第4回 株式会社アイチーム・アイテム代表 俳優 伊原剛志

この記事はに専門家 によって監修されました。

執筆者: ドリームゲート事務局

第4回
株式会社 アイチーム・アイテム
代表 俳優 伊原剛志 Tsuyoshi Ihara

1963年、福岡県小倉市生まれ、大阪育ち。大阪府立今宮高校卒業後、俳優を志し単身上京。当時、千葉真一氏が主宰していたJAC(ジャパンアクションク ラブ)へ。83年、青井陽治演出のパルコ劇場「真夜中のパーティ」で初舞台。翌84年、鈴木則文監督の学園アクション・コメディー「コータロー・まかりと おる!」で映画デビュー。以後、順調に映画、テレビドラマ、CMに登場。94年、坂東玉三郎演出「海神別荘」での演技は高く評価された。04年、フジテレ ビ「ラストクリスマス」、NHK大河ドラマ「新選組!」に出演。05年、重松清氏原作の映画「ヒナゴン」に主演。硬軟を巧みにこなせる演技派と評価を得て いる。俳優業を続ける傍ら、92年3月、東京・三軒茶屋にお好み焼き店「ぼちぼち」1号店を開業し、現在までに14店舗を展開中。05年12月、新業態 「韓すき」を麻布十番に開業。伊原氏がマネジメントを行う、両店の運営母体、(株)アイチーム・アイテムは、昨年度年商7億円を誇る。06年1月26日、 自身のこれまでの半生を赤裸々に書き綴った著書、『志して候う(こころざしてそうろう)』(アメーバブックス)が発売され話題を呼んでいる。

ライフスタイル

好きな食べ物

僕は和食が好きなんです。特に鮨が好きですね
まず、ほとんど外食なんです。妻には食卓のある家庭をなんていうのも、求めてないですし。料理するのは好きみたいですけどね。お好み焼き屋や、韓すきの店 を経営していながらなんなのですが、僕は和食が好きなんです。特に鮨が好きですね。ひとりでも馴染みの店によく行きますよ。あと、自分の最後の晩餐はもう 決めていまして、大阪“六覚燈”の串かつと高級ワイン・ロマネコンティです。

バイク

 1500ccのハーレーダビッドソンを購入しました
この間、1500ccのハーレーダビッドソンを購入しました。寒くてまだ900㎞しか乗ってないんですけどね。あ、昨日バッテリーがあがらないようにエン ジンはかけました(笑)。4年前、1600ccのヤマハ・ロードスターが盗難にあって以来の大型バイクなんですよ。それも1年間の盗難保険で、盗まれたの がなんと購入後1年と1カ月目。あれはやられましたね~(笑)。

アウトドア

20代の頃バイクで一人キャンプに行ってました
正直、都会はあんまり好きじゃない。仕事柄しょうがないんですが。今はなかなか行けませんけど、20代の頃はバイクに乗って一人でテント持ってキャンプに 行ってました。静かな夜に、ひとりでセリフを覚えるんですよ(笑)。あと、この間は公園で寝ましたよ。なぜなら、ふと公園で寝てみたいと思っちゃったか ら。あ、理由になってないですね(笑)。

休みがとれたら

ロスに行くかな。近いしね
1週間くらいだったらロスに行くかな。近いしね。ちょっと街を離れれば自然も多いし。少し長めに休めるなら、まだ行ったことのないヨーロッパの国々を回り たいですね。ワイナリーを巡る旅もしてみたい。あとは、昨年息子たちと始めたスノーボードかな。今年はまだ連れて行ってないので、時間が取れたらぜひ北海 道辺りに行きたいですね。

子育て

常に息子たちとも勝負していたいんです
子どもたちに対しては、親父としてどんな背中を見せられるか。「お父さんって、なんか人生楽しそうで、生き生きしてる!」そう思われたいんです。息子たち に「情けない」と思われないように、人生をめいっぱい生きる。それしかないですね。常に息子たちとも勝負していたいんです。

人間を掘り下げて、追及し続ける仕事。僕の精神的支柱は、生涯、役者であり続けること

 映画、舞台、テレビなど、さまざまなメディアでさまざまな役柄を演じる演技派俳優……。お好み焼き店「ぼちぼち」と、大阪に住む韓国人の人達が工夫を重ねて創作し た料理を提供する店「麻布十番・韓すき」を運営し、年商7億円を誇る企業経営者……。そのどちらもが開始以来、伊原剛志氏が真剣に取り組んでいる仕事であ る。18歳、高校卒業と同時に夜行列車で上京してから24年。常に、どうすればいい役者になれるかを考え、周りとぶつかりながら、戦いながら、妥協するこ となく人生を全速力で走り続けてきた。その結果、気が付けば、起業家という役柄も演じるようになっていた。そもそも、高校2年の頃に決めた「役者になる」 という志の背景には、在日韓国人として大阪・生野で育った自分の経験が影響しているのだという。今回は、そんな伊原剛志氏に、俳優、起業家、2つの顔を持 つに至った経緯、大切にしているポリシー、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。

伊原剛志をつくったルーツ:大阪編.1
―足りない小遣いを、アイデアと努力で稼ぐ小学生

 大阪・生野という日本で一番在日韓国人の多い街で育ちました。僕自身、在日韓国人三世で、小学校はクラスの生徒の半分が在日韓国人。そんな感じ。小 学生の頃は勉強をしたっていう記憶はほとんどないですね。両親が共働きだっていうのをいいことに、毎日遊びまくってました。運動神経も抜群でしたね。仲間 とビー玉や、メンコやるでしょ、賭けて。こうすれば勝てるって思ったことは全部やってみた。とにかく負けるのが大きらい。だから、一所懸命工夫して、練習 して、勝つ。そして、お互いに賭けたビー玉を相手からぶん取って、たまったら金持ちのボンボンに売る。正月になったら今度は独楽で勝負してぶん取って、ま た売る。相場より少し安くしてね。そうやって足りない小遣いは自分で稼いでましたよ。こういう遊びの中で、工夫すること、努力すること、集中力とか勝負勘 が培われていったんだと思ってます。  中学では勉強はそこそこ。で、部活はできたばかりのラグビー部へ入部。チームは弱くて、ほとんどの試合に負けてた。僕自身の体も今ほど大きくな かったしね。負けず嫌いの僕は、ラグビーを通して負けるっていうことを覚えたんだと思う。僕が副キャプテンだった頃に、部のメンバー6人が警察に補導され た。僕は、「お前ら、なにやってんねん!」って、補導されたメンバーを並ばせて殴りつけた。で、その後、部のメンバー全員が理科室に呼び出されて、国士舘 大学から来ていた教育実習生に、補導されたメンバーが全員ボコボコにされた。その人は確かに無茶苦茶怖かったけど、僕たちに対して常に本気で体ごとぶつ かってくるんです。部活動以外でも、ボーリングに連れて行ってくれたり、なんでも話せた。僕も含め、みんなこの実習生から、“真剣にやる”ってことを教 わったんだと思います。僕が教師になりたいと思うほど、影響を与えてくれた人でしたね。

伊原剛志を作ったルーツ:大阪編.2
―「人間、頑張ったら何でもできる!」を実感した出来事

 高校は、校区で三番目に賢い公立の今宮高校へ。あまり治安の良くない地区のすぐそばで、頭はそこそこだけど、ディープな環境。ベロベロのおっさんが 砂場で寝てたり(笑)。中学の時は学校が大好きだったのに、高校はイヤでイヤで。頑張って勉強して無理して入った学校なんで、がり勉みたいなヤツが多くて 合わなかったんだと思います。一所懸命やったのは、部活動のサッカー。性格的にフォワードと自分では思ってたんですが、先輩から「お前は根性ある顔してる から、ゴールキーパーやれ」、と(笑)。でも、そのおかげかどうか入学時に164㎝だった僕の身長は、3年間で18㎝伸びて、182㎝になりました。

 高校の服装は自由だったんだけど、僕はブカブカのボンタンに中ラン。学ランスタイルなんてほかに誰もいないんですよ、真面目な高校だから。1年生 の時、数学の先生から超簡単な問題を当てられて黒板の前で答えられないことがあった。僕のブカブカのズボンを引っ張りながら、その先生曰く、「こういうの が落ちこぼれていく見本なんですよ」。みんなに笑われた。「くそー、見とけよー!」。どうやったらこの先生をぎゃふんと言わせられるか考えた。負けること が大きらいなんで、僕は。数学だけ必死に勉強して100点を取る。最高の復讐ですよね。で、ある日実際に、答案用紙を返す時に「伊原……、100点」。っ て、その先生の手から、当然って感じで答案用紙をふんだくった時の感覚は今でも忘れてない。次のテストも100点取って、でもその後はずっと赤点。もうど うでもよくなってたから。ここで得られたのは、人間はなんでも頑張ったらできるってこと。このことは、その後の自分の人生において自信を持つ大切な経験に なりました。

役者の道を志すようになった経緯
―その後の人生を神経に考え、悩んだ結果・・・、なんとなく

  役者になろうと思ったのは、自分が在日韓国人だったことが影響しています。本当は、中学の頃から体育教師になりたいと思ってた。サッカーをやってい た高校の先輩に在日韓国人の人がいて、大阪教育大学に進学して教員免許を取ったんだけど採用されず工事現場で働いている。教員免許取った日本人も順番待ち しているのに、在日韓国人が先に採用されるわけないと思っていた。そんな先輩を見てきたから、大学に入って教員免許取っても仕方がない。目的なく大学に行 くのもいやだったし、会社員には全然向いてそうもない。今後の人生について真剣に考え、悩みましたよ。船乗りになろうと思ったこともあって、先生に相談し たら、「神戸商船大学という先もあるが、今は船舶不況なんで、地上勤務だな。どうしても船に乗りたいなら漁師かな~」って。漁師は、自分のイメージと違う な~と。

 役者になろう! これは漠然とした思い付き。なんとなく、いろんな経験ができそうだと。あ、ロバート・デ・ニーロにはすごい憧れてましたね。で、 友達が大学に行くなら、4年間そいつらができない経験をしよう。そして4年後に、改めて自分がどう生きていけばいいか決めようと。結局、「大阪=お笑いの 吉本、東京=役者」。だから東京。そんな単純な理由で東京行きを決めたんです(笑)。

 それが高校2年の終り頃。その頃から、東京行きの資金稼ぎのために、本気でバイトをするようになった。それが大阪・京橋にあった「木曽路」という 居酒屋。毎月10万円を稼ぎながら、半分は遊びに使って、半分を貯金してた。そこの経営者が皆吉康子、通称“おかあちゃん”と呼ばれている人。この人には 本当に何から何までお世話になりました。今の芸名を付けてくれたのも、おかあちゃんなんです。僕の日本名は、「伊原剛」。芸名としてはダメらしい。で、 「“志”を付けたらどうかなあ?“伊原剛志”」と。名前の本を見ながら見てもらうと、「超いけるか、どうしようもないか、どっちかやて」。決めた、それで いく。「役者は博打みたいな仕事だし、それでいい、“志”をつける」って。おかあちゃんの店で資金を稼がせてもらい、志の名前ももらった。これが、役者“ 伊原剛志”の原点です。

 たまたま、体を動かすのも好きだったし、ジャパンアクションクラブ(JAC)のオーディションを受けたら8000人の中から50人に選ばれた。お かあちゃんが僕を推薦する手紙をJAC宛に送ってくれていたことを知ったのは、おかあちゃんが98年1月24日に76歳で亡くなった少し後のことでした。

役者人生の始まり
―本当にいい役者になりたい、いい役者でありたいともがき続けた

  JACに入ったものの、1年くらい経った時から、なんとなく違和感を感じるようになってきたんです。まず、上下関係が無茶苦茶厳しい。わざわざ雪山 で合宿して、朝5時から隊列組んで何kmも走って、吹雪の中みんなで空手の練習……。「俺は役者になりたい!なんで今さら点呼とられなあかんねん!」。疑 問がいっぱいわいてきた。でも、辞めようと思っても、引っ張ってくれる事務所もない。じゃあ、学べることを全部学ぼう。それから辞めても遅くない。ある時 から、そう思ってJACに在籍するようになりました。21歳、千葉さんの推薦で「影の軍団Ⅳ」のレギュラーになった時も、真剣に芸事の訓練に専念したいの に、くだらない先輩たちとの上下関係でそれがじゃまされる。JACへの思いは、ますます醒めて行く……。それからは、いつJACを辞めてもいいという覚悟 で、オーディションを受けるように。初めてオーディションに受かったのは、「真夜中のパーティ」という舞台。ベテランの俳優陣と仕事ができたのは、ものす ごくいい経験になりました。その後、坂東玉三郎さんの誘いで、新しい事務所に移ることに。芝居のことだけ考えて暮らせる環境になったことがなによりもうれ しかったですね。

 移籍して3年目、事務所の社長に歩合給にしてくれるよう交渉。お金がほしいというより、やればやった分だけ、なければもらえない方が自分には合っ てるからがその理由でした。この頃は、本当にいい役者になりたい、いい役者でありたいと必死だった。だから納得のいかない仕事はしたくない。スタッフや、 監督との衝突もしょっちゅう。若いってのもあったのか、誰に嫌われようが納得がいくまで突き詰めたかった。でも、あまりにまっすぐすぎて、だからいろいろ なことが許せなくて、最終的には自分を責める。うまくいかない時は、自分の責任だと思い込む……。そして、どんどん自分を見失っていく……。「自分って 誰?」。やばい……。

 それからひとりNYへ行った。本気で死のうと思ってた。その時、マネージャーから仕事が入ったという連絡がもらったんです。「どうせやったらこれ をやってから死んだらええやん?」って。行き詰った新人作家の役。ただ演じるためだけにその仕事を受けることにしました。撮影が終わった頃、不思議と自分 をちょっとだけ許せるようになった。壁ができても考え込んじゃいけない、もう一度動き出せばいい。そうやってもがいたら、その壁はきっと取り払える。結 局、僕は役者という仕事に助けられたんですね。

今僕が思うのは、戦う時は相手を選ばなければいけないってこと。志の低いヤツと本気で勝負してもつまらない。もうひとつ、努力はもちろんするけど、 もしかなわなかったら、ちょっとだけ自分を可愛がってやる。小さくても自分なりの戦略や目標があって、そこに向かってれば、OKなんだと。結論としては、 僕は真面目すぎたんですよ(笑)。

これからも自分の可能性を信じて、一生涯、“志”を持って生きていく!

飲食業で起業することになった経緯
―役者として納得のいく仕事を続けるため、起業家に

  海外の俳優は年をとってもいい役者がたくさんいるのに、なんで日本には少ないのか?常に疑問に思ってました。その理由がだんだんわかってきた。最初 は誰でも努力する。売れてくると、いい車、きれいな女房、豪華な家と、生活レベルが格段にアップする。でもピークが過ぎると昔のような努力を怠って、仕事 が減ってきて、やりたくない仕事も生活レベルを維持するためにやるようになる。役者として輝くためではなく、生活のための仕事。もしもそんな状況になった ら僕はすぐに役者を辞める。いつでも貧乏に戻れる自信もある。純粋に役者を続けていくためには、食い扶持はほかで稼ぐしかないと自分で結論を出しました。 大阪時代、なかなか貧乏から脱却できない親父の背中を見ながら、いつか僕はやりたいことが自由にできるようお金を稼げるようになろうって思ってましたし。

 18歳で上京した当時、東京でおいしいお好み焼きが食べれなくて寂しかった。この頃から、いつかお金を持ったら自分でお好み焼き屋をやろうと思っ てたんです。これも小さな志。で、29歳で決めた。お好み焼き屋を、やる。当時の僕の年収は仕事が好調で4000万円ほど。貯金は1800万円あった。で も貯金を全部つぎ込むつもりはなく、借り入れの相談に銀行へ。しかし、担当者は静かに「貸せません」……。俳優業は将来が不安定だとの理由。でも、「貯金 の1800万円を担保に、1800万円を貸すことはできます」と。貯金を全額押さえられて、同額のお金を借りて利子も払う……。あほらしいですよね、そ れって。結局、貯金を全部はたいて始めることにしました。

 味は、地元の大阪・生野で一番好きだったお好み焼き屋「一福」に押しかけて、店主夫婦に頼み込んで教えてもらった。生地に入れるタレだけは秘密だったので、東京に帰って自宅に鉄板を買い込んで、毎日、試作&試食。2カ月後、やっと納得する味が完成しました。

 店は三軒茶屋。これは知り合いの経営者からの助言を得ながら決めた。こうして、92年3月6日、僕のお好み焼き屋「ぼちぼち」1号店がオープンし ました。同時に出演が決まってたマフィアのボスを演じるミュージカルがあったんで、開業準備中は超大変。練習して、店に行って、片づけが終わるのは深夜の 1時。正直、きついし、体もボロボロです。マフィアのボスと、お好み焼き屋の経営者、両立できた理由は体力や根性だけじゃない。一般の人も、外では仕事、 家に帰れば、親、子どもと、いろんな顔の日常を無意識で過ごしている。それを僕は意識的にやるんです。「俺は今、こういう役や!」。そう思うとわりとすっ とできたりする。つくづく、僕は役者という仕事に助けられていると思います。  

経営者としてのポリシー
―会社で儲かったお金は、スタッフの独立支援に使いたい

 開業前にひとつだけ大きな問題が起こった。実は最初、中学時代の親友と一緒に経営するつもりだったんです。でも彼は開業の数日前に突然、プレッ シャーを感じて離脱したいと。僕は、平静を装っていましたが、マジでつらかった。この時から、「親友とは一緒に仕事をしない」が僕の教訓となりました。で も現在、彼とはまた元とおり仲良し。腐れ縁ってやつですね。

 三軒茶屋の1号店は、開業当初から黒字経営。実の母親が喫茶店や韓国料理店を経営するのを見てましたし、小さい頃からバイトしていたことも役立っ たと思います。「そんなん、もったいない」。この言葉をいっぱい聞いて育ちましたからね。身を持って「もったいない」を感じたのは、東京で一人暮らしを始 めてからです。銭湯一回行かずに流しで体を洗ったら、ビールが1杯飲めるとかね(笑)。起業家になると、全部のお金の出所が自分で、利益も返ってくる。そ れが身に染みてわかるのは、一人暮らしの時と同じ。今月はこうやって節約したから、これだけ利益が残ったとか。うちの店長や社員には、それをわからせるた めに、基本給+歩合で給料を払うことにしました。みんなに経営者感覚を持ってほしい。だから、スタッフの契約更改も真剣にやる。保留もありで、お互いが納 得行くまで話し合う。僕に間違ってることがあったら、きちんと聞く。でも、やるって決めたことはうそをつかず必死こいてやれと。そうやって、スタッフとの 信頼関係を築きながら、常に“起業家役”として、最高のパフォーマンスがどうすればできるのか考え続けています。

 さっきも言ったとおり、僕は売り上げや利益をたくさん挙げるために起業家になったんじゃなくて、真剣に役者を続けるための一手段として起業家に なったわけです。その後も経営は順調で、現在14店舗を展開中。また、「ぼちぼち」の商標権の一部をエリア限定で売却し、そのロイヤリティ収入も入ってい る。昨年度の売り上げは7億円で、利益率もかなり高い。僕の弟や、味を伝授してもらった「一福」の息子さんなど、のれん分けで独立していっています。今後 も、頑張ったスタッフが独立を目指せるよう、直営展開は大人し目にして、のれん分けオーナーをどんどん輩出していきたいですね。会社で儲かったお金はそう やって、スタッフの夢のために使ってあげようと思っています。

これから伊原剛志が目指すもの
―「ぼちぼち」がビジネスに変わり、次の“志”が生まれた

  昨年の12月1日、麻布十番に新業態「韓すき」という店を開業しました。これは、僕の母親が大阪で十数年営業している店で出している料理。いわば韓 国風すきやきなんですが、韓国本土にもこの料理はなく、大阪に住む韓国の人たちが創り上げたオリジナル料理です。今、母親は癌と闘っています。もしも母が 亡くなっても、この母の味は残すことができるわけです。このおいしいオリジナルの味を、ぜひ東京の人にも味わってほしいと思い「韓すき」を始めることにし ました。近い将来、オフィス街で「韓すき」の大衆バーション店も展開する予定でいます。

 役者をやっていると、映画をつくりたくなるんですよ。4軒目の桜新町店をオープンさせた頃から、飲食事業は揺るがないという前提で、自分の会社で 1年に1本映画をつくる。これを遠い夢ではなく、目標とすることにしました。その目標もそろそろ叶えられる段階になってきました。現在、企画を2本ほど走 らせています。また、知り合いの映画や舞台への投資も検討中です。役者を続けるために個人事業で始めた「ぼちぼち」も、今やビジネスとなり成長を続けて る。そして、自分の映画づくりという新しい志が生まれた。この先、会社もどうなるかはわからないですから、どんどん変わっていいし、変わらなければならな いと思っています。

 役者としての自分は、常にいい役者を目指し、もがき続けています。役者があって店がある。だから、役者の仕事を疎かにしたことは一度もないと自信 を持って言い切れます。役者というこの自分探しの旅は、一生続いていくんでしょうね。ひとつひとつの芝居に真剣に向き合って、戦って、何かを見出して、次 へと進んでいく。この繰り返しです。何をするにも、今この瞬間からが勝負と思っていますから、僕は。

これから起業を目指す人たちへのメッセージ
―夢と志を持つことが第一の条件です

 世の中、仕組みで動いています。なんか違うと思っても、その仕組みから飛び出すのは難しいですよね。でも、それに乗っかっていても成功は手にできな いと思う。例え話をしましょう。僕の家は、神奈川県の逗子にある大工さんに建ててもらいました。4人しかいない工務店ですが、昔ながらのていねいな寄木工 法で、かんなやノコギリを使って家をつくるんです。むくの木を使いましたので、雨の日は作業中止。どんどん工期は伸びて、結局、納期が3カ月半遅れまし た。本当にいいものをつくるには、ある程度時間がかかってもしょうがないということです。建築構造の偽造問題で世の中は揺れていますが、あの人たちに「い いものをつくりたい」という気持ちが少しでもあれば、今回の事件は起こらなかったでしょう。なにをするにせよ、“志”。これがないと一時期パッと売れるこ ともあっても、絶対に長続きはしませんよ。

 これから起業を目指している人は、まずは足元の仕事に100%全力で取り組むこと。そして、周囲を認めさせる。ある日突然、成功することなんてあ りえませんから。近道なんてないんです。20代を頑張らないと、素晴らしい30代は来ないし、30代を頑張らないと、素晴らしい40代は来ない……。そう やって生きていく中で、何かを成し遂げたいという“志”が見つかったなら、まずやってみたほうがいい。途中で壁にぶつかったら、ちょっとだけ休んで、とり あえず前に進む。また壁にぶつかったら、考えて進む……。そうしているうちに、いつの間にか多くの壁を乗り越えている。人生はその繰り返し。あなたの人生 に捨てる部分などないんですから。素晴らしい明日をつくりたいなら、今日を貪欲に生きることです。

<了>

取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン)
撮影:松村秀雄

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