となっては、当時の判断は正しかったのでしょう。僕は、このときに採用されなかったから、自分で起業する という選択をしたわけですから。入社するために、インターネットビジネスの知識はためこんでいましたから、すぐにどんなビジネスを始めるかも決まりまし た。そのITベンチャー企業の主力商品がWebサイト上でのクリック保証型バナー広告でしたが、僕はメールメディアをネットワークしたクリック保証型の広 告ビジネスをしようと。そして2000年8月、個人事業としてアドウェイズエージェンシーを創業。やる以上はソニーやマイクロソフトを抜くんだ!と、僕は 本気で考えていました。
独自開発のアフィリエイト事業を核に、世界のマーケットで勝負したい!
<クリック保証型から成果報酬型へ>
成果報酬型で制作を依頼した、クリック保証型のシステム
メールメディアをネットワークしたクリック保証型の広告ビジネス。これをやると決めたはいいのですが、システムがありません。そこで、新大阪にある コンピュータ系の専門学校へ行って、学校から出てくるコンピュータが得意そうな生徒に「メールのクリック保証型広告のシステムをつくれませんか?」と声を かけるわけです。そしたら「できる」という学生さんがいたので、その方にに創業資金の残り70万円の内、50万円でシステムをつくってもらうことに。2カ 月かかるというので待っていましたが、「できたんですが、ファイルをなくしちゃって……」と。結局、その学生さんから完成されたシステムは納品されず、お 金も帰ってきませんでした。
さあ、もう資金がない。生活費も、もうひとりの相棒のアルバイト代でまかなって いたくらいですから。じゃあ、売り上げのレベニューシェアという成果報酬型でシステムをつくってもらうしかない。ヤフーを使って「大阪 システム」と検索 して、一番上に出てきた会社に連絡してみました。「売り上げの30%を支払うので成功報酬でシステムをつくってほしい」。「OK。2日間くれれば納品でき る」。なんと1本目の電話で承諾してもらったんですよ。ラッキーでしたね。そして約束どおり、2日後にシステムが納品され、2000年11月1日、アド ウェイズの記念すべき1社目のクライアントの広告が配信されました。
大手ショッピングモールに登録している ショップに向けて広告出稿のメール営業をかけ、広告を掲載してもらうメールマガジン探しはメルマガ登録サイトを使ってアプローチしました。アドウェイズが スタート当初からうけた理由は、価格の設定にあります。競合が広告主から徴収する1クリックの料金200円を、当社は160円に。広告代理店への1クリッ ク当たりのマージン20円を、当社は40円に。媒体(メール発行元)への広告掲載料20円を、当社は40円に。広告主も、代理店も、メール発行元も、みん なが喜ぶ価格設定なわけです。
しかし、そうこうしているうちに、クリック保証型では本当の費用対効果がわか らないというクライアントが増えてきました。それもあり、2001年2月に株式会社を設立したタイミングで、当社はクリック保証型をやめて成果報酬型の広 告ビジネスをスタート。当時はまだ、僕を入れて3人体制でしたが、クライアント数も順調に増え、売り上げも思った以上に伸びました。
<設立1年目に起こった7000万円事件>
突然の限度額を超えた支払いにも、奇策をもって対処し、信頼を得る
ちなみに1年目の年商は1億3500万円。ですから月々の平均売上高は1000万円ほど。しかし、この年の11月、ある事件が起こります。なぜかこ の月に限って売上高が7000万円に跳ね上がった。7000万円事件と呼んでいるのですが、本来は、代理店が広告主に200円の成果報酬をいただくとこ ろ、誤って2万円と伝えてしまったのです。そこに3500件の申し込みが入ってしまった。当然ですが、広告主は70万円しか払えないと主張します。しか し、当社は当時媒体に成果報酬の50%を支払う約束をしていましたから、3500万円を支払わなければなりません。口座には200万円ほどしか残ってな い。媒体各社への支払期日は、翌年の1月15日です。さあ、どうする……。
そこで、ネットのシステ ムを開発して、企業に提案営業することに。いくつかの企業に提案したら、そのうち1社が買いたいと。じゃあ4000万円で売りますと話したら、OKとの返 事。通常システムを購入する場合、完成品を納品してから支払いが発生しますよね。でも、それでは媒体への支払期日に間に合いませんから、納品前に前払いし ていただければ3500万円に値引きしますという交渉をしたのです。本当はそれが狙いだったんですけどね(笑)。なんとそれもご納得いただき、何とかその システムの前払い金で、媒体各社に約束どおりお支払いをすることができました。本当に大変でしたが、この事件がきっかけで「アドウェイズは媒体を守る企業 だ」という業界内での信頼感が生まれました。
この頃から、当社はシステム開発業務を外注ではなく社 内開発にシフトしています。外注の場合、どうしても必要のない機能をつけてくるので、その分、費用も時間もかかります。エクセルやワードも普段は使わない 機能がたくさんあるでしょう。それと同じです。インターネットの世界は変化が激しいですから、思いついたらすぐに開発して始められる会社のほうが強い。い いアイデアを思いついても、外注だとお金がかかるから発注しづらいじゃないですか。社内に開発部隊があれば、みんな頼みやすいですよね、タダだし(笑)。
今も当社の主力商品である、Webサイト、メルマガなどパソコン媒体向けアフィリエイトプログラムの「JANet(ジャネット)」、携帯端末向けアフィリ エイトプログラムの「Smart-C(スマートシー)」も、この頃生まれたサービスです。また2003年の12月には中国に会社を設立し、自社のオフショ ア開発体制も整えました。現在、中国のスタッフ151人のうち、86人が開発スタッフです。
<未来へ~アドウェイズが目指すもの>
新サービスをどんどん世に出し、マーケットを世界に合わせる
2003年に、アクション型の成果報酬スタイルをやめ、広告主が掲載するメディアを自由に選べ、成果の承認もできるという今のアフィリエイトスタイ ルに完全移行しました。また、2004年には、現COOである松嶋良治が入社します。その後の当社の成長を一緒に支えてくれた大切なパートナーです。僕が 突っ走るタイプだとすると、彼は論理的思考を持って社内を整理するタイプ。いい意味で、両輪経営ができるようになった。彼が、給与や評価制度、目標達成の 意味など、従業員のモチベーションを高めるさまざまな施策をつくって実践してくれたおかげで、社内に一体感が生まれましたし。それを証明するように、当社の売 上高は2004年の約5億円が、翌年の2005年には15億円に、その翌年の2006年には35億円とジャンプアップを継続中。ちなみに今期は62億円を 見込んでいます。
そして2006年6月20日、アドウェイズは東証マザーズに上場を果たします。実は当初、2005年8月くらいに上場しようと動いていたのです が、僕が東証の上場面接に落ちてしまって。「コーポレートガバナンスやコンプライアンスはどう考えている?」「ストックオプションはどうする?」などの質 問に、全く答えられなかったのです。恥ずかしながら(苦笑)。そこで専門家の家庭教師に、3カ月くらい毎日5、6時間レクチャーしてもらったんですよ。そ れで、2005年の11月に再申請して、上場にこぎつけたというわけです。それでも僕はこのとき26歳、最年少の上場記録を更新しました。
パソコンとモバイル両方を本格的に手がけている、唯一のアフィリエイトサービスプロバイダーであることが当社の最大の強みですが、競合も確実にここに進出 してくるでしょう。だから差別化のために、モバイルでは少し始めているのですが、さらなる自社メディアを立ち上げて利益率をあげていく計画です。ちなみ に、社内では「イントレプレナーシップ」という新規事業提案の場もあり、スタッフからあれやりたい、これやりたいという声も多く聞こえてきます。
現在、当社の売り上げシェアは日本国内が95%、中国が5%です。これからも新規サービスをどんどん立ち上げながら、インド、ベトナム、ロシア、ヨーロッパ、アメリカなど、世界中でアドウェイズらしい事業を幅広く展開していきたいですね。
<これから起業を目指す人たちへのメッセージ>
起業自体が目的になっていないか再考。ただ、誰が何と言おうが、やる奴はやる
会社を辞めて起業することを、多くの人はリスクが高いと言います。果たしてそうでしょうか?僕は全くそう思いません。なぜなら今は会社の終身雇用も 怪しくなって、転職する人も増えていますよね。仮に転職に失敗したら、また別の会社で働くために再度転職するでしょう。起業してもしも失敗したら、再就職 してお金貯めて、またチャレンジすればいい。そういった意味では、転職も起業も、はらむリスクは同じようなもの。
日本は再チャレンジを許さない国という話もよく聞きますが、あれもウソです。いくらでも再チャレンジできますから。人が言うほど、日本の起業環境はリスキーなものじゃないですよ。
起業には大きな資金が必要かと思っている人もいるかもしれないですが、僕は100万円の自己資金だけでアドウェイズを立ち上げました。ビジネスの種類にも よりますが、インターネットビジネスならそれほどお金をかけずに始めることができますし、インターネット以外にも探せばいくらでも出てくると思います。今 ある資金でできることを考えればいいじゃないですか。結局、「資金ができるまで起業のタイミングを待っている」って言う人は、しない言い訳をしているだけ ですよ。
訪問販売の世界も同じなのですが、数をこなす努力をしない人にはチャンスは訪れません。起 業も同じだと思うのです。失敗やリスクを恐れることなく、本当にやりたいことがあるのであれば、どんどんやってみればいい。だから「できるか、できない か」という考え方ではなく、「やるか、やらないか」という考え方が大切です。やると決めたら、どんどんやる。そうやって数をこなしていけば、きっといつか いいビジネスと出会えますよ。
<了>
取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:土岐節子